第16話この世界のこと

 翌日から連日、ランスは一心不乱に絵筆を握っていた。もう一週間が経つ。

 周りの音なんか聞こえていないのではないかという集中力だ。リリィは若干、引き気味にソファーに腰掛けている。白いワンピースが眩しく日光を反射していた。


「あの、紅茶ですけど、どうぞ」

「あら、ありがとう!」


 優はランスが絵を描いている間は外出せずに家に居ることにしていた。しばらく自室で塗り絵をしたり、ランスに教えてもらった手順で洗濯をしたりと毎日が充実している。だが、時間が経つとどうにもリビングが気になって仕方がなくなる。毎日、午前中からランスは午後になっても絵を描き続けているのだ。優は慣れたことだが、リリィは疲れているのではないだろうかと思った。なのでこっそり覗いてみると、引きつった笑みを浮かべるリリィと目が合う。これはいつもの光景になっていた。

 覚えたての手つきで淹れた紅茶は美味しいかどうか分からない。けれども、リリィの気持ちを和らげるには効果があったようだ。


「ねぇ……彼、いつもこんな感じ?」


 小声でリリィが優に訊いた。優は「はい」と答える。


「ランスさん、集中すると周りが見えなくなるので」

「そう……貴方、良くこんな人に付き合っていられるわね」


 リリィは苦笑してカップを口に運んだ。「美味しい」と言って紅茶を啜る。その言葉に優は安堵の溜息を吐いた。そして、邪魔にならないように気を付けながら、ランスの手元を覗く。パレットには白い絵具が大量に出されていた。絵を見るとちょうど羽の部分を塗っているところだった。もうリリィの髪や肌は塗られている。凄い早さだ。早いけれども丁寧でダイナミックで……ランスの絵にはそういった特徴が見られる。

