幕間 老婆

「…………」


 視界に入ったのは、見たことのない天井。

 古びた板張りで、色は暗くくすみ、あちこちに節目が目立つ。

 天井近くに吊り下げられた鳥籠の中から、白い鳩がこちらを覗き込んでは首を傾げている。

 窓辺には、鉢植えに見事なバラがいくつも並んでいた。

 エフォートの身体は、ひどく硬いベッドの上に横たえられているようだ。


「お目覚めなすったかね」


「ここは……?」


「私の家さ。クレイシク王国のね。なあ、エイプルの軍人さん」


 湯気の立つスープを粗末な机に置いたのは、顔中に深い皺を刻み、背中を丸めた老婆だった。

 魔女のようなローブに身を包み、髪はフードで覆われている。

 隙間から総白髪が見えた。

 いったいどれほどの年齢なのか、見当も付かない。


「俺を……助けてくれたのか。敵の俺を」


「敵? ……くくく、敵か」


「婆さん、クレイシク人だろ。エイプル軍人を捕まえたのなら、とっとと衛兵なり憲兵なりに通報するのが義務じゃないのかうぐっ!」


 老婆がスプーンで、スープを口に無理矢理突っ込んできた。

 タマネギと香辛料の香りが鼻孔を包む。


「確かにそうさ、アンタの言う通り。だがアンタは酷い怪我でね。ある程度回復してからじゃないとすぐ死んじまう。そう思っただけさ。それに」


 老婆はパチン、と指を鳴らした。

 すると、いつの間にかエフォートの膝の上に新聞紙が乗っている。


「…………魔法使いか」


「いいや、簡単な奇術さ。それより、新聞をごらん」


 一面に大きく乗った記事に、エフォートは目を見開いた。


「……終……戦……だと?」


「ああ。もう通報の義務も無くなってね。ささ、冷めないうちにスープを飲みな」


 スープを掬おうとすると、どうしてもカチカチと音がしてしまう。

 手の震えはだいぶんマシになっていたが、それでも全身が酷く痛んだ。

 味もろくに感じない。


「この新聞……いつのだ」


「一週間前さ」


 どうやらその間、ずっと意識を失っていたらしい。

 身体の痛みもそのためだろう。


「そんなにか……ところで婆さん。俺の他に、誰か生き残りは居なかったか?」


「あの場に居たエイプル軍は、あんただけだよ」


「そうか……」


 スチューピッド。グラットン。チャータボックス。

 彼らの消息は不明らしい。遺体も残さず吹き飛んだか、あるいはまだどこかで生きているのか。

 後者であれば喜ばしいが、過ぎた望みだろう。


 老婆は新しい新聞をどこからか取り出すと、エフォートに放ってよこした。


「エイプルで起こったクーデターも鎮圧されたようだね。ま、ゆっくりと休んでいくと良い」


「何だそりゃ?」


 クーデターなど初耳だった。

 新聞に目をやると、どうやら過激派が王城を占拠したらしい。

 犯人は王立学院に通う貴族の子弟で、政治ごっこが高じて過激な行動に走ってしまったとのこと。

 クレイシクの新聞だからか、犯人側に同情的な論調も見られる。

 驚くべき事に彼らは列車砲を強奪し、王都と王城を砲撃までしたという。

 王城を奪還した英雄として、数人の男女が瓦礫の上に国旗を立てる場面が一面トップだ。

 しかし、写真が荒く顔は分からない。


「――ま、いいさ」


 エフォートは再びベットに身を預けた。

 戦争が終わり、内乱もおさまったのなら焦ることはない。

 目を閉じると、エフォートの意識はまどろみの中に沈んでいく。

 仲間の顔が浮かんでは消えていく。

 もし生きているのであれば、再び会うこともあるだろう。


 ◇ ◇ ◇


 エフォートの傷は酷いものだったが、奇妙なスープと休養のおかげで、みるみるうちに回復していった。


