第六話.作者殺し シーン2



『きょうはやすみます』

 ――メールの文面はそれで全部だった。あの性格の上、機械全般が苦手な帆影のメールはもともと簡素で用件のみを伝えるような感じなのだが、それでも漢字変換くらいはする。と言うか、使えるようになるまで僕が教えた。(SNSとかは混乱するだけっぽいし、前みたいに入浴中の写真とか誤爆されても困るのであきらめた)

 メールが送られてきたのは昼休みも終わる頃で、僕はあわててかげの教室に行って、酒々井しすいさんを捕まえた。

「ああ、帆影? 来てないよ。センセは、なんか風邪って言ってたなぁ」

 ヨーグルトドリンクのストローから口を離し、酒々井さんはあっさり教えてくれた。

 学校に連絡があったのなら、そう心配は要らないのかもしれない。帆影家の家庭環境は複雑みたいだけど、一人暮らしではないはずだし。

 部活のこともあるから、僕にも連絡をくれたのだろう……とは思うけど。

 僕は、ひょこひょこと教室へ戻っていく酒々井さんほど気楽になれなかった。

「ま、季節の変わり目だからなぁ」

 去り際の酒々井さんが残した言葉に窓外を見やれば、今日も降り続ける雨。昨日よりは大粒な水滴が、さわさわと地上を撫でている。

 夏服だとふとした時に鳥肌の立つ――しかし体を動かすと暑く感じる――微妙な肌寒さも、昨日から続いていた。

 力無いメールの文面からして、軽い風邪という感じじゃなさそうだ。

 ……まさかとは思うけど、昨日、僕に傘を差してくれた分、自分が濡れちゃったとかじゃ……ないよな? 急に不安が押し寄せる。もし僕のせいだったら……

 少し迷った後、メールに返信した。休むのは解ったということと、無理せずゆっくり休んでほしいということ。月並みな内容になったけど、「早く良くなって」だとか期待する文言はプレッシャーになるかも……などと考えると及び腰になってしまう。

 返事は、放課後になっても帰ってこなかった。


 午後の授業の内容はほとんど記憶にない。帆影のことで頭がいっぱいだった。

 風邪で学校を休むなんて大したことじゃないはずなのに、隣の教室の女子一人の欠席に狼狽ろうばいが収まらない。

(一年の時はどうだったかな……休んでた記憶はないけど、クラスは別だったし部活も毎日あったわけじゃない。ひょっとしたら帆影は体が弱いのかもしれない。体付きは……とても発育してるけどがっちりしてる感じじゃないし、運動も苦手みたいだし……風邪をこじらせてどうにかなっちゃったりするかも……)

「だ、大丈夫、新巻あらまきくん……?」

 不意に声をかけられて見れば、近くの席のあかさんだった。のんびりした性格の同級生で、以前、はゆに頼まれて僕を呼びにきて以来、顔を合わせればあいさつくらいはしてくれる。

「ホームルーム終わってるよ?」

 深刻な顔をして机に張り付いていた僕を心配してくれたのだろう。まだまだ話し慣れない女子の言葉に、僕は舌をもつれさせた。

「あ、ああ……平気。ちょっと考え事してた」

「はっはっは、赤名クン。シャケ先生は大事な人の具合を心配しているのだよ」

 そこにへらへらと割り込んできたのは伊井いいさかだった。オタクでありながらオープンで陽気な伊井坂は、赤名さんともそこそこ仲が良いようだ。だからか、僕のことを「シャケ先生」と呼んでも普通に話が通っている。

 伊井坂の眼鏡に映る自分の顔を眺めながら、赤名さんは小さく首を傾げた。

「大事な人って? あの可愛い妹さん?」

「いや、アレはこの際どうでもいいんだ」

 思わず即答してしまったが、赤名さんは眉をひそめた。

「そんな言い方しちゃダメだよ。礼儀正しくてお兄さん想いっぽい、いい子じゃない。

 ホント、可愛かったよ。こう、もじもじして『新巻あまの妹なんですけど、兄を呼んでもらえますか……?』って。なんか子犬みたい」

 身振りまで交えて、映がこの教室に来た時の模様を語る赤名さんは相当に映を気に入ったらしかった。まぁ、性根に反して見た目だけは可愛いからな。

「そうだよシャケ先生。先生が気付いてないだけで、ハユユンは可愛い妹ちゃんだと思うよ、うん」

 多少は映を知っている伊井坂までもがうんうんとうなずいている。

 ……そうか。本性を知らないとそう見えるのか。狂犬のような小学生時代の妹を思えば、外面そとづらだけでも淑女になったことを兄として喜ぶべきかもしれない。どうにも釈然としないけど。

「でも、妹さんじゃないなら、誰のこと?」

 あ、と止めようとした時には、もう伊井坂は意味もなく得意げに反り返っていた。

「そりゃあ、ヒズ・ステディだわさ」

「すてでぃ…………え、新巻くん、カノジョいるんだ!? へー、スゴーイ……」

 赤名さんの反応は、映や果穂かほちゃんと違って割りかし平然としていた。精々、陰気そうな男子にカノジョがいたことが意外、というレベルだ。まぁ、あまり興味がないんだろうけど。

 ……しかし、同級生の、しかも女子に知られたというのがなんだか居心地が悪い。隠していたわけでもないけど、なんとなく。

「そうそう。そのカノジョが今日休んでるから、シャケ先生はブルーなのだよ」

「ふぅん……急に寒くなったし、風邪かな」

「そうみたいだ」

 僕が認めると、赤名さんはにわかに勢いづいて身を乗り出してきた。

「じゃあっ、お見舞に行かないとね!」

「お見舞……?」

 なんでか、言われるまでその発想がなかった。これまたなんでだか、言い訳がましい声が出た。

「いや、でも風邪くらいで大げさなんじゃ……」

「そんなことないって。病気で家に押し込められて、辛くて心細くて退屈で、そんな時にカレシが来てくれたら絶対うれしいよ! わたしだったらうれしいもん!」

 普段の穏やかさはどこへ行ったのか、赤名さんはここぞとばかりに力説してくる。いわゆる恋愛コイバナ好きなのかもしれない。

 そして、女子からそう言われてしまうと、そういうものだという気がしてきてしまう。なにせ女子の気持ちだし。

 幸い、住所は判る。部員の名簿に書いてあるし、スマホのアドレス帳にも入ってる。……でも、帆影の家の場合、他に誰がいるのか不明瞭だ。お祖父さんとお祖母さん? 向こうの家庭環境も解らないのに、どんな顔してお邪魔すればいいんだ? こういう場合、手ぶらで行っちゃ失礼なんだっけ……?

 が顔に出ていたのだろう、伊井坂が溜息をいた。

「カノジョの家に行きづらいのは解るけどさ。そんな変顔へんがおしながら机にこびり付いてるくらいなら、思い切って行っちゃった方がいいんじゃないかね?

 ホカちゃん、きっと喜んでくれると思うよ」

 最後の言葉は優しかった。伊井坂のむやみに明るい笑顔が今は頼もしい。時々うざったいとか思ってすまん……

 …………

 喜んでくれる、か…………

 遠慮は言い訳だ。僕はビビってるだけだ。帆影に会いたいと思っているのに、勝手に向こうの家の都合を想像して逃げようとしている。帆影の全てを知っているわけではないけど、僕が行っても嫌がることはないだろうと、思う。

 だったら。

 伊井坂と赤名さんの期待に満ちた視線に追い立てられたわけでは――たぶん――ないけれど。

 僕は、勢いを付けて席を立った。


        ◇


 帆影の家は、学校の最寄り駅から鈍行で十数分の駅周辺、徒歩で行ける距離の住所になっていた。

 僕が普段乗る電車とは逆方向だから、土地勘はまるでない。スマホの地図アプリを頼りに探すしかない。

 降り止む気配のない雨は、弱いが執拗だった。傘を差していても肌を冷やしながら足下を湿らせて、地味な不快感を募らせていく。築年数のばらばらな家並みは雨にうるおってカエルめいたつやを帯びていて、ただでさえ初めての道をなんとはなしに怪しく、ほの暗く見せていた。

 来る途中、何度か帆影にメールをしたがやはり返信はない。不安なのと同時に、とにかく顔が見たかった。

 と。

「あ、そろそろこの辺じゃない?」

 言われて見れば、電信柱のプレートに目的の番地が書かれている。普段は電信柱になにが書いてあるかなんて気にしてなかったけど、案外役に立つもんだ。

 でもって、その電信柱を指差してのは、なぜか我が妹だった。

 今日は帰りが遅くなるかもしれないと家にメールしたところ、理由を書かなかったせいか母さんから映に連絡が行き、下校中だった映が駅で待ち受けていた。そして正直に帆影の見舞いに行くと話したら、自分も行くと言い出したのだ。