 絵筆を大胆に動かしながら、ランスは「ようし!」と大声を出した。驚いて優とリリィはランスを見る。彼はパレットと絵筆をテーブルの上に置くと、両手を上げて伸びをした。


「出来た! あとは上から重ねて仕上げるだけだ!」

「ちょっと早すぎない? まだ一週間だし……手を抜いてないでしょうね?」

「じゃあ、これを見給え!」


 ランスはキャンバスをリリィの方に向けた。そこには、白い布を纏った天使が木に腰掛けて横を向き、羽を羽ばたかせている躍動感のある構図の絵があった。リリィは息を呑む。


「凄いわね貴方……変わり者だとは思ってたけど、凄いわ……」

「それ、褒めてるの? 貶してるの?」


 ランスは不服そうに口を尖らせた。リリィは「もちろん褒めているわ」と苦笑する。


「あーあ。もう三時よ! お腹が空いたわ!」

「えっ。もうそんな時間? 言ってくれれば休憩したのに」

「言えないわよ! あんな気迫の貴方には……」


 リリィはソファーから立ち上がると、背中を伸ばして言った。


「もう帰っても良い?」

「ああ、ありがとう。送るよ」

「良いわ。まだ明るいし。帰りに寄り道してご飯にするから」


 そう言ってリリィは玄関に向かった。長時間座っていた為か、ワンピースの裾がシワになっている。


「それじゃ、王宮に飾られることになったら教えてね!」

「必ず伝えるよ」

「ユウ! 紅茶美味しかったわ、ありがとう! また喫茶店に遊びに来てね」

「あ、はい!」


 リリィのウインクにどきどきしながら優は答えた。

彼女はくるりと二人に背を向けてドアを開けて去っていった。室内に静寂が訪れる。沈黙を破ったのはランスだ。


「それじゃ、僕たちもご飯にしようか? もうおやつになっちゃうけど……」

「昨日、買っておいたパンがありますから、食べましょう」


 優は外出もひとりで出来るようになっていた。まだまだ体力は無いが、少しずつ出来ることを増やしていこう、そう決めたのだ。

「最近、ユウには動いてもらってばかりだね……ごめんね。全然、構ってあげられなくて」

「いいえ。まずは王宮の絵が大切ですよ」


 二人で少し硬くなったパンを食べた。

 味付けはバターのみで、シンプルな味わいだ。飲み物は優が淹れた紅茶。ランスも「美味しい」と言って飲んでくれるので、優は嬉しくなる。


「さあて。今日から徹夜かな」

「大丈夫ですか? 身体……」

「ふふ。まあ、そんなに若くないからね、気を付けるよ」


 言いながらランスは優の頭を撫でた。心地よさに優は目を閉じる。ランスのぬくもりは、いつだって優を安心させるのだ。


「これが完成したらね、必ず優の絵を仕上げるから」

「はい……楽しみにしています」


 優はイーゼルの上のキャンバスを眺めた。真っ白なワンピースを着た天使の絵。とても美しくて見惚れてしまう。けれど、もうひとつの……優がモデルになった絵には、また別の美しさがあると思った。優の絵は美しさよりも儚さが強いように見える。ランスの目には、優がそう写っているのだとおもうと妙に照れ臭かった。


「ユウ……リリィの絵が完成したら、良いところに行こうね」

「はい」


 良いところって、どんなところだろう……。優の心は躍る。ランスのことだから、きっと驚きと楽しさを見せてくれるに違いない。


「完成、もうすぐですね」

「うん」


 優は近い未来に胸を高鳴らせながら、手に持ったパンに齧りついた。


***


「ランスさん……」

 午後十一時を回った頃、優はコーヒーを淹れてアトリエに足を運んだ。トレイの上でカップに入ったコーヒーが不安げに揺れている。


「ユウ、どうかした?」

「あの、コーヒーを淹れたので良かったらと思って」

「ありがとう。そこに置いておいて」


 優はアトリエに一歩踏み入れると、机の方へ向かった。散らかっている机の上の物に触らないように注意しながら、空いている場所にカップを置いた。ランスはというと、優の方など見ないでキャンバスに集中している。

