ラクリマの恋人

umekob.(梅野小吹)

第1章. 掃き溜めの街と根無し草

第1話 幻の宝石


 1




 深い森を抜け、汚れた川沿いの細道を、長い金髪の少女が駆け抜ける。

 修道服を思わせるような白いワンピースに、二の腕まで伸びた黒いレザーグローブ、そして首にかけられた青い宝石。


 焦ったような表情で走る彼女は背後を気にしながら息を切らし、木々の隙間に身を潜めた。



「はあ、はあ……大丈夫?」



 傍らに座り込む相棒に向かって小さな声で問い掛ける。彼女はそっと背後を確認し、迫り来る邪悪な気配に眉を顰めた。



「……どうしよう、まだ追って来るわ。このままじゃ追いつかれる……」



 不安げな声を漏らし、少女は相棒に視線を戻した。近付く不穏な気配を感じたまま、彼女は自分の荷物を彼に預ける。



「ごめんね、先に行って。二手に分かれましょう」



 その言葉に、相棒である彼は黙って少女を見上げた。しかし彼女は薄く微笑み、その背を押す。



「大丈夫。この先に街があるわ。そこで落ち合いましょう」


「……」


「ほら、行って」



 少女は安心させるように微笑んで、彼を送り出した。小さくなっていくその背を見送り、自分も立ち上がる。



「……神よ、お守り下さい」



 胸の前で両手を合わせ、目を閉じて祈った後、彼女は翡翠の瞳を開いて顔を上げた。



「……行かなくちゃ」




 2




 古びた空き缶や割れた瓶が散乱し、昼間だというのに太陽の光すらも届かない道の上。

 青年は深い藍色のストールで口元を隠し、物陰に身を潜めながらアメジストを思わせる薄紫色の双眸そうぼうをゆっくりと動かした。

 右手の中指に光る金の指輪の位置を確認し、彼は音も立てずに物陰から出て歩き始める。


 ──ざわ、ざわ、ざわ……。


 ゴミで溢れた薄暗い路上には、見るからに見窄らしい格好の男たちが転がっていたり、うずくまっていたり。彼らは皆、帰る場所も夢も希望も失い、生きる気力すらも無くした、世の中に「はじかれた」者達だ。


 たった今物陰から出てきた彼もまた、言わずもがな。



「がはははは! シケた面してんじゃねえーよ! この負け犬が!」



 ──ガシャン!


 突如、青年の進行方向の先で男の下品な笑い声と瓶が割れる音が響いた。げらげらと笑う大男の手には粉々に割られた高い酒瓶の残骸が握られ、その奥では見窄らしい男が頭から血を流して倒れている。どうやら今しがた、この大男に酒瓶で殴られて倒れたらしい。



「んだよこの街はよお! どいつもこいつもシケてやがるな、イライラするんだよ臭えしよ!」


「ぎゃははは!」



 大男と数人の付き人はゲラゲラと笑い、再び新しい酒の瓶を開ける。キュポン、と音を立ててコルクの抜かれたそれを豪快に呷りながら、男は大股で歩き始めた。そのまま真っ直ぐと直進してきた彼は、周囲の人々を薙ぎ倒し、徐々に青年の元へと近寄ってくる。


 そしてとうとう、青年の肩が大男の体にぶつかった。その瞬間、彼の体は弾き飛ばされて地面に倒れる。


 ──ドシャッ!



「ああ〜?」



 ギョロリ、大男の眼球が動き、地面に膝を付く青年を見下ろした。蹲るその姿を暫し眺め、やがて男は鼻で笑い飛ばす。



「なんだ、ゴミか! がははは!!」


「……」


「ゴミ如きが俺様にぶつかってんじゃねえーよ!」



 ──ガシャン!