 ぞろぞろと押しかけちゃ迷惑だろうと説得したが、

『男がいきなり一人で訪ねるよりマシでしょ』

 と返されると……まぁその通りだなと思ってしまったのだった。思い切ったつもりだったが、帆影の家の人から不審に見られるのはやはり避けたい。

「それにしてもお前、なんで付いてきたんだよ」

 注意深く表札を見て歩きながら尋ねると、映はお気に入りの傘をくるりと回した。

「別にいいでしょ。いつもお世話になってる先輩の病気を心配してるだけだよ」

 なんて嘘くさいんだ……いつも一方的に噛み付いてる、の間違いだろう。

 まぁ、この猫かぶりが初対面の人に失礼を働くようなことはないだろうし、そこは心配していないけど、どうもそこがあるように思えてならない――と。

 妹への不信感に悩んでいる場合ではない。

『帆影』の表札の掛かった家が、目の前にあった。


 平屋ではあるけど広そうな家だった。スチール製とおぼしき門は引き戸になっていて、古風な木塀もくへいが門の両側に広がっている。中はうかがえそうにない。

 幸い、呼び鈴はインターフォンとカメラの付いた新式の物だった。戸を叩いて中の人を呼ぶという、気の弱い学生には厳しいミッションを踏まずに済みそうだ。

 いやまぁ、ただ呼び鈴を押すだけでも激しく緊張するんだけど。動悸が激しくなるんだけど。掌のぬるぬるが雨なのか汗なのか判らなくなってるんだけど。

「ほら、早く押しなよ。珍しい名字だし、間違いないでしょ」

 急かしてくる映もさすがに声が硬い。ホントに平気ならさっさと自分でベルを鳴らしているはずだ。

 民家の前でうろうろしているわけにもいかない。僕は深呼吸とともに意を決して、呼び鈴のボタンを押し込んだ――

 作動ランプは点灯するがアラームは家の中でだけ鳴るタイプらしい。通じているのかどうか不安になるシステムだが、そう待つこともなく雨音をスピーカーの作動音が破った。

『はい…………どなた?』

 静かで落ち着いた、女性の声だった。最後の「どなた?」の部分で、首を傾げる帆影の顔が頭に浮かんだ。今まで聞いた帆影の話からすると、たぶん帆影のお祖母さんだ。

 こっちからは見えていないが、向こうはカメラで僕らの姿が見えているのだろう。僕はあわてて、電車の中からずっと舌の上に準備していた言葉を吐き出した。

「ぁ、あの、僕は、あ……――」

 準備していたはずなのに喉に張り付いていた声を、心の腕を突っ込んで無理矢理に引っ張り出す。

あゆむさんと同じ部活の、新巻といいます。こっちは妹で……歩さん、のお見舞に参りました……」

「兄は緊張しいなだけで、怪しい者じゃないです」

 僕が舌を噛みかねない勢いでガチガチなのを見かねて、映がにっこりと――そしてドスンと僕に体当たりしながら――フォローに入ってくる。カメラにどんなが映ったのかは考えたくない。

 しかし、案にたがってインターフォンからはあっさりとした声が聞こえてきた。

『ああ、あなたがなの。今玄関を開けますから、門の中に入ってきて』


 門のすぐ向こうにやや古風な家屋が建っていて、その玄関から女性が出てきてぺこりと頭を下げた。

 帆影のお祖母さんは、予想していたより若く見えた。

 五十歳代のどの年齢だと言われても納得できる容貌だ。背中まで伸びる灰色の髪をうなじのあたりで束ねていて、ゆったりしたがらの服を着ている。

 帆影と雰囲気は似ているが顔立ちに面影はない。むしろ、目の色の茫洋とした感じや表情の薄さに帆影の家系を感じた。

「どうもわざわざ。歩の祖母、ふきです」

 しかしさすがに年の功か、声には柔らかな抑揚があってこちらを歓迎してくれているのが伝わってくる。

 僕らはあわててお辞儀を返して、改めて自己紹介をやり直した。

 お祖母さんは、ほんのわずかな口の緩みで微笑みを作った。この間ロボを見に行った時の帆影の口ぶりからして、僕のことは知っているはずだけど、知っているのかは判らない。ただの友達だと聞かされているのか、それとも……

 僕が次の行動に迷っている内にも、お祖母さんは歩き出していた。その手には傘が提げられている。

「歩の部屋はこちらです」

 帆影の部屋は別の建物に在るらしい。

 外塀そとべいと家の隙間を回り込んで進むと、縁側に面した小さな庭を経て、二階建ての離れ家に行き着いた。八畳間を二段重ねにしたような小さな建物だが、造りはおもより新しそうだった。

「母屋に部屋を作ってあげられなくてねぇ……あ、傘は壁にでも立てかけて下さいな」

 鷹揚おうように言いながら引き戸の鍵を開け、お祖母さんはすたすたと中に入っていく。ゆったりしているようでいて、なかなかさばけた人のようだ。

 離れ家の中は薄暗かった。光源はだいぶ高い位置の明かり取りだけで、天井の照明は消えている。

「お……」

「お邪魔します……」

 お祖母さんにならって靴を脱ぎ、フローリングの床に上がる頃に目が慣れて――ぎょっとした。

 仕切りのない部屋中全てが本棚だった。年季の入ったハードカバーが多いようだが、大判の画集から文庫本まで種々様々な書籍が奇麗に分別されて収まっている。

 それ以外のなにもない。まるで小さな図書室だ。

「お祖父さんが道楽で集めてる本の書庫にするために、土蔵を建て直したんですけどね。歩がうちに住むことになって、あげちゃったんですよ。歩は二階の、元は書斎だった部屋です」

 電気も点けずに進むお祖母さんの後を付いていくと、入り口からは見えづらい位置に階段があった。

 土蔵……やっぱり相当に古い家を改築した家のようだ。なんとなく、ミステリー小説に出てきそうな建物だと思いながら、ぎしぎしと不穏にきしる階段をのぼっていく。階段の上には窓があって上がるのに支障はなかったけど、ひっそりした空間が不安なのか映は僕のシャツをつまんでいた。

 階段の先にあった扉を開けば――いよいよ、帆影の部屋だ。

「歩。新巻くんがお見舞に来てくれましたよ」

 お祖母さんがノックとともに声をかけたけど、ちょっと返事がなかった。ややあって、

「…………はい…………?」

 と、なんともあいまいな声が聞こえてくる。出会ってから初めて聴くような、弱々しくはっきりしない声だった。

 しかしお祖母さんはそうでもないようで、平気で扉を開けてしまう。

 中は畳敷たたみじきの和室になっていた。やはり電気は点いていないけど、窓が大きいので明かりに不自由はない。

 こちらにも本棚はあったが、学校で使う物や辞書などで埋まっているようだ。後は古風だが品としては古くなさそうな和机――前に写真で見たタブレットが載っていた――と、カーテンの下りたカラーボックスくらいしか家具がない。

 壁を見れば、見慣れた女子制服一式が掛かっている。他の服やなんやはたぶん、押し入れの中にあるのだろう。

 だから、今、帆影がぺたんと座り込んでいる布団も普段は押し入れの中にしまってある物に違いなかった。

「あらまきくん…………?」

「ぁ…………ぅん…………」

 ぼんやりと言ってくる帆影に僕が上手く答えられなかったのは、緊張していたからというばかりではない。

 帆影の寝間着は薄手の夏物だった。寝相のせいか上着はくしゃりと皺になっているが、ズボンは寝汗で肌に吸い付いている。暑くて跳ね上げたらしい掛け布団は丸まって隅にけられ、柔らかな四肢の曲線が露わになっていた。

 眠いのか熱に浮かされているのか、焦点が微妙に合っていない瞳は涙を流せばいっしょにこぼれ落ちそうなくらいとしている。普段は白い頬が鮮やかに上気して、唇にかかっていたほつれ毛を直す仕草が妙になまめかしい。

