第二話 ファントムバディ#1:ハンマーガール

 マイルスパークの晴天は二四時間続いている。星が見えるほど突き抜けた青空も、水平線に盛り上がる白雲も、全て書き割りでできている。

 言ってしまえば、この世界全てがそうなんだけれど。

 ここはアマルガムヴィラの運営する都市サーバ、ハイオーシャンという名のワールドフレームだ。街の縦横には澄んだ水路があり、至る所に踝まで浸かる水辺がある。世界全体が海に囲まれた孤島の体だ。何とも贅沢な容量の割き方。

 ボクの知るところ自然資源を再現したリゾートアイランドは一昔前の流行りだ。現にここも今は主にワークスポットに使われている。設備の揃ったオフィスよりも、ビーチや山野風景の方が仕事が捗るという。本当かどうかは知らないけれど。

 確かにそこかしこに人溜まりがある。仕事、お喋り、暇潰し。あと、華やかな給仕を眺めに来た好事家たち。仕事をした気になりたくない人には人気らしい。


 目の前スコアがぴょこんと跳ねた。

「あ、またキャロルのが上がった」

 叫んだ拍子に左手のトレイが跳ねた。浮いたグラスを追い掛けてホバースケートが空回りする。シートを物色する客を避けようとして捻った身体がくるくると回った。


 そのマイルスパークの東海岸沿いには素人給仕を売り物にしたオープンカフェがある。客が飛び入りでホールに入り、思い思いのスタイルで給仕をする仕組みだ。

 エントリーすればホバースケートと銀のトレイ、ホールスタッフのマーカーが貸与される。フリーはもちろん指名のできるシステムで、チップが自分の取り分だ。

 もっとも客も給仕も気に掛けるのは額面よりも稼いだスコアだ。波打ち際に立てられた巨大なビルボードにはリアルタイムで給仕のランキングが表示される。


〈ツバサ、君は目的を見失っている〉

 頭の中でボクの名を呼んでロビイくんは覚めた声色で囁いた。

「だってさ」

 体勢を整えて吐息を洩らし、スコア表示を横目で睨む。ボクの順位は下から数えた方が早い。確かにこういうのは慣れてない。このフレームで人前に出るのも。

「ロビイくんは興味ないだろうけど」

 口を尖らせる。ボクの衣装は伝統のジヤパニメイド。白と黒のシックで印象的なスタイルだ。アンバランスなほど短いスカートの裾がひらひらと風に躍っている。

「けっこう頑張ってると思わない?」

 引き篭もりのコミュニケーション不全にしては、と心の中でつけ加える。

〈ここなら裸も大差ない。ウエットスケープで実践したまえ〉

 見透かしたような投げやりの指摘に腹が立つ。

「外でできるか、こんな格好」

 衣装は派手だが身体が地味だ。胸もなければお尻も平らだ。

〈その違いがわからない〉

 だけど現実と同じなのも確かだ。もちろんフィジカルデバイドを気にして生身の体型を馬鹿正直に再現する昨今のサイバーフレームには一家言ある。多様性を美化しているのはどうせ見目の良い連中だからだ。

「ロビイくんがわかったら苦労しないよ」


 今は人がゲームに飽きて久しい時代だ。仮想世界のリアライズは一巡してしまった。

 かつてのバーチャル世界、俗に言うドライスケープの中の人間はもう『もうひとりの自分』ではなくてあくまで自身の延長線上にある。『ありのまま』が売りなのだ。

 もちろん、高精細の神経接続が身体の齟齬に敏感になったのも理由のひとつだ。フィジカルデバイド問題は現実世界に運動不全を引き起こしている。当たり前の生活空間になったこの世界で着飾るのは大昔の仮装やコスプレ文化の再来に過ぎない。


