第2章. 旅の始まりと辺境の村

第4話 初めての夜(※2019/09/20内容修正)


 1




 ディラシナの街を出て、下水の臭いが立ち込める細い通路を道なりに進んで行く。酷い悪臭には長年の生活で慣れてしまったトキだったが、人間の何倍も嗅覚のすぐれたオオカミには辛いようで。

 アデルは困惑した表情ですんすんと鼻を鳴らし、セシリアを見上げた。



「……ごめんね、アデル。もう少しで外に出られるから……」


「……」



 よしよし、と慈しむようにアデルを撫でるその姿は、一見少し大きめの犬と淑女が戯れている微笑ましい光景に他ならない。が、彼女が相手にしているのは危険な魔物モンスターであり、一瞬で頭を噛み砕ける殺傷力を持った獣なのだ。

 トキはどこから突っ込めばいいやら分からないこの状況に、最早何度目なのかも分からない溜息をこぼす。そんな彼の様子を悟り、どぎまぎと落ち着かない表情でセシリアは遠慮がちに口を開いた。



「あ……ごめんなさい。うるさかったでしょうか……?」


「……色々聞きたい事があるのを頭の中で整理していただけだ、気にするな」


「聞きたい事……ですか?」



 ──しまった、と己の失言に気が付いた時にはもう遅い。

 セシリアは翡翠の両目を輝かせ、トキに駆け寄ると穢れのない純粋な眼差しを惜しみなく彼に向けた。



「どうぞ、お好きなだけ聞いてください! 私のことですか? アデルのことですか?」


「……いや……」


「そうですよね、よく考えたら私達、まだお互いのことを何も知らないんですよね! うーん、どこから話しましょう……。あ、でも私昔の記憶が全然ないので、ごく最近の情報しかお伝え出来ないんですけれど、それでもよろしいでしょうか!?」


「……」



 堰を切ったように溢れ出す彼女の言の葉は、うんざりと視線を逸らすトキの鼓膜をガンガン揺らす。まずい、面倒なスイッチを押してしまった、と今更後悔したところで手遅れなわけだが、下手に突き放すと背後の番犬が黙っていなさそうなのでとりあえず適当に相槌を打つことにした。



「……好きに話せばいいだろ。あの番犬は何でアンタに付いてきてんのかとか」


「番犬じゃありませんよ、アデルです。私の友人なんですよ!」



 友って。オオカミだろ。

 そうは思ったが口には出さず、あっそ、と相槌を打って適当に聞き流す。セシリアは更に言葉を続けた。



「アデルは、記憶を無くして倒れていた私を保護してくれた修道院のシスターが連れてきた魔物の子どもだったんです。おそらく親が育てるのを放棄して置いて行ったんだろうって言ってました」


「……」


「アデルは本当にまだ生まれたばかりだったから、私とシスター達で一生懸命育てて。気が付けばこんなに大きくなっていたんです」



 ふふ、と彼女はゆっくりとアデルを撫でて微笑み、アデルもまた気持ち良さそうに頬擦りをする。魔物が人間と馴れ合う姿があまりに滑稽で、トキはひくりと表情を引き攣らせた。



「私、自分の記憶を取り戻したくて……でも一人は危険ですから、アデルを一緒に連れて行くことにしたんです。修道院の方々には反対されたんですけど、どうしてもこの手で記憶を取り戻したかったから。記憶を失う前から持っていたあの宝石を首にかけて、黙って村を出ました……」



 そこで彼女は悲しげに俯き、長いブロンドの髪を耳にかける。



「……でも、やはり浅はかだったと今になって思います。アデルが居たとは言え、行く宛も無く森や荒野をさ迷う毎日は思っていた以上に孤独でしたから……。誰も私の事など知らないし、私自身すらも自分が何者なのか分からない。結局、魔女に襲われてアデルともはぐれてしまいましたし……」


「……」


「……でも、いい事もあったんです」



 そう言って彼女は顔を上げた。その表情は今までの悲しげなそれから一変し、慈愛に満ちた穏やかな表情へと変わる。よくもまあ、短時間でそこまでコロコロ表情を変えることが出来るもんだとトキは素直に感心した。



