果ての竜の子供たち

ミツ

1 プロローグ

 イーンの竜が死んだという報せは、東の古代都市群に属する四つの都市にほとんど時差なく届けられた。

 「辺境の竜が死んだ」と人々は声高に叫び、家々の戸を叩いて回った。セオの街では洪水がくるぞとわめきながら身ひとつだけで高台に避難した人のなんと多かったことか。恐怖は人々の心に伝播し、それぞれの土地を統べる竜がまだ生きているにもかかわらず、都市の混乱はなかなか収まらなかった。竜は、懐深く命を抱き込んだ森や、千日の日照りさえ耐えうる大河や、雲や星をその胸で遊ばせる空といった、緩やかな変化を繰り返す自然そのものだった。だから竜が死んだという報せを聞いて、大地の終焉を覚悟した者がいたとしても、決して大げさなことではなかった。

 竜の死の報から三日を経てようやく都市は落ち着きを取り戻した。

 「モズルの竜を失った都市の末路を知っているだろう?」

 人々は、モズルの竜を引き合いにイーンの滅亡を語り合った。モズルは世界の始まりの竜にして、死の物語を持つ唯一の竜だ。大地の始まりより息づく創世の竜モズル――から始まる物語は、東の古代都市群に暮らす者であれば、子供から老人まで誰もが知っている古典的な物語のひとつだ。

 「竜が死ぬと同時に、都市は崩れ去ったと教わりましたわ」

 「それは、私の覚える話とは違います。最も信頼の置ける古書には、モズルが死した後も、都市は何とか半年を持ちこたえるができたと記述されています」

 「いやいや、彼らは竜の力に頼らずとも、都市を一年も維持することができたと聞くぞ。もっとも、滅びたことには変わりないがね」

 人々はイーンが滅びる様をまるで観劇でも眺めるようにうかがった。彼らのうち一人として、イーンに手を差し伸べようと考える者はいなかった。東の古代都市群に生きる者たちの中で、彼の地の姿を正確に思い浮かべられる者がいったいどれ程いたことだろう。四つの都市すべてを合わせたとして、百も数えることができただろうか。イーンの報せは絵空事と同じだった。竜の死でなければ、彼の地の噂など三日も人の口に上らない。言うなれば竜の死は、彼と我を隔てる広大な地図上の空白――そこには無を冠する砂漠が延々と広がっていた――を経由して届く、詩人の一編に過ぎなかった。事実、各都市の路傍ではイーンの終焉を詠う詩が現れては消えていった。それはひとつの都市からまた別の都市へと巡り、再び詩人の下へと戻ってくる。イーンの見た夢は――と今やありふれた詩のひとつは詠っている。

 

 イーンの見た夢は、モズルの見た夢の終わりのひとつに過ぎない。

 

 ***

 

 「そっちに行ったぞ、エト、下だ!」

 カデッサの呼びかけに視線を下向けたエトは、今にもファに食らいつかんと身構える砂犬を見つけた。褐色の毛は、砂漠の砂とほとんど同化していた。砂に潜るために退化した目は、分厚い皮に覆われた二つのこぶとなって角のように突き出ている。代わりに発達した大きな鼻が、ひくひくと引きつけを起こしたようにエトの匂いを探っていた。

 突然の出来事にエトは慌てた。助けを求めてカデッサを見た。その一瞬の隙をついて砂犬が容赦なく飛びかかってくる。

 「ばかやろう!」

 カデッサの怒声が飛ぶ。

 遅れてファが大きく身をそらし、エトの半身が宙に投げ出される。

 灰色の空が視界いっぱいに広がった。

 砂犬の短く荒い呼吸。

 歯を剥き出しにした大口がぱっと視界に飛び込んでくる。どす黒い歯茎に納まった鋭い犬歯は、エトの柔な体など簡単に切り裂いてしまうことだろう。

 「エトっ!」

 分厚い砂よけの風帽を貫通し、鼓膜を揺すぶる衝撃がエトの頭蓋をなぶりつけた。

 砂犬の悲鳴が天に昇る。

 生暖かい飛沫が頬をなでる。

 次いで、血の匂い。

 風。

 カデッサが構える銃からは砂漠の倦怠を思わせる煙がたなびいていた。

 「ありがとうございます」エトは生存を叫んだが、舌が引きつけを起こして動かず、獣じみたあえぎを喉から絞り出せたにすぎなかった。

 エトはこちらの様子を気づかうカデッサに手を掲げ、無傷であることを示した。宙吊りになった体を苦労して起こすと、落ち着かないファをなだめながら辺りを見回した。砂犬はエトの周りに一匹もいなくなっていた。すでに狙いを隊商の本隊に定めている。