「これは代々伝わる秘伝のスープでの……何が入っているかは秘密じゃ。ふぉふぉふぉ」


「ありがたい。いただくよ、婆さん」


 老婆の差し出す食事は決して美味いとは言えなかったが、自身の体調の変化を通して身体に良い物だということは分かる。

 いったい何が入っているのか、そんな事は些末な問題だ。

 そもそも、クレイシク王国でも食料は慢性的に不足しているはずだ。

 貴重な食料に文句を言えるはずもない。


「ほれ、たまには着替えんかい。臭うぞ」


「そうかなぁ?」


 今着ているシャツは、せいぜい一週間ほどしか着ていない。

 腕を上げて脇を嗅いでみるが、これといって違和感は感じなかった。


「臭うと言っておろうが! ええ加減にせい!」


 老婆がシャツを叩きつけるように投げてくる。


「わかった、わかったよ。借りるよ」


「……息子のお古で悪いがの」


 エフォートは渋々と着替える。


「なんだ、この服?」


 渡された老婆のシャツは、見えない所に無数のポケットが付いていた。

 それでいて外見は普通のシャツと同じだ。


「手品のタネを仕込むんじゃよ」


「ふうん、息子さん奇術師か」


 頭上の鳥籠を見上げる。

 飼われている鳩も、よく見れば奇術師が使う銀鳩だ。


「戦前はあっちこっちで、息子のステージが始まると街から人が消える、とまで言われたものさ」


 老婆は棚の上に視線を向ける。

 いささか古びた写真には、口髭をたくわえた精悍な男が写っている。


「ふぅん……見てみたいもんだね。息子さんは今どこに?」


「死んだよ。リーチェの戦いでね」


 リーチェはエイプル軍とクレイシク軍が激突し、塹壕戦が繰り広げられた激戦地だ。

 両軍合わせた犠牲者は集計不可能なほどに膨れ上がっていた。


「…………」


「まったく。町を、母さんを守るんだ、なんて。自分が死んじゃ、世話ないよ」


 老婆は視線を逸らし、目もとを拭った。

 クレイシク王国の軍人となり、リーチェで戦ったとなれば敵は当然エイプルだ。

 戦場でエフォートが放った幾千、幾万の銃弾が彼を撃ち抜かなかった、という保証は無い。


「なあ、婆さん……」


「おおっと! 謝るんじゃないよ! アンタはアンタで自分の義務を果たしただけだ。恨んじゃいないし、謝られる筋合いも無いね」


 ものすごい剣幕で一気にまくし立てた老婆は、息を荒げながら椅子に掛けた。

 エフォートは掛けるべき言葉を失い、しばしの沈黙が辺りを包む。

 一時間でも二時間でも経ったかのように思えたが、壁の時計を見ると実際に経った時間は一分ほどだ。


「なあ、婆さん。あんた、俺が目覚めた時、どこからともなく新聞を出したじゃないか。あれ、奇術だろ?」


「簡単なトリックだよ。奇術は指先を細かく動かすからね、ボケ防止にピッタリなのさ」


「俺にも……できるか?」


 老婆は本棚に手を突っ込むと、古びたノートを取り出し、優しい瞳で表紙を撫でた。


「……バカ言うんじゃないよ。アンタみたいなボンクラに、息子の真似ができるものかね」


 口ではそう言いつつも、老婆はエフォートに古びたノートを差し出した。

 受け取ってページをめくると、様々な奇術のタネが事細かに記されている。

 見た目は派手そうだったが、蓋を開けてみると酷く単純なものが多かった。


「さぁなぁ。……そうとも言い切れないかもよ?」


「そこまで言うならやってみるがよい」


 老婆は納戸を開けると、中から古びた宝箱を取り出した。

 見たこともない奇妙な道具がゴチャゴチャと収まっている。奇術のタネだ。


「ま、見てなって」

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