「いい事?」


「はい!」



 セシリアは力強く頷き、真っ直ぐとトキを見つめる。やはりその純粋な眼差しは居心地悪く思えて、彼はそっと目を逸らした。しかし彼女はお構い無しに続ける。



「……私、魔女に襲われたあの時、本当にもうダメだと思いました」


「……」


「でも、そのお陰でトキさんに会えたんです」


「……俺?」



 ここで自分が登場するなど微塵にも想像していなかったトキは、突然の発言に眉を顰めた。セシリアはやはり笑顔で頷くばかり。



「そうです! トキさんに出会えた事が、私の旅の中で一番の“いい事”です!」


「……そりゃ、随分と……」



 おめでたい頭だな、と皮肉をこぼしかけて寸前で飲み込む。この能天気な聖女様には何を言っても良いように丸め込まれてしまう気がして、当たり障りのない発言を返す方がこの会話に終止符が打てるとトキは踏んだ。彼はもう一度、彼女への言葉を選び直す。



「……そりゃ、随分と有り難いお言葉です、聖女様」


「……あら、やけに素直なんですね?」



 何だか違和感があります、と丸い目を瞬くセシリアから視線を逸らし、トキは再び早足で歩き始めた。

 そんなくだらない昔話に付き合ってる間に、目の前には久方ぶりに感じる陽の光が眩しすぎるぐらいに輝いている。



「あ、出口ですよ! 良かったわね、アデル!」


「ガウ!」



 セシリアが嬉々として声を発すれば、背後のアデルも嬉しそうに尻尾を振った。ようやくこのカビ臭い街ともおさらばか、と一直線に走って行く聖女と番犬を眺めながら、トキは足を止める。そのまま背後を振り返れば、そこには仄暗い闇が広がるだけで。



「……」



 この街に来て起こった様々な出来事を思い返せば、そのほとんどが散々な記憶だった。しかしいざこの街を出ると思えば、心の奥底から不思議な感情が湧き上がってくる。

 寂しいとも違う、清々するとも言いきれない、何とも言えない感情。



「……行ってくる」



 誰に対して言ったわけでもなく、自然と声に出た。

 彼はようやく踵を返し、光に向かって歩き出す。それが壮大な旅の幕開けであることを、まだ、誰も知らない。




 2




 外の世界に踏み出すと、空は一面のオレンジだった。眩しすぎるほどチカチカと視界に入り込む西陽に目を細め、先に外へ出た一人と一匹を追う。



「ふわあ〜、何だか久しぶりに光を見た気がしますね」


「……そうだな」



 広い空に落とされた鮮やかな茜色の絵の具を見つめつつ、セシリアは満面の笑みをトキに向けた。そんなに陽の光が嬉しいのか? とトキは肩を竦め、再び前を向いて先を急ぐ。



「……すぐに日が暮れる。その前に適当な場所でキャンプを張るぞ」


「あ、は、はい」



 美しい空模様に浸っている暇もない。さくさくと進む彼を追い、セシリアとアデルも広い荒野を歩き始めた。

 トキは久しぶりに感じる砂の感触に眉根を寄せ、歩きにくい砂地を進んで行く。ディラシナに居た頃も時折街の外へ物資の調達に出掛けることはあったが、日が落ちた時間帯に動くことがほとんどだったため陽の光の下を歩くことがどうにも落ち着かない。



「あ、アデル見て! もうお日様が沈んでしまうわ」


「ガウガウ!」


「ふふ、お日様に会えるのはまた明日ね」


「……」



 こんなに隣が喧しいのも、落ち着かない。

 トキは地平線の向こうへと消えて行く夕日を一瞬だけ視界に入れる。ほんの一瞥をくれただけだというのに、燃えるように赤い火の玉は瞼の裏に焦げ付いて、チカチカとうざったい光をいつまでも放ち続けていた。



「そういえば……」



 ふと、セシリアが口を開く。返事は返さず視線だけを向けてみれば、彼女はぱたぱたとトキの元へ駆け寄ってきた。無垢な瞳を瞬き、セシリアは言葉を続ける。



「街を出るとき、あんまり物資を揃えてきませんでしたけど大丈夫でしょうか? 食料とか、水とか、今からでも戻って調達した方いいのでは……」



 そんな能天気な質問に心底幸せな頭だと呆れてしまう。警戒心どころか危機管理能力すらもないんじゃないのか、とトキは彼女との旅の先行きを憂いつつ答えた。



「……アンタ、あの街にまともな食料があると思うのか?」


「え……ないのですか?」


「三日三晩、腹痛はらいたと嘔吐で眠れない刺激的な夜をお望みなら、戻って食料調達してやっても俺は構わないぜ」



 先ほどせっかく飲み込んだというのに、結局口から出てきたのは嫌味ったらしい皮肉だった。しかし今回ばかりは無知な彼女に教えてやるべきだろう。今までさぞ幸せな環境に身を置いて過ごして来たであろうことは何となく察しが付くが、あの荒廃した街のドブ川で獲れた魚を食べようなどと言い始めるその生易しい考えは早いうちに改めた方がいい。


