第二十五話 御方(おんかた)
中村御所の夜はすっかり更けていた。
人気のない、夜の館の奥深く、一つの部屋に、比類のない美男美女が向かい合っている。
ゆらゆらと揺れる灯りの向こうにいるのは、玉藻に化けた白と、源康政である。
絶世の美女と美男子が、静やかな夜中に二人きりで向かい合っているのだ。館内の噂好きの女房達が見たなら、どれほど密やかにも騒ぎ立てることだろう。或いは、輝くほどの美男子でありながら清廉潔白、館の女の誰にも手を付けない彼だが、やはりあれほどの美女の誘惑には勝てぬのだと、軽蔑するかも知れない。
しかし実のところ、この二人どちらもそんな色気は無かった。
「どうしたのだ。私がそなたを呼びつけたのはそんなに意外か?」
「いえ」
白は面を伏せたまま答えた。
「そうだ。昼間、私を眼で誘ったのはそなたの方だろう。だから私はそなたを呼んだ。しかし決してそなたの身体に興味を示したのではない。そなたの、なにやら秘密を抱えた眼を見抜いて私は来たのだ」
薄ら笑みを浮かべたまま、白は面を上げる。
康政は思わずはっとする。やはり美しい。なんという美しさだろうか。
いくら清らかで、色気など持つはずのない彼でも、そう思わせるだけの麗しさと蠱惑的な色気がこの女にはあった。
「とても良い見識をお持ちでございますのね。きっと、博識でもあられるのでしょう」
どこか得体の知れない笑みを見ながら、康政はあえて否定はしなかった。確かに自分は、この中村、いや土佐で一番の知識人であることは間違いないという自負がある。自分であれば、都の官人たちにも劣りはしないと思っていた。
しかし、この女は言っていながら、本当は自分の教養のことなど大して問題にしていないような気がする。
この、女は一体何を考えているのか。
と、思った瞬間、女はとんでもない事を口にした。
「・・・どうして貴方は、そのように、人の格好をしているのです?」
康政の美貌に青が差す。彼は肝を冷やしていた。
何故分かった。その真実は、今の今まで、誰にも見抜かれたことはないのに。康政が言葉を失っているのを小気味よく嘲笑して、白は続けた。
「かつて、崇徳帝の御代、院であられた鳥羽上皇は、一人の美しい女を寵愛していました。二人は心から愛し合っていましたが、ある小賢しい陰陽師によって女は正体を暴露されてしまいます。上皇は本性(ほんせい)をあらわしたその女に愛を失い、今度は女を、国を挙げて殺そうとしました。さて、その女の名と、正体を、貴方はご存知でしょうか」
白の瞳が、黒ではない輝く紅に変わる。
気付いた『その』事実に、源康政は驚愕した。実は予感していたことではあったのだ。しかし、まさかのまさかである。
「女の名は、玉藻前。その方の正体は・・・白面金毛九尾の御方(おんかた)!」
その御名を口にすると、即座に康政はその場で深く平伏した。白はにやりと笑って優雅に上座へと移り、康政は面を伏せたままいそいそと下座へと下がる。
「今までの非礼をお許し下さい」
白は当然のように脇息にもたれ、「よい」と許しの言葉を言った。彼女はやはり同じ人の姿をしてたが、後ろには白い狐の尾を靡かせており、もはや自分が人外の者であることを隠してはいなかった。態度も昼の慎ましい気色とはうってかわり、尊大なものになっている。
しかしそれは、彼女にとっては同族の者の前でする至極当然の振る舞いなのだ。
「有り難うございます。御方の寛大な御心に痛み入りまする。とにかく申し開きを致しますと、まさか、かの白面金毛九尾の御方が、土佐に、我らが館に御来館なされるとは夢にも思わぬことでしたので。わたくし、今まさに恐懼の極みでございます」
「岡豊城で竜に変化した時、私は咆哮で四国中の妖怪神仙に私の在処を叫んだはずだが?」
「承知しております。あれは至高の変化でございました。この中村にも、あの雄勁な雄叫びは届いております。
ですが、恐れながら、どうしてそれを俄に信じることが出来ましょう。貴方様は、もはや伝説なのです。遙か昔は大陸で勇名を轟かせ、この国でもいくつもの逸話を作り出した貴方様は、今日細々と生きる我らにとってはもはや伝説であり、その復活をすぐに信じることなどできなかったのです」
「して、お前は何者だ。我が眷属にしては、なにやら妖気が薄い」
「ははっ、これは恐れ入りました。どうかこの哀れな我が身をお笑い下さい。信じていただけるでしょうか。私は、人の父と狐の母の間に生まれた者なのです」
その言葉に今度は白の顔色が変わった。
「まさか!そんな事が。お前の父は、人だというのか!」
脇息から飛び起きる。
