第十一話 野の虎

 天文二十三年 春

 

 空には南国と呼ばれる地に相応しい、心まで持って行かれそうな蒼天が広がっていた。遠くからは鳶の鳴き声が聞こえ、山から下りてくる風も春のそれであって心地よかった。野には春の草花が茂り、蝶や蜜蜂などが飛び交い、そのいずれもが、我が身がこの世で最上に美しい季節を満喫している。



 南国であってもまだ陽射しは十分に優しく、誰にとっても慈母のような時節であった。

 しかしどれほど空が蒼かろうと、地上が優しく賑やかだろうと、岡豊(おこう)城の城主、長宗我部国親の心は平穏ではなかった。

 もちろんこの四国、土佐の戦乱が彼の悩むべき事柄の一つであるのには違いないのだが、それとは別にもう一つ、頭を抱えなくてはならないことがあったのだ。

 国親の名とは別に、『野の虎』という名を持つ男の半生はまさに激動であった。

 元々順調に発展してきた家ではなかったが、国親が幼い頃、長宗我部の家は父の代で一旦滅亡した。その時国親が追われた城が今居るこの岡豊城である。

 城を落ち延びてその後、何もかも失った国親は、土佐の盟主であった公家の一条家に保護され育つ。そこが居心地の良い場所のはずはなかった。当主の一条房家は公家らしい穏やかさで可愛がってくれたのだが、家臣達は皆冷ややかな目で国親を見た。またこれは誰かからの悪意があったわけではないが、元々武張った性格の国親には、公家一条家の家風は優雅すぎ雅やかすぎ、甘すぎたのである。そしてその本質的な血の違いが、孤独を生んだ。

 国親は耐えた。後に一条家に長宗我部再興の手助けを約束させたものの、それで全てがうまく行くはずがなかった。孤立無援の国親は『婚姻』によって岡豊城を取り戻そうとするのだが、これはすなわち、かつて自分を岡豊城から追いやった本山茂宗の妹を自分の妻に、そして自分の娘を茂宗の嫡男と婚姻させるということであり、矜持の高い国親にとってそれは屈辱の選択だった。政治的な婚姻が日常の世であるものの、国親くらいに矜持が高く気性が激しければ、算段であっても感情を押さえることは難しかったのである。

 

 それでもその婚姻によって国親は岡豊城に返り咲くことが叶い、長宗我部は再興を果たす。

国親は本山氏の一門衆となった。

 しかしこれで大人しくしていてたまるものではない。国親は表では忠臣を装い、裏では周辺の豪族達を調略し、水面下で長宗我部の勢力の拡大を謀る。時には攻め、時には養子を送り込んで相手の家を乗っ取る。まさに策士として辣腕ぶり、武士としての剛毅ぶりを発揮していた。そしていずれ、仇敵本山の所領にも侵攻するつもりである。

かつて城を追われ全てを失った少年は、強かな武者となって全てを奪還し、復讐を遂げようとしていた。

 臥薪嘗胆、その人生が国親だった。

 その国親の悩みというのは他でもない自分の跡継ぎのことである。

今年の二月、仇敵であった本山茂宗、出家して本山梅慶と名乗っていた彼が、突然死んだ。原因は病とも毒殺とも言われているが定かではない。

 家督は嫡男でもあり自分の娘婿でもある茂辰に譲られることになり、その彼は今年三十になる青二才。一時的に弱体化するこの時こそ、本山を攻める好機であることは疑いようがなく、その用意は着々と進めてある。しかしここで国親は、自分の死後のことを強く考えるようになっていた。

 宿敵である茂宗は享年四十七歳だった。そして自分は五十一歳である。未だはっきりとした衰えを感じてはいないものの、先に逝った宿敵の事を思えば、いつ死んでもおかしくない歳なのだ。 

 これは家督のこと、そして一族の今後の事をはっきりしておかなくてはと思っていた。あるいは、自分がこの世を去るまでに全てを終わらせておかなければ。


「まだお悩みですか」


 部屋の窓から、春の空を見上げていた国親に話しかけたのは、家老であり義弟でもある吉田孝頼だった。孝頼が妹の夫となり、長宗我部の家老になったのは随分前だが、当時からこの男は自分の心中をまるで実弟のように近しく察することが出来た。控えめのようでいて、実務に優れており、まさに家老の鑑のような男である。

国親は視線だけで孝頼に同意を示した。


「能力と序列だけで言えば間違いなく、長子であられる貞親様。しかしなんと言ってもあの方の母君は本山の姫ですからな」


国親を悩ませているのはまさにそれだった。長子である貞親は、自分と本山茂宗の妹「はる」に産ませた子なのである。眉目秀麗で文武に秀でた若武者だが、家臣の中には仇敵である本山の血を引く貞親を露骨に敵視する者さえいる。その上はるは早くに亡くなっており、今の長宗我部に彼の後ろ盾となる勢力が存在しないのも大きな問題だった。跡目を継いだあと、長宗我部の一門で争いがあるようなことは決してあってはならない。


 そしてなにより、自分の怨念というものもある。かの血を引く者に、長宗我部を任せて良いのだろうか。もう一人の候補は、武勇の誉れ高い斎藤氏から嫁いだ姫「とよ」に産ませた元親である。血筋で言えば何の問題もない。貞親と対照的な繊細な容姿と心根の優しさは、家臣や城下の者たちにもまずまずの人気があるし、元親の母とよがまだ存命であり、家中に置いても家臣達と良好な関係を築いているという点も強みであり、安心感があった。


 しかし元親は学問等には優れているが、武術に秀でているとは言い難かった。筋自体は決して悪くはないのだが、荒事を極力嫌い、部屋に籠もり香などを焚いて書を読む始末である。およそ武門の男(お)の子(こ)とは思えない有様なのである。


 「儂はその事が気がかりだ。跡目を元親にと決めようとしたことがある。一族を平穏におさめるのならば、あいつが一番だと言うことは分かっている。しかし、そこに茂宗が死んで踏みとどまった。儂が死んだ後も乱世は続くのだ。元親が、この動乱の中一族を率いていけるのかと不安になってしまった。


 もう少し、あやつが武芸に優れていれば!いやそこまで贅沢は言わん。心根の問題だ。せめて戦と聞けば、血が沸くような烈しさ猛々しさを持つ男であれば、儂は安心して家督を譲れるのだが」


 国親は拳を握りしめた。

 「あの、殿・・」

「確かに頭はよい。何せ秘蔵の軍書の類は全て読破しているのだから。儂にはよく分からんが、一条殿に評価されるくらいなのだから、歌と琵琶も相当なのだろう。しかし、いかんせん馬や剣や相撲が苦手では何とする。え、どうなのだ」

「と、殿・・・」

孝頼は、「ああ、この御方は指摘されるのを嫌がっているのだ」と直感した。しかし、家老であり義弟である自分がここで黙るわけにはいかないと思った。

「全く、長宗我部の男子としては大問題だ!」

「殿、それはしかたありませぬ・・・。何しろ元親様は、女にござりますれば」

国親の言葉に、孝頼は恐る恐る答えた。

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