「喧嘩にいるのは理由だけだ」
強情さ極まった男とは、こういう奴を言うのかね。
起き上がらなきゃ、こっぴどく痛めつけられボロ雑巾呼ばわりもされずに済むのに、これがどうして起き上がる。
実力差は中々に明白。技も無ければ術も無い、そいつを補ってくれる経験だって若さ故に足りず終い。
しかして、執念だけは人一倍だ。倒れては立ち、挫けては立ち、また斃されてもなお立ち上がる。
痛いのなんざどうだっていい、怖いのなんざ知ったことか。だけど、ここで倒れっぱなしの俺にだけは納得してやるか。
納得してやるもんか。
血濡れの瞳は意地しか感じさせないその言葉を、それはもう呆れるほどに語ってみせていた。
馬鹿な男だ。
馬鹿な男だから、滾っちまうだろうが。
……
喧嘩にいるのは理由だけだ。
場所や時間なんてものはどうだっていい。互いに理由があれば、喧嘩をやるには十分だ。
それ故に脳天直下の酒瓶一打、居酒屋の一角で渡児郎はそいつをおっ始めた。
睨んだ獲物に気安く話しかけ、ちょいと訳を語り、問答無用とばかりに一撃。渡には仕事という理由はあるも、獲物に渡を相手にする理由はこれっぽちもありはしない。面倒ながらも、こちらで理由を作ってやる必要があったのだ。側から見たら衝撃的だが渡にとっちゃ日常茶飯事、歯牙にも掛けぬ面構えだ。
多少強引が過ぎるとて、その方が獲物も本気になるというもの。それに、四十路を越えた体で意気盛んな若造相手に正々堂々というには、一抹の不安がよぎる。故に、一撃くらいのハンデはいいだろう。
それが冗談か本気かはさておき、ハンデに酒瓶は些か大きすぎたのかもしれない。獲物の男は額より血を流し、今まで頬張っていた焼き鳥の串を散らかしてカウンターに昏倒している。案外白目も剥いているかもしれない。
だが、渡はそれでこの男が、セイマというこの男が終わらないということを知っている。むしろ、ここからが始まりであると、固唾を飲まずにはいられない。
呆れた素振りを見せる店主に、興奮からか歓声を抑えられない群衆たち。居酒屋の喧騒は、次第に大きく膨れ上がっていく。それこそ波から波が広がるように、水面が戦慄きたつように。
「……るッせエな」
そんな群衆に嫌気がさすように、奴はゆらりと起き上がるや否や、途端に立ち上がって渡に対峙してみせる。
流れる酒混じりの血には目もくれず、しかし、一撃を見舞ってくれた眼前の男をしっかりと瞳に捉えて仕方ない。言わずもがなに握られた拳に、その目の据わりようからして、コイツもコイツでおっ始める気は満々のようだった。
「これで筋が通ったろ……と、そいつを見れば聞くまでもないか、セイマのにいちゃんよ」
「だからるッせェんだよ、喧嘩の代行だかなんだか知らねェがな、一度やったからにゃ今更言葉なんざいらねェんだよ」
「やっぱり短気だな、それじゃ足を掬われるぜ?」
「るッせェって何度も言わせんなよ、オッさん!」
怒りのままに踏み出すや、振りかぶった拳で渡に襲い来る。
そんなどこまでも予測通りの動きをするセイマに、渡はどうにも可笑しさが込み上げるのを我慢することができなかった。
本当につくづく馬鹿な男だ。そんなンだから、今回の依頼の獲物にも選ばれちまうンだよなぁ。
その依頼主は、文字通り歪んだ顔でやってきた。本来ならば、女受けも十分な美男子だったろうが、頬骨は折れ瞼はどこぞの幽霊のように腫れ上がっている。体だって所々の骨が折れ、松葉杖のお世話になる始末だ。その酷さは、こう手を顔に覆いたくなるようなものであった。