あり得るずがない。それがどういう事か、この若い同胞は知っているのか。
白はかつて無いほど恐怖した。
「確かに・・・前例がないわけでもない。かつて都に現れた大陰陽師、安部晴明。かの者の母は、優れた白狐だったという話があった。
・・・しかし私はその話、信じてはいなかった。信じられるはずがないだろう。獣と人が種を越えて、新たに命が誕生するなどとありえないことだ。今の世の、この地上の理に反している」
天に星が定める法があるように、この地上にも絶対の理、万物の掟、自然の法というものが確かに存在する。それは決して誰も逸脱する事が許されず、妖狐の中の妖狐、仙狐神仙からですら恐れられる自分とて、その理を破ればただではすまない。いや、そもそも絶対不変のこの理を、破ること自体不可能のはずなのだ。
天地開闢以来、それは、いかなる神であっても同じであるはずなのに。
「恐れながら、では何故私はここにいるのでしょうか。私は他の妖狐との接触がございませんので御方の仰有る、地上の理の事は存じ上げません。しかし私の父は人で、母は確かに妖狐でありました。私はその事を幼い時に母から直接聞かされ、母の正体をこの目で見たのです。それはなんとも美しい、銀色の毛皮の狐でございました。元々四国に狐が少ないと言うことを差し引いても、私は今まであれほど美しい狐を見たことはありません。
この上なく高貴なあなた様には笑われることかも知れませんが、私はあの時から、獣と人から生まれた我が身を恥じるどころか、むしろ誇らしく思うようになったのです。
ただ悩んだのは母が病に倒れ、亡くなった後でした。恐らくこの国には、私のように狐を母に持つ者はおりますまい。私を導いてくれるはずだった母が倒れた今、一体自分がどう生きるべきなのか、それを教えてくれるべき先達が私にはいなかったのです。館を出て同胞を捜すか、随分悩みました。
しかし結局私は自らの居場所をこの一条に築き、今日幼い当主に代わって実務を執り仕切っている次第にございます」
驚く一方で、さぞ孤独であっただろうと白は彼を哀れに思った。たった一人で、真に信じられる者のいないこの広大な屋敷で、彼が今の地位を築くのは並大抵の苦労ではなかったはずだ。
さらにこの者は万物の中で、あまりに例外でありすぎる。
「しかし・・・それでは先代や兼定殿も?」
「いえ、先代は正真正銘私の兄ですが、母が違います。一条で狐の血が流れているのはこの私だけ。私は母から僅かながら妖術を習い、今日までこの一条のために尽くして参ったのです。今は一条と共に生き、一条と共に死んでいく覚悟。
今宵、御前に参上いたしましたのは、ただただ、今まで会ったことのない同胞に、その昔母より聞かされた白面の御方に、是非ともお会いしたいと思ったからなのです。ああっ、そしてその願いは今、こうして叶えられました。貴方様にはこの感激がお分かりになるでしょうか?長年孤独であった私が、ようやく会うことが出来た、初めての同胞が、恐れ多くも白面金毛の御方、貴方様だったのです。
母は貴方こそ、一族の真の泰斗だといつも申しておりました」
面を伏せていても、震える肩を見れば彼が涙を流していることはよく分かった。次第に白は、康政が哀れで仕方なく思えてきた。この涙では流しきれないものが、この若者には数多く積もっているのだろう。恐らく、彼の年齢にそぐわぬほどに。
しかし一方で、白には一族の泰山北斗として考えなければならないことがあった。
話を聞いて白はすぐに見当を立てていた。
もしや恐ろしいことに、この地上の理が、姿を変えて行っているのではないか、というものである。
地上の理。天則。すなわちそれは、天地安定のための法である。
例えば神と人との間に生命が誕生することは許される。望めば実現することは可能であり、そのような例はいくつも存在する。しかし今の世に、獣と人の間に生命が誕生することは許されない。例え願っても実現するものでは決してなかった。なぜなら、地上の理に反しているからだ。仮に何らかの例外が起きたとしても、生まれた生命は天則によって直ぐさま、消滅されられるのが決まりなのだ。
これは、『誰が』許すというわけでも、罰を下すというわけでもない。まさに天。およそ人智の及ばぬ不思議で、強大なもの。そのような法がこの世にはあり、大きく緩やかに、 そして絶対に支配していたはずなのだ。しかし。
その、かつて絶対であったものが、絶対では無くなっていっているのか。もしそうだとすれば。
まさにそれは、この世の一大事。
この世の終わりが来ても不思議なことではなかった。