 大声で怒鳴られた瞬間、左肩を鈍痛が襲った。その衝撃の直後、割れた瓶の破片がばらばらと頬の横に積もり、冷たい液体が体から滴り落ちる。



「軟弱な奴め! ぎゃははははは!!」



 大男は蹲ったままの青年の体を蹴り上げると、その場から上機嫌に去って行く。相変わらず手には高い酒を握り、周囲の人々を押し退けながら彼らは離れて行った。


 青年は暫くその場で蹲っていたが、程無くしてふらりと立ち上がると、去って行った男達の背を見送る。その双眸は暗く、冷たい。



「……ふん、ガタイだけの軟弱な奴め」



 低い声で呟いた彼の手には、大男達の懐から宝石と金の入った袋が握られていた。

 彼はそれを自分の懐に仕舞い、ある場所を目指してふらりと動き出す。


 ──ドブ川のほとり、陽の光すらも届かない路地の一角。路上には腐敗したゴミや割れた瓶の残骸が転がり、希望や夢を捨てた人々が生気のない瞳でこちらを見る。


 ここは帰る場所を失った人々が集う街、ディラシナ。

 そして彼もまた、この街で生きて来た根無し草デラシネの一人なのである。




 3




「おやまあ、派手にやったか今日も」


「……」



 ガシャン、と金品の入った袋をカウンターに乗せ、青年はどっかりと椅子に腰掛けた。酒場のマスターは肩を竦め、麦酒の入ったグラスを青年の前に置く。



「ほらよ。がっぽり盗ったみてーだからまけねえぞ、トキ」



 青年──トキは、置かれた麦酒を黙ってで引ったくり、一気に喉に流し込む。マスターは洗ったグラスを拭き上げながら嘆息した。



「おいトキ、お前さん左利きだろ? さてはまた無茶苦茶な盗み方したな、利き腕やられてんじゃねーか」


「……アンタには関係ないだろ」


「あるさ、貴重な収入源にくたばられちゃ困るんでな」



 こなれた返答にトキはチッと舌を打ち、再び酒を呷る。マスターは次のグラスに手を掛けながら言葉を続けた。



「若いとはいえ、お前さんのやり方じゃいつか身を滅ぼすぞ。そろそろあらためねーとな」


「は、盗みに改めるもクソもねーだろ」


「盗み云々じゃねえよ。もっと自分を大事にしろって言ってんだ」



 マスターはグラスを拭く手を止め、真っ直ぐとトキに視線を向ける。対するトキは顔をそむけ、目を合わせようとしない。



「トキ。お前が例ののことでずっと焦ってんのは分かるが、死ぬ気はねえんだろう?」


「……」


「その様子じゃ、今回の無茶も無駄骨だったみてーだしなァ」



 ちらり、マスターが一瞥する視線の先にはトキが盗んだアクセサリーが並んでいる。だが、そこに彼のお目当てのものはない。



「何て言ったっけな、例のヤツは。天使の羽……じゃなかった、女神の……?」


「……“女神の涙ラクリマ”だ」


「おお、そうそれだ、女神の涙! 見つかりそうか? その幻の宝石って奴は」


「見つかってりゃこんなとこ来てねーよ」



 カウンターのテーブルに足を投げ出し、トキは残っていた酒を喉に流し込む。ガン! と空になったグラスを乱暴に置けば、「おいおい、丁寧に扱ってくれよ」とマスターは呆れ顔でそれを片付けた。



「まだ何か飲むか?」


「……いや、もういい」


「そうかい、まあいいさ。で、この余った宝石はどうすんだ?」



 乱雑に置かれたアクセサリー類を指差せば、トキは無表情のまま「さあ」と答える。並ぶアクセサリーを手で掬い上げ、彼は興味無さそうにそれらを見つめた。



「目当ての物は無かったからな。その辺に捨てるさ。欲しいんならアンタにくれてやってもいいぜ」


「おいおい冗談じゃねえ。どうせおっかねえ野郎から盗って来たんだろ? 濡れ衣で俺のせいにされんのはご免だからな」



 わざとらしくお手上げのポーズを取るマスターに対して小さく鼻を鳴らすと、トキは金品を懐に仕舞っておもむろに席を立つ。そのまま何も言わず背を向けた彼をマスターは呼び止めた。



「トキ」


「……」


「無茶なことはするなよ。命さえありゃ、チャンスは巡って来るもんなんだからよ」



 彼の助言にトキは反応せず、黙って店から出て行った。その背中を見送り、マスターは小さく溜息をこぼす。



「……死に急ぐような真似は、して欲しくねえんだけどな」



 そんな彼の言葉は誰の耳に入ることもなく、空気に溶けて消えて行った。




 4




 店を出たトキは藍色のストールで顔を隠しながら、誰もいない路地をふらりと北へ進んでいた。途中、不要な宝石類を道端に投げ捨て、その輝きに群がる乞食こじき共を一切無視して先へと進む。


