#8 変われるものなら変わるべきか

 知っての通り僕は三年間引きこもりを続けた、いわば引きこもりの中堅プレイヤーだ。しかも引きこもっていた時期は花草木市というらしいこの地域に引っ越してきた時期とバッティングする。

 つまり僕は三年間この町に、この市に住んでいながら、一歩も外を出たことが無い。ここら辺の地理に疎いとか、そういう悠長なことすら言えないくらいなのだ。目隠しされてここに突然連れてこられた人たちと、感覚は大差ない。

 そこでプレゼントを買いにデパートまで行く途中に、抱さんから北花加護中学周辺の地理、および花草木市という地域について聞いておくことにした。

「花草木市はかつて二大女子校と呼ばれた花園高校と水仙坂学園のふたつの学校が中心となって生まれた市なんです。大きな学校ができるとその周辺に商店街や住宅街が自然と生まれるのは、何も花草木市に限った話じゃないんですよ」

 花草木市は花園高校のある北側と、水仙坂学園のある南側に分けることができるとか。別にそのふたつの学校が対立関係にあるわけではないけど(対立関係とは真逆で、ふたつの学校は交友関係ある)、地元ではそういう区分が一般的だと抱さんは説明してくれた。ふたつの学校が出来て、それを中心にふたつの町が出来て、そのふたつの町が合併してできた市。それが花草木市だ。

「かつて二大女子校と呼ばれたってことは…………、花園高校は知ってたけど、その水仙坂学園っていうのも元は女子校だったのが変わって、今は共学なんだね」

「はい。水仙坂学園が共学になったのは今から六年前のことです」

「六年前…………?」

 その時期が、頭に引っかかった。六年前。それは『あの時』ほどでないにしても、『僕たち』にとって大きなターニングポイントとなった時期だった。

 僕にとっても大きな存在だったあの人が失踪したのも、六年前だった。そしてその事件は、花園高校――かつての花園女学院に端を発する。

「花園高校が――花園女学院が共学になったのも六年前だったよね?」

 隣を歩く抱さんに尋ねた。北花加護中学の近くにあるというデパートに向かうべく、僕たちは大通りを歩いていた。僕と抱さんが並んで歩き、肉丸くんが少し離れてついてくる、逆三角形の並びだ。

 大通りと雑に表現してしまったが、それは抱さんからの受け売りだ。僕の知る大通りとはまるっきり景色が違う。僕の地元で大通りと言えば、左右にいろんな店が並ぶ、大きな商店街のことだ。

 人の視点に立って表現するか、車の視点に立って表現するかの違いなのかもしれない。今歩いている大通りは国道沿いの道で、とても交通量が多かった。左右にいろんな店が並んでいる点に関しては僕の知る大通りと同じだけど、反対側の店を見たいときはどうやって向こうに行くのか気になった。

 横断歩道を渡るのか?

「……? 花園高校のことは知ってたんですね」

「ま、まあね。けっこう有名だし」

 抱さんが少し怪訝そうな顔をした。花園高校は有名だし名門で通っているのは事実だ。だけど所詮は高校。有名大学のように名前が全国区へ広がることはまずない。知らない人は知らない、知る人ぞ知る名門。それが花園高校だ。

 聞いた話だけど、花園高校の生徒で市外から来るのは大半が女子生徒なのだとか。共学にこそなったけど、知名度でいえばまだまだ『お嬢様高校』なのだ。

「花園高校は有名ですけど、それでも市外の人は未だに女子校だと思っていることが多いんですよ。ネーミングもさることながら、女子校時代の著名度のせいでしょうか……」

「うん。だから僕も共学になってたって聞いた時は驚いたよ。それもあるんだけどさ、花園女学院が悪いことで有名になった話があるから、それで花園女学院の存在は知ってたっていうか…………」

 自分でも理路整然と話せているかは怪しかった。それでもそれとなく、地元民である抱さんに聞いておきたいことがあった。これは『義務殺人』を生き残るために必要なものじゃない。不要といってもいいかもしれない。それでも目の前に花園高校があるのも何かの縁だ。

 僕はその当時、まだだいぶ小さかったから、ほとんど具体的な話を知らない。どうしてあの人が失踪したのか、どういう事件があって、あの人が失踪したのかを。

 唯一知っていることは、花園女学院で起きた『何か』。その一番初めの出来事だということ。

「えっと、その悪いこと――悪い意味というのは…………わたしも聞いたことがあります。とても大変な事件が、当時の花園女学院で起きたと。何か、ある名前で呼ばれていた気がしたんですけど……」

