〈新〉若紫の君と光源氏になれない僕−桜miracle−

いなほ

若紫と半分の桜

prologue.


 桜の花弁が一つ、風に泳ぎながら降ってくる。

 僕は無意識にそれを目で追い、手のひらを目いっぱい広げ、ここだ、と思うところでぎゅっと握りしめる。


 少し、手が痛くなったが、そこには薄紅色の花弁があった。


 「やった」と思った。

 どうしてこんなに嬉しいのか分からない。桜の花びらを掴めた。ただ、それだけのことなのに。

 自分でも口角が上がっているのが分かる。


 隣を見てみると、惟憲これのりは僕の方を向いていなかった。

 ……よかった。惟憲これのりがこの時の僕の顔を見ていたら「雅行まさゆきが笑ってるぅ」とか言って大騒ぎしているだろう。

 しかし。僕が花びらを見つめていたその一瞬の間に、花びらは僕の指と指の間から軽々と飛んでいき、僕がそれに気づくより先に、どこかへと飛んでいってしまう。


「あ……」

「どうかしたのか?」

 隣にいた惟憲が聞く。


「別に。大したことじゃないから」

「おいおい、教えてくれよー」

「本当に大したことじゃないんだ」

 僕は風が吹いていく方を見つめる。僕が掴んだ花びらもあっちへ飛んでいったんだろうか。

 大したことじゃない。

 なのに、僕はつくづく思う。


 僕の手にはことごとく何もない。何も掴めない僕の手はあまりにも小さな手だと。


 そして、新たな花びらが僕の手のひらの上に落ちてくる。

 自然と自分の方に落ちてくるなんて滅多にない。


 でも、僕はもう、掴もうとはしなかった。

 次に風が吹いたとき、その花びらはもうどこかへ行っていた。


 さっき、とっさにそれを掴めば、花びらは今もまだ僕の手の中にあったかもしれない。


 ……だけど。

 これでいいんだと、そう思った。


 もし掴もうとしたとしても、僕はまだ花びらを飛ばしてしまうかもしれない。

 それならもう諦めればいいだけの話だ。


 何かを追い求めようとするのは、僕にとっては分不相応にすぎる。


 何も望まなければ、願わなければ、心を揺さぶられることもない。


 ……これでいいんだ。


 僕はそう思いながら、僕は風が吹き抜けていく先を見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る