 彼らに特定の寝床はない。それはトキも同様で、特に決まった拠点などは持たず、いくつかのねぐらを転々として生活しているような状況である。故にこの時も、いくつかある塒のうちの一つに戻ろうと考えていた。──しかし。



「……?」



 ぴくり。

 普段とは違う空気を逸早く感じ取り、彼は足を止める。直感と言えばいいのだろうか。嫌な気配を感じ、トキの視線は長く使用された形跡のない倉庫へと向けられていた。



「……う、……ぅぅ……」



 倉庫の扉に近付けば、中から何者かの呻くような声が耳に届く。トキはそっと身を潜め、中の様子を窺った。



「……だ、……覚え……、わ……」


「……うぅ……、私……、……ぅ」



 何やら話し声がぼそぼそと聞こえてくるものの、具体的な内容までは聞き取る事が出来ない。ただ、この荒廃した街の中では珍しく、の声だという事は分かった。



「……」



 トキは自身の気配を消し、声のする方へ接近する。倉庫の中は埃とガラクタにまみれ、足の踏み場もないような有様だったが、音を立てないよう上手く近付き、トキはそっと息を殺して物陰に身を潜めた。そしてようやく、声の主がその姿を現す。


 しかしその姿を確認した瞬間、トキは咄嗟に身構えた。



(……魔女……!?)



 ──黒く長い髪、白い肌、赤い瞳。

 漆黒のドレスに身を包んだその女は、遠い北の果てに住んでいるはずの、“災厄の魔女”であった。



(何故、魔女がこんなところに……?)



 訝りつつ、トキは短剣の柄を握る。しかしその瞬間、ズキリと鈍く左肩が痛み、彼は眉根を寄せて利き腕を押さえた。



(くそ、左は無理か)



 大男に殴られた際のダメージが大きかったようで、もはや利き腕は使い物になりそうにない。戦闘になれば確実に分が悪いな、と彼は顔を上げた。


 魔女は冷たい表情で見知らぬ少女の首を締め上げ、壁にその体を押さえつけている。苦しげに響いていた呻き声は彼女の物らしかった。



「……う、ぁ……!」


「さあ、そろそろ白状したら? 知ってるんでしょう?」


「……わ、たし、ほんとに、知らな……っ」



 ガタガタと震え、苦しげに表情を歪ませながら彼女は声を絞り出している。トキは物陰に身を潜めたまま、眉間に深く皺を刻んだ。



(……チッ、いいもん持ってそうだが、この状況で魔女に関わるのは面倒だな。出直すか)



 あわよくば盗みでも働こうと考えていたトキだったが、利き腕が使えない上に相手が魔女ではリスクが高い。今回は身を引こう──その場から離れるべく、彼は一歩退しりぞいた。


 が、その瞬間。

 魔女の手に渡った青く美しい輝きに、トキの目は奪われる。



「……っ!?」



 きらり、青い輝きを放つ小さな宝石。見紛うはずもないその輝きに、トキは息をすることも忘れ、目を見開いたまま暫し硬直する。


 そう、その宝石は間違いなく──彼が探し求めていたもので。



(……女神の涙……!?)



 ──カシャン、


 想定外の出来事で気が緩んだのか、足元に転がっていたパイプに一瞬足が触れてしまった。その小さな物音に魔女は鋭く反応し、赤い瞳がギョロリと動く。



(まずい……!)