 ――凄いな……。

 昼間に見た時よりも色が濃くなった絵を見て、優はそう思った。絵には影が大げさなくらいに塗られている。


「遠くから見るから、このくらい大げさな方が良いんだ」

「そ、そうなんですか」


 優の心を読んだかのような発言に心臓が跳ねた。ランスは優の気配を敏感に感じ取っているようだった。


「あの、それじゃあ俺、行きますね……」

「ユウ」


 アトリエから出て行こうとする優をランスが呼び止めた。ばちり、と目が合う。その目は、画家のスイッチが入っていてとても鋭かった。


「は、はい……!」


 何かまずいことでもしたかな、と優は身構えたが、ランスの口から出て来た言葉は衝撃的なものだった。


「キス、して」

「へ?」

「キスが欲しい」

「……」


 ん、とランスは目を瞑る。

 どうしたものかと考えた優だが、ランスはキスするまで目を閉じているだろう。そうなったら絵を描く手が止まってしまう。

 ――えいっ。

 優はトレイを抱きかかえてランスに近付いた。そして、触れるだけのキスをする。ちゅ、とアトリエには不釣り合いな音が響いた。


「……」

「あの、ランスさん……」

「ありがとう。これで頑張れるよ」


 ランスは微笑んで言った。優の心臓はばくばくとうるさい。


「……満足でしょうか?」

「うん。ユウ補給出来たし」

「はあ」

「もう遅いから早く寝るんだよ。コーヒーありがとう」

「いえ……」


 ふふ、とランスは笑うとまた手を動かし出した。優はしばらくそこに立ち尽くした後、そろりそろりとアトリエを後にした。ドアを閉めて、へなへなとその前にへたり込む。


「ランスさん、ああいうところあるよね……」


 小声で漏らした言葉はランスには届かない。

 優は暴れている心臓を落ち着かせる為、しばらくその場を動かなかった。


***


「ユウ、ちょっと出てくるね」


 翌日の午後、昼食を食べ終えたランスは明るい顔で言った。徹夜明けなのにとても元気そうだ。テンションを高くするスイッチがオンになりっぱなしのように。


「分かりました。どちらまでですか?」

「内緒。あと、帰りに薬局にも寄るから、お薬見て来るね」

「それは……ありがとうございます」


 それじゃあ、とランスは例の何のデザインか分からない鞄を肩に提げて急ぎ足で家を出て行った。取り残された優は、とりあえず食器を洗うことにする。割らないように慎重に、一枚ずつ皿を手に取って洗剤を付けた。


「内緒って、どこに行ったんだろう……」


 優は疑問に思ったが、あまり深く考えるのを止めた。相手は芸術家だ。きっと自分には思いもつかないようなことを考えているに違いない、と。

 ――もしかして、良いところ、に関係しているのかな……。

 食器の泡を流しながら優は思った。

 徹夜の感じだと、絵はもうすぐ完成だ。後に待っているのは「良いところ」だけ。自分の絵も完成させてもらわないと困るが、ランスの計画だと出掛ける方が先らしい。


「……どこに連れて行ってもらえるのかな」


 ランスのことだ。絵に関係する場所……美術館とかだろうか、と優は思った。優は美術館に行ったことが無い。なので、少し期待に胸が躍った。そういえば、この世界には美術館というものはあるのだろうか……。


「この世界のこと、俺、何にも知らないな……」


 今夜あたり、ランスに教えてもらおうと思った。優自身、自分の居た世界のことをほとんど理解していない世間知らずだが、ちょっとなら情報交換が出来るのではと思う。

 そんなことを考えていると食器洗いは終わった。

 優は手持無沙汰に時計を見た。ランスが出て行ってまだ三十分も経っていない。それなのに静かな部屋でひとりで居るとものすごく長い時間に感じられた。

 優はテーブルに着いてぼんやりと時の流れを感じていた。

 ――ランスさん、早く帰ってきて……。

 そう願いながら。


***


 結局、ランスが帰って来たのは午後四時を回った頃だった。

 手に大量の荷物を抱えている。


「ごめんねユウ、遅くなって!」

「いえ……」


 テーブルの上に荷物を並べ、ごそごそとビニール袋を探りながらランスが言った。


「ついでに、いろいろ買っておこうと思って……はい、ユウ。これお薬。前のやつより効き目が強い奴だって」

「あ、ありがとうございます」

「それから、これは絵具で、これは明日のパン……」


 どんどん荷物を整理していくランスを、優は勝手に触るもの悪いと思って眺めていた。ランスが提げている鞄が膨らんでいるから、本当にいろいろなものを買い込んだのだなあと思う。


「ユウ、良いニュースがあるんだ」

「良いニュース?」

「そう。一週間後にね、良い場所に行けるよ」


 やっぱり、それが関係していたのか。優は予感が当たったことが嬉しくて笑った。


「そうなんですか。楽しみです」

「明日、服を買いに行こう。ちょっとドレスコードがあってね……」

「えっ。そんなに立派なところなんですか?」

「ふふ。内緒」


 美術館にドレスコードってあったっけ……と思いながら、優は首を傾げた。いったいランスはどんなことを考えているのだろう。


「さあて。予約もしたし後には引けないぞ! あと五日で絵を完成させる! そして搬入して……ふふ」


 嬉しそうに頬を緩めるランスを、優は黙って見ていることにした。ここはランスに任せておこう。せっかく本人が楽しみにしていることなのに水を差すのは良くない。


「さあ! お肉を買ってきたからね! 今から焼き始めよう」

「嬉しいです。ありがとうございます」


 テーブルの上を片付けてランスはやる気満々だ。優もつられて笑みを零す。夕食には少し早いが、徹夜するランスには丁度良い時間かもしれない。優は自ら洗った食器をもう一度テーブルに並べた。