彼が言うには、面白半分で賭博試合にでたら、対戦相手がこっぴどい奴で酷く痛めつけられたという事らしい。そういうことだから喧嘩で自分と同じくらいに痛めつけてほしいと、それが彼の依頼だった。
意趣返しどころか逆恨みも甚だしい。しかし、こういう奴に限って大枚叩いてくるものだから、受けざるを得なかった。喧嘩を、いや、喧嘩の代行というものを商売としている以上、その理由がどれだけ矮小であれ、渡としてはどちらにしろ受ける選択肢しかなかったが。
だが、自らの持ち味が全て潰されるような酷い痛めつけは、喧嘩二十数年の渡でも早々見ない。龍の逆鱗にでも触れたのなら話は分かるが、奴は面白半分で賭博試合に出ただけである。
分からぬのならば、分からなければなるまい。でなければ、勝てる喧嘩も勝てまいさ。
兎にも角にもまず渡が行ったのは、今回の依頼の獲物であるセイマという男を知ることであった。
知れば知るほど馬鹿な男だとは分かったが、改めて見るとやはり馬鹿だな。
猪突猛進、直情上等、奴は堂々と真正面から突っかかる。
『アンタと闘る理由なんかねェぜ、喧嘩の代行とやらを呼んで喧嘩なんざ筋が通らねェだろ。俺をブチのめしたいんなら、直接来やがれってんだ』
などと曰っていた男が、今じゃその喧嘩代行に本気になっていやがる。最早、セイマは渡に借りを返さねば、納得がいかないときているのだろう。その気にさせれば、この男は目に入るモノだけになるというのは、どうやら本当のことだったらしい。
だからこそ、その動きは雑が過ぎた。
分かりやすい拳、読みやすい蹴り、捌きやすい技、どれもこれもがなっていない。勇み足の攻めは、無用な隙をも露わにする。
ソイツを躱してみれば、露わになるガラ空きの胴、そこに今度はこちらが拳を叩き込む。鳩尾を狙った一撃は、セイマをぐらつかせるには十分。口から溢れる呻き声、体もどうしたって揺らぎを隠せない。なればこそ、渡は攻撃の手を緩めない。
一発、もう一発、なおも止まぬ一発。拳の乱撃がセイマの腹や胸をめった打ちにする。さらには、尋常じゃない痛みに悶える背中に肘を入れ、ついでに店の迷惑も考えてセイマを路上へと蹴り出した。
急所などを的確に狙った攻撃は、打たれ強さで賭博試合に名を通すセイマでも安いものではないだろう。
しかし、油断は禁物だった。渡は知っている、奴が薬物を盛られても凄絶な蹴りの嵐に打たれても、立ち上がったことを知っている。
渡も路上へと踏み出るが、トドメを刺すにはまだ早いと見て、間合いを置いての様子見を決める。
事実、渡の目が捉えていたのは、痛みに唸りながらも立ち上がろうとするセイマの姿。
正直、三十秒くらいは身じろぎできぬかと思ったが、これは認識を改める必要があるかね。
拳を鳴らしながら、渡は敢えてセイマが立ち上がるのを待つ。しかし、正々堂々を気取っているわけではない。これが正々堂々と言うのならば、今まさに立とうとする男に失礼だろう。むしろ、立ち上がることに力を使わせた方が賢明だと考えただけである。ただの戦略眼というものだ。
だが、ちょいと油断も過ぎていた。
そろそろ起き上がるか、相変わらず据わった目は渡を映しているか。
それが見えるか見えまいかの瞬間、奴の足は地を蹴った。
まだ猶予があると思っていた渡は、まんまとこれに引っ掛かる。反応しようにも、先に拳の一打が頬を弾いた。
続けて、反対の頬をまた一打。もう一打と思ったが、流石の渡も三度目は許さない。受けた反動をそのまま裏拳で返し、セイマの追撃を許さない。
それで止まるセイマではない。尚も渡に向かっては、がむしゃらに拳を繰り出してみせる。