「僕もそんな気がする。でも、思い出せなんだよなあ」

 大人にとって六年前はさほど昔でもないのかもしれないけど、子供である僕たちにとって六年前は大昔だ。思い出せなくても無理はない。

 デパートを目指す途中、何度か花加護中学の制服を着た生徒とすれ違った。学校からデパートに直行して、その帰りといったところだ。一度家に帰ってから着替えて出かける人もいるのか、私服を着た同年代の人も見かける。もうこの時間になると、制服を着てなくても大人に怪しまれるということはない。まだ僕は登下校時に大人たちから不審に見られるのに慣れていないから、それを少しだけ心配していた。

 私服登校が一般的な小学生である肉丸くんや、見た目が小学生の抱さんには分からない悩みだ。遊馬くんや雲母さんほど大人びると、今度は堂々としすぎで不審な目で見るに見れなくなりそうだけど、僕はまだそこまで大人じゃない。

 花加護中学の制服を着た女子生徒の集団とすれ違う。四人組だ。手に黄色いビニール袋を提げている。大方、新発売のCDでも買ってその話題で持ちきりなのだろう。

 僕ももう少し勇気があれば、今頃そんな平和な生活を送っていたのかもしれない。……いや、違う。

 『もう少し』以上の勇気が僕に備わってしまっていたがために、今僕はこうして『義務殺人』なんて更生プログラムに参加させられているのだ。

 勇気なんて無い方が良い。

 勇気と無謀を区分して、まるで知った風な説教をする人は多い。「勇気と無謀は別物だ~」って。僕に言わせればまるで『勇気』の本質を理解していない。

 勇気も無謀も、同じものだ。

 そこに違いなんて何もない。

 他人の行いを無謀だと批判する人間には勇気が無い。

 ある人物を勇気ある英雄だとたたえる人間に、無謀は理解できない。

 勇気も無謀も、発揮した瞬間にすべてを失うという点に関しては一緒だというのに、どうしてみんな、勇気を欲しがる? 無謀を嫌う?

 逆三角形を小さくして、女子生徒の集団とすれ違う。人見知りの激しい肉丸くんは、そそくさと僕の背後に隠れた。ただすれ違うだけの人に、そこまで人見知りしなくてもいいのに。

「………………?」

 …………と、そう思いながらすれ違う女子集団を少しだけ見たところで、勇気とか無謀とかそんなどうでもいい思考はすべて停止した。

「……あれ?」

 僕が目撃したのは、かつての知り合いにそっくりな人だった。

 細い体躯と長い髪。さながらモデルのようなプロポーションで、四人組の女子の中では一際目立っている。大きな黒目が輝いて、もし目を合わせてしまったら、男性ならまず石になる。そんな魅力を秘めていた。本人がその内包している魅力に気づいていないのか、隠すことなく魅力が外へ溢れている。

 向こうは僕の抱いた疑問を感じなかったのか、そのまま歩いて去って行った。そっちの方がお互いに好都合だったのもあって、僕は疑問を飲み込んでそのまま歩く。

 人違いの可能性が大きかったのも、疑問を飲み込んだ理由のひとつだ。地元の知り合いが偶然同じ地域に引っ越してくる。その確率は天文学的な数字じゃないか? 三年も会ってないから、僕が人違いをしたと見るのが現実的だった。

 それにまず彼女が地元の知り合いだったとして、僕が話しかけられるはずもない。僕が三年前に彼女に対してしてしまったことを思えば、そんな厚顔無恥な振る舞いが許されるはずもない。

 九無花果。お前の面の皮は鋼鉄製か? そうでないと主張するのなら、たとえ通り過ぎた彼女が何者であって声を掛けるべきじゃない。

「…………花園女学院の悪夢」

 それから抱さんと肉丸くんとは無言で歩いていたけど、デパートに入ったところで後ろから声が聞こえた。

「…………?」

「ほら、九さんの言ってた花園高校の事件、だよ。悪夢って呼ばれてた気がする」

「……悪夢」

「ぼ、ぼくも詳しいことは知らないよ。呼び方と、なんかすごい事件が起きたってことくらいしか、聞いたことないんだ」

 それは肉丸くんの年なら仕方ないことだ。むしろ僕や抱さんの思い出せなかった花園女学院で起きた一連の事件の総称を、さらに年下の肉丸くんが覚えていただけ僥倖と言える。

「…………と、本題に戻らないとね。グローブだよね? じゃあ、スポーツ用品店に行けばあるのかな?」

「きっとそうですね。確か、用品店はこっちでした」

 町の地理を把握できない僕に、デパートの地理など把握できる筈もなく、抱さんの案内に従ってスポーツ用品店を目指した。ちらほらと花加護中学の制服を着た生徒や、それ以外の制服を着た生徒の姿を見かける。といっても男子の制服はほとんど学ランだから、花加護中学の制服との区別は女子の制服を見てつけていた。