 ゆったりした寝間着越しにも存在感を主張する両胸が、心なし荒い呼吸いきに合わせて緩慢に上下していた。

 思わず目をそらすと、初めて見るかもしれない帆影の素足の先で、冗談みたいに小さな爪が真珠の色に輝いているのが目に入る――

 次の瞬間。

 帆影が握り拳でこしゅこしゅと目をこすり。

 映が僕の脇腹わきばら肘鉄ひじてつを入れ。

 お祖母さんが溜息をきながら帆影に布団をかけ直した。

「ごめんなさいね。この子、寝ることに関してはだらしなくて」

 孫娘のあられもない姿をあくまで冷静に謝るお祖母さんの背後で、帆影はまだ眠たそうにまばたきしている。たしかに寝起きは悪そうだ。

 体育座りの姿勢で膝ごと掛け布団を抱き込みながら、訊いてくる。

「あらまきくんは、なんで制服なんですか……?」

 さらりと垂れた前髪からのぞく瞳はいつも以上に無防備で、守りたいような付け入りたいような、複雑な感情で胸に騒がせる。

「え? ……ああ、学校帰りにそのまま来たから」

 脇腹をさすりながら答えるが、不思議そうに首を傾げられてしまった。

「……? でもさっきは作務衣さむえを着て、これからゴーレムを作ると張り切っていたのに……」

 …………………………

 お祖母さんに目を向けると、静かなうなずきが返ってきた。

 帆影は完全に寝ぼけている。

 夢と現実の境が見えていないようだ。風邪のせいでぼうっとしているのか、それとも眠気が取れないだけなのかは判らない。

 ……でもまぁ、帆影の夢に出演できたというのは、正直うれしい……

 などと思っているところに、映が進み出て笑顔で――一から十まで作りした笑顔で――帆影へ問いかけた。

「どうも帆影先輩。風邪のお加減はいかがですか?」

「ぁ、妹さん……? ……かぜ……………………?」

 帆影は、はてなぁ、という風にうつむき、それからゆっくりと顔を上げ、

「坂口安吾の『かぜ博士はかせ』は一度聞いたら忘れないタイトルです。江戸川乱歩の『目羅めら博士はかせ』も…………タイトルは大切です。作者が作品のために遺せる、ただ一本の鍵ですから……いい加減に扱ってはいけません……」

「……………………」

 映は笑顔のまま僕の横に戻って来て、耳へ顔をよせてきた。

「どうしよう。熱でアタマがイカれてるのか、単にいつも通りなのか、判断できないんだけど?」

 今度は僕が映の脇腹に手刀を入れた。ぐぇ、と可愛げの欠片もない声と物凄い視線が返ってきた。

「……熱はだいぶ下がっているみたいだけど」

 僕ら兄妹が醜くいがみ合っている間に、お祖母さんは帆影の額に手を当てて熱をていた。お祖母さんの手の冷たさに目を細める帆影のだらけきった顔は、僕らの初めて見るものだった。

 裏表のない奴だと思ってたけど、家族に対してはやっぱり違うんだな……

「ごめんなさい。ちょっと目を覚まさせて……着替えもさせますから、下で少し待っていて下さい。

 ほら歩、まずは水を飲みなさい」

 枕元の水差しから湯呑み――将棋の「」の駒がプリントされたやつだ――に水を注ぎ、がぶがぶと孫に飲ませるお祖母さん。帆影の反応に頓着とんちゃくせず、平坦な表情かおでそれをするお祖母さんには一種独特な迫力があった。

 そんなお祖母さんに言われては介抱を手伝いますと申し出るのもはばかられる。おとなしく従って、僕らはすごすごと部屋から出た。

 唇の端から一滴の水を垂らした帆影の寝ぼけまなこは、扉を閉めるまで僕を追っていた。


「さすが、帆影先輩の家族だけあって変わってるね」

「お前な……失礼なことを言うな」

「ユニークって別に悪口じゃないでしょ」

 階段を降りながらたしなめる僕に、映は悪口ならぬ減らず口を返してくる。

 僕は重い息を吐いた。二階の扉は閉まってるからお祖母さんには聞こえなかっただろうけど、もし聞かれていれば、人格に問題のある小娘の兄だと知られて二度と敷居をまたげなくなるかもしれない。それは困る。

「とにかく、人様の家で変なこと言うもんじゃない」

「そんなに気にせんでもいいよ」

「いえ、そういうわけには――」

 思わず言いかけて、気付く。映も、階段から一階へ足を下ろしたところでぎょっとしている。

 今のは知らない声だ。低く重々しい男性の声だ。帆影やお祖母さんのものではありえない。

 見ると、本棚の間からにゅっと顔を出している人がいる。映がと喉を鳴らしてしがみついてきた。

「驚かせたか」

 本棚から出てきたのは、なかば予想していた通り、お爺さんだった。

 お祖母さんより一回りほど年上で、やっぱり帆影には似ていない。なんだか硬そうな口髭がまず目を引く厳めしい顔つきだが、表情は穏やか……と言うか超然として無関心な感じで、がっしりした体格とぴんと張った背筋も相まって静かな威圧を覚える。

 まず間違いなく、帆影のお祖父さんだろう。分厚い本を小脇に抱えていることからして、母屋から本を取りに来たのかもしれない。

 ともかく、ここで黙り込んでしまっては我ながら不審者だ。

「あ、あの、僕は怪しい者じゃなくて――」

 怯えてしまった映をかばいながら釈明を試みるが、お祖父さんは片手を上げてそれを制した。

「そりゃそうだろう。学校の制服姿で泥棒に入る馬鹿もまぁいない」

 あっさり言って、片目をつむる。

「女子は歩と同じ制服、男子の方は歩と同じ学年色。他学年の組み合わせからして、部活動か委員会の関係者か」

 比較的単純な状況ではあるが、お祖母さんから事情を聞く時間はなかったはずなのに一目でほぼ正解だ。

「ついでに言えば、ここの玄関には婆さんと歩のも含めて、四組の靴がきちんとそろえて置かれている。靴に付いた泥の跳ね方も上品なもんだ。

 従って、この離れには混乱も狼藉ろうぜきも認められない。お前たちを案内したのは婆さんで、察するに学校を休んだ歩の見舞客だ。違うかな?」

「い、いえ……御名答です」

 お祖父さんは満足げにうなずくと、案外に愛想のいい仕草で自分を指差してみせた。

おれは歩のお祖父さんだ」

 顔はちょっと恐いけど、そんなにおっかない人でもないのかもしれない。お祖母さんも落ち着いた人だったし……と、わずかに緊張を緩めて、僕は改めて自己紹介した。

「僕は……お孫さんと同じ部活の、新巻天太といいます。こっちは妹の映です」

「……お前が新巻なにがしか」

 …………名乗った途端、お祖父さんからの「圧」が急に強くなった……気がする。気のせいかもしれない。きっと気のせいだ。

 お祖父さんはと頭から足まで僕の風体を観察して、

「そういえば、なんでお前たちだけで降りてきた?」

 今さらのことを訊いてきた。

「帆影先輩…………えと、歩さんが寝起きで着替え中なので、待たせてもらっているんです」

 と、これは、ようやくお祖父さんの顔に慣れてきたらしい映が答えた。お祖父さんは映に軽い一瞥いちべつを向け、それから「ふむ」と息を抜いた。

「よし、俺が母屋でもてなそう。付いてきなさい」

「ぇ? でも……」

「おい婆さん! お客さんに縁側で茶でも飲んでもらうからな!」

 戸惑う僕らには構わず、お祖父さんは階上に大声で呼びかけて、返事も聞かずに離れから出て行ってしまう。

 お祖母さんが二階から顔を出した頃には、もうお祖父さんの姿はなかった。

「はぁ……ごめんなさい二人とも。悪いんですけど、あの人に付き合ってあげてくれますか。ヘソを曲げると冷蔵庫の中身を無視して夕食の献立を決めつけて譲らないから、面倒くさくて……」

 お祖母さんの微妙に切実な要請を断るわけにもいかず、僕は映と顔を見合わせてからお祖父さんの後を追った。


 来る時に通った縁側まで戻ると、お祖父さんはもう家の中から魔法瓶や湯呑みの載った盆を持ち出してきていた。ずいぶんとせっかちな性格のようだった。

「まぁ座りなさい。家の中より涼しい」

「はぁ……」

 言われるまま、お祖父さんに倣って縁側へ腰を下ろす。この場合、自分から申し出てお茶の用意をすべきか迷ったが、迷ってる間にお祖父さんがさっさと魔法瓶からお茶をいで僕らに差し出してきていた。