 棘のあるトキの言葉に、セシリアは黙ったまま目を逸らした。しかしややあって、再びその口が開く。



「……三日三晩も苦しむことはないですよ。私が治せますから」


「……」



 しん、とその場が静まり返る。ああ成る程、と彼女について一つ誤解していたことに気が付いて、トキは彼女に冷ややかな視線を投げた。



(警戒心と危機感が足りないだけじゃなく、空気も読めないらしいな)



 はあ、とうんざりしたようにこぼれた溜息を最後に、彼は会話を続けることなく再び歩き始める。あの! とか聞いてください! とか背後で色々喚いているセシリアの声を一切無視し、すっかり日が落ちて暗くなった荒野を二人と一匹はただひたすら進んで行ったのであった。




 3




 パチパチ、と焚き火に燃やされて弾ける枝葉の音がその場にひっそりと響く。二時間ほど歩き続けてようやく見つけた水場の岩陰にキャンプを張った一行は、近くの木陰や焚き火の前などで各々休息を取っていた。

 時期的に過ごしやすい気候であるとはいえ、夜の空気は少し冷たい。セシリアは丸くなって眠るアデルの背中に身を寄せ、その体温で寒さを凌ぐ。先ほどそれぞれ水浴びをしたことも合間って、濡れた髪に風の冷たさが刺さるようだった。



(……トキさんは、大丈夫でしょうか)



 ちらりと顔を上げ、前方にいる彼の横顔を見つめる。焚き火の近くに居るとはいえ、髪も濡れたままで格好も薄着。彼の方がきっと寒いのに、と彼女は目を伏せた。


 しかし気遣って話しかけてもおそらく迷惑そうに煙たがれるだけだということは短い付き合いながら彼女も理解し始めていて、それゆえ下手に声をかけることも出来ない。だが、このまま見て見ぬふりをするのも気が引けてしまう。



(私よりも野宿の経験多いでしょうし、心配いらないとは分かっているけれど……)



 やはり放ってはおけない、と彼女は立ち上がり、焚き火の前に片膝を立てて座っている彼の元へ近付いた。



「あ、あの……トキさん」


「……」



 遠慮がちに声をかければ、予想通りうざったそうに顔を顰められる。しかしそれは覚悟の上だ。セシリアは気付かないふりをして彼の横にそっと腰を下ろした。



「その……寒くないですか?」


「……別に」



 探るように投げかけた彼女の問いを一蹴し、彼は顔を背ける。パチパチと弾ける火がその横顔を赤く照らして、よく見れば濡れていた髪もだいぶ乾き始めていた。



「あ……そ、そうですか……」


「ああ」


「じゃ、じゃあ、その、」


「……」


「えっと……」



 なんとか会話を繋げようと口を開くが、次の言葉が見つからない。ああ何してるの私、やっぱり失敗した、やめておけばよかった、と後悔の念が次々に押し寄せる。



「……話はそれだけか」



 とうとう冷静に問いかけられ、セシリアは視線を泳がせた。しかしいくら考えども「はい」と答える他になく、彼女は無言のままゆっくりと頷く。その答えにトキは嘆息し、数十分前に拾い集めて来た焚き木を慣れた手つきで火の中に投げ入れた。



「へえ」


「……」


「俺はてっきり、今夜のでも持って来たのかと思ったんだがな」


「……え?」



 クスリ? と首を傾げる彼女。それに対し、トキは淡い紫の双眸を持ち上げてフッと意地の悪い笑みを浮かべる。直後、すらりと伸びた彼の人差し指がトントン、と自らの唇を叩いたことでセシリアはようやく“クスリ”の意味を理解した。