「しっかし、ほんとにいろんな店があるな。僕が引きこもっていた三年の間に、いったいどれだけ世の中は進んでるんだろう」

「三年じゃあまり変わらないと思いますけど、それでも無花果さんは浦島太郎みたいな状態なんでしょうね」

 三年前には名前も聞かなかったようなチェーン店が数多く見られた。鉄板焼き専門の飲食店や唐揚げ屋なんか、名前を聞かないどころの話じゃない。それ専門で商売として成立しているのか、僕には理解できない。

「……でも抱さんも肉丸くんも、赤ペン教室にいるってことは不登校の引きこもりなんだよね。じゃあ僕と大して状況は変わらないと思うけど…………」

「べつにぼくは…………学校休んでたけど、引きこもってたわけじゃないから」

「わたしもそうですね。赤ペン教室にいる生徒は全員が不登校児ですけど、決して全員が引きこもりというわけではないと思いますよ。阿比留さんなんて、引きこもっている姿を想像できません」

「ああ、そうか」

 僕が引きこもりというのもあって、そこは勘違いしていた。そうそう。鴨脚さんは不登校ではあったけど、引きこもりではなかった。『No’s』というアイドルの追っかけをしていたんだったっけ。御手洗くんも不登校児だけど、古今東西の事件を調べてたんだった。

「それに引きこもりだからといって、外部の情報を全てシャットアウトするとは限りませんよ。今はネットがありますから、外部の情報を知らないのって、難しいと思います」

「……むしろ引きこもりって、大半の時間はネットしてる」

 それも勘違いのひとつだ。引きこもりだからといって何もせずにゴロゴロしていたのは本当に僕くらいなのか。

「なんか気になるな…………みんなが不登校してた間、何してたのか」

 こうして自分の例がイレギュラーだと分かると、切実に。どうせこのまま何事もなく一年を過ごしたところで今まで通りの引きこもりはできそうにないから、みんなの普段を参考にしようかな。

「あ、着きました」

 抱さんに案内されて到着されたスポーツ用品店は、デパートの二階に大きなスペースを持っていた。野球やサッカーの用具の他、スキー用品も置いてあった。それでも僕はうっかり、この店を見たときに服屋だと思ってしまった。

 店の正面に服が置かれていたのが原因だ。それもスポーツウェアではなく、普通のファッションがマネキンに着せられている。

「ここで合ってる?」

「ええ…………あっ」

 そこでどうも、抱さんが僕の疑問に気付いたらしい。正面にある服と、僕の質問で事態を理解するあたり、頭の回転がかなり速い。マネキンを指差しながら、抱さんが説明してくれた。

「あれはランニングウェアですよ」

「え、そうなの…………?」

 言われてよく見ると、素材は確かにスポーツウェアのようだ。デザインもファッション性があるものの、比較的シンプルにまとまっている。これでランニングをしても、さほど動きにくいとは思わないだろう。

「最近はマラソンやランニングがブームなんです。それで女性向けに、こういうデザインのものが作られているんです。男性用のデザインもありますよ」

「へえ。今時、何が流行るか分かったものじゃないな」

 そんな誤解や勘違いの連続を何とか抜け出して、お目当ての野球用品売り場へと向かった。スポーツ用品店というのもずいぶん僕がイメージしていたものと違って、今はデザイン性重視なのか、あちこちと見ていると本当にスポーツ用具なのか怪しくなるものも多々あった。

 僕にとってスポーツ用品店は、あまり縁のないものだった。少しの間やっていた少年野球だって、道具は全部借りてやっていた。それくらい少しの間しか、野球はしたことがなかった。

「グローブは、この辺りか」

 お目当ての野球用具売り場に着くと、まず目についたのは大量のバット類だった。たくさんの種類があるみたいだが、僕には金属製と木製くらいしか違いが分からない。値段も安いものからとても子供には手の出させないくらい高価なものまで千差万別だ。これだけ大量にあっても、僕には用途が思いつかない。