「いただきます……」

 ちょっとぬるめだったけど、その分飲みやすい。自分で思っていたより喉が渇いていた僕は、香ばしい液体をごくごくと口へ流し込んだ。

 ――そのまましばし、沈黙が落ちる。

 てっきり、お祖父さんはなにか話したいことでもあって僕らを連れ出したのかと思っていたのだが、庭先の植木鉢を見つめたまま口を開く気配がない。

 シルクをこするような雨音だけの空間を騒がせたのは、意外と言うべきか、映だった。

「あ、あの……歩さんは、おうちではどんな感じなんですか?」

 お祖父さんは目だけで映を見て、口髭に縁取られた唇をもごもごと動かした。

「逆にくが、学校でのあの子はどんな風なんだ」

「え…………ああ、っと」

 映は視線を宙にさまよせてから、必死で頭を巡らせているようだった。

「何事にも動じず落ち着いていらして、とても博学で……それにユニークな先輩です」

 全力で言葉を選んで本音を繕ったあとの見える表現だった。帆影を褒めることによほど心理的な抵抗があるのか、唇の端っこが歪んでいる。

「なるほど、悪口ではないな」

 お祖父さんは淡々と言った。……さっき階段でしていた会話は聞こえていたようだ。映の額に汗玉が浮くのが見えた気がした。

「歩のことだ。大人しく本ばかり読んで、でも口を開けば突飛なことを言って、注意されても嫌味を言われても一向に応えない。まぁ無害な変わり者をやってるんだろう。

 いえでもそんなもんだ」

 お祖父さんは帆影のことをおおむね理解しているようだった。その上で、誇るでもなく恥じるでもなく、ただそういう子供として語っている。

 帆影がお祖父さんを慕っているようなのは言葉の端々からうかがえていたけど、その理由が解った気がした。

「だが」

 言いかけて、お祖父さんは湯呑みをあおった。大きな吐息ともに続ける。

「最近は妙にはしゃいでる。顔には出んのだがな、物腰に……こう弾みがある。学校に行ったり出かけたりするのが楽しいようだ。ま、ようやく世間並みに近付いたということなんだろうが」

「そうなんでしょうか」

 気が付くと、口を挟んでいた。

「僕はお孫さんと会って一年以上になりますけど、そういう変化はよく判りません。いつも迫らない感じで、自分を曲げず他人に押し付けない……つまり、本質的なところで独立した人という印象です」

 家族にしか見せない、見て取れない微妙な変化なのかもしれない。もしそうならなんだか悔しいし、教えてもらいたいと思った。

 複雑な感情を持て余している僕の顔を、お祖父さんはじッと見つめてきた。

「うん。言いたいことは解る。あの子は、自分が納得することにはこだわるが、自分以外のことにはこだわらない。関心はあるが、自分の思い通りにしようとは思わない」

「はい、はい。ホントに、そんな感じで」

 帆影のことを訊けるチャンス。思わず身を乗り出しそうになる僕のシャツを、映が「どうどう」と引っ張って押し止めた。

 そして、交代するように訊く。

「どうして先輩は、そんな風に育っちゃったんですか?」

 直球の質問だ。言葉遣いも崩れている。

 お祖父さんは答えずに、またお茶を口に含んだ。よく味わって飲み込んで、それからあっさり言った。

「俺は息子から縁を切られてる。息子というのは歩の父親なんだが」

「ぇ……それは……」

「法的な話じゃない。平たく言えば絶好ってやつだな。もう七、八年は会ってない。うちで預かってる歩も会ってないだろう」

「な――」

 他人が聞いていい話なのかどうか――なんて当然の疑問は、頭になかった。

「なんで、そんな……?」

「つまらんケンカだよ。

 歩の父親はうちから独立して隣の県で所帯を持って、薬剤師をしていたんだが、地元の年寄りの話し相手になったり相談を受けたり、ちやほやされてる内に妙なことに目覚めちまってな。

 やれ現代の希薄な人間関係にIT世代の『講』を作って絆を取り戻そうだの、太極拳を取り入れた健康体操で体と心を良い状態に保つ『善』のパワーを高めようだの、わけの解らん自称ボランティア活動を始めた」

 お祖父さんはあくまで淡々と語っているが……なんか、雲行きが怪しくなってきた。

「俺には全く理解できんのだが、地元の名士だかが熱心なパトロンになってくれたとかで活動は成功を収めたらしい。しまいにはNPO法人まで立ち上げてな。体育館いっぱいの参加者の中心でにこにこしている息子夫婦の写真を送ってこられて、俺と婆さんはどうしたもんかと三日ほど投げ首したぞ。

 まぁ、結果から言うと放っておくことにしたんだが。世間の迷惑にならず、みんな喜んでるなら好きにしたがいいと」

 変な話だが――帆影のお父さんの話を聞いた今では、変な話だが――実に、帆影のお祖父さんらしい割り切り方だと思った。

「さらに活動は地方紙に取り上げられたりして、調子に乗った息子夫婦は活動を全国へ広げようと考えた。ローラー作戦で大小問わず自治体に電話しまくり、話に乗ってくれそうな場所を行脚あんぎゃすることになった。地域に密着して、ある程度の時間をかけて根付かせなきゃいけないとかで、そのどさ回りは長引きそうだった。

 家を空ける間、小学生だった歩はうちで預かることになったんだ」

 ようやく帆影が登場した。

「歩はその頃から大人しい子で、両親に置いていかれても平気な顔をしていた。涙なんてあくびした時くらいしか見たことがない。家にはオモチャもなにもないから買ってやろうと言っても、自分が持ってきた本があるから要らないと言う。

 息子夫婦は読書を『いいこと』だと思っていたから――豊かな感情を育む、だとかいうフレーズが大好きな連中だ――、児童書や図鑑の類を余るほど買ってやっていたんだな。

 転校したばかりの小学校でも放課後に遊ぶような友達ができなかった歩は、日がな一日本を読んで、持ってきた分がなくなると俺の書庫で読めそうな物を探して読み始めた。写真の多い動物の本だとか、少年探偵だかってタイトルに付いてるやつから読んでたかな。

 今じゃ、その書庫の上に住み着いてんだから筋金入りだ」

 ……どうしよう。正直すごく暗い子供時代なんだけど、容易に想像ができてしまうし、帆影はたぶん、それなりに楽しくやってた気がする……

「その頃、俺はまだ働いてたが、帰るなり歩がやってきて、その日読んだ本のことで質問攻めにされた。こう言っちゃなんだがヒマな子供だったよ、ホントに。

 俺が小学生の時なんかは近所の友達と遊び疲れて本なんて教科書ですらろくに読まなかったのに、歩は他にすることがないもんだから、本の話しかしないし、俺や婆さんが相手している途中で電池が切れたみたいに眠っちまう。あれじゃ学校に友達なんてできやしまい。

 でもまぁ好きでやってるようだし、婆さんが学校の先生に聞いた話じゃ生活態度は良好だってんでっといた。

 叱ることと言えば寝坊癖と、子供のくせにやたら長風呂なことくらいだったな」

 その辺は今でも変わっていない。と言うか、帆影は子供の時から全然変わっていないようだ。物事を感覚でなく理屈だけで考えて、それを追究することにためらいがない。

 でも、そういう風に「なんで?」を繰り返す子供というのは、実は珍しくないんじゃないかと思う。僕や映の小さい時だって、多かれ少なかれそんな傾向はあったはずだ。帆影がそのまま高校生になったのはたぶん、お祖父さんやお祖母さんがとがめなかったからだ。

 往々にして、質問を繰り返す子供というのはうるさがられるし、ともすれば生意気だと矯正されてしまう。そこを帆影は、この風変わりな祖父母に受け入れられてしまった。

 それがこの家の教育方針だったのか、二等親ゆえの無責任だったのかは僕には判らない。

 僕が知っているのは、結果としての高校生・帆影歩だけだ。

 文芸部室で黙々とページを繰っている帆影の静かな横顔を脳裏に描く内にも、お祖父さんの話は佳境に入っていった。

「歩が小五の時だったか。ようやく活動が一段落して腰を落ち着けられるようになったとかで、息子らが歩を引き取りに来た。

 学年の変わり目まで待てないかとこっちが引き留めたのが、口論の始まりだったと思う。俺はただ、変なタイミングで転校すると歩もいろいろ面倒くさいだろうと言ったんだが、息子は深刻ぶって首を横へ振ったもんだ。

『そういうことじゃない。親子の愛情の問題だ。子供には父親と母親が必要だ。離れていたって親子の絆は決して消えないが、両親と同じ屋根の下で寝食をともにすることで子供は心の宇宙をバランスよく育てて、正しい理性を持った大人になっていくんだ。

 離れていた時間の分、僕らはできるだけ早く絆を結び直さなきゃならない』

 ……だったかな。そんなことを言って歩を連れていこうとしたんだが、さすがに呆れてしまってなぁ。思わず、日頃思ってたことを言ってしまったよ」

 お祖父さんは湯呑みに残っていたお茶を飲み干してから、当時を思い出したか遠い目をして、言った。

「お前。そんなことを言ったって、お前なんぞ俺と婆さんが薄汚い股座またぐらの間でこね回した細胞がぶくぶく膨れ上がっただけの、バケモノじゃないか。そんなのが愛だとか心だとか大仰なこと、言ってて恥ずかしくならんのか? って」