拳が届かないならば蹴りが、蹴りを防がれれば頭突きで、それすらも捌かれれば執念を、攻め手は意地でも緩めない。隙を突かれ反撃を喰らおうが、それがなんだと足掻き来る。
まさに応酬。
この攻めと返しの応酬に、路上に観衆が群がって、歓声は元より野次すら飛ばす輩も出る。
しかし、やはり有効打は渡にあり。続け様の乱撃よりも、確実な一手。渡の体にセイマの一撃は届きはするも、渡の反撃には到底及ばぬ代物だ。
さらには、次第にセイマの動きが読めてきたか、一撃を繰り出すその前に渡が拳がセイマを撃つ。一に一だった応酬が、二に一、五に一、終いには十に一となる始末。執念見せるその貌も、滲んだ傷がよく目立つ。
単純未熟。二十数年修羅場を潜り抜けてきた渡にとっては、セイマなんぞはまだまだケツの青い若造だ。ましてや、がむしゃらに向かい来るような奴は、先の四文字が人の形をしてるに過ぎやしない。
経験はモノを言う。かのような若造相手に幾度も喧嘩をしてきたのだ、順応は当然の事。あとはガタがき始めてるこの体がイカれる前に、決着を付ければいい。
セイマの攻め手を封殺し、詰め手を確実に撃つ。一撃一撃が急所を確実に穿ち、奴の打たれ強さという強みをも殺していく。
勝負は次第に見え始めてきた。応酬は遂に十に零、拳を出させる猶予を握らせるかとばかりに渡はセイマを攻め立てる。奴が瞳は前を向き、渡を捉え続けているが、意地だけ張っていたって勝利には繋がらない。
「お前さんの戦い方は賭博試合でよく見させてもらったんだ。喧嘩で勝つためには情報の収集、考察というものが必要なんでな。しっかし、それにしても分かりやすい戦い方だなァ、オイ!」
「オッサンになると口数が多くなるンかい、歳は取りたくねェもんだ。オラ、攻め手が緩んでいるゼ!」
「大口叩くんなら、俺にもう少し拳を当ててからにしやがれよにいちゃんッ!」
その言葉に応えるかのように、撃たれながらもセイマの拳が渡を狙い定めるが、コイツも狙いがバレバレだ。拳が突き出されるその直前、器用にもその手首を肘で落とし、ついでの一撃を顎に穿つ。
相手の勢いをそのまま返す一撃に、さしものセイマも膝が折れる。そいつをどうにかしようと踏ん張ったのが運の尽き、気づいた時には拳が鼻先、そのまま顔面を潰さん勢いの拳がセイマを地へと抉り倒した。
「どうだいにいちゃんよ、そこそこ俺もやるだろう? それとも、お前さんが追っ付いてないだけなのかもしれないがな」
見事にぶっ倒れた若造に、年季の違いを見せつける。足りぬものが勢揃いな癖して、真っ向から堂々と突っ込む姿はまさに馬鹿そのもの。しかして、尚も格上の相手にその馬鹿さ加減を見せたのは、一周回って流石なものだ。
まあ、その馬鹿もそろそろ見納め時だろう。顎への一撃は相当なものだし、肋骨だっていくつか折れているにちがいない。そもそも、最初の一撃が相当なものだったはずだ。いい加減体のどこかにその効きが現れてもおかしくはない。
そう、思いたかった。
見ろよ、生傷絶えない身体は尚も起き上がってみせるじゃないか。
拳を撃ち抜かれたその顔は、それこそ奴が痛めつけた美丈夫のように歪んでしまっている。鼻血を流し目には酷い青痣、その目で一体どれほど見えているのかはわかりゃしない。
そのくせに、奴が瞳は今も渡を捉えている。捉えて、そして決して外さない、離しもしない。
「チッ……しぶといお前さんが悪いんだぜ」
今度は待つという真似なんぞはしない。先程のような一撃を喰らうのはもう懲り懲りだった。狙うはその瞳、うざったくも渡を捉え離さないその瞳を潰しに蹴り込む。