 思いつかないも何も、バットは野球をするためのものだ。でもこれだけ本数が揃っていると、何か別のことにも使えるのではないかと思えてくる。

 でも今回選ぶのはグローブだ。いくらなんでもグローブはここまで種類が多くないだろうと思ってグローブ売り場を見ると、体が固まった。

 バットよりグローブの方が数が多いじゃないか。壁中にグローブが掛かっていた。なんだこれ。スパイ映画で壁中に銃器が掛かっていた映像を見たことがあるけど、この光景はそれと同じくらいの迫力があった。

「弟は左利きなんです。だから、この中の全てが選択範囲ということは無いと思いますが…………」

「そ、それは幸いだね」

 つい声が裏返りそうになる。幸い、左利き用のグローブが置かれているのは隅の方で、全体の二割くらいのスペースだ。これは幸いと言うほかない。かじった程度しか野球を知らない僕とど素人の抱さんや肉丸くんでは、冗談でなく選ぶだけで日が暮れてしまいそうだ。

 …………全体のスペースの二割とはいえ、そこには五十種類くらいのグローブが掛けられていたのを含めても、幸いだ。

「…………あ、あそこ」

 肉丸くんが急に声を出してグローブ売り場の、まさに僕たちが用のある場所を指した。そこではさっきまで壁一面のグローブに呆気にとられて気づかなかったけど、ひとりの少年がしゃがみこんでグローブを検分していた。後姿ではあったが、それが誰かは言われるまでもなく分かった。

「……手縄さん、ですよね? どうしてこんなところにいるんでしょう」

 手縄くんはこちらの会話が聞こえたわけではなさそうだが、気配で気づいたのだろう。こちらを向いた。格好は学校にいた時と変わっていない。学校が終わってから、僕たちと同様にここまで直行したようだ。

「お前ら……どうしてこんなとこにいるんだよ」

 それはこっちの台詞だと思ったが、手縄くんの疑問も当然のことだ。野球少年であることが明白な手縄くんがスポーツ用品店にいたところで何の疑問もない。鴨脚さんがCDショップにいるくらいしっくりくり光景だ。

 逆に手縄くんからすれば、スポーツに縁のなさそうな僕たちがここにいるのが不思議なのだ。加えてこの3人パーティは手縄くんからすれば関係性が分からなくてちぐはぐしたものを感じるに違いない。雲母さんが遊馬くんと御手洗くんを連れ立ってCDショップにいるような場違い感を覚えるのだろう。

 …………自分で言ってみて、そのトリオがCDショップにいる光景を想像してしまった。そんな3人組に遭遇したら、僕だって不審に思う。

「弟のプレゼントを買いに来たんです。明さんこそ、どうしてここに?」

「オレはただ、時間を潰してただけだ。それにそろそろ、グローブを買い換えようかって思ってたところなんだ」

 手縄くんはここで僕たちと遭遇したのが気まずいのか、目が泳いでいる。なにかやましいことでもあるのかと一瞬勘ぐってしまったが、すぐに違うと直感で分かった。

 学校じゃない場所でクラスメイトを見かけたときに生じる、声をかけるか否かという二択。彼は確実に『声をかけない』派の人間だということだ。公私の切り替えが激しすぎて、こういう場所でクラスメイトに会うと対応に困るのだろう。僕も似たようなタイプだから、手縄くんの気持ちは分からなくもなかった。

 大量に置いてあったバットと手縄くんの様子が重なってしまって、不穏な想像を危うくするところだった。

「……弟のプレゼント? 抱、お前弟がいたのか?」

「はい。明さんと同じ左利きなので、できたらグローブ選びを手伝ってほしいのですが……」

 抱さん、ここぞとばかりに手縄くんの懐柔を図ったな。きっとさっきの様子を見て、御しやすいと判断したのかもしれない。想像以上に計算高いなこの子は。

 手縄くんの利き手という、彼がまず抱さんに教えていない情報をさりげなく織り込んで話すのも彼女なりの交渉テクか。手縄くんのプライベートな部分に滑り込んで、精神的な距離を縮めにかかっている。左利き用のグローブが掛かっている場所でグローブを検分していた彼が、まさか右利きということはあるまい。

「……オレ、お前に利き手のこと話してたか?」

「え、ええ。つい数日前に」

 見事に引っかかったー! 手縄くん、そこまでクリティカルに引っかかるとは思ってなかったよ。抱さんもそんな架空の会話をでっち上げるところまではさすがに考えてなかったはずだ。その証拠に、抱さんの反応が遅れた。彼女的には、内心で多少の距離を縮めてもらえばそれでよしくらいだったのに。

