1-9

 エマ・シンシドナという人は変わった人だった。

 薄桃色の緩いウェーブのかかった髪の毛に、意志の強そうな薄緑色の瞳。

 表情は乏しいが、今日の日中に一度だけ見せた笑みをニコは忘れられなかった。

 なぜだか薄い緑色の瞳から目が離せない。人と顔を合わせて話すのはあまり得意ではなかったが、なぜだかエマとならそれができた。そうしやすい雰囲気がエマにあるのかもしれなかったし、何かほかの理由があるのかもしれない。

 会話はそこまで弾まなかったが、それでもよかった。エマがしゃべり始める前に考えるように眉間に僅かにしわを寄せるのが、知的に見えた。実際に賢いのだろう。一人で旅ができるほどには。

 そんなエマの姿は今部屋にない。投げ捨てられた荷物と、汚れた上着がベッドの上に置かれていた。

 教会の鐘が鳴って、エマがバスルームに籠ってからしばらく経つ。

 窓辺には先ほどまで彼女が吸っていたタバコが置きっぱなしになっていた。

 女性だから、色々することはあるのだろうが、お風呂場からはわずかに話し声が聞こえる。

 濡れた髪の毛を拭きつつそっと扉に近づいた。悪いことをしているのはもちろんわかっているし、こんなことをしているのがばれたら嫌がられるだろうってこともわかる。聞き耳を立てるようだったが、聞こえてくるのだから仕方がないと自分の中で無理がある言い訳を展開する。

 そう、仕方がない。

 エマのことを知りたいと思うのも、きっと好かれていた方が自分のためになるからだ。エマが好むことを知っておけば何かしら今後役に立つ。今までの奴隷としての経験がそう告げていた。

 だが、同時にエマは自分のことを途中で手放すような人間ではないとも感じていた。

 正直、エマに主人になってもらうのが一番早いが、彼女は強く拒否する。自分のことが嫌いなのか、気に入らないのかと初めは落ち込んでいたが、今日の日中の会話で嫌悪や拒絶は感じなかった。エマが何を思っているのかわからない。

 気配を殺して扉に近づく。


「――申し訳ありません」


 初めに耳についたのは謝罪だった。


「それでも、私の責任ですし……」


 自分のことを責めるような口ぶりだが、どんな表情をしているのか想像してしまうと心苦しい。どうやら誰かと会話しているらしい。この風呂場にいるのはエマだけだったから、きっと誰かと話す手段があるのだろう。

 そして、エマは本当はその話を隠しておきたいと思っている。

 ばれたら嫌われるだろう。きっと。


「いえ、そんな! 私は大丈夫です。ケガもありませんし、ええ」


 気を遣っているようで、会話は少しぎこちない。会話相手が誰なのかとさらに耳をそばだてるが、なぜだか会話相手の声は聞こえてこなかった。


「その……実は……」


 エマが声を潜める。


「魔族の少年を保護しまして。はい」


 耳慣れない単語が聞こえてくるが、どうやら自分のことが話題に上がっているらしい。エマから見れば俺は少年らしかった。そして、何かしらの責任感を感じて保護しているという気持ちなのだろう。

 それは、俺が奴隷だから。それとも、助けられた義理を感じているのか。


「いいえ、弟子なんて、まだ! それに、私には魔族になんて教えることできません。先生か、首領クラスの魔女でないと……」


 慌てたような声がして、硬いものが木に当たる音がした。

 しばらくして、落ち込んだように声が潜められる。


「魔女なんて名乗れませんよ、私なんかじゃ」


 エマは魔女だったのか。と納得して頷く。

 呪文を唱えて魔法を使っている所は見たことがなかったが、髪の毛や上着が素早く乾いているのもきっと魔法のせいなのだろう。

 魔女ならば、一人旅ができるのも頷ける。そして、多分護衛や誰かの手助けがいらないことも容易に予想できた。奴隷として働いていた施設に出入りしていた魔女たちは男も女も魔物が徘徊する森の中を一人でやってきて一人で帰って行った。中には、まだ子供だろうと思うような少年や、ひ弱そうな老人もいたように記憶している。

 体が大きいだけの俺じゃ足手まといか、と寂しい気持ちになった。

 開け放しの窓から風が吹き込んで、風呂場のドアが少しだけ開く。どうやら、建付けが悪いらしい。

 中を覗くと、湯舟のへりに腰かけたエマが小さなガラス球に話しかけている。顔にかかった髪の毛をかきあげる姿はどこか疲れて見える。口元はわずかに上げられているが、先ほど見た笑みとは影の深さが違った。


「でも、もう魔物使いとも名乗れませんね」


 自嘲気味に笑うエマにどきりとする。声音に責めるような色を見て眉間にしわが寄って行くのが分かった。なぜそんな風に自分を卑下するのかはわからないが、何か理由があるらしい。エマの心を引っ掻き回すような理由が。


「ともかく、その魔族の少年のことで相談がありまして。はい。どうやら奴隷だったようで、鉄製の首輪をしてるんです。……はい、ああ、いえ。隷属の魔法がかかっていないのは確認済みです。奴隷の首輪を外すすべをご存知ですか?」


 話題はまた俺の話に戻っていた。エマが首元に手を当てる。細い首には傷跡一つない。

 その姿を食い入るように見つめる。

 エマの視線はガラス玉の方ではなく、足元に落ちていた。何を考えているのか、気分の落ちるようなことでもあったのか。


「はぁ……そうですか」


 溜息交じりの声が落ちていく。


「弱りましたね。さすがに、ずっと隠して生活するというのは難しいでしょう? それに、窮屈そうだし……私が言うのも何なんですけれどね」


 エマはそう言って力なく笑う。

 光の当たる角度のせいか、顔色はあまりよくないようにも見える。

 しばらく、相手がしゃべっているようでエマは真剣な顔をして頷いているだけだった。


「ありがとうございます、首領。こちらでも、探ってみます。はい、それでは。3日後の8時に」


 俺といる時は無表情のことが多いが、ガラス玉の向こうとしゃべるときはそれでも表情があるのだななどとくだらないことを考えているうちに、エマが切り上げるようで、相手に短く挨拶をする。

俺は急いで扉から離れた。


―――――――


 風呂場の扉が開いた音がした。

 なぜだか、顔を合わせることができず、俺は布団にもぐって狸寝入りをしている。

 普通にしてればいいのにと自分でも思うが、今エマと顔を合わせるとボロが出てしまいそうだ。

 ぎし、とベッドが軋む。エマの薄桃色の髪の毛が頬にかかったのが分かる。


「……ニコ?」


 俺の顔を覗き込んでいるようであるが、寝たふりは割と得意だ。


「寝てるの?」


 エマがそう言って、しばらくしてからベッドがぎし、とまた揺れた。

 ぬくもりが俺の横にするりと潜り込む。背中に彼女のぬくもりを感じる。

 俺がようやく寝付けたのは空が明るくなるころだった。

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