 途端に、彼女の頬が赤く紅潮する。



「……!!」


「アンタが言ったんだぜ、毎晩俺にキスして呪いを止めてくれるって」


「し、し、してません、そんな言い方……!」


「でも結局そういうことだろ?」



 なあ? と妖艶に弧を描く口元に、セシリアの心拍数が急速に上がる。いや、あの、その、としどろもどろに声を紡ぎ出す彼女の腕を掴み、トキはずいっと顔を近付けた。突然詰め寄られたことで彼女の鼓動は一気に速度を増して。



「や、あ、あの!」


「ほら、早くしろよ。発作が始まったら面倒だろ」


「だ、だって、そんな、近くに迫られたら、こ、心の準備が……」


「昼間自分から俺の唇奪っといて何が心の準備だ」



 ハッ、と鼻で笑い飛ばし、彼は彼女の顎を持ち上げた。至近距離に迫って来る彼の顔に覚悟を決めたのかギュッと目を閉じるセシリアだったが、ふと、昼間に街で石を投げられた彼女の瞼が少し腫れているのが目に入ってしまい、トキは眉間を寄せる。



「……アンタ、これいつ治すんだ」


「……え……」



 そっと指で瞼の上を撫でると、「痛っ!」と小さく発して彼女は固く目を閉じた。切れたりはしていないが、若干青く腫れ上がっていて痛々しい。

 トキは小さく息を吐き、彼女から顔を離す。



「……人の傷はすぐ心配するくせに自分の傷は後回しか」


「あ、そ、そう言えばケガしたんでしたね。わ、忘れてました……」



 未だに早鐘を打つ胸を押さえ、真っ赤な顔を逸らしながらセシリアは彼から離れる。ぐるぐると様々な感情が頭を巡る中、火照った熱を冷ますように治癒魔法を唱えれば、瞼の腫れはすぐに引いていった。



「……へえ、便利なもんだな」


「い、いえ……」


「じゃあ、」



 ぐい、と腕を引かれる。そのまま重力に逆らうことなく身を任せ、気が付けば目の前には満天の星空をバックにトキの顔が不敵に笑みを描いていて。



「続き、楽しませてくれるんだろ」


「…………っ」



 押し倒されたことを理解して、セシリアは息を飲み込んだ。弾ける焚き火の赤に照らされたトキの表情はやたらと色っぽく見えてしまい、少しずつ引いていた頬の熱が再び蘇る。そのまま唇が近付き、触れ合うまで残り数センチ──という所で。



「むむむ無理ですーー!」



 とうとう限界に達した緊張によって、セシリアが大きな声を張る。真っ赤に染まった顔を逸らし、彼の体を押し返したその時、彼女の大声によって目を覚ました獣が低い唸り声を発しながら顔を上げた。



「グルルル……」


「──チッ」



 金色の鋭い眼光がトキを睨み付ける。彼女の番犬が目を覚ました事によって彼は渋々とセシリアの上から退き、近くの木陰に凭れるように腰を下ろした。

 一方セシリアは大慌てでアデルの元へ駆け寄り、ごめんね、大丈夫だから、とその背を撫でて落ち着かせる。彼女が危険な目に遭っている訳ではないと理解したのか、アデルは再び体を丸めると目を閉じて眠り始めた。



「……」



 ほ、と胸を撫で下ろし、背後の彼に視線を向ける。トキは片膝を立てて不服げにそっぽを向き、明らかに不機嫌な空気を全身から醸し出していた。

 う、と気まずそうに唇を噛み、セシリアは怖々と彼の元へ近寄る。



「……あ、あの……」


「……」


「……ご、ごめんなさい、その、私……」


「アンタ、状況分かってるのか?」



 低い声がセシリアの鼓膜を揺らし、びくっと彼女の肩が跳ねる。顔を上げれば、冷ややかに向けられた淡いアメジストの双眸と視線が交わった。身を強張らせるセシリアに、彼は続ける。