 他人の利き手なんて知ろうと思えばどうとでも知ることのできる情報だ。手縄くんも可能性のひとつとして『自分が抱さんに話した』という線を確認したかっただけかもしれないが、そこを抱さんに掬われる形となった。

「…………? お前ら、怖くねえのかよ」

「…………何が?」

 おそるおそる、という言葉がピッタリだった。手縄くんは唐突にそんなことを口にする。

「どうせ清司の野郎がペラペラ喋ったに違いねえんだ。隠すこたぁねんだぜ?」

「…………『草霞野球団の一件』のことを言ってるんだね? 手縄くんは」

「そうだよ。それについて、清司があることないことお前らに吹き込んじまったんだろ?」

「えっと、明さん、何のことですか?」

 そこでようやく、僕は手縄くんの気にしていることを理解できた。抱さんと肉丸くんは相変わらず頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいそうな顔をしていた。

『草霞野球団の一件』。詳しくは知らないが、手縄くんはその事件の主犯とみて間違いない。そしてその事件が手縄くんの心を縛り付けているということも、同様に確かだ。

 ひとつの事件で、それまで自分になされていた評価が百八十度ひっくり返るなんてこと、珍しくとも何ともない。彼もまた、そういう他人のどうでもいい評価に振り回された人間だったということか。

 彼がクラスの誰とも深く関わろうとしないのは性格だけの問題ではないし、初日の発言が禍根を残し続けているというだけの問題でもなかった。他でもない彼自身が、もっと別のところで他人を避けていた。

「君も経験があるってことかな。そういう、ひとつの事件で全部が『ひっくり返る』っていう…………」

「……なんだよ、お前もなのかよ」

 だから過剰に、御手洗くんが何かを吹き込んだのではないかという疑心暗鬼に捕らわれていた。どれだけ人間関係を築き上げても、その事件の過去を露わにされれば全てが崩れる。きっと彼は、そういう経験をしてきている。

 僕はそんな経験をする前に引きこもったから、実体験はない。それでも、想像はできた。少なくともこの場にいる誰よりも僕は、鮮明にイメージできたはずだ。

「…………どういうこと?」

「あんまり深く聞いちゃいけないこと」

 肉丸くんの投げかけた疑問を、抱さんは大人の対応でかわした。肉丸くんも疑問は晴れなかっただろうけど、そこで疑問を引っ込めた。

 抱さんは手縄くんの方を向いて、優しく諭すように話しかけた。

「明さん。わたしは明さんの事情を詳しく知りませんよ。それに、清司さんは他人のプライバシーに関わるようなことを軽々と話したりしません」

「…………そうだといいな」

 手縄くんはバツが悪そうに受け答えした。なんだか拗ねているみたいな反応だ。このやり取りを見ていると、手縄くんが抱さんより年下に見えてきた。手縄くんの方が外見は年上そうなのに。

 そして実際にはふたりとも、同い年である。

「…………なんか悪ぃな。気分の悪い話しちまって。オレも学校ってのが久々過ぎて、どうしたらいいのか分かんねえんだ」

「それなら、クラスの全員がそうですよ。みんな学校が久しぶり過ぎて、どうしたらいいのかって感じです。ですから、深く考えずに自分らしくしていたらいいと思います」

「……そうだな。…………っと、グローブ選ぶんだったな? それならオレに任しとけ!」

「………………」

 手縄くんもまた、理由があって不登校になっている。それを思えば、初日に彼のした発言も、少しだけだけど理解ができる。彼はきっと、焦ってたんだと。

 このままじゃ駄目だと思っても、表に出れば過去の事件を指摘される。それを避けるためには引きこもる以外にない。そんなジレンマを抱えていた彼は、この『義務殺人』を利用するくらいしか、打開策が思いつかなかったのだ。

 本当は他にも、打開策はたくさんある。それは抱さんが教えてくれた。

 一年間誰も死なないように過ごす。願う以外の方法が思いつかなかった、奇跡を待つしか方法を思いつけなかったことが、少しだけできるような気がした。一緒にグローブを選ぶ手縄くんと抱さんの背中を見て、そう実感した。

「……………………変わらないといけないのかなあ、なんだかんだ言っても」

 人が人を殺さない難しさは重々承知。それでも、だからといって全てを諦めるには早すぎるということか。

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