 早く隊長の下に戻らなくては。

 エトはファの手綱を強く握り、高鳴る鼓動の音を耳にしながら、がむしゃらに突っ込んでいった。エトを運ぶ年若い雌のファは、砂犬の群れに臆することなく、争乱の中心へと飛び込んでいく。

 振り落とされないように必死でファにしがみつく。

 周囲の状況はほとんど見えていない。

 人の声も、耳に入らない。

 ファのいななきと、羽音。

 隊員たちの怒号。

 銃声が空にこだまする。

 炸裂した銃弾が砂を爆ぜさせる。

 砂犬の殺意が空気をひりつかせ、否が応でも生を意識させられる。

 全速で駆けたように息が苦しい。

 心臓が激しく鼓動している。

 「隊長、丘向こうに旗が見えました」エトは砂よけの布あてをずり下げながら叫んだ。

 「丘三つ先の岩場に赤と黄の旗です!」

 「よおし!」カデッサは併走するエトに顔を向けることなく叫んだ。

 「ギリヤ!」

 ギリヤと呼ばれた男が、カデッサの右横に並んだ。ギリヤの駆るファは毛羽の先が赤く夕焼けのような色をしている。そのせいか、ギリヤは仲間内で長影と呼ばれていた。背がひょろりと高く、手足も長い。まるで夕日から立ち上る影のように見えるからだ。

 ギリヤは長い腕を振り回し、後ろからくる隊員に自分たちを迂回しながら進むように指示を出した。

 「こいつらは野生の群れじゃない。ロゴ族の連中がけしかけた犬だ」ギリヤはうんざりした口調で言った。まるで、こんなことは日常茶飯事だと言わんばかりの落ち着きようだ。

 「だろうな。いつ連中が飛び出してきても驚かん」カデッサはため息をもらしながら素早く銃創に弾を込め直した。

 「しんがりに回ろうか?」

 「いや、小僧の援護に回れ」

 「僕の?」エトにはこれから先の展開がまるで読めななかった。

 「小僧、よく聞け。俺たちはどうやら、ロゴ族の糞どもに見つかったらしい」カデッサはここで初めてエトの方を振り返った。風防の奥から鋭い眼光が覗く。分厚いひげが引きつったように動いた。たぶん、笑ったのだ。

 「ロゴ族?」

 「隊商のけつを嗅ぎ回る盗人どもだ。歓迎してやりたい所だが、生憎と俺たちには時間がない。お前は見つけた旗を辿って走れ。その先に俺たちの仲間がいる。お前の役割は一秒でも早く隠れ家に辿り着き、仲間を引き連れて戻ることだ」

 「でもっ!」エトは言葉に詰まった。

 「なに、お前のファが一番身軽で素早いってだけの話しだ。小僧、教えた通り、旗の読み方は覚えているな?」

 「読めます」とエトは答えた。旗は、無の砂漠を行く隊商たちの用いる暗号で、道案内もすれば、後から続く仲間たちに危険を知らせもする有用な伝達手段だ。

 「隠れ家は、まだずっと遠い。お前が見つけたのは目印のほんの始まりにすぎない。道のりは険しい。でも行くんだ。すっとんで行け。日が暮れて<竜のウィロ・モズル>が砂漠から覗いたら、俺たちはロゴ族から逃げられん」カデッサは、ファに吊した鞄から円筒の包みを取り出した。「これが仲間であることの証明になる。向こうの連中に届けてくれ」