***


「コセキ? 何だいそれは?」


 夕飯の肉を食べながら、優はこの世界のことをランスにいろいろと尋ねていた。

 異世界から来ている自分には戸籍が無いこと。なのでこれから先、生活するにはどうすれば良いのかとランスに訊いた。しかし、ランスは首を傾げて意味が分からない、と言った様子だ。


「あの……子供が生まれたら出生届を出しますよね?」

「シュッセイ、何? ごめん。分からないよ」

「じゃあ、そういう制度はこの世界には無いんですか?」

「うーん。聞いたことが無いね。子供が生まれたら、十日間、月夜に照らして神に祈るんだ。そういう習慣はあるけれど」

「じゃあ、俺はいったいどういう扱いになるんでしょう……? 異世界から来たなんて誰にも言えないし……」

「そうだね……。外国から来たことにしたらどうだろう?」

「それじゃあ、パスポートが必要ですよね?」

「パスポート? それは何?」

「国境を超える時に必要なもので……」

「へえ……けど、ユウ。この世界にそういう物は無いよ」


 そのことを聞いて優は安心した。どうやら優はこの世界で安泰に暮らしていけそうだ。穏やかな笑みを浮かべた優の頭を、ランスは撫でた。


「じゃあ、ユウの世界のことを聞かせて?」

「はい。と言っても、俺はほとんど家の中で過ごしていたから……あまり詳しく言えないんですけど」

「構わないよ。ユウの知っていることを教えて欲しい」

「そうですね……科学技術とかは、この世界と変わらないんじゃないかな……洗濯機とか、水道とかありましたから。違うのは、人権っていうのかな……オメガの人に対する風当たりぐらいで。そうだ、この世界に美術館はありますか?」

「美術館? あるよ。僕の絵も飾られている。列車に乗って行く距離だけれどね。今度、一緒に行こう」


 良いところは美術館ではないらしい。優は頭の隅の方で考えた。ランスが行きそうな場所……駄目だ。まったく浮かばない。

 ランスは肉をナイフで切り分けながら、優の話を興味津々といった様子で聞いていた。だが、少し表情を曇らせて口を開いた。


「ユウ……故郷が恋しくなったりしないかい?」

「えっ?」


 思ってもみない発言に優は目を丸くして答えた。


「全然。俺には帰る場所なんて無いので……今は、ランスさんのところが帰る場所ですけど」

「……そう言ってくれて嬉しいよ」


 心からの笑顔をランスは見せた。優もつられて笑う。

 未練など何もない……。あの時、ポーンと取引をしなかったら自分はどうなっていたのだろう。考えただけで寒気がした。

 ランスに出会えて良かった、と心から今は感謝している。


「さて。優の抱えていた問題は解決したし! 僕も頑張って問題を解決しよう!」

「問題? 何かあるんですか?」


 ランスは、しまった、というような顔をして苦笑した。


「……絵の納期のことだよ」

「はあ……」


 誤魔化すような顔のランスだが、優はそれに気づかないふりをした。

 ――何か悩みがあるのかな、ランスさん……。

 しかし、優は追及しないでおいた。ランスは大人だ。もし何かあれば相談してくれるはず。そう信じて――。


「それじゃ、僕は絵を描くから……」

「はい。食器のこととか任せて下さい」

「ありがとうユウ……明日は朝から出掛けようね。僕も出来るだけ早く休むから、ユウも早く眠ってね」


 そう言い残すと、ランスはアトリエへ消えて行った。優は昼間と同じように食器を一枚ずつ流し台に運ぶ。

 

「ドレスコード、か」


 いったいどこに連れて行かれるのだろう。優は期待半分、不安半分といった気持ちだった。


「明日、楽しみだな……」


 二人そろって外出するのは久しぶりのことだ。優はランスに服を買わせることに申し訳なささを感じながらも、出掛けられることの喜びを噛みしめていた。

 

「ランスさん……」


 優は食器を洗いながら明日へと思いを馳せた。

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