3-4
あの後すぐ、エマは依頼も受けずギルドを後にした。今日は彼女のお眼鏡にかなう依頼はなかったらしい。
昼食を食べるのにもまだ早く、行くところもない俺たちは結局常宿にしているあの狭い部屋に戻ってきていた。
スペースのほとんどをダブルベッドが占領するこの部屋で、俺とエマは生活している。
エマには何度か宿を変えることを打診していたが、明日に迫りくる祭りのせいでルヴァドの街中の宿に空きは見つからなかった。それに加えて、エマはどうやらこの宿の風呂場がお気に入りらしい。「別にダブルベッドで寝れないわけじゃないんだからいいじゃない」とまで言われてしまえば、この複雑な思いを吐露するタイミングは永遠に失われた。
ベッドの上で思案気に魔導書を開いていたエマがふと顔を上げて俺の方を見る。
「さぁ、ニコ。今日は水の魔法の練習でもしましょうか」
唐突だな、と思いながらも頷く。魔法の練習は嫌いじゃなかった。
水の魔法の練習は濡れても困らないようにいつも宿の風呂場で行う。濡れては嫌なので、と言いながらシャツとズボン一枚になるエマのおかげで、目のやりどころに困るが、いそいそと準備を始める彼女を止めることはできなかった。
「今日は空中の水を集めてみましょうか」
はきはきとしゃべるエマの元気な講義が始まった。
先ほど魔方陣に何かしていると思ったら、水をよけるまじないをかけていたらしい。洗面台の上におかれた魔導書を嫌がるように水が上下左右に避けていった。
「基本的な原理は空中にある水分を集めるだけ。乾いた場所でも、人間や生き物がいればある程度の水が集められるわ」
「人間の吐く息に水が含まれているから?」
「その通りよ」
声に嬉しそうな色がにじんで出ている。エマは本当に魔法が好きなんだなと思った。
テレウと名乗ったあの男と別れてからどこかぼんやりとしていたように思えたので、活き活きと魔法の話をするエマの姿にほっとしていた。
「特に、ニコみたいに魔力が余って仕方がない人にはねおすすめの魔法なの」
エマが聞こえないほど小さな声で魔法を唱えて指で輪を作ると、その間に水滴が集まり始める。
「水筒を持ち歩かなくていいから荷物も減るし、うまく操れるようになれば狩りも簡単になる」
エマのその一言とともに集まった水が勢いをつけて風呂場の鏡に当たった。
パシャンと弾けた水滴が、今は力を失ってぽたぽたと垂れ落ちて排水溝へと流れていった。
荷物が減る、の一言に首を傾げる。そもそも、エマは荷物が異常に少ない。着替えは一組、それから水筒と、食事と、手のひらサイズの魔導書が三冊、煙草と財布くらいしか持ち歩かない。そんな彼女の荷物から水筒まで減らしたらカバンもいらなくなるのでは思ってしまう。
「そしたらエマも水筒いらなくなるな」
と思わず口に出せば、きょとんとした顔で見返した後「確かに」と彼女は深く頷いていた。
「でも、荷物が少ないのはいい事よね。身軽だから、どこへでも行けるし」
「エマは今度はどんなところへ行きたいの?」
「そうねぇ……」
エマが首を傾げて考える。
「ずっと南へ行くと、広い砂漠の島があるの。その島の近くの無人島が一面見渡す限り花畑なの。そこには、もう一度行ってみたいかも」
砂漠は俺でも知っている。暑くて、広くて乾いた場所だ。容赦なく肌を刺す太陽の光が嫌な場所だと思っていたが、エマがまた行きたいというのならその砂漠の花畑はきっと素敵な場所に違いない。
「ニコがいたら砂漠でも水には困らないかもね」
彼女の役に立つのがうれしい。それに加えて、エマが自分とそこを訪れるという「もしも」の話を嬉しそうにするのがたまらなく幸せだった。
魔法を覚えれば、エマはもっと自分と一緒にいてくれるだろうか。
「便利な不可視魔法ってないの?」
「まだ不可視魔法なんて早いよ。可視魔法の扱いでひいひい言ってるへっぽこのくせに」
エマが困った顔でぱたりと魔導書を閉じた。彼女が持っている魔導書に不可視魔法のことが書かれているのを知ったのは数日前だ。未だに読み書きの曖昧な状態では読み解くことは困難だが、もう少し学びが進めば障りくらいは読めるかもしれないとひそかに画策している。
ともかく今は水の魔法だ。
エマが再び指で輪を作ると『アリ・オー』と呪文を唱える。
俺もそれに倣って胸の前に指で輪を作った。
「アリ・オー」
その瞬間。エマと俺の頭上から大量の水が降り注いだ。
事態が飲み込めない俺に対して、濡れ鼠のエマがゆっくりと顔を上げた。
「誰が洪水の魔法を唱えろと言ったか」
そう言って、薄緑色の瞳がぎろりと濡れたままで俺を見上げた。