 エトは素早く包みを受け取ると、体に巻き付けた革の小袋にしまい込んだ。円筒の包みはずしりと重く、事の重大さを表しているようだ。

 「できるだけ早く戻ります!」

 「気負うなよ」とカデッサはエトの肩を小突いた。

 「ギリヤ!丘ひとつ越えるまで小僧の尻を守ってやれ」

 ギリヤはファの速度を落とし、エトに並んだ。

 「こいつをお前に貸しといてやる。銃の扱いを教える暇はなかったからな。こいつなら、鞘から引っこ抜くだけで幼子でも使うことができる」

 エトが受け取ったのは、刃渡りが手のひら程の短剣だった。握りの部分がすべすべとした白い石で作られ、竜を模した文様が刻まれている。エトは、幾度となくその短剣を目にしていた。隊商がその日の寝床を定めた後、火の下で、ギリヤは短剣の束を握りながら、短剣にまつわる様々な物語を語った。それは、人と死の織りなす血塗られた物語であると同時に、血のたぎる冒険譚でもあった。

 「受け取れません」エトの手は震えていた。自分がその短剣に相応しい男ではないと知っていたからだ。

 「そいつには、これまで散々助けられてきた。ここぞというときに力を発揮してくれる。今回は、お前の助けになってくれるさ。もっとも、お前に短剣を引き抜く勇気があればの話だがな」

 「それくらいの勇気、僕にだってあります」エトは売り言葉にかっとなった。短剣を力任せに握りしめると、胸の奥底から力がわいてくる。まるで自身が百戦錬磨の戦士に――ギリヤのような強い男になったような気がする。

 「お前は周りを気にするな。振り返らなくていい。ただ速く走ることだけを考えろ」ギリヤは、最小の動きでファに指示を与えると、さっとエトの後方に回った。

 エトはギリヤに答えようと身をよじったが、途端にギリヤから怒号が飛んた。

 「俺のことは忘れろ。隊商のことも、指令のことも、砂犬のこともだ。ファの呼吸を意識しろ。そいつをつぶすと後がないぞ」

 ギリヤがファを煽る短い喉音を発した。エトのファもつられて勢い込む。

 銃声が響いた。隊商の銃ではない。爪を立てて金属をこするような、耳障りな音が混ざっている。儀式めいた不気味な雄叫びが砂漠の大気を揺すぶると、「ロゴ族が来た!」と声が上がった。エトは身をかがめ、体をぴたりとファに押しつける体勢を取った。風を切り、後ろを振り返ることなく、前に進むためだけに。

 隊商のみんなはこの場を上手く切り抜けるだろうとエトは思った。もともと自分以外は場慣れした連中なのだ。むしろ足手まといが一人減ることで、余計な気配りをしなくてすむ。だからこの場に残ることにはまるで意味がなくて、とにかく預けられた包みを届けることだけを考えろ、と自身に言い聞かす。

 それはエトが初めて申しつけられた指令だったが、物怖じなどしている暇はなかった。無の砂漠を越え、イーンの都市にたどり着いてようやく本当の任務が始まる。旅のほんの始まりで躓くわけにはいかない。

 エトは追従するギリヤの存在を忘れて、ファを力の限り駆けさせた。

 視線は一点、風にはためく旗だけ。

 砂犬が放つ殺気混じりの気配はいつの間にか消えていた。

 怒声も銃声も消えた。

 あるのは空から降り注ぐ太陽の熱線と照り返し。

 喉と肌を焼く乾いた空気。

 風と呼吸の入り交じる耳障りなうなり。

 それだけだ。

 旗を三つやりすごしてようやくエトは後ろを振り返った。すでにギリヤの姿はなく、大地には、砂と、岩と、風が創り出すそれらの模様しか見えない。砂犬の襲撃で高鳴った鼓動は、すでに落ち着いていた。静かだ、とエトはしみじみ思った。見晴らす限りの空間に、意思を持って動くものが、一人と一匹の重なり合う影ひとつきりとは。エトは、自身を取り囲む世界の広大さを肌で感じ、不安よりも新鮮な驚きを持って無の砂漠と対していた。ふと、故郷の村が思い起こされた。エトの暮らした小さな村は、陰気な森に囲まれ、どちらを向いても、深い森の闇が晴れることはなかった。村は閉ざされていた。そしてそのことに慣れてきっていた。