「そこ、危ないわよ」

 赤と青のチアスタイルの少女が悠然とボクの隣を滑り抜けた。擦れ違いざま金色の髪を掻き上げて屁っ放り腰のボクを一瞥する。ランキング一位のキャロルだ。

 まるで大人と子供のスタイル差。身体の減り張りをこれ見よがしにキャロルはボクを鼻で笑った。ような気がした。実際に聞こえたのは呆れたロビイくんの溜息だ。

「あ、あいつ」

 もしもマイルスパークの感情演出がカトゥーン設定だったらボクの頭はズドンと破裂したところだ。頬にかっと血が昇ったボクは、むきになって駆け出した。

 猛然と速度を上げるも脚の動作とスケートにまるで合ってない。歩数に反して足許は激しく空回りする。何だってこんなところがウエットスケープ準拠なんだろう。

〈ひとつ忠告するが〉

「うるさい」

〈今、配膳先を通り過ぎた〉

「早く言って」

 悲鳴を上げてターンする。テーブルとシートを派手に蹴散らして横滑りした。慣性に抗い猛然と足踏みするボクを真横のテーブルの客が呆然と眺めている。

 視界にポップしたマーカーに向かってボクは再び突進した。トレイに乗っているのはトロピカルソーダマイルスパークアレンジ。本日まだ三品目のお客さまだ。


 その頃ボクを指定した客は苛立たしげにオーダーパネルを叩いていた。

 彼の本来の仕事は決済待ちのデザインデータを皆が焦るまで寝かせて修正範囲を予算内に抑えることだ。そういう役職をディレクターと呼ぶらしい。

 だが今の彼は素人給仕品評家だった。もちろん自称だけれど。それでも彼には自負がある。彼のレポート閲覧数は三〇日間も首位をキープしている。

 彼は考えていた。今日の選択は失敗だ。オーダーからカウントされた給仕タイムは疾うに減点域にある。物珍しさで新顔を選んだことを後悔していた。

 到着した給仕に告げるつもりの小粋な皮肉のシミュレーションにも飽きた彼は、オーダーのキャンセルを検討し始めていた。

 そんなとき、騒々しい物音に気づいた。シートの撥ねる音、グラスの割れる音、悲鳴と怒声、それが自分に近づいて来る。ジャパニメイドの少女だった。

 白い肌、蒼い瞳。風を切って揺れる黒髪は光が撥ねると栗色になる。目が大きくて表情がわかりやすい。身体の線は柔らかいが凹凸がなくて少年のようだ。

 魅入られつつも口をへの字に曲げて威厳を保とうする自称素人給仕品評家だったが、その表情は急速に萎んだ。そわそわと辺りを見回し逃げ道を探す。

 少女が尋常でない速度で突っ込んで来るのだ。あれは周りが見えていない。


〈ブロークの手配コードを確認した〉

 ロビイくんの囁きと同時に、目の前に遠景の画像が割り込んだ。

 逃げ散る人を追うようにテーブルが跳ね飛んでいる。中心にいるのは肩から身体を袈裟斬りにされたような異相のフレームだった。腹まで裂けた身体の中から幾本も触手のようなものが生え出し、暴れ回っている。

 外見がどこにでもいる中年男性なだけにその姿は生理的な恐怖を煽る。表示されたニュートのマーカーも真っ赤だ。その色に恥じない悪役然とした行動だった。

「やっと来た」

 思わず声を上げた。遅れて耳に届いた悲鳴を合図にボクは神経接続をイマジネータドライブに切り替える。全身の毛穴が開いていくような、ぷちぷちとしたいつもの感覚が爪先から素肌の上を駆け昇っていく。思わず身震いして首を竦めた。

 視界の端にリミットメータがポップした。三時間のアナログ表示だ。バトルハッカー仕様のフレームとアクセサリのリストに視線のポインタが飛んだ。


 その瞬間、自称素人給仕品評家は猛スピードで迫る少女に悲鳴を上げた。それが喉を通る間に給仕の衣装が千々に弾け散る。まるで破裂した羽毛の枕だ。舞い飛ぶ黒と白の布片を割って現れた少女は別の姿をしていた。

 黒革のベストとスカート。両手には大きな鋼のガントレット。素足の先は黒いソックスと同じく大きな鋼のブーツ。栗色の髪、目許を覆う黒いマスク。

 長い真紅のマフラーを首に巻きゲートボールのハンマーを背に携えていた。

 タグの名称が書き換えられていた。ハンマーガールだ。


 イマジネータドライブは超高速、超並列、無尽蔵の情報と演算リソースが人の創造力を補完する現代の魔法だ。神経接続が深化した第三世代で初めて可能になった思索具現化エンジンだった。

 それは本来創造性強化を目的としたモードだ。しかし一部のハッカーは異なる用途に活用している。すなわちフレームの超常的な強化だ。

 そのフィジカルディバイドの極致では肉体との間に大きな齟齬が生じるため、連続使用は三時間に限られる。しかも使用後は十二時間のフラットドライブ、もしくはゲートオフが必須とされていた。

 3時間限定の超人化、それがイマジネータドライブのメタフレームだ。


 轟音と土煙。鋼のブーツの踵につけた無骨な鉄杭が足下の床板に突き立ち、突風の余韻を残して少女は自称素人給仕品評家の鼻先で停まった。

「トロピカルなんとか、お待たせしましたっ」

〈トロピカルソーダマイルスパークアレンジ〉

 訂正するロビイくんを無視してボクは客に銀のトレイを突きつけた。ここまできてトレイの盤面吸着が力尽きグラスが倒れて飛び出した。

 現実と遜色のないドライスケープの液体表現力を遺憾なく発揮して客の顔面はトロピカルなんとかの虹色に染まった。

 うわあ。呆然とした客と目が合った。

『はあい、エマノンです』

 不意にそこかしこにパネルがポップして中から陽気な女性が飛び出した。

 ブロークと呼ばれる壊れたニュートやクラッカー、場合によってはディザスタークラスの障害に対してネットワーク統括府は特別処置報奨金制度を運用している。いわゆる懸賞金だ。そのサービスを寡占するのがエマノンのバウンティスコアだ。