 ………………いや、解るけど。言わんとすることは解りますけど。

 実の息子に言うことだろうか……

「実の息子に言うことか、と息子は顔を真っ赤にして怒りだしてしまってな。あまりの剣幕に嫁さんは泣き出すは、婆さんは言わんでいいことをって顔して睨むは、俺も困り果てた。しかし、だからと言って間違ったことを言った覚えもないからだんまりを決め込んでやった。息子はさらに激昴した。

『あんたはずっとそうだ! 人間の心や魂に無関心で、自分の子供にすら動物を飼うように冷たく接して! 人嫌いだかなんだか知らないが、愛情を受けて育つ他の子供たちを見て、僕がどれだけ惨めな想いをしたことか!』

 なかなか名演説だったな。なんであいつがああいう活動に溺れたかちょっとは解った気がした。俺の感想は差し控えよう。歩には関係のない話だからな。

 息子は一通り喚き散らしたが、俺に手応えがないと見るや、歩を連れて行こうとした。こんな変人の家には置いておけないというわけだ。

 だが――」

「――帆影は、納得しなかった」

 思わず。

 お祖父さんの言葉に先回りしていた。帆影ならそうだろうという確信があった。

 なにを考えているのか知れない目で、お祖父さんが僕を見る。

 その間に、映が如才なくお祖父さんの湯呑みに茶を注いだ。お祖父さんは目を伏せて映に礼を表しつつお茶を口に含んで、話を続けた。

「ま、そういうことだ。歩は『わたしはお祖父さんの話の方が、フに落ちます』と小学生らしからぬことを言い出して父親を困惑させた。

『人間は、宇宙に浮かぶ岩の水たまりに住む微生物が、テキトーにブンレツしていたら、今の形になったというだけの生き物です。

 アイだとかキズナだとか、そんな不たしかな言葉をつかわなくても説明できます。ヒトにそんなものは、いりません』

 ……今でも覚えてる。まだがんないような口調で、歩は父親に語り出した。息子夫婦だけでなく、俺も婆さんも呆気にとられた」

 ……その時の情景が、目に浮かぶようだ。放課後に文芸部室で自説を開陳するいつもの帆影、その縮小版が、何年も前のこの家に居たのだろう。いつもやり込められている映などは、頬を引きつらせている。

 僕らがあまり驚いていないのを目の端に映しながら、お祖父さんの話は続く。

「息子は混乱しながら、愛情や人と人との温かい関わりが豊かな人間を作るとかいう持論を歩に語りかけた。しかし歩は筋道を立てて、なぜそうなるのか追究して、辻褄が合わなければ批判した。

 何十分費やしたか。自分の言葉が通用しないと悟った息子は、歩から逃げて、俺に向かってこう怒鳴った。

『僕の子を洗脳したのか!?』

 ……その時の俺が返した態度は、正直言ってまずかったと思う。それに関しては息子にすまないと思っている。

 だがまぁ、その時は思わず、爆笑してしまったんだ」

「爆笑…………」

「いや、だって、言うに事欠いて洗脳だぞ。笑うだろう。婆さんは後になって『笑うことはなかったじゃありませんか』なんてネチネチ嫌味を言ってくるが、俺は婆さんが泣いているふりをして肩を震わせていたのをはっきり見たぞ。あれは笑いをこらえていたんだ。夫婦生活の全てを賭けてもいい。断言する。

 だいたい、あの婆さんはよそ行きには涼しい顔をしてるがひどい笑い上戸で……いや、それははどうでもいい。

 ともかく、息子は理性の限界だったのか歩を放って逃げ出した。嫁さんは戸惑いつつも歩や婆さんと少し話したが、付いてくる気がないと解ると頭を下げて出て行った。

 結果から言えば、それから今に至るまで、歩はこの家の子として生きている」

「そ、それきりなんですか? 息子さんたちとは……」

「息子には会ってない。嫁さんとは定期的に婆さんが会って話をしてるが、今は歩を引き取ることに躊躇してるみたいだな」

「……どうしてですか?」

「立場が立場だ。健全な子育て環境の推進にも力を注いでる団体の役員が、歩みたいにへんてこな娘を持ってるなんて知れたらイメージに関わるんだろう。あの子に社交的な振る舞いができるとも思えんしな。

 ……ああ、そう恐い顔をすることはない。歩の母親は息子に惚れきってるみたいで言いなりだが、ちゃんと娘を心配してるし、つきに一度くらいは歩と顔を合わせてる。ただ、お互いの生活を尊重してるだけだ」

「は、はい……すみません」

 怒気が顔に出ていたことを指摘され、僕は何度かまばたきした。汗が目に入って、体温が上がるほど聞き入っていたことに初めて気付く。

 ここまで聞いて、帆影のことが少しは解った気がする……と思うのは浅はかなのだろう。ただ、帆影がどういう家で、どういう家族と過ごしてきたのは知れた。

 それだけで、頭を下げるには十分だ。

「あの……ありがとうございました。歩さんのこと、聞かせて下さって」

 お祖父さんは鬱陶しそうに手を振った。

「非常勤で続けてた仕事も辞めて暇なんだ。無口なジジイでも会話に飢える日はある。察しろ。

 ……ああ、そういえば、歩についてまだ話してないことがあったな」

「? はい」

「風邪を引いた理由だ」

「理由ですか?」

「うん。昨夜ゆうべのことだ。夕飯の後、歩が風呂に入ったままなかなか出てこないから、婆さんが見に行ったら長湯で上気のぼせちまって、出ることは出たんだが脱衣場で裸のままぼーっとしてたらしい。それじゃ風邪も引く」

「ホントに風呂好きなんですね……」

「とは言っても、以前まえはそんなでもなかった。去年から、風呂にタブレットを持ち込んで本を読むようになってな。長湯に拍車がかかった。

 昨日きのうも、読みかけだった推理小説の区切りが悪くてつい目眩めまいがするまで読み続けてしまったらしい」

「…………そ、それは体に良くなさそうな…………」

 辛うじて受け答えしつつも、僕は……と視線をお祖父さんから逃がしていた。背筋に冷たいものが流れ落ちる。

「そもそも機械オンチのあの子が、急にスマートフォンで本を読みたいと言い出すから何事かと思ったもんだ。読みづらかろうと余ってたタブレットをくれてやったんだが、話を聞けば部活の友達から教えられたという。

 新巻くんが教えてくれたから早速試したいと、ずいぶん張り切ってたよ」

「………………す、すみませんでした」

 まさか、帆影が風邪を引いたのが僕のせいだったとは……最初に会った時、じろじろと睨まれたのは当然だ。とても可愛がっている――ようにしか聞こえなかった――孫にろくでもないことを吹き込んだ、うろんな若造だと思われているのだろう。

 どうしよう……正直に、交際させていただいておりますと申し出るべきだろうか。いやでも、帆影が僕のことをどう説明しているのかも判らないし、勝手に言ってしまっていいものだろうか……?