 水族の村人には不思議な能力があった。その物に触れることで、人によらず、木や、石や、様々な命の声を聞くことができた。だから村人は寡黙だった。表面的な会話は意味をなさず、本当の声は心の奥底に隠されていることを知っていたからだ。村人の間で隠し事をすることは不可能だった。人々は己の誠意の表れとして、お互いに触れあい、その真意を確かめあった。そして、長年互いの心を探り合ったあげく、結局は心を閉ざすことでしか互いの心を守れないと悟った。

 水族の村は古代都市セオの南東に位置し、鬱蒼とした森と、ミシュ川の支流に囲まれていた。セオ周辺地域の水脈であるミシュ川は水族の村を囲む山林を抜けると、乳白に濁った。川の水は毒性が強く、飲料としてはおろか、生活のあらゆる局面で用いることができなかった。村人は、その濁った川の水底から、石の声を聞くことで、<濁石アウモ>と呼ばれる石を素早く拾い上げた。それは水族にしかできないことだった。白濁した水は、水に浸けた指先を見透かすこともできないほど濁っていたし、川の流れは速く、複雑で、川底に貯まる粘土質の泥を地上からさらうことを困難にしていた。

 セオの商人たちは<濁石アウモ>を取引するために、交通の便の悪くなる冬であろうと村を訪れたが、決して長居しなかった。毒の水辺に宿を得るなど考えもしないのは当然だった。だから村人は、たまの交流にもかかわらず、外界の情報をほとんど仕入れずに彼らを帰した。村は孤絶していたが、それこそが村人が望むものだった。

 エトは水族の子供として生まれた。水族特有の力を持っていたが、その力は不完全だった。母が水族の生まれではなかったからだ。エトは育つにつれて村に馴染めぬ思いを募らせていった。自分はこの村に受け入れられることは絶対にないと信じ込んでいた。父は川の毒のせいでエトが幼いときに死に、頼るべき人は母しかいなかった。村人は滅多に母に話しかけなかった。自分たちとは違う者だからだ。そしてその息子に接する態度も似たようなものだった。エトは何度か母に、どうしてこの村から出ていかないのかと尋ねた。この息の詰まる陰鬱な村で暮らす必要がいったいどこにあるのかと。

 母は、疲れた笑み――このいつも疲れた様子だけは、水族の村人とそっくりだった――を浮かべ、決まってこう答えた。

 「さあ、わからないわ。でも望むなら、あなたはどこにでも行くことができる」

 

 五つ目の旗を通り過ぎた。隊商から先行して、もうかれこれ二時間は経過しているはずだ。エトは孤独を感じたが、それは水族の村で感じたものとは別の種類のものだった。少なくともこの場所には村で感じていた息苦しさはない。頭を蓋する森の影も、毒を運ぶ川の音も、常に死を思い起こさせる慢性の咳きも、村人の冷たい目もエトをさいなみはしない。

 ファの速力が落ちてきていることに気がついて、エトは絶えず握りしめていた手綱から力を抜いた。

 「もう少しだと思うから……」とファを励ましてみたが、自身を慰めているのと変わりなかった。あと数刻の内に辿り着かなくては隊商と合流することが難しくなるだろう。<竜の目ウィロ・モズル>が浮かんだら最後、昼の世界の住人は居場所を失う。無の砂漠の夜は、死と隣り合わせだ。

 太陽が傾きを強めた頃、七つ目の旗に辿り着いた。たなびく旗の上端と下端が結ばれている。帰結を表す印だ。エトはようやく目的の場所に辿り着いたのだと安堵した。厄介な砂地が終わり、足場はしっかりと地を踏みしめることができる礫土に変わった。ごつごつとした巨大な岩場が辺りに散見される。