だが、奴もただ待つわけじゃない。渡が動いたのと合わせて、痛みに呻く体で打って出る。
蹴り込まれた脚を躱しざまに体当たり、そのまま渡の体を腕で抱き付かむ。そこまではよかったが、投げようにもやはり傷が重いか、渡を掲げ上げるまでには至らない。
そんなセイマの頭蓋に、渡は容赦無く拳を落とす。一度で離さないなら二度目を、それでも離さないならば今度は脊髄を狙い撃つ。それでも奴が指は、渡の体に抉り込むように掴み続けていた。
「そうやって賭博試合でも意地張ってたようだがな、引き時のわからねえ奴はみっともねえぜ。ついでに言やぁ長生きはできねェだろうな!」
膝を腹に、拳を頭蓋や首元に、そいつを幾多にようやくセイマの指は引き剥がれる。内臓は掻き乱されるような痛みに頭への集中的な攻撃は、奴の意識を朦朧とさせているに違いない。そう睨んだ渡の、ここで幕引きとせんばかりの容赦無い攻め立て。
倒れぬならば、倒れるその時までやってやろうじゃないか。喧嘩とは言えない、もはや蹂躙ともいうべき代物だが、お前さん相手にゃしゃあねぇ話だ。
足元は覚束ず、視界も相当歪んでいるだろうくせして、その蹂躙を前に奴はまだ立っていやがる。渡が重い拳を腹に突き入れようと、脚を蹴たぐっても、先程のように易々とは倒れない。
テメェの思い通りにいかせてやるかよ。
奴が瞳は、なおも強情張ってそう言わんばかりに渡を捉えて外さない。機を見ては拳をも繰り出さん勢いだ。時にソイツが渡の鼻先紙一重を掠めるものだから、一瞬ふっと滾らされるものもある。
だが、その程度だ。
次に倒れた時が、今度こそセイマの終わりである。最早立ち上がる余力も、奴の支え杖である意地も、次に倒れてしまえば全て挫けるはずだ。
「悪ィなにいちゃん、ここで終わりにさせて貰うぜ」
奴が意地の猛攻を掻い潜り、今度は渡がセイマを壁際に追い詰め、トドメとばかりに拳を握り直す。狙うはこめかみ、どれだけ打たれ強かろうが、ここに拳を抉り抜けば誰だって意識を失う。このしぶとさ極まる男とて、例外ではあるまい。
腰を入れろよ、狙いは決して見誤るな。この幕引きの一打、締めの一発こそ喧嘩の華というものよ。
しかし、どうしてこう物事というのは上手くは運ばないのかね。
振り抜いた拳が奴を穿つ。
と同時に、自らの頬が弾けたのに渡が気付いたのは一秒遅れ。次にそれが奴が拳だと気付いたのは、さらに一秒遅れ。
倒れるほどの威力ではない。しかし、こちらの勢いが反動となった故か、少しばかり脚が揺らぐ。
だが、狙いは外したが、渡が拳も奴に見舞いはできていたらしい。視界の端で捉えたのは、ずるりと壁際に寄り倒れるセイマの姿。
一度体勢を整えるや、すかさずセイマと対峙する。死に体の若造と、対峙する。
終わりは見えていたはずだった。
最早、この若造とやったところでこちらの勝利は見えていたはずなのだ。奴が姿をみれば、それは歴然のことである。
その痣だらけの脚でどうやって立つ。傷だらけの拳でどう戦う。半殺しにされた身体でどう足掻くつもりだ。どうもこうもないじゃあないか。
気概の一つを見せたところで奴の息は絶え絶え、先の推測通り立ち上がる余力もありはしないだろう。
そう思えども、じんと滲みるは頰に刻まれた奴が意地。これがどうにも諦めの見えぬ執念が、今もなお燃え燻っているように思えてならない。
何よりもその瞳だ。ぶっ倒れながらも、奴はどうして渡を瞳から外そうとしやしない。
意地でも、外しやしなだろうて。
「……呆れるぜ」
喧嘩は好きだ。本気でやり合うのも好きだ。血が滾る感触は、今でも心地よさすら感じさせてくれる。
