第三十話 長宗我部貞親

中村御所に咲き乱れる藤の花は、いよいよもって天界の如き美しさだった。藤は今、間違いなく最盛を迎えており、館で暮らす誰もが、ふとした拍子に庭先に咲き誇る藤棚に見惚れてしまう。時折吹く風はもうすっかり初夏のそれであり、春の名残は全くない。そんな中、初夏の象徴のような新緑の葉と、春の名残を感じさせる薄紫の藤は、まるで奇跡の存在だった。

 


 藤の御所として名高いこの館が最も輝くのは、まさに今この瞬間だろう。

その日の中村御所は凄まじい賑わいだった。本日、土佐一条が威信をかけた藤見の宴が催される。藤遊亭に植えられた何百という藤棚を囲み、各国の領主達が一堂に会する一大行事が行われるのだ。


 町ではいつもにも増して多くの市が開かれており、各地から身分の上下を問わず人が集まってきていた。例え買うことは出来なくても、普段は目にすることのでない豪奢な細工物から、食べ物とは到底思えないような山海の珍味の品を、人々はせめて目で楽しみたいのである。もちろん今日は商人達にとっても儲ける絶好の機会で、この四国だけではなく遠く堺から遙々やってきたものも大勢いた。

 

 普段雅な雰囲気の漂う、ゆったりとした御所でも、今日ばかりは上を下への大騒ぎだった。七雄が伴う家臣達の接待の準備で、いつもは気取った御所の男も女も常に駆け足で動かなければ、とにかく時間が足りなかった。


 今回一条家を初め、各領主の今回一番の関心事は長宗我部の貞親についてだった。

齢二十。元服を終えてまだ数年の若武者は、土佐七雄の一翼を担う家の当主名代としてはあまりにも若すぎる。しかし、長宗我部から知らせが来ない内から、今年の宴には彼が当主として出席するだろうということは、誰もが予想するところだった。

 土佐の雄達はだれもが既に知っているのである。長宗我部、竜の若子の噂を。実際、彼の地に潜ませていた忍たちは、誰もが岡豊城に浮かぶ竜を目撃している。全ての忍の報告が妄言であるはずがない。しかもあの夜以降の長宗我部は、以前とは比べものにならないくらい強くなっているというから、これはいよいよただ事ではなかった。

 

 土佐の七つの家、それを土佐七雄と言うが、その中でも序列のようなものはある。単純なのがその貫高で、まず別格の盟主一条の一万六千貫を筆頭に、本山、吉良、安芸、津野は五千貫、香宗我部、大平は四千貫、そして末席に当たる長宗我部はたかだか三千貫であり、それぞれの心内の序列もそのようになっている。


 その長宗我部に竜が現れ、新たに当主が代わり、兵たちが以前とは比べものにならないほど強化されたというのだから、やはりただ事ではない。この度の宴で少しでもその実態を掴みたいというのが、六雄の思惑だった。


 「これはどうしたことか。我ら七雄の内、すでに六雄は揃っているというのに、肝心の長宗我部殿が見えていない」


 いよいよ宴が始まろうとしている最中、呟いたのは土佐七雄、津野家の当主定勝である。昨年父基高の死去をきっかけに家督を継いだばかりの彼は、こういう席での空気の読み方が未だ下手だった。それまではうわべだけでも挨拶を交わし合い、和やかに過ごしていた一同の雰囲気が、一瞬にして固くなる。


 土佐の雄達は口に出さずとも、暗黙の内に知っているのである。長宗我部が現れるのは恐らく最後、人々が集まった最後に、遅れる寸前にやってくる。そして集まった人々の耳目を一身に受ける算段なのだろう。 


「長宗我部殿、ご到着」


一同が静まりかえっていた絶妙の瞬間に、家人の声が響き渡った。颯爽と登場した若武者に、土佐の雄達の視線は集まった。誰も声には出さなかったが、心の内では感嘆に違いない。


 現れた若武者は、あまりに神々しかった。長く均整の取れた手足と堂々とした佇まい。烏帽子から見える豊かな黒髪は、まるで匠の技のように美しく、纏っている若々しい青い直垂にこの上なく映えている。弾けるように瑞々しい肌は輝きを放たんばかりの白さである。しかし決して軟弱な印象を与えないのは、名匠が仕上げた刀のように透き通る、気持ちの良い眼差しのせいだろう。例えどんな分別のない者だろうと、彼を一瞥するだけで、ただ者ではないという波動に言葉を失った。


 これは、武将達の理想であった。誰もが、目指し憧れた、若き日の武者姿そのものが、今は老いた英雄達の目の前にあった。


「長宗我部、貞親でございます」


 冴え冴えと響き渡る声に、武将達はさらに感動した。まるで絵巻物に出てくる、源平の武者のようである。どんな美女だろうと、ここまで男達の心を捕らえられはしないだろう。


「さ、ささ貞親殿、私の席にどうぞ」


 家格や貫高からいって、当然現在の長宗我部は末席である。それでも隣席である津野定勝は、随分と嬉しそうな様子で席へ誘った。


「お館様、康政様、おなりです」


 家人がまた声を響き渡らせると、今度は奥から正装の兼定と康成が出てきた。

一同は兼定に平伏しながらも、意識は康政に向いていた。こちらも比類無き貴公子。土佐の光源氏といわれる彼の麗しさは誰もが認めるところであるし、しかも今日は何故か不思議な色香まで漂っている。


 しかし、一同は彼に頭を垂れながらも思った。確かに康政は優美ではある。しかしそれはどうしても公家の系譜の雅さである。自分たちが若き日、こうありたいと目指していたのは間違いなく、今末席に座っている若者の姿だった。


「さ、面をおあげよ。どうか今日は私に気兼ねなく、この見事な一条の藤を楽しんで頂きたい」


兼定の言葉に一同は平伏すると、宴は始まった。



宴は終始和やかに行われた。各々酒が進み、招かれた楽人達が歌や踊りを踊る。時折風が吹くと、垂れた藤がふわりとゆれ、一同は動きを止めてため息をつかずにはいられなかった。これほどの美しさが、土佐にはあるのだ。その持ち主は自分ではないが、同じ領内にこのような場所があることが武将達には誇らしかった。



 最初こそ貞親を警戒していた六雄達は、彼の輝かんばかりの才気と若さにすっかり骨抜きになっていた。中には、自分の娘を嫁に、あるいは婿に取りたいという思惑を含ませて、それとなく話をする者もいたほどである。


 しかしそれもこれも、全て貞親を正当に評価すればこそである。各家の当主達は貞親に心酔する一方、頭の冷静な部分では、これはとんでもない麒麟児を長宗我部は得てしまったという危機感もしっかりと持っていた。この若武者が当主の名代として活躍し始めたというのなら、ここ最近の長宗我部の強さもうなずける。将来への布石として、今長宗我部と是非縁を結んでおきたいと誰もが内心思っていた。


「ところで貞親殿は、どんな女子がお好きなのか?」




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