 などと僕が悩んでいると、まるで見計らったかのようなタイミングで救いの手が現れた。

「そんな意地悪言うことないでしょう」

 いつの間に離れから戻っていたのか、帆影のお祖母さんだ。着替えた分だろう、帆影の寝間着やタオルを抱えて縁側の前に立っている。

 それから僕に向かって、口元を柔らかく緩めた。

「気にしないで下さいね。悪いのは自己管理できない歩なんですから」

「い、いえ、とんでもないです……」

 そう言われて開き直るわけにもいかず、我ながらしどろもどろにならざるをえない。

「別に責めてやしない」

「それならけっこう」

 ぼそりと言い返すお祖父さんを手短にいなし、お祖母さんは服を抱えていない方の手を離れ家に向けてみせた。

「お二人とも。歩も目を覚ましましたから、会ってやって下さい。鍵は開いてますから」

「は、はい。それじゃ……」

 お茶菓子のパックを開けようとしていた映を目で促し、バッグと傘を持ってあわただしく立ち上がる。

「新巻くん。歩の風邪のこと、ホントに気にしないでください」

 離れまでの短い距離、傘を広げるか迷う僕に、お祖母さんが静かな声をかけてきた。

「歩が両親にここへ預けられた日も、両親と別れた日も、今みたいな雨の続く日でした。その時あの子は泣かなかった。一滴の涙も出さなかった。

 ただ、こういう雨の日には、よく体調を崩すんですよ」



 僕は改めてお祖父さんとお祖母さんに頭を下げたが、お祖母さんは手を横に、お祖父さんは手を縦に振った――犬でも追い払うように――。

 とりあえず、緊張のあまり渡し忘れていた手土産の今川焼いまがわやきはお祖母さんに受け取ってもらえたのでよしとしよう。

 それから、映と連れ立って帆影の居る離れに戻る。

「いやぁ、しかし」

 薄暗い書庫の引き戸を閉めた途端、映は嘆じるように言葉を落とした。

「全体的に頭おかしいよね、この家の人」

 僕は無言で妹の頭頂にチョップを打ち下ろした。そんなに強くは打たなかったはずだが、映は頭を押さえて怨めしげにめ上げてくる。

「だって、ホントのことじゃん。

 無愛想でフリーダムでミもフタもなくて、自分の信念なのか知らないけど放任を子供に押し付けて、傷付けてもけろりとしているお祖父さん。

 自分の親が素っ気なかったからって、人間愛の押し売りみたいなことにハマっちゃったお父さん。

 そんな旦那にべったり付いていくだけのお母さん。

 でもってとどめに、両親より本を選んじゃったような気がする帆影先輩。

 お祖母さんは……話した限りじゃ割りとまともっぽいけども、でもこういう家庭で平気な顔してるだけでもちょっと変わってるよ、やっぱり」

 ……うなずくわけにはいかないけど、映の言う通り、特殊な家庭環境ではあるだろう。ここに比べれば僕らの家なんて平和なもんだ。夫婦喧嘩も親子喧嘩もあるけれど、どれもこれもホームドラマでよく見かけるような、平凡なシチュエーションのものでしかない。

 だから、帆影がどんな気持ちで両親と、祖父母と関わって、育ってきたのか、その気持ちを想像することもできなかった。

 帆影みたいにもっと本を読めば、あるいはインドアなオタクをやめて積極的に人と交わって人生経験を積めば、その内に理解できるのだろうか。

 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。なんにしろ、今は……

 僕はなんとなく、本棚の間にわだかまる暗闇に目を預けながら、映へ言った。

「映。悪いけど、ここで待っててくれないか」

「は?」

 なにそれ? と、妹が片頬をひくつかせたのが見ないでも判った。

「カノジョの部屋で二人きりになりたいってこと? 相手は一応病人だよ?」

「解ってる。そういうんじゃない」

 映に目を戻すと、妹は予想したのと寸分違わない顔をしていた。なんだか安心する。

「今、帆影と二人で話したいことがあるんだ」

 妹はしばらく、薄暗がりの中で目をぎらつかせていたが、やがてぷいと目をそらして階段に座り込んだ。

「さっき駅前で見たラーメン屋、美味しそうだったから帰りにゴチソウしてよ」

「いや……母さん家で夕食用意してるだろ」

「だいじょうぶ。ラーメン屋を見かけた時点で夕御飯要らないってお母さんにメールしたから」

 ……最初からオゴらせる気満々じゃないか。休み中にバイトしたって言っても、そんなごうな財布じゃないんだぞ。

 とは思ったが、背に腹は変えられない。

「追加トッピングは無しだからな」

 僕は映の頭に手を乗せて言い置きながら階段を上がっていく。

 妹の舌打ちが、雨音の籠もる書庫を鋭く切り裂いた。


 ノックと呼びかけに「はい」と短い返事を聞いてから、僕は帆影の部屋のドアを開けた。

 部屋の様子は、さっき入った時と大差ない。ただ、乱れていた布団がウソみたいに奇麗に整えられて、その上で正座している帆影が着替えているのが違いだ。

 布団の前には、座布団が二つ並んでいる。片方はさっきは和机の前にあった座布団だった。もう一つは押し入れにでも入っていたのだろう。

 帆影は持っていたヘアブラシと僕を見比べて、それから脇に置いて、小さく頭を下げた。

「さっきは、すみませんでした……寝ぼけてしまっていて」

「いや、こっちこそ起こしちゃってごめん……」

 座布団に座りながら、帆影を観察する。まだ熱っぽいが、さっきよりだいぶ意識がしっかりしているように見えた。姿勢もいいし、着替えたばかりだから当然だが寝間着もさっきみたいによれよれではない。

 乱れていた髪もかしたようだ。いつものヘアピンを着けている。

 顔を上げた帆影は僕を見た。さっきと違って、平常文芸部室で見せてくれる、理性的なのにどこかとらえどころのない目だ。まだ引かない熱に、目元を朱らめさせていたけれど。

 僕が見返すと、帆影は膝の上に置いた手をゆっくり握って、開いた。

「今日はすみませんでした……メール、何度ももらってたみたいなのに、わざわざ来てもらって」

 いつもと同じかと思ったけど、話している途中で目が部屋のあちこちへ飛んでいる。なにか気になることでもあるのだろうか?

「い、いいんだ。勝手に押しかけてきただけだし。あ、伊井坂もよろしくって言ってたよ」

「はい。伊井坂さんからも来てました」

 メールのことだろう。その辺はマメな奴だ。眼鏡の似合う顔を思い出すと、僕をここに送り出した言葉も聞こえた気がした。

『ホカちゃん、きっと喜んでくれると思うよ』

 ……喜んでもらえているのだろうか? 一応は恋人だというのに、帆影の薄い表情からはなにも読み取れない。

 黙ってしまった僕をいぶかったのか、帆影は小さく首を傾げた。それから、気付く。

「妹さんは……?」

「ああ……ちょっと話したいことがあって、下で待ってもらってる」

「話したいことですか……わたしと?」

「うん」

 熱のせいか緩慢にまばたきする帆影に、僕は膝を正して続けた。

「お祖父さんから聞いたよ。帆影と、帆影のお父さんたちとのこと」

 帆影は口を開いて、それから少し、そのまま止まった。

「……そうですか」

 遅れて出てきた言葉は、なんとも宙ぶらりんな響きをしている。

 自分の来歴を聞かれたことに対してどんなリアクションをするべきか、見当が付かないのだろう。

 そんな帆影に、僕は頭を下げた。

「ごめん」

「…………? なにがですか?」

「もっと早く聞いとくべきだったよ。帆影のこと」

 言いながら顔を上げる。帆影は、心当たりのないことで謝られて少し困ったような顔をしていた。

「だって、そうしてれば、帆影がなんで映と話がすれ違うことをあんなに気にしてたのか、少しは解ったと思うから」

 帆影は、そのすれ違いが過ぎればどうなるか知っている。場合によっては家族だってバラバラになることを知っている。ひょっとしたら自分ではなく、帆影と付き合ってる僕と映の仲が悪くなることを心配してくれたのかもしれない。

 僕の言葉に、帆影はなにも答えなかった。相変わらずの無表情だ。窓を洗う雨の音が耳に障る。

 ともかく言い切ってしまおうと、続けた。

「それに、ロボの立像を見に行った時も、人込みで気分が悪くなったって言ってたけど、親子連れが多くて気になったんじゃないか?」

 さっきお祖父さんから話を聞きながら思い出したことがある。あの時、帆影は親子連れがカメラの前を横切ったあたりから顔色が悪くなっていた。もちろん暑さや人の多さも原因だったろうけど、自分には解らない関係を築く親子の姿を見ることもストレスになっていたのではないだろうか。

 もし僕が帆影の事情を知っていれば……なにをできるわけでもないにせよ、少しはマシな気配りができたかもしれない。

 だから、遠慮と臆病で帆影の家のことを訊いていなかったことを、今は後悔している。

「帆影のことが解らなくていろいろ考え込んだりしたけど、もっと自分から知ろうとしないといけないと思った」

「………………」

 帆影はちょっと僕を見て、それから自分の膝へ目を落とした。そして、

「…………よく、解りません」

 うつむいたまま、聞いた覚えのある言葉を落とした。

「わたしは自分を客観できません……自分の外に立てるような足場がありません。

 他の人の気持ちが解らないから、他人の目で自分を見られません。だから、自分のことは教えられないと思います」

「そんなこと、僕にだって解らない。。だから、僕が帆影を観るんだ。

 言っただろ、痛めつけたり傷付けたりしたくないって。そのために」

 のろのろと顔を上げた帆影の目を真っ直ぐ見返す。

「今のことでも、昔のことでもいい。帆影の気になってることがあるなら、話してみてほしいと思ってる。……帆影もこの間、僕のことを聞けてうれしかったって言ってくれただろ?