しかし、四十路になってまで喧嘩を本気でやり合うのも馬鹿みたいじゃないか。おっつかなくなりつつある体じゃ、商売にしたって限度がある。実のところ、そう自嘲せずにはいられない己がいるのを、渡は薄々感じてならなかった。
いつかは、喧嘩で死ぬのも本望だと思っていた。若気の至りで、喧嘩の代行なんてものも商売にして、喧嘩に生きようと己が道を踏み出した。憧れに勇み生きようとしたものだった。
今になってみれば、それは間違いだったかもしれない。
なにせ、この体がいつまで喧嘩なんてものをできるか分かったものではない。拳の振りが二十代の時より落ちていくのをひしひしと感じているし、長時間の喧嘩なんてしようものなら終わりがけには肩で息をする始末だ。このまま五十に入ってまで喧嘩をする自分を想像してみろ、いや、五十の自分の姿なんて全くもって具体化しやしない。
そいつに気づいた途端、一寸先は闇。いや、そんな先を見るようになってしまったことこそが、老いというものなのだろうか。
渡が相手の情報収集をし戦略を立てるようになったのも、確かそういったことからだった。老いつつある体じゃ、若造の意気盛んさにはとても追いつけない。だったら、ちょっと臆病なくらいが丁度いい。情報を入念に調べ、考察し、そしてその戦略をもって勝利する。それはそれで気持ちがいいものだし、仕事としてやっていく上でも割りが良かった。
もう四十路なのだ、おっさんなのだ。喧嘩なんてそんなもの、その程度で楽しんで、生活するための金が稼げればそれでいいじゃないか。馬鹿みたいに全力にならなくたって、そうしてなあなあに生きていければ安泰だ。
奴が瞳に、この頬に刻まれた意地の欠片に、今もふつふつと滾る血なんてものは、無視してしまえばそれでいい。
それでいいと、そう思っていた。
だが、こいつというこの男は、セイマというこの馬鹿は、どうやらそうではないらしい。
賭博試合の最中にある奴もそうだった。路上でチンピラ相手に喧嘩をおっ始める奴もそうだった。
相手が遊び半分だろうが、それは関係無い。むしろ、己が前に立つのならば死んだって文句は言えまいとばかりに、奴は喉元目掛けて喰らいつく。
後先なんて考えちゃいない、今この場に納得いかねえからこそ全力で拳を振るう。それこそ、馬鹿の二文字が服を着た姿のような男がそこにいた。
今目に入ったものが全て、そいつに納得できるまでは、拳を振り下ろそうとは決してしない。そう言わんばかりの生き様は、今もこうして描かれている。
それは、目の前に餌をぶらさげた畜生のような、愚かが過ぎる生き様だ。後に続く者はおらず、無用な恨みすら買う始末。その傷だらけの背中じゃ、いつくたばったっておかしくない。
辛うじて長生きができたところで、そんな生き方をしていちゃ後戻りもできまい。まともな職にも就けず、老いた体でなおも戦いがやめられず、タコ殴りにされても無様に拳を振るうだけになるだろうて。
終いには、殴られ倒しでそれこそ頭がモノホンの馬鹿になってしまうかもしれやしない。何も考えられず、木偶人形のように生きるしかない未来は、それこそゾッとするものだ。
奴がここで立つということは、そんな未来に確実に一歩、また一歩と踏み進んでいることに他ならない。
怖くはないのか、恐ろしくはないのか、自分が自分とわからなくなるかもしれないというのに。
……いんや、コイツを前にしちゃこんなもンは野暮って話だろうかね。
立つ。
渡の瞳に映った奴は、何度だって立ってみせやがる。
倒れっ放しの己に納得なんかしてやるもんかと。