 エマノンの情報はどこよりも早くて的中率が高い。処置対象の行動範囲や出現予測のヒントオークションも人気だ。ただし、ヒントは価格に応じて精度や販売数が異なっていて、ボクの稼ぎではまだ安いものにしか手が出せない。

 なによりバウンティスコアはバグ警報を兼ねたエンタテインメントとして利用されていた。

 周囲のテーブルを見渡せば、いくつも同じパネルが浮かんでいる。距離の違う音声がエコー処理されて、かえって聞き取り辛いほどだ

『マイルスパークのカフェに、手配中のブロークンニュートが出たみたい』

 意識を戻すと、ずぶ濡れの客とまた目が合った。ボクは思わずにっこり笑って、そのまま客にトレイを押しつける。踵を返して駆け出した。

 ごめんなさい、と心の中で叫ぶ。

『知性はないけど破壊癖のある違法改造ニュートだから、市民の皆さんはフレームを齧られないよう気をつけて』

 手配ナンバーはNの一〇三五。危険度は三.七。エマノンの傍らに情報が表示されている。ブロークまでのルートはすでに視界に描かれていた。

 遠くはない。音が聞こえる。方向が揃うと眼前に騒動が見えた。

『処置は個体破壊で大丈夫。ハンターの皆さんは頑張ってね』

 スコアは二八、賞金は五万コインだ。

 表示を横目に逆走する人の波を縫って走る。騒動に耐えかね、転移して消える人もいた。緊急離脱に比べればまだ安全だけど、当然、保証はつかない。

 最後の人垣を掻き分けて飛び出すと、不意に目の前に黒々とした壁が飛んできた。

 反射的に身を捻り、咄嗟に拳で殴り落とした。

 壁が地面に突っ込んで、潰れた蛙のような声を上げた。しまった、人だ。

 見れば灰色の板金鎧を幾重にも着込んだ大男だった。先行していた賞金稼ぎに違いない。恐らくブロークに跳ね飛ばされたのだろう。ボクの拳の痕を背中に残して床に平たく張りついている。

「うわー、ごめんね」

 聞こえているかわからないけれど、とりあえず謝った。相手は辛うじてフレームに踏み止まっているようだが、恐らく痣になっているだろう。

 バトルハッカーがよく患うスティグマと呼ばれる心身逆流による内出血だ。誰に会うでもない引き篭もりのボクがよく痣だらけになっているのはそのせいだ。

 見渡せば、ブロークを遠巻きにして人垣に丸い空隙ができていた。

 テーブルやシートが散乱する中、ブロークに対峙しているのは男の人がひとり女の人がひとり。ひと目でわかる賞金稼ぎの派手なメタフレームだ。


 個々の資質に応じて改造されたイマジネータドライブ専用のフレームは、俗にメタフレームと呼ばれている。ボクも含め身体能力を拡張したものがほとんどだ。

 だが拗らせたメタフレームは往々にして派手で特異な技を使う傾向にある。ロビイくんの言うところ、メタフレームは承認欲求と自己顕示欲の体現なのだそうだ。


 白い全身タイツの男の人が突き出した両手の先から派手な光線を放っていた。タグの名前はユーバンドだ。黒い頭巾のようなマスクが反射光でちらついている。光線といえど物理的なもので、ブロークの触手を弾いたり弾かれたりしていた。

 反対側に立つ女の人はタグにチェイスとある。長い黒髪に紅いバンダナ、切れ込みの深いボディスーツを纏っている。両手に格闘用の暗器を持って身構えているが、振り回される触手に阻まれて攻めあぐねている様子だ。

 見たところ共闘している訳ではなさそうだ。恐らくボクがうっかり殴り倒した板金鎧のフレームの人もそうだろう。エマノンの情報料は安かったから、ばら撒かれたヒントの数も多かったのだろう。

〈触腕の制御が無自覚的だ。何かあてがえば君には向かないだろう>

 ロビイくんが囁いた。ロビイくんはボクと五感を共有しているが、分析力は圧倒的に上だ。もちろん作業の分担は相棒として当然だから気にしない。ボクに住み着いているだけのロビイくんには考えることと嫌味を言うことしかできないもの。

 ブロークから伸び出た無数の触手はロビイくんの言う通り周囲の物を手当たり次第に弾き飛ばしている。気付けばボクの眼前にも赤黒い触手が畝っていた。

「うわ。やっぱり気持ち悪い」

〈心理的な効果はわからないな〉

 ロビイくんは抑揚のない声で呟いた。

〈嗜好の問題だからね〉

「何の嗜好だ。変態か」

 触手にうへえと呻いてボクは手近のシートを掴んだ。無造作に持ち上げる。固定具が耐久値を超えて弾け飛んだ。非破壊オブジェクトじゃなくてよかった。

 軸足を地面に蹴り込んで、ブロークに向かって投げ付ける。シートは放物線も描かずに真っ直ぐに飛んで行った。

 ブロークは咄嗟に触手を寄り集めた。飛んで来たシートを半身に受け大きく傾ぐ。

 ボクはシートの軌道を追ってