3 過去 2

 制服警官だらけだったところは、あっという間に刑事とヘアネットに靴まですっぽり覆ったカバーの作業服の鑑識の警察官に入れ替わった。


「とにかく、何も触らずに!」


 玄関のところで戸惑っている私に一番手近な刑事が言った。現場保全が最優先なのはドラマやミステリ本で一応知っている。

 私は、巨大な血溜まりを避け、台所の居間まで幽鬼のように歩き、カバンを置き、いつもの自分の席に空気が抜けたように座った。

 その後も、何度も刑事に訊かれたが誰の靴があって誰の靴がないとか、確認した記憶もない。

 台所と直結している居間はいつもと、全く同じだった。母は夕食の準備をしようとまさに取り掛かったところだったらしく、大量の皮を向かれた人参とジャガイモがザルに盛ってあった。コンロにはなにもかかっていない。 


近田陸ちかだりくくんだね」

「はい、そうです」


 勝手に家に上がり込んだ誰ともわからない刑事が私に尋ねる。答えるのは二度目だ。


「今帰宅したところ?」

「そうです」

「高校生」

「はい」

「今日、なにか家でというか家族で予定とか、あった?」

「ありません」

「家族とのじゃなくてもいいんだけど」

「ありません」


 ごく普通の初冬の水曜日だ。

 刑事は私が考える間を与えないように矢継ぎ早に質問を重ねる。

 刑事といっても、ごく普通の30代の男性、ドラマなんかの鬼刑事とかって感じではない。安物のウィンドブレーカーを着ているせいか職種が不詳な感じは大いにあるが。


「お父さんが世帯主になってると思うんだけど、お父さんはいまどこかな?」

「多分、職場か、、、知りません。いつもならもうすぐ帰ってきます」

「お父さんに連絡はとった?また取れる?」


 見てのとおり、今、帰宅したばかりだ。

 父のことが一大争点になるとは、このときは全く知るよしもなかった。


矢部翔一やべしょういちのことは知ってる?」

「はい」


 姉、奈央なおの現在の彼氏だ。


「陸くんは矢部とはどの程度の仲なのかな?」

「普通に挨拶してちょっと喋る程度」

「どんなやつ?」

「いい人です」


 刑事が間を置いて私の顔じっと見る。私の返答で矢部翔一の人物像を探っている感じだ。


「今日、矢部がお宅に来ることは知ってた?」

「知りませんでした。姉のことはあんまりわからないんで」

「お姉さんと矢部ってどんな感じのお付き合いだったの?もちろん陸くんが見たり感じたままで答えてもらったらいいんだけど」

「僕もまだ女性と付き合ったこと無いのでその辺はわかりません。姉もあんまり言わないし」

「よく、喧嘩してた?」

「知りません」


 刑事が深い溜息。まだ高校生のこいつに訊いてもしょうがないか、、と言ったところか。

 そこで、この刑事に助け舟が着た。


「おい、中原、聞き込みの地取ぢどりが決まったぞ、おまえは近所のほうに回ってくれ」


 中原刑事が答えた。


「了解」


 私は怯えた表情で中原を見る。


「これから、何度も同じ質問をされると思うけど、お姉さんの為だから頑張って知ってること全部話して協力してね」

「はい」


 このあと、死ぬほど警察から聞かされた言葉の一発目だった。"お姉さんのため”、”協力”。

 中原刑事は大きな血溜まりも全く意に介さずスタスタと我が家から出ていくともう暗闇がすっぽり包む近隣のどこかに消えた。

 私は、自転車を盛大にこいで帰ってきたとはいえ、開けっ放しの家に居て寒さを感じて急に尿意を覚えた。

 トイレに行こうとすると、鑑識の係員に呼び止められた。


「ちょっとおしっこするの待って、すぐ終わるから、DNAサンプルのキットで便器の内側拭くから」


 私はそこまでするのか?と思ったことを覚えている。

 鑑識の作業を待つ間。私は玄関の大きな血溜まりが実は廊下にも続いていて、二階へつながる階段にも血の跡があることに気付いた。

 それを知るのはあとになるのだが、正確には血の跡は姉の部屋まで続いていて、姉の部屋での血溜まりが二番目に大きかったのだ。

 鑑識は、上がりかまちから廊下、そこらじゅうに糸で白線を切りグリッドにきりわけ、数字とイロハで方眼紙のように分けてまさに床を這うように作業をしていた。


「もういいよ」


 その声で私はトイレに駆け込んだ。トイレの扉を閉め一人になりプライバシーが確保されると、私は尿ではなくて別のものを便器に放出した。

 嗚咽おえつ、そして涙と吐くものがないので、胃液を吐いた。

 そしてこれが全部夢か嘘であってくれと心の中で叫んだ。

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