京姫―ミヤコヒメ―

羽結ことり

プロローグ 八月二十日

 八月二十日、金曜日。


 生ぬるい風が吹きつけてきたその時、おごそかな震えが、むき出しになった脹脛ふくらはぎを駆けのぼってくるのがわかった。


 祭り囃子と人々のざわめきは遠く、太鼓の遠鳴りだけが胸の空ろな部分に響いて、ひとつひとつがずしりとした脈を打つ。おびただしい提灯の灯りは背後から投げかけられて、舞の影を赤い光のなかに、おぼろげにさせている。空には雲一つないが、星の光はじっとりした空気に絡めとられ、夏の夜空らしく弱々しい。


 舞は立ち尽くしている。桜花町の年中行事として欠かせない桜花神社の夏祭りのために出てきたとあって、可憐な立ち姿に似合う桜色の浴衣姿であり、白い小さな足に下駄の鼻緒の紅が、ほの暗いなかでさえ明らかだった。その手には先ほどまでラムネと綿菓子とリンゴ飴とチョコバナナと割りばしが代わる代わる握られていたが、今はいずれも金糸雀色の帯の下におさまっている。明るいブラウンの髪は母親の手によってていねいにセットされ、桜を模した髪飾りが華やかに結い上げられた根本を彩っていた。


 一方で、桜の巨木のさらに向こうにたたずむ人は、飾らない洋服姿であるようだ。車椅子の背もたれに隠されて、よくは見えないけれど。その人は、拝殿の千木のあたりを何とはなしに見上げていたが、すぐ目頭の脇を伝っていく汗にもまばたきひとつせずじっとこちらを見つめている視線に気がついたらしく、ふと振り返った。



紅の瞳が見開かれた。



「れい……」


 名前を呼びかける声が、自然と掻き消えたのか、それとも咄嗟に抑えたものか、舞は自分でもわからない。口に押し当てた掌に滲んだ汗が、乾いた唇に生ぬるく沁みていく。それはまるで、大事なものをしまいこもうとするかのように。


 ああ、振り返る前から、誰であるかなんてわかっていたのに。燃ゆる髪の色を見た時から……車椅子ごと振り返りきれずに、それでもなお、身を斜めによじってこちらを見つめるひとの瞳が次第に深い悲しみを湛えていく。はたしてどれぐらいぶりにこの瞳を見るのだろうか。最後にその瞳と別れたのは、前世の闘いのさなか、漆との決戦の直前のことであった。京姫を桜陵殿おうりょうでんへ向かわせて、朱雀はひとり漆と死者の群れの前に立ちはだかった。そしてそれきり……



『……姫さま、お早く!』



『桜陵殿へ!』



 舞は玲子から目を逸らした。赤星玲子あかぼしれいこのそばに寄ってはいけない。彼女は朱雀の生まれ変わりでありながら、今は変身することができない。だから、敵に正体を気づかれないためにも不用意に接触してはならない。自分の身を守ることができないから――ルカにそう言われてきた。ゆえに、これまでも顔を合わせずにいたのだ。前世の思い出が夢となって次々と立ち現れたあくる朝も。舞が玲子を許せなくなったその日も。


(玲子さん……)


 桜色の浴衣の袖のなかで、舞は拳を握りしめる。込み上げる思いは懐かしさばかりではない。憤りがあり、悲しみがあり、苦しさがある。言いたいことがあまりにもたくさんある。前世のことも、結城司のことも、四月十二日あのひのことも……でも、今はまだダメなのだ。



 ……戻ろう、美香のところへ。



 そっと後ずさろうとすると、下駄の歯が思いがけず玉砂利を踏んで舞はよろめいた。揺らいだ視界に、はっとして立ち上がりかけた玲子の姿が映った。無論、車椅子の上ではそんなことはかなわない。重力によって椅子の上に引き戻された玲子は、まるで自分の足では立ち上がることが出来ないのを初めて知った人のように呆然としている。


(どうして……!)


 舞は胸に覚えた痛みを叫びたくてたまらなくなった。


(どうして、あんなことしたの玲子さん……!私はまだあなたのこと許せないじゃない。あなたに駆け寄りたいと思ってる自分のことが、嫌になるじゃない。懐かしいって気持ちは当然なのに、この気持ちをつぶしたくなるじゃない……!)


 この気持ちをどこへぶつければいいの?今ここで、奇跡的な邂逅を果たしてさえ、言葉ひとつ交わせないのだとしたら。


 ……言葉一つ交わせないから、舞は視線で訴えかける。泣きだしそうな、苦しげな表情を翡翠の瞳いっぱいに詰め込んで。眼鏡越しに玲子の瞳が揺らぐのがわかる――こんなに私たちの距離ははなれているのに、どうしてお互いの心ははっきりとわかるんだろうね、玲子さん。わからないことだらけなのに、どうして苦しみだけは伝え合うことができるんだろう……嫌だ、あなたのそんな顔は見たくない。そんな表情をする資格、あなたにはない。



 舞はようやく玲子に背を向けた。そして、浅い呼吸をひとつしたあと、参道に戻る手間も惜しんで、玉砂利を踏みながら、立ち並ぶ提灯と屋台の灯りをめがけて駆けだした。



 玲子さんなんて、暗闇にひとりでいればいい、これまでそうだったみたいに。そうだ、そんなにひとりが好きなのならば、ずっとひとりでいればいいじゃない……!





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