「俺は別に、好きでアンタとこうなってるわけじゃないんだ」


「……」



 冷淡に告げられた言葉が、セシリアの心を芯まで冷やして行くようだった。視線を落とすが、棘のある言葉の雨は止まない。



「アンタが嫌がるのも否定はしないが、こっちだって好きでやってるんじゃない。生きるためにしているだけだ、それ以上も以下もない」


「……」


「つまりアンタにいつまでもそのくだらない羞恥心を引きずられると、苦しんだのち俺は呪いで死ぬ」


「……」


「……遊びとか快楽のためにやってるんじゃないんだ。分かってるのか?」



 淡々と、静かに彼はセシリアを問い詰める。彼女は俯いたまま、消え去りそうな声で「……すみません……」と、それだけを口からこぼした。

 トキは嘆息し、ゆっくりと彼女の腕を引く。抵抗することもなく、手を引かれるまま素直に彼の前に両膝を付いた彼女は、決意を固めて翡翠の瞳を持ち上げた。



「……さっさと済ませろよ」


「……はい」



 セシリアは木に寄り掛かっているトキの肩にそっと手を置き、ゆっくりとその唇を近付ける。端正に整った顔、冷たく自分を映す紫色の瞳。それらを視界に入れるとまた直前で迷ってしまいそうで、瞳を閉じ、彼女は自らの唇を彼の唇に押し付けた。


 遠慮がちに口を開き、小さな舌が彼の口内に侵入する。柔らかくて暖かい、ぎこちない彼女の舌の動きを暫し黙って受け入れていたトキだったが、そろそろ離れようと身を引いた彼女の頭を彼の手が捕まえたことで、セシリアは目を見開いた。



「下手くそ」


「え……、ん!」



 小さく囁かれた掠れ声。その刹那、トキの長い舌はセシリアの口内に捩じ込まれ、彼女はびくっと体を震わせた。



「……っ、……!?」



 互いの舌が交わる音が耳に届き、セシリアの頬は一気に熱を帯びる。捩じ込まれた舌は彼女の歯列をなぞり、自身のそれと絡まり、ぞくぞくと背筋に痺れが走って──思い描いていた口付けとはあまりにも掛け離れたそれに、戸惑いが隠せない。



「……っ、はあ……っ、トキ、さ……!」



 酸素を欲して彼女は一度唇を離した。しかしすぐに引き戻され、再び深い口付けを再開されてしまう。



「……っ……」



 呼吸の仕方が分からず、徐々に苦しさが増して、肩に置いていた手を強く握り込んだ。直後、重なっていた熱い唇がゆっくりと離れ、欲していた酸素が肺に満ちて行く。



「……はあ、はあ……っ」


「……今日はこんなもんでいいな」



 涼しい表情のまま呟いたトキの胸に、頭の回らないセシリアの額がぽすりと落ちた。顔を真っ赤に染めて呼吸を整える彼女のつむじを見下ろし、引っ付いているその体をうざったそうに引き剥がす。潤んだ朧げな瞳が持ち上がり──トキは薄く嘲笑を漏らした。



「……何だ聖女様、俺のキスでそんなに感じたのか」


「……っ、ち、違い、ま……!」



 軽口を叩く彼に反論しようと口を開いたセシリアだったが、勢いよく飛び出した言葉は最後まで続かず尻すぼみになり、最後にはとうとう飲み込んでしまう。黙って見つめる彼の瞳に、視線すらも上手く合わせられなくなって。



「……っ」



 セシリアはパッと顔を逸らし、頬を赤く染めたまま立ち上がると逃げるようにトキの元から離れて行った。そんな後ろ姿を見送り、彼もまた木に凭れかかって目を閉じる。


 ──やれやれ、ようやく長い一日が終わる。


 そう考えながら閉じた瞼の裏を眺めていると、自分で思うよりも疲れていたのか、すぐに夢の中へと意識が微睡んでいった。



「……」



 静まり返る空間には、パチパチと燃える焚き火の音だけが響いている。穏やかに繰り返されるアデルの寝息を聞きながら、セシリアは真っ赤に染まった顔を隠すように寝袋の中で蹲っていた。


 ドッドッドッ……。


 未だに心臓の音が、忙しない速度で動いているのが分かる。先ほどの彼の熱い舌の感触を思い出すと、体が火を放ったかのごとく熱を持った。



(……ちがう、そんな、こんなの……ちがう……)



 熱く火照る頬を押さえていた手を離し、そっと指で自らの唇に触れる。触れた熱を、荒々しい口付けを、背筋に走った甘い痺れを思い出して、彼女はバッと手で顔を覆った。


 ちがう、ちがう。だって、そんな。



(……すっごく、気持ちよかった、なんて……)



 神にお仕えしている身としてあまりにも軽率すぎます……、と自分自身を責めながら、彼女の長い夜は更けていくのであった。




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