 そのことだけ、伝えたかったんだ」

 僕の言葉を受けた帆影に、しばらくは反応がなかった。ただ、そのままの姿勢で深呼吸をしたようだった。

「新巻くんは…………いえ」

 それからなにか言いかけて、やめて、

「では……訊いていいですか?」

 常以上に真面目な顔で言ってくる。僕はうなずいた。

「ああ」

「……この部屋は、おかしくないですか?」

 ………………?

 意図が読めず、とりあえず見回してみる。さっき来た時とあまり変わらない。こざっぱりとした和室だ。本棚の中身が雑然としていたり、枕元のお盆に水差しと湯呑みに並んで風邪薬が置いてあったりすることくらいしか、特筆するような異状もないと思う。

 新しく気付いたことと言えば、机の上に教科書とともに、去年文芸部で出した文集が並んでいた。でも、それなら僕の部屋にもある。

 なにかのクイズなのかとも思ったが、病人に仕込む余裕もないだろう。正直に答えた。

「おかしくはない……かな?」

 いやまぁ、そもそも離れ家――しかも本来は書庫――の二階に住んでいるという事実が変わってはいるが。今時、畳に布団で寝ているのも珍しいとは思う。

 ともかく帆影は、僕の答えを聞いて安堵したようだった。胸に手を乗せて――当てているのではなく、乗っていた……――、息を抜いている。

「……同年代の人の部屋をよく知らないので、戸惑われているのではないかと落ち着きませんでした」

 それでさっきから部屋の中をちらちら見ていたのか。

「人の部屋なんてそれぞれだし……映に言わせたら、マンガやフィギュアだらけの僕の部屋の方がおかしいことになると思うよ」

「そうなんですか?」

 首を傾げる帆影を見ながら、いつか僕の部屋へ彼女を呼ぶことがあるのだろうかと考えてしまう…………片付けとかないと。念のため。

 このやり取りで少しは気が楽になったのかもしれない。続けて帆影が口を開いた。

「――お父さんとお母さんと別れて暮らすことになった時、わたしは、泣きませんでした。その場だけでなく、その後もずっと、泣きませんでした」

 お祖父さんやお祖母さんもそう言っていた。僕はただうなずいて、耳を傾けた。

「ああいう時、小説とかでは泣いたり悲しんだりするものですし、お祖母さんも何度も平気か、無理してないかとたしかめてくれたので、きっと普通の子供は泣くものなのだろうと思いました」

 泣かなかったからって、それが悪いわけじゃない――と、言いたくなる口をすんでのところで閉じる。今は、帆影が話し終わるまで聞こうと思った。

 しかし、帆影の方が僕へ訊いてくる。

「覚えていますか? なんで人が泣くのかと話したこと」

 あー…………BL話の流れで、「あおきん」の僧侶がなんで屍体を喰うようになったのかって考えた時のことか。

「えっと……赤ん坊の時、泣けば世話してもらえるのを覚えて、だから慰めてほしい時とか助けてほしい時に泣くようになるから、だっけ」

 あくまで一つの仮説だとは思うけど、個人的には筋が通っていて納得できる話だった。

 帆影はこくんと小さくうなずいた。

「はい。だからわたしは、お父さんとお母さんがいなくなる時、と言ってしまったことになります」

「それは…………」

 親が離れたのに子供に泣かれない、ということは、そういうことになる……のだろうか。

 子供がもっと大きければ、それは当たり前のことだ。でもその時の帆影は小学生で、帆影の両親は心から家族の絆や通じ合う心を信じている人たちだった。

「わたしはたぶん、お父さんやお母さんにひどいことをしてしまったのだと思います」

 そう言った帆影の表情に、やっぱり悲しみは見えない。ただ、屋根を透かして雨を浴びているような顔をしていた。

「もっと小さな時はよく泣いていたように思います。転んで痛くて、お腹が空いて、幼稚園の子供にいじめられて、駅で迷子になって……今みたいに、病気で心細くなって。

 そのたびに泣いて、助けてもらった両親を、わたしは突き放してしまったんです。いえ……頭ではその気はなくても、心が『要らない』と判断して涙を流させなかったんだと思います」

「そのことを後悔してるのか……?」

 帆影はあいまいに視線をさまよわせた。

「……問題は、あまり後悔して気がすることだと思います。平気なんです。悪いことをしたと思っているはずなのに、胸の痛むようなことはありません。

 だって、わたしにとってもお父さんやお母さんにとっても、離れて暮らす方がよりメリットの多い生活をできるのだから後悔する必要はない、と、そう考えてしまいますから。

 妹さんが言うように、わたしは心の持ちようがおかしいのかもしれません。そんな自分と周りのずれが、今も誰かを苛立たせたり苦しめているのだとしたら……それが不安なんです」

 そこまで来て、彼女の目は僕に留まった。

「ちょっと前までは、そういうこともあまり気にしていませんでした。お祖父さんとお祖母さん以外に毎日親しく話す人もいませんでしたし、わたしの言うことに呆れたり怒ったりする人はすぐに離れていくから悩む必要もありません。

 でも今は、部室に行けば新巻くんや伊井坂さんが話をしてくれて、教室では酒々井さんのような人もできました。そういう人たちも、もっとわたしを詳しく知ったら離れていくんじゃないかと、それは……怖いんです」

 そこまで言って、帆影は深く吐息した。弱々しくも長い息だった。

 すぐには、なにも言えない。聞いた話を反芻はんすうして、考えた。

 ……帆影はつまり、両親と解り合えなかったことについては気に病んでいない。その理由がないことを理性で納得してしまっている。理解できなかったことも、理解してもらえなかったことも、当たり前のことなのだから失望するには当たらない。別の道を行けるなら、それは幸いだ。

 ただ、自分が父親を傷付けたことについて平気だというのは、必ずしも自分で思っている通りではない気がする。そのことについて、平気でいるということに加害者意識を感じて、罰を求めているような口ぶりだった。

 そして、そんな風にまた傷付けて、せっかく親しくなった人たちが離れていくことを怖れている……

 僕はさらに考えた。どう答えるべきか。人の考えを察し、迎合できるようになればいいよと言うのは簡単だが、それは正解とは言えない気がする。

 僕の中に、帆影の悩みに答えられる言葉があるのか。

 考えた結果――そんなものはなかった。

 帆影を諭し慰めるだけの知恵も経験も、僕には全く足りていない。それを心中でたしかめると、体を起こした。帆影が不審そうに見上げる。

 僕は膝で立ったまま彼女へ近付いていく。帆影は最初きょとんとしていたが、僕が目の前まで来ると反射的にか半開きの両手を胸の前に上げていた。

「帆影」

「はい……? ………………ぁっ」

 帆影の声を耳元に聞きながら、僕は彼女を抱き締めていた。背中と腰に手を回し、ぎゅっ、と少しずつ力を込めていく。

「帆影は自分を変えなきゃいけないと思ってるのかもしれないけど、僕はそのままだっていいよ」

 言いながらも、火を噴きそうなほど顔が熱い。母親と妹以外の女性にこれだけ密着したのは初めてで、しかもカノジョで、埋もれてしまいそうに柔らかいのだ。脳味噌が煮立っているんじゃないかというくらいに、とにかく熱い。

 腕の中、胸と胸で感じる帆影の体は、それ以上に熱かった。まだ熱があるせいなのか、僕がそう感じているだけなのかは判らない。

「僕にとっての帆影はカンペキなんだ。帆影と会うまで、理想の女性像みたいのはあった気はするけど、帆影を知れば知るだけ型を取られるように変わっていった。結局、好きな物がベストになるんだと思う」

 ふと、脇腹にささやかな感触を覚える。帆影の手が、こわごわといった風に僕の肋骨のあたりに添えられていた。弱々しく触れられているだけなのに、過敏になった神経は指の一本一本の細さを感じ取ってしまって、くすぐったい。

 耳元で、帆影が口を開く。熱っぽい息が耳たぶを撫でて反射的に身をよじると、帆影の体もびくりと震えた。押し付けられた胸が圧迫されたせいか、帆影は少し苦しそうに声を出した。

「でも、なんで付き合いたいと思ったのか『よく解らない』って……」

 そんな戸惑いに気を取られ一瞬なんのことか判らなかったが、すぐに思い出す。保健室でそんなことを言った覚えがある。

「それも含めてだよ。正直、僕は帆影の考えてることとか、まだ解らないことが多いけど、でも、そこがいいんだ。解らないからいつも驚いて、面白くて、新鮮で、僕が見ているのとは別の世界を見せてくれる。