 この岩場のどこかに隠れ家の入口があるのだろうか。

 エトは息急くファをなだめ、歩かせた。

 ファは水を望むように一度いなないたが、エトはまだそれを許さなかった。

 「すぐ休ませてあげるから、もう少しだけ辛抱しておくれ」

 嫌がるそぶりを見せずにファは従った。子供が歩く程の速度で岩場を探る。エトがファから下りなかったのは、真に安心できる場所だと判断するまでファから下りてはいけないと、カデッサたちからきつく戒めを与えられていたからだ。エトはその教えを忠実に守ろうと努めたが、その実、気は緩んでいた。

 石の崩れる音が聞こえたとき、仲間が見つけてくれたのだとエトは思った。音のした方を振り向き、愚かにもその場で立ち止まってしまった。エトが間違いに気がついた時、ロゴ族の狩人たちは銃口をエトにしっかりと向けていた。岩場の影から、飢えた砂犬の群れが現れた。砂犬はぜっぜと荒い息をさせながらあごを大きく開け放ち、野太い舌を覗かせている。エトは急いでファを走らせたが、ロゴ族の上げる不思議な雄叫びに右も左もなくすほど混乱していた。

 「急いで!」とエトは叫んだが、ファに言葉があれば、どこに、と聞き返していただろう。ファは岩場の隙間を縫うように駆けた。ロゴ族はその間、岩場のあらゆるところから現れ、銃弾の雨を浴びせかけた。

 エトは短剣を引き抜いた。心に勇気がわき上がるのを感じたが、ファから振り落とされないように食らいつきながら、片手で短剣を扱うことは信じられないほど難しかった。

 エオルゥオルゥオルゥオ…ロゴ族は奇声を上げてエトをはやし立てる。

 一匹の砂犬が岩山の間隙から躍り出て、唾液を散らしながら飛びかかってきた。

 エトは無我夢中で短剣を振り回した。

 がむしゃらに突き出された短剣の一突きが砂犬の口下を捉えると、剣先はずぶりと砂犬の顎にめり込んだ。まぐれの一撃に喜びを覚えたのも束の間、エトの手首はぐにゃりと曲がった。砂犬の重みと、勢いとを支える力がエトにはなかった。

 短剣を顎に突き刺したまま砂犬は吹き飛んだ。

 ずさりと地を打つ音がした。

 腕が痛みに震えた。

 砂犬がつきたてた爪が、装束ごと肉を引き裂いていた。

 傷を押さえながら、後ろを振り返る。

 「短剣が!」

 短剣の突き刺さる砂犬の死骸の周りには、飢えた仲間が集まっていた。エトはとっさに止まれと叫んだが、ファは命令を無視した。エトがなくした物は大きかった。短剣はエトに勇気以上のものを与えてくれていた。それは、ギリヤとの再会の約束であり、任務を託されるに足る男であることを示す証でもあった。短剣がこの手からこぼれ落ちてしまった今、勇気のよりどころはどこにもなくなっていた。

 ロゴ族の追っ手は掛からなかったようだ。岩場を抜けて、太陽の赤に色づき始めた砂地を駆けに駆けた。ファは明らかに疲弊していたが、それでも精一杯エトを運んだ。こんなことならば、水の一杯でも飲ませてやるべきだったとエトは悔やんだ。

 地平の先まで、砂が西日に輝いていた。灰色の空は熟れた果実のように染まりつつある。僕はどこに向かっているのだろうとエトは思った。思っただけで、立ち止まることなどできなかった。太ももの辺りがずきずきと痛んだ。もしかしたら、撃たれたのかもしれないと考えたが、現実を直視することが恐ろしくて、たしかめることができなかった。