 見つかった、と身構えた時には既に手遅れだった。魔女の使い魔である蛇達は一瞬でトキの元へ群がり、彼は舌を打ってそれを回避する。

 ドッ、と床に身を伏せた彼に、魔女は小さく息を吐き出した。



「……ネズミが紛れ込んだみたいね」



 冷たい双眸を細め、魔女は飛び出して来たトキを見下ろす。彼は右手で短剣を構え、静かに魔女を睨み付けた。



「ふふ、誰かと思ったら街のろくでなしじゃない。物乞いでもしに来たのかしら」



 楽しげに笑う魔女を睨みつつ、トキは彼女の手の中にある宝石を一瞥した。──青い輝き、神秘的な透明感。やはり間違い無く例の宝石である。


 その視線に気が付いたのか、魔女は不気味に笑ってそれを手の中で転がす。



「ああ、成程。これが欲しいのね」


「……欲しいって言えば譲ってくれるのか?」


「うーん、そうねえ……」



 魔女はじっとトキに視線を向け、ややあって口角を上げると、自らが絞め上げていた少女の首から手を離す。無論、彼女は重力に逆らう事なくその場に落下した。



「う……っ、ごほっ、ごほ!」


「……!」



 床に倒れて咳込む彼女に一瞬だけ視線をくれるが、すぐにそれを魔女へと戻し、トキは再び短剣を構えた。しかし怯む様子も無い魔女は彼に近付き、蛇のようなその目を細める。



「この宝石、あの子のモノなんだけど……別にあげてもいいわよ」


「……」


「その代わり取引しましょ、盗っ人さん」



 にや、とその口が三日月のように横に裂ける。取引、という言葉に思わず眉根を寄せたトキだったが、返答も待たずに魔女は手を伸ばし、トキに向かって指先で何かを描いた。



「──!?」



 ──ビキィッ!


 その瞬間、トキの体は硬直した。

 まるで石にでもなってしまったかのように指先一つ動かすことが出来ず、唯一動く眼球だけが焦ったように泳ぎ回り、徐々に迫る魔女へと向けられる。



(くそっ……!)



 このままではまずい、と懸命に術を解こうと足掻くが、何一つ抵抗出来ない。とうとう目前に迫った魔女は、楽しげに微笑んで彼の頬を撫でた。

 目の前に“女神の涙”をチラつかせ、くすくすと笑いながら、使い魔である黒蛇をゆっくりとトキの体に這わせ始める。



「取引って言っても、難しい事じゃないわ」


「……っ」


「すごくシンプルで、分かりやすいゲームをしましょう。それに貴方が勝てば、この宝石は貴方にあげる」



 しゅるり、返事も出来ないまま黒い蛇はトキの首に絡み付く。不気味に微笑む魔女を睨みつけた瞬間、彼の首筋には蛇の毒牙が突き刺さった。



「──ッ!!」



 激痛が走り、トキは声も出せずに目を見開く。続いて何かが体内に注ぎ込まれ、彼の体はじわじわと熱を帯び始めた。



(……なん、だ、これ……くそ……!)



 体に注がれた何かは徐々に体内を巡り、呼吸すらも上手く出来ない。ようやく蛇のキバが引き抜かれた頃には、焼けつくような熱が体内を支配していた。


 直後、パチン! と指を鳴らされ、ようやく固まっていた体に自由が戻る。──しかし待っていたのは激しい痛みだった。



「……っ、あ、ぐ……っ!」



 トキは崩れ落ち、その場に倒れる。全身が燃えるように熱く、手足は痺れて汗が吹き出し、激痛が駆け抜けて息も出来ない。

 気が狂いそうな痛みに耐え、歯を食いしばって顔を上げれば、楽しそうに笑う魔女と目が合った。



「……何、を……!」


「ふふ、ルールは簡単よ。今、貴方の体に毒を流し込んで“呪い”をかけたわ。その呪いは緩和しないと二十四時間で死に至るの。だから呪いを解けずに死んじゃったら貴方の負け。その呪いを解くことが出来たら貴方の勝ちよ」


「……っく、そ……っ何、勝手なことを……っ!」


「さ、ゲームスタート。ちなみに今は呪いが濃いから、すぐどうにかしないと早速死んじゃうかもねえ、あはははっ!」



 魔女は高らかと笑い、声だけを残して霧のようにその場から消え去って行った。ガラクタと埃にまみれた倉庫内に、荒く繰り返す呼吸の音だけが響く。



「ぐ、……っう、ぁ……!」



 苦しげに呻き、トキは奥歯を噛み締めた。

 ようやく探し求めていた女神の涙を見つけたというのに、こんな所で死んでたまるか──そう考え、意地で立ち上がろうとするが、やはり激痛によって体が言う事を聞かない。



(くそ、やっと見つけたってのに……! このまま、死ぬわけには……!)