コレだけは、譲ってやるもんかと。
血濡れの瞳は馬鹿みたく、そう意地っ張りに語ってみせる。
それだけじゃあない。握られた拳に未だあるは気概、その戦慄きは奴に目にモノを見せたらんと言わんばかり。
馬鹿は馬鹿にも程がある。
そろそろ、付き合うのも懲り懲りだっだ。渡からすれば、十分勝利は見えている。あとは、適当にこの馬鹿を終わらせれば、仕事は完遂だ。流石の打たれ強さだって、いい加減ここいらが幕の引き時じゃあないか。なにより、四十路を超えたこの体ではそろそろしんどいものもあった。
しかし、どうだ。
そこにあったは背広を脱ぎ捨て袖を捲り、歴戦の腕を露わにする渡の姿。それも先の呆れ顔は何処へやら、真っ正面から堂々と。構えた拳は、眼前の馬鹿に応えるように握られている。
滾った血が、どうしたってそうさせる。
これじゃあ、どっちが馬鹿だかわからなくなっちまうな。
賽は、振られた。
渡が構えたのを見たか気づいたか、幾多の傷を背負った体を引きずって、馬鹿はまた一歩踏み出しに来た。あいも変わらず振り上げたるは単純明快が過ぎる拳、側から見たら死地に自ら踏み込む愚か者の姿よ。
渡は、ただそんな奴が仕掛けてくるのを待てばよかった。奴が攻めを捌いて急所にでも撃ち込めば、それで終いだった。だというのに、渡もまたセイマに合わせ、一歩を踏み出し拳を繰り出す。
弾けるは面の皮。
軋み響くは骨の髄。
かき乱されるは腹の臓。
応酬はまた再び。一進一退、そう言うにはやや渡の方に分があるか。正面からの撃ち合いでも、技術があればこそ撃ち込めるものもある。それに奴は満身創痍の体だ、やはり拳だって鈍くもなる。
だが、それにしてはどうだ、渡の顔にも傷が一つ二つと刻まれつつあるじゃないか。
十に一だった拳の撃ち合い、それが五に一、ひいては三に一まで押し返されている気分にもなる。満身創痍の拳なれど、己を賭け意地を握った一発は、喰らえば重く響き沈む。
それに奴め、俺の動きが読めてきてやがるぜ。
前兆はすでにあった。路上での不意打ちに先の頬への一発、アレはきっとまぐれなんかじゃあない。奴は狙っていた、とまでは言わないが、隙を嗅ぎつける鼻はあるみたいだ。
今だってそうだ。こちらが拳を返し撃とうとした隙を付く腹への一打に、顔面を撃たんとした拳を読み躱し逆に頬を抉ってみせた一撃。
殴られ抜いたその体で、対する男の動きを覚えたか。正面堂々の直情馬鹿だとは思っていたが、喧嘩一筋に生きてきただけはあるらしい。
しかし、その隙を生んでいるのはむしろ、俺自身にあるのかね……畜生が。
喰らわば喰らい、撃たらば返す。そんな正面切った撃ち合いは、やはり老いつつある身体じゃ付き合いきれぬものらしい。拳の振りは、やはり思った以上に遅い。渡が一発撃ち入れたところで、次を握る内に奴が拳が届く始末。
奴が堪えみせているこの拳も、こちらが喰らえば案外足がふらつく始末で。ましてや蹴りが腹にでも入ったら、蹲りたくなってしょうがない。昔だったら、もう少しくらい根性を見せていただろうに、情けなさといったらなかった。
ただ仕事として喧嘩をするなら、勝たなきゃならない。それをわざわざ勝ち筋の薄い土俵を選ぶなんぞは、なんとも渡らしくない。らしくない真似は、さらに己を追い詰める。
傷深しといえども若さ漲る体に老いゆく拳は次第に追い付かず、ついには繰り出す間も無く渡が顔面に一発叩き込まれる。そいつに怯んだ隙にまた一発、さらに喰らいやがれともう一発。
思考も戦略もかなぐり捨てて裸一貫での勝負というのは、今の渡には分が悪すぎた。どうやら、馬鹿になるには遅すぎたのかもしれない。