一体今、何が始まろうというだろう。いや、もう始まっているのか。しかしならば、一体、何者の手によって。白は言いしれぬ、数々の恐怖を抱かずにはいられなかった。
(もしや、昼間の星読みの話とも、何か関係があるのではなかろうか)
これは、単なる白の勘である。しかしただの勘ではない。齢数千の大妖狐、その彼女の勘だった。
「お前が昼間話した星読みの話。実のところどのように考えている?」
康政は涙を収めると、本来の凛々しい態度に戻った。
「はい。星は先の世を占うのに何より正直であると、私の母は申しておりました。ですから私も、今回の話、三人の若子の出現は間違いのない事実だと考えております」
白も肯いて同意する。
「そうだろう。占術を知る者なら、星の囁きが真実であることをよく知っているばす。ではやはり、一条はこの話に乗るか」
康政はそれまで畳に付けていた額を上げ、真っ直ぐと白を見上げた。
その気高い瞳に、かすかに同族の香りを嗅ぐ。
「その答えを申します前に、どうかこの土佐一条家の内情を聞いていただけないでしょうか。この局面にあってはぜひ、太古の昔より数多の国の興亡を見てきた白面の御方の叡智を、私に授けていただきたく存じます。どうか、どうか私を、同胞と思って下さるのならば」
「白面の御方も既にご存知の通り、この土佐一条家は都の一条家からの分家です。応仁の乱で土佐に逃げ延びてきた、一条教房様。この方が幡多で加久見氏の姫を正妻に迎え、お生まれになったのが土佐一条初代の房家様です。房家様は本家の後継者になる資格を十分にお持ちであったにもかかわらず、何故か京で一条家を継ぐを選ばず、結局は土佐に留まる事を選びました。つまり分家です。
そして誕生したのが、我が土佐一条家なのです。
さて、ここで当家は本家と分家したわけなのですが、その後、我が土佐一条はこの地で繁栄してきました。今考えても、大乱から落ち延びた先でこれほど隆盛した公家はありますまい。
しかしそれでも、我々は都の本家を意識していないわけではないのです。常に当家から本家の後継者、引いては関白を出したいという思いがあり、実際過去に出して関白を務めたこともございます。
そして今回、その千載一遇の機会が再び訪れて参りました。この春、そう、つい先日のことです。都で、本家当主、当時関白職にあられた一条兼冬様が薨去なさりました。裏の裏の表を読み、歴代の一条家当主の中で最も優れた才能の持ち主といわれた彼の死は、本家と分家にある諍いの種を遺しました。
その種とは、まさに後継者争いです。そうです、彼には子がなかったのです。
そこで現在水面下では、一条宗家次期当主の後継者争いが展開されようとしています。そして今のところ候補に上がっているのが、兼冬様の十九離れた弟君であられる本家の内基様と、当家の、すなわち私の甥にあたる兼定殿のお二人です。お二人とも血筋としては申し分なく、しかも、内基様は現六歳、兼定殿は十一歳という幼さです。
お分かりでしょう?
ここに、本人を差し置いての、両家一族のどろどろとした思惑が生まれるというのは。御方ならば容易く想像が出来ますでしょう。
そうなのです。今、一条は後継者を巡って大きく揺れています。私は立場の上から、兼定様をなんとしても、宗家の当主、ひいては関白にと望んでおりますが、何しろ兼定様と来たら、齢の事を差し引いても、問題があり・・・いえ、幼すぎる方です。ああ、正直に申し上げましょう。あの方は決して英明な主ではございません。ですから、正攻法では後継者になるのは難しいと思われました。
しかしここに来て、私どもの方に、ある一通の密書が届きました。昼間にお話ししたあの書簡です。差出人は近衛前嗣。兼冬様の跡を継いで、現在関白職にある近衛の貴公子からです。これは何かあると考えるのが賢明でございましょう。
そして書簡を開いて私はすぐに気付きました。この書簡には、呪いがかけられていると。
それはこの書簡の内容を口外した者に、死をもたらすというものでした。幸い私は母から呪術妖術を学んでおりましたので、何とか呪いが働く前に見破って滅することが出来ました。ですから、こうして白面の御方や綾姫達にも話すことが出来るのです。
しかし、私はこれで悟ったわけです。相手がどれほど本気なのかを。
私は今、迷っています。このまま内基様と後継者争いをしたとしても、万が一にも兼定殿は勝利することは出来ないでしょう。
ならばいっそ、近衛の謀に乗り、新たな世での栄華を求めるというのも悪い話ではない。実際、彼の謀は完璧です。私はまず初め、どうやって大名達の大連合をまとめるのか。