ぽたぽたと水の滴る髪の毛をかきあげるが、着ていたシャツまでぐっしょり濡れていたのでエマの顔にさらに水が振りかかる。彼女が水を嫌がるように再び顔を下げた。
肩が震えたのを見て怒らせたのだと思った。
何と声をかけたら許してもらえるかと逡巡している間に、肩を震わせたままのエマがゆっくりと顔を上げる。
恐る恐る様子を伺えば、彼女は心底おかしそうに笑っていた。
声を上げるまいと耐えている様子ではあるが、しばらく震えてからとうとう我慢しきれなくなったのか、弾けるように笑い声をあげた。
驚いている俺のことなどお構いなしに、ひとしきり笑い声をあげてそれからまた体をくの字に曲げるようにして下を向いてしまう。
「え、エマ?」
「ああ、ごめんごめん。ほんとに、笑うつもり、なんか、なくて……っ」
返事をしながら顔を上げたエマの声は未だに震えている。苦しそうに息を吐きながらなんとか笑いをかみ殺しているようだが、完封はできていなかった。
理由は分からないが、ともかく俺が水を頭からかぶせたのがそんなに面白かったらしい。
何とか笑いをかみ切って、また顔を上げたエマがぽたぽたと濡れた髪を再びかきあげて俺からふいと目を反らした。
俺の顔を見るとまた笑いがこみあげてきてしまうらしい。
「た、タオルとってくるから……っ」
逃げるように風呂場を後にしようとしたエマの手を思わず取ってしまった。
「お、俺が乾かすよ」
何とか申し出ると、薄緑色の瞳が一瞬驚いたように俺を見上げてまたおかしそうに笑った。
「そうね。こうなった責任はとってもらわないと」
エマが冗談めかしてそんなことをいう。
「それに、風の魔法はだいぶうまくなったもんね。」
肩をすくめてから俺に背中を向けて風呂桶の淵に腰かけた。髪の毛から乾かせということらしい。
びちゃびちゃの彼女の肩に触れるとまた少しだけ震えていた。寒さのせいかと思ったが、時々聞こえてくる息をかみ殺す音にまた笑いがぶり返したのだと思い直す。
何が彼女の繊細な壺に入ったのかさっぱりわからなかった。
ともかく、エマが笑っているというのはいいことだった。だが、こうも笑われると戸惑いもする。
何とか意識を集中させて、風を調節する。ちょうどいい温度の風が吹き始めてエマの髪の毛を乾かし始めた。
エマの言う通り、風の魔法だけはようやく調節が効くようになってきた。
風の魔法を初めて使ったのは魔法を学び始めて三日目の時だった。依頼に出た先でエマが口先で小さく唱えたのを物まねして思わず唱えてしまったのだ。
その途端、嵐のような風が吹き荒れて、近くにあった巨木をなぎ倒してしまった。
エマにはこっぴどく叱られたし、魔力の調節がうまくできるまでは、炎、雷、氷の魔法は唱えてはいけないとまで釘を刺されている。
最近は魔力の調節の一環で魔法石を作るのにも挑戦中している。集中していたら手のひらほどのエマの目の色に似た薄緑色の物ができたので、嬉しくなって彼女にあげたらとても戸惑われた。
ここ数日で気が付いたことは、エマは俺から何かもらうととても戸惑うということだ。何かしてもらうこと自体苦手が苦手なようである。
自立心が強く、本人も地に足をつけて生きている人だから、世話されるのが苦手なのかもしれない。でも、誰かの世話は好きらしい。というのが俺の見解だった。
だから、今大人しく俺に髪の毛を乾かされているエマの姿はすごく新鮮だ。無防備な細い背中に思わず頬が緩む。細いピンク色髪の毛の渇き具合を見てさらに風量を絞った。
「本当に、風の魔法の調節が上手くなったわね。この調子で他の魔法の調節もうまくなってくれると嬉しいわ」
「うん」
弱い風をエマの髪の毛に当てながら、素直に頷く。
物憂げな表情の多い彼女が生き生きとする瞬間が、魔法の話をするときだ。無意識にもほほ笑んでる時もあって、俺は熱心なふりをして色々なことを尋ねる。エマは無知な俺に呆れもせず、知っていることを何でも教えてくれた。数字や文字の一般教養も熱心に教えてくれる。読める文字が増えることを、小さな計算が一つできたことを一番に喜んでくれるのはエマだった。
すっかり髪の毛が渇いたエマが短い髪の毛をくるりと指先に巻いていじっている。
なにか考え事をしている時の癖だ。
「瞑想でもしましょうか。ニコは早く魔力のコントロールができるようにならないと、本格的に魔法が教えられないわ」
と軽く言って部屋に戻って行った。
ともかくは、シャツとズボン一枚になっていたエマの判断は正しかったというわけだ。
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