存外、青臭さ残る頃だったとしても、この執念深い打たれ強さを真っ向正面にして、どこまで相手にできたか分かりやしない。渡自身すら、ここまで執拗に噛み付いた覚えなんざてんでありゃしないのだから。
口に滲み始めた血の味に歪み始めた視界、体力なんざはもうとっくにつきかけて仕方ない。ちょいとでも踏ん張りを忘れたならば、ぶっ倒れるは必定よ。
だというのに、未だ迫る馬鹿を真正面に、なおも渡は拳を振るう。
それでもと、振るわずにはいられない。
ここまで馬鹿を見せられちゃ、俺だって滾っちまうもんを無視できねぇじゃねえかよ。
喧嘩にいるのは理由だけだ。
けどな、その理由が仕事だから、なんざやっぱりつまらないじゃないか。ましてや喧嘩で生計をたてなきゃ、なんて拳を振るっていた自分が逆に馬鹿らしくって仕方がない。俺よ、喧嘩ってのは金や生活のためにやるものじゃないだろうよ。そんなんだから、老いだとか今後だとかを考えてしまう。喧嘩をするときに見ればいいのは、目の前の奴だけでいいってのに。
そうだ、喧嘩の理由なんざ、喧嘩がやりたいからで十分だった筈だ。気に入らない相手を土俵に上げて、正面堂々に殴り合う。その拳に己が全てを賭けて、そして互いに血が滾るままに殴り合えれば、それで良かった筈だった。そんな簡単なことを、俺は忘れてしまっていたらしい。
その点、目の前の奴はまさしくそれだ。
ケツに火を付けたのは確かに俺だが、意地を譲らないのは奴自身だ。
不意に一発喰らわされ、一方的に殴られ通し、しかしそれで終わりなんざ納得してやるか。それを拳とナリでトコトン語り続ける男だ、決して譲りはしないだろうよ。
……かつての俺だって、そうだったさ。
目の前のムカついた野郎に喧嘩をふっかけて、それでトコトン拳を交わして満足していたあの頃。譲れないものを拳に握って、熱みたく沸騰したような勢いで生きていた。
馬鹿みたく生きていた。
そんな記憶は、今ではもう泡沫の夢だ。いくら望んだって、過ぎた日々に還ることは出来やしない。
もしもあの頃に還ることができたなら、そいつは夢を見ちまっているようなものだ。ふつふつと、血が滾るような夢を。
だから今だけは、そんな夢を見させてくれ。
俺を、馬鹿でいさせてくれ。
……
それがらしくないなんて事は、渡自身がよく分かっていた。痛いほどによく分かっていた。
今日この日のために組み上げてきた戦略と戦術、得た情報すらも全て捨てた。それまで積み上げてきたやり方を、あの一時だけ全てかなぐり捨てた。そうまでして馬鹿になるのは、本当にらしくない真似だった。
路上で描いた無様な大の字は、そのツケとも言うべきか。
一度倒れた体は、なかなか起き上がりやしない。最後に食らった渾身の大振りが脳髄を揺らしたせいか、指一本すらまともに動かない。これには、溜息も禁じ得ない。
奴は何度となく立ち上がったというのに、俺ときたらこのザマか。
当の奴はといえば、意地を張って渡の傍らに立っていやがった。その体は、青痣だらけの生傷まみれなんて言葉じゃ片付けられやしない、見れば見るほど見るに耐えない様相だ。立っているだけで痛みが全身に響いているだろうというのに、その素振りすら見せようとしない。
なんとも度し難い馬鹿じゃないか。
「……完敗だな、コイツは」
「何処が完敗だよ。最後に真っ向から勝負をかけなきゃ、勝ってたのはアンタかもしれねェってのに……完敗はねェぜ」
口をついて出た一言に、苦虫を潰したような言葉が降ってくる。セイマからしたら確かにその通りだと、返す言葉もありやしない。