 夜が音もなく訪れて、砂漠を闇に抱き込んだ。

 エトは砂漠に放り出された。エトが手綱を離したのか、ファが砂地に足を取られて転んだのかわからなかった。どちらの体力も限界に達していた。

 腿のあたりが冷たかった。

 やはり血を流しているのだろうか。

 それとも水筒に穴でも空いてしまったのだろうか。

 どちらにせよ、致命的なことに変わりない。

 熱い砂地に吸い込まれる、水のしゅんと揮発する音を聞いた気がした。

 ファはどこにいるのだろう。

 その気配すら感じられない。

 体を動かそうにも、力が入らない。

 頭すら動かせない。

 息をしているのかもわからない。

 片方の目は砂に埋もれていた。

 唯一残った視界はひどくぼやけて見える。

 砂漠と同じくらいのっぺりとした空を背景に月が浮かんでいた。

 大きく、歪で、冷たい、美しい月だった。

 エトは母のお気に入りの皿を思い出した。それは月のように白くもなければ、特別美しくもなかった。ただ丸いということが同じなだけで、なぜそのような物を思い出したのだろう。母が恋しかった。

 水の流れる音がした。

 顔を上げると、エトは故郷の川辺に立ち尽くしていた。

 乳白に濁る緩慢な水の流れ。川はほのかな燐光を放ちながらゆるやかな蛇行を繰り返す。乳白の水のたまりでは、男たちが<濁石アウモ>の声に耳をすませている。彼らは一様に深い苦悩を顔に浮かべ、そうすれば自身の生涯に慰みとなる思い出を見いだせるかのように、一心に水面を見つめていた。

 エトは川縁のぬかるんだ土に裸足の足を沈めながら、そこから一歩も踏み出せなかった。水が怖いのではない。水の中で溶けあう人々の心が恐ろしかった。わずかばかり水に浸かった足先から、蛇のように這い上がる剥き出しの感情に、エトは思わずたじろいだ。そしてその気持ちが反対に――自分では押しとどめるすべもなく――水の中に溶け込んでいく。

 「チウダ」と男たちの一人が言った。それは、悲しみと諦めと別れとがないまぜになった水族の言葉だった。

 「これから水に入るところなんだ」とエトは答えた。

 ――チウダ。男たちは次々と、顔を水面に落としたままエトに向けてつぶやいた。

 「チウダ。お前にはやはり無理なのだ」男たちの中で、ひときわ目立つ男が言った。父の弟、エトの叔父にあたる男だ。「お前には無理なのだ。血が混じり合い、口も、耳も必要以上に開かれてしまったのだから」

 「違う!」

 「何が違う、エト。お前は私たちの声を聞く。聞き取れないはずの声までも聞いてしまう。反対に私たちは、お前の声を聞く。お前は声を上手く操ることができないでいる」叔父は水面から顔を上げ、エトの方に目をやった。その瞳は川面を映し込んでひどく濁って見えた。「お前の母をこの村に入れるべきではなかった」

 「母さんは悪くない」エトは拳を握りしめ乳白の川をにらみつけたが、足は地面に張り付き、動かなかった。

 「チウダ」と誰かが言った。その音は森の深いところから届き、川の音にかき消された。

 「この川は村の川とは違う。この川を流れる水は死そのものだ、エト」叔父はいつの間にか川から上がり、川向こうの岸辺からエトを見つめていた。「生きる気があるのならば、川の水には近づかないことだ。これまでと同じように川を畏れろ。川を避けてきたお前は、いつだってかしこかったのだろう」

 叔父は、背後の森にゆっくりと去って行った。

 男たちの姿は消え、川辺にはエトただ一人が立ち尽くしていた。

 ほんのりと光る乳白の水は温かそうに見えたものだが、実際には、氷のように冷たい。

 エトは、その場から動けぬまま夜の月を見上げていた。

 夜が一層深まった。

 息を吐くと、喉が痛かった。

 全身が冷え切っている。

 片方の目が完全に見えなくなった。

 エトは、自身が死に近づいていることを思い出した。

 「チウダ」と唇が動いた。

 声は出なかった。

 月が、空の天頂で瞬いたように思えた。

 なんのことはない、もう片方の目も霞み始めたのだ。

 エトは月を見つめ続けた。

 夜に浮かぶ月は、瑞々しい命を湛え、震えていた。

 月はやがて二つに分かれ、竜の瞳に変わった。

 竜の瞳は、血のように赤く、華のように黄色く、闇のように黒く、熱を湛えた光だった。

 竜はエトに尋ねた。

 「汝は生を望むか?」

 エトは薄れ行く意識の中で、願わくばと答えた。


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