第4話の上 初めての、外の人


SIDE:??


 「北山」――正確にはそう呼ばれる山のうちの一つなのだが――は山桜の名所として知られているが、まだ花は咲きそうにない。山を染めるはずの山桜は蕾のままで、花開くにはもう少し時間が要る。

 その山に小さないおりがある。

 庵に住む一人の少女は、既に暗くなった空を見上げていた。


 都ではもう桜が咲いているかもしれないと何となく少女は思うが、都の方角を見てみても、相変わらず何も見えない。

 少女の前には高い壁がそびえている。

 少女が住む庵を取り囲んでいる透垣すいがいは今年、十五歳になる少女の背丈を優に越えているし、隙間なく編み込まれた竹のせいで外を見ることは不可能だ。

 透垣を飛び越えたり、木に登ったりすれば、外の景色を見ることも出来るかもしれないが、そんなことをすれば乳母めのとに何を言われるか知れたものではない。そこまでの危険を侵す勇気は少女には無かった。


 この透垣の唯一の「穴」は、東側を囲む一面にある竹がほつれて出来た隙間だけだ。

 しかし、少女がその隙間から外を覗いても、近くに生えている草と木の根元くらいしか見えない。

 少女は思わず溜息をつく。こんな場所に誰かが来ることなんてあるのだろうか。その疑念はいつも少女の頭にこびりついて離れない。けれど、少女はいつもそれを振り払う。


 信じなければ。信じていさえすればそれでいいのだから。


 少女は自分の心に何度も告げる。


 そんな時、物凄い音と振動が透垣に響いた。透垣が大きく揺れて、少女は地面に尻もちをつく。

 少女には何が起こったのか、さっぱり検討がつかない。この丈夫な透垣が揺れるなんてこと自体、少女にはありえないことだった。


 庵の中にいる彼女の乳母の様子を窺ったが、彼女はその音に気づいていないようだった。大きな音だったが、透垣の側にいた少女にしか聞こえていないようだ。


 少女はおそるおそる透垣にできた隙間から外を見てみる。やはりこの隙間は外のごく一部を覗き見ることくらいしかできない。

 少女は目をこらす。そうすると、顔が見えた。人間の顔だ。どうやら透垣の前に人が倒れているらしい。


 少女は思わず後ずさった。少女にとって、初めて見る外の世界の人間だった。

 少女は再び透垣に近寄る。わずかに出来た穴に必死にかじりつき、その人間の顔をつぶさに見ようとする。だけどこの穴の大きさではこの壁の向こう側にいるであろう人間の顔の下半分しか見えない。

 少女から見えた、その肌の色は青白く、苦しそうに息をつないでいる。何かまずいことがこの人に起っているのだ、と少女は直感的に思った。


 外の世界に出たことがない少女は、自分と乳母、あと一人の女房以外の人間を知らなかった。彼女らは健康そのもので、体調を崩したところなど少女は一度も見たことがない。少女は透垣すいがいの前に倒れているその人間の体に何か緊急事態が起こっているということくらいは分かるが、それ以上のことは分からなかった。どんな症状かということも、どう処置したらよいのかということも。


 誰かを呼ぼうか、とも考えた。しかし、乳母や女房達は自分達以外をこの庵に入れることを断固として禁じている。そんな彼女達がこの人を家に入れ、ちゃんと介抱してくれるとは、少女にはとても考えられなかった。もし少女が知らせたところで、放っておきなさい、と言われればそれまでだ。乳母や女房達は決して無情な人間ではない……と少女は信じたいが、彼女達この庵へ他者を関係させることを、何よりも拒むのだと少女は知っている。そのためなら、病人だって放置しておくかもしれない。

 もし自分が外に出ることができるのなら、この人をどうにかしてあげることができるかもしれない、少女はそう考えたが、そんなことは毛頭無理なことだった。それは少女自身が悲しいくらい分かっている。


 すぐ近くにいるのに、何も出来ない……。


 少女は思わず自己嫌悪に陥る。しかし自分がどんなに嘆こうと何も出来ないことをよく理解していた。だから少女は、ただひたすら目の前に倒れている人間に呼びかけた。他にどうしたらよいか分からなかったから、少女は今の自分が唯一使える――声を使ったのである。


 そうして何時間が経っただろう。


「だ……いじょうぶです」


 その声を聞いた少女は喜んだ。自分の声が嗄れかけていることにも少しも気づかなかった。



「あ……!返事した……!あぁ、良かった!ずっと呼びかけても答えなかったから……!」


 透垣の向こう側にいる人間は苦しそうに、小さな声で言う。

「す、みませんが、水……もらえませんか?」


 ようやく一縷の望みを得た少女は言う。

「水ですね!今持ってきますから!」


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