「正直納得いかねぇな。俺が勝ちたかったのはアンタのやり方で戦うアンタだぜ、最後のアレはアンタのやり方じゃねえだろ。初めにあったアンタらしさがまるでねえよ」
「勝ち誇ったように立っている癖に、随分と生意気な口を叩くんだな」
「……勝ち誇っているわけじゃねぇし、勝ち誇れるかよ。ただな、アンタ自身を捨てたアンタに死んでも負けてやるか、そう思っただけだ」
驚けばいいのか、またしても呆れたらいいのか、なんとも拘りが過ぎた男よ。
やりたい奴と真正面から殴り合えればそれでいい、奴はそういうわけじゃなかった。ただ、『奴のやり方』がそういうものだった、というだけなのだ。
そこに行き着いた時、先の何とも甘い見通しに渡は自分を笑いたくなった。
「そうかい……そりゃあ負けるわな」
勝手に奴を過去の自分と重ねて、滾るままに全てをかなぐり捨てていた。この十数年で積み上げた経験を、戦略を、戦術を、そして自分のやり方を。
全部捨てて、初めてもう一度馬鹿になれるのだと、そう思いこんでいた。
喧嘩代行十数年、俺という人間は余計なものを知り過ぎた。喧嘩だけを生きてきたかつてとは違って、要らぬものまで見えるようになってしまった。
そいつを一切合切捨てちまって裸一貫になった時、初めてもう一度、本物の馬鹿になれるとそう思ってしまった。
『夢でいい、一刻の夢だけでいい。
俺を、馬鹿にさせてくれ』
しかし、愚かにも程がある見当違い、らしくないと思うのは当然だ。
見ろよ、モノホンの馬鹿ってのはトコトン拘り抜いているじゃないか。
今更ながら思う。奴はきっと気づいている、己が馬鹿さ加減の甚しさを、己が愚かしさの度し難さを。
其奴を承知の上で、奴は今も意地を胸に抱いているのだろう。そう生きてきた自分を捨ててたまるかと、己という男はそう生きてやるのだと。その立ち様が、何よりの証拠だろうよ。
そいつに比べたら、俺という人間はなんという半端者だ。積み上げてきたものを捨てて馬鹿になれるのなら、誰だってなれるじゃないか。けれど、裸一貫だけじゃあ馬鹿になるにも半端がすぎる。
半端な馬鹿じゃ、モノホンには敵わない。
「なぁ、兄ちゃん……ついでだ、煙草を吸わせてくれないか。いつも、喧嘩終わりに一服やってんだ」
「俺にンなこと頼むかよ……どこにある」
「ポッケん中さ、ライターも一緒だ。お前さんもどうだ、美味しいぜ」
「いらねぇよ、興味ねぇ」
「そうかい……そうさな、お前さんにゃ知らなくてもいい味だ」
勝手に言ってろ、そう呟いてセイマは渡のポケットから煙草とライターを取り出した。
そいつも、若い頃に知らなかった味である。渡がこれまでを生きてきて知った、何とも美味い味である。もう、この味を知らない頃にはなれやしない。
そうだ、進む時は戻らない。歩んだ道は、引き返せないところまで来た。
ならば、もう一度進もう。進んだ先で馬鹿になろう。今度は、喧嘩代行の渡児郎として、積み上げたきたものをこの胸に。
夢は夢で終いだ。夢から持ち帰るのは、理由一つで十分だ。
「にいちゃん、納得いかねえんならもう一度やるしかねぇよな」
「勝手に決めつけんなよ。テメェこそ、仕事を果たせなかったからもう一回やりたいクチじゃあねえのかよ」
「あぁ、そうだ……と言いたいとこだがね、実の所は俺がやりたいだけさ。喧嘩の理由なんざ、それだけで十分だろ」
「……違いねェ」
ゆらりゆらりと揺蕩う紫煙。煙草の先に浮かんだ灯火は、面白いほどに燻っていた。
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