 僕は、帆影を、理解できなくていいよ。

 もちろん、解るようになったら気持ちいいと思う。どっちにしたって得しかしない。だから……いっしょにいたいって思うんだ」

 ……………………

 しらばく、答えはなかった。

 部屋が静かになると、入れ替わりに外の雨音が聞こえてくる。弱いとも強いとも言えない勢いで、静寂を浮き出させるように部屋を隠微な音で満たしていく。

 その中で僕は、ただ彼女の言葉を待った。あるいは、突き飛ばされて拒絶されるかもしれないとも思いながら。

 待ったのは、自分で感じたほど長くなかっただろう。ただ、返ってきたのは全く予想外の反応だった。

「…………ぅ…………っ」

 いや、短いうめき声で気付いただけで、もっと前から帆影は、泣いていたのかもしれない。

 抱き締める力を緩めて彼女の顔を見た僕は、咄嗟に言葉を失った。初めて見る、帆影の泣き顔だった。

 そう顕著な表情があったわけではない。そこはいつもと変わらなかった。ただ、両目から一筋の涙を流して、時折、短くしゃくり上げていた。

「帆影……」

 距離が近すぎて、ささやき声になってしまった。帆影には聞こえたはずだ。涙をぬぐおうともせず、ぼんやりと、でもなにか訴えるように僕の顔を見つめてくる。

 帆影がなぜ泣いているのか、解ったふりはできない。そんな簡単に解ることではないのだろうと思う。帆影自身にだって。

 しかし、人間がどういう時に、どうしてもらいたい時に泣くのかは、さっき確認したばかりだ。

 僕は改めて帆影の背中と腰に手を回して、ゆっくりと抱き寄せた。帆影は抵抗せず、やや小柄な体はすっぽりと僕の腕の中に収まった。お互いの体の弱い部分が押しつぶされ、帆影の意味をなさない声が首筋にかかる。

 声というのは案外に水気を含んでいて、濡れているものなのだなと思った。

 気恥ずかしい、というレベルではなかった。なかったが、不思議と無視できた。

 最初は努めて優しく、それから徐々に力を入れて帆影の体を締め付けていく。夏風邪を宿した帆影の体は、野蛮なくらいに熱を帯びていた。

「…………ちょっと、苦しい…………」

 絞り出すような声で言われても、力を弱めはしない。

「…………痛いことはしないって、言ったのに…………」

 これも保健室で言ったことだ。いつもよりほんのちょっとだけ感情的に、うらめしげに言ってくる帆影に、僕は正直になって答えた。

「ごめん……それ、ちょっとウソかも」

「ウソ……?」

「うん。ほんのたまにだけど……引っぱたいてでも思い知らせたいと思うんだ。僕がどれだけ帆影を好きなのか」

 もちろん、そんなこと本当にしたりしない。ただ、それくらいもどかしくなることもあるって話だ。

 帆影がどう感じたのかは判らない。恐がらせたかもしれないと後悔したけど、でも、それまで弱々しく添えられていた彼女の両手が僕の背中に回されて、ぎゅっとシャツを掴んできた。

「汗臭くない、ですか……?」

「いや――」

 と、反射的に鼻を鳴らしそうになってさすがに耐えたけど、この距離だ。帆影には気付かれてしまったらしい。

「っ……ゃ……」

 体の芯を弾かれたように身じろぎする。首の横で熱い息が弾けた。

「ごめん……」

 僕は不躾ぶしつけを謝りながら、でも帆影を抱く力を強めて身動きを奪った。狼狽から膝を崩した彼女の脚の間に体を割り込ませ、さらに体を密着させていく。

 押し付けた自分の体が、より柔らかい帆影の体を歪ませる。普通なら相手の体があるはずの場所を押しのけて入り込んでいく感覚に、背筋が震えた。

 目の前には、真っ赤に染まった彼女の耳たぶがある。

 見ているとなにか悪戯したくなったけど、病人なのを思い出して、必死にこらえた。


 ――どれくらい、そうしていただろうか。

「もう……平気です」

 少し鼻にかかっていたがいつも通り平静な帆影の声に、僕は名残惜しさを振り払って体を離した。

 改めて帆影の顔を見ようとするが、帆影はさっと顔を背けてしまった。そのまま枕元のティッシュを数枚つまみ取り、音を立てないようにしながら鼻をかんだようだった。

 たっぷりと息を抜いた帆影が顔を上げると、そこにはいつも通りとした、帆影歩の顔があった。澄ましているわけではない。澄んでいる、表情かおだ。

 涙の跡だけが、赤らんだ頬にくっきりと残っていた。自分では見えないから消すこともできなかったのだろう。

 帆影は僕の顔を見て、口を開きかけて、少しうつむいてからぽつりと言った。

「……新巻くんはやっぱり、痛くするのが好きなんですか……?」

「え……ごめん、そんなに痛かった!?」

「いえ……あれくらいなら、別に……だいじょうぶですけど……」

 あわてる僕に、帆影は珍しく歯切れが悪い。半ば無意識のように乱れた寝間着のえりを直す仕草が妙に艶めかしく見えて、直視を惑う。

 さっきまで触れ合わせていたせいか、僕と帆影、肌と肌の間の空気が熱い。呼吸しているだけで肺が灼かれて汗が噴き出しそうだ。

 ……気持ちを伝えたくて、勢いであんなことをしてしまったけど、お互いに落ち着いてしまうと、ただただ気恥ずかしい空気だけが残る。それなのに、立ち去ろうとすると躊躇してしまう。

 ようやく踏ん切りが付いたのは、階下に映を残してきたことを思い出したからだった。思ったより時間を使ってしまっている。今頃は、床を踏み抜かん勢いで貧乏揺すりしている頃だろう。

「それじゃ……今日はもう帰るよ」

 ゆっくりと重い腰を上げ、いとまを告げる。それまでうつむいていた帆影が、はッと顔を上げた。

「ぁ…………」

 それがなにか言いたそうな顔に見えて、僕は中腰のまま動きを止めた。

「ん……?」

「ぁ……あの、今度、また、聞かせてください。新巻くんのこと。今日はわたしが聞いてもらったので」

 そう言われて、胸が熱くなるのと同時に思い出す。ここの家に来るなりいろいろあって、すっかり忘れていたバッグの中身だ。

「あ……そういえば」

 と、取り出したのはA4サイズの紙束かみたばで、漫研のプリンターを借りて印刷した小説だった。

 僕が差し出したそれを受け取りながら、帆影はぼんやりとまばたきした。

「これは……?」

「僕が書いたんだ……約束したろ、読んでくれるって」

 言いながら、照れ臭さに目をそらさずにはいられなかった。だから帆影がどんな顔をしたのかは見られなかった。

「寝てるのが退屈だったら、読んで感想を聞かせてくれよ。

 でも……それを読んでも僕のことが解るってわけじゃないんだよな。作者と作品は切り離されてるんだから」

 帆影に言われて戸惑っていたことが口を突いて出る。

 帆影は少し宙を見て、それから静かに口を開いた。

「……『作者の死』という考え方があります。

 作品は世にある様々な文化の引用を織り合わせたもので、その情報の連なりが存在する意味は作者の意図を超え、受け手だけが決められるといったようなものです」

 いつも通りの落ち着いた声に、安心を覚える。口がほころんだ。

「うん……まぁ、僕のにはそんな大層な意味は籠もってないと思うけど」

「それも、わたしが決めることです」

 帆影は丁寧にならした紙束を膝に置いて、きっぱりと言い切った。それから、「それに」と、真っ直ぐに僕を見上げて続けた。

「作品を見る時には作者との関係は考えるべきでなくても、作品との関わりは大切なのです。そこは似ているようで、いっしょにしてはいけません。

 だから」

 タイトルだけが載った一ページ目、少しかすれた印字を指でなぞり、僕のカノジョはふわりと髪を揺らして、頬を緩めた。

「約束、守らせてください」


        ◇


 その後、帆影の部屋を出て階段を下りてみると、映の姿はどこにもなかった。

 トイレだろうかと思い、手持ち無沙汰にスマホを起動させると映からメールが来ていたことに気付く。


『先輩の部屋にしけ込んで十数分、あんまりにも遅いので先にラーメン屋に行ってる。一番高いメニューにフルオプションで食べてるので、どうぞごゆっくり財布を持ってきてください』


 僕は顔を蒼くして、急いで母屋のお祖父さんお祖母さんにあいさつを済ませ、妹の後を追った。

 たぶん、映が思っているほど僕はお金持ちじゃないからだ。

 かくして僕は、彼女の温もりを胸に残しながら妹の待つラーメン屋へと雨を踏み散らすこととなった。

 そんなところで。

 本日のライトノベルは、そっとページを閉じるのである。



The Hokage's L/RightNovel

Episode #6

Grasp

Fin.

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