 歯を食いしばり、彼は手足に力を込めた。しかしそんな思いも虚しく、痛みと熱で徐々に意識が遠のき始める。



(ちくしょう……やっと、やっと……“あの男”に対抗する手段が、見つかったってのに……)



 思考が朦朧とし、重くなった瞼がゆっくりと落ちて行く。もうダメか、と若干諦め掛けたトキだったが──その直後、ふっと体が軽くなった事で再び彼は目を開けた。



「──大丈夫ですか!?」


「……!」



 不意に、ポウ、と暖かい光がトキの体を包み込む。すると痛みが和らぎ、苦しかった呼吸が少し楽になった。

 力なく顔をもたげれば、どうやら先ほど魔女に捕まっていた少女がトキの体を支え、治癒魔法を掛けているようで。



「聞こえますか? 大丈夫ですか?」


「……、聞こえ、てる」



 掠れた声を絞り出せば、少女はほっと胸を撫で下ろした。



「……良かった、少しは緩和出来たみたいですね。大丈夫です、私が必ず治しますから」



 彼女は微笑み、魔法の光を強く放つ。暖かく優しいその光によって全身に回っていた毒が徐々に薄まって行くのを感じ、トキは地面に倒れたまま彼女を見上げた。



(何だ、こいつ……誰だ……? 何で俺を……)



 覚束無い意識の中で考えるが、ぼうっとした頭ではいつまでも答えに結びつかない。結局何もすることが出来ず、大人しく彼女の治療を受けるしかなかった。


 暫くそのまま治療を続けていると、やがて痛みは引き、トキの体は本来の動きを取り戻す。それでもなお治療を続けようとする彼女の手を遮り、彼は上体を起こした。



「……もういい。動く」


「あ、はい! 大丈夫ですか? 痛みはもうありませんか?」


「ああ」



 じっと見つめてくる無垢な瞳から目を逸らし、トキは先ほど蛇に噛まれた箇所を指で摩った。今の治療で傷跡は塞がったらしく、特に何の違和感もない。


 だが、少女は悲しげに俯いた。



「……ごめんなさい。傷は塞げたんですが、呪印じゅいんは消すことが出来ませんでした……」


「呪印?」


「はい。先ほど蛇に噛まれたところに。まだ呪いが解けていない証です」



 そう言って彼女はトキの首筋を見つめた。どうやらこの場所に呪印が浮かんでいるらしいが、トキの視点からでは確認することが出来ない。チッと舌を打ち、彼は首に巻かれたストールを上に引き上げた。



「……アンタ、何だ。何で俺を助ける?」



 首をストールで隠しながら問えば、少女は僅かに目を見開いて答える。



「え、何でって……そんな、怪我人を放っておくなんて出来ませんし、神様の道理に反します……。それに、私のせいで関係ない貴方を巻き込んでしまったので……」


「……ああ、アンタ神職者か」



 一瞬げんなりしたような表情を見せ、トキは立ち上がる。服に付いた埃を払い、落ちた短剣を拾って、彼は目の前の少女を冷たい目で見下ろした。



「アンタ、何で女神の涙なんか持ってた?どこで手に入れたんだ?」


「……め、女神の……?」


「さっき魔女が持って行った宝石のことだ。女神の涙……ラクリマって呼ぶ奴もいる」


「ああ、あの宝石……そんな名前があるんですね……」



 少女はぼそりと呟き、虚空を見つめる。トキは未だに警戒心を解かず、短剣の柄を握ったまま更に続けた。



「俺はあの宝石に用がある。どこで手に入れたか教えろ」


「……」


「アンタも、怪我はしたくないだろ?」



 脅すように言い放ち、彼は短剣の刃をチラつかせる。しかし少女は怯む様子もなく、ただ悲しげに、その顔を上げた。



「……!」


「教えてさしあげられるのなら、教えてさしあげたいのですが……」



 澄んだ瞳が真っ直ぐと向けられ、トキは一瞬たじろいだ。だがすぐに体勢を戻し、彼女を睨む。



「……何か、問題でもあるのか?」


「……」


「おい」


「……私……」



 彼女は言いにくそうに再び俯き、消え去りそうな声で、その続きを語った。



「……私、記憶がないんです……」



 ──衝撃的なその一言に、トキは黙って息を呑むばかりなのであった。




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