その内、裏切り者が出るのは確実。このような連合、いくら誓紙を交わしたとてすぐに崩れてしまうと思っていたのです。けれど相手が呪術に長けているということを考えて理解しました。
はい、ご推察の通りです。つまり近衛前嗣殿は、この連合の誓紙の連判状に、恐ろしいほど強力な『起請文』を使うのでしょう。
起請文、すなわち自らの言葉と行動に偽りがないことを、梵天帝釈、四大天王、総日本国中六十余州大小神祇など数多の神仏に誓うもの。これに違った時は、その神仏達によって天罰が下ります。前嗣殿が本気とあらば、都の優れた術師たちによって起請文に壮絶な術をかけさせることでしょう。
例えば裏切った者はもちろん一族全てが死ぬような。私は全てに納得がいきました」
「では、何を迷うことがある?」
康政が答えるより先に、白が答えを言った。
「帝への忠誠か?」
「それもあります。この鬼国で暮らす私らとて、高御座におわす帝に対しての畏敬の念は持っております。しかし、このような時世です。いざとなればという気持ちもございます。ですが、私がもっとも問題としておりますのは、朝廷という存在亡き後のこの国の有り様です。私はそれが心配なのであります」
「帝か。かの家は、この国ではかほどに大きな存在か」
「その通りです。朝廷が無くなった後、帝はどうなるのでしょう。かつての摂関家のように、実権を全て取り上げ、再び傀儡とするつもりでしょうか。破壊の星を持つ若者は、果たしてこの国の人心を集めることが出来るのか。天下を治めると言っても一体どのような形か、星読みではそれがはっきりとは致しておりません。あるいは、星読み事態が外れるということも」
白は目を閉じて思案した。この若き同胞の、真の面(おもて)が見えたような気がした。不安なのだ。帝、朝廷を滅ぼした後のこの国は大丈夫なのか、星読みとは必ず当たるものなのか。無理ない事である。どれほど麗しく、聡く超然としている風に見えたとて、中身は重すぎる責任に押しつぶされそうな、地方の若者なのだ。
そして確かに、白は適任だった。遙かな太古から数多の国の興亡を見、自らも星読みを行うことの出来る彼女なら、的を射た意見が言えるだろう。
「御方、私に道を指し示し下さい!」
しかし白、この思案は思いの外長い時間を要した。
経験から言えば、答えは簡単である。朝廷を滅ぼせば、しばらくは残党勢力や人心の事で混乱するだろうが、そんなものはやり方さえ誤らなければ、星を背負っているのだから十年程度で落ち着く。近衛の当主はどうやら聡いらしいから、その辺りは心配ないだろう。そして何より、星の語りは絶対である。それを考えれば、康政に誤りはないはずだった。
(・・・星読み自体は、その『読み』を間違いさえしなければ、外れることはない。)
しかし。
「御方」
「それは分からない」
思ってもいなかった白の言葉に、康政は目を見開く。
「そう、分からないのだ。この私にも」
「白面金毛九尾の御方にもでございますか?」
「その通りだ。先の事など例え、神仏たりとも明確に分かるはずがあるものか。元々星読みも、神仙たちの気休めに過ぎないのだ」
これに康政が納得できるはずがなかった。
「しかし!御方はつい先ほど星の囁きは真実であると申されたばかりではありませんか。・・・御方。御方ならお気付きのはずです。そうです。私はあなたに、背中を押して欲しいのでございます!」
言わせてしまったと、白は相手の体面を傷つけてしまった事に自らを恥じた。だがこればかりは仕方がなかった。この若者だからこそ、滅多なことは言えないのだ。
「時に康政。そなた、我が一族の元に来る気はないか?心内を見せられぬ人の中で暮らすよりも、我らと共に生きるという道もそなたにはあろう。そうすれば、人の世の権謀術数になど関わらずともよい。そなたの血が薄いということも、この私の後見あらば全く気にする事はないのだぞ?」
白の提案に、康政は今までよりもさらに凛とした態度と眼差しですぐに答えた。
「恐れながら、御方のご厚意、誠に有り難いことに存じます。なれど、私はこの土佐一条の源康政でございます。この家とともにもう三十年近く生きて参ったのです。いくら孤独であろうと、苦労をしようとそれが我が人生。今更、決して他の道を探そうとは思いませぬ」
(見事である)
人のしがらみなど、投げ出してしまった方が楽であるに違いないのに。しかしその眼に、一族の気高さを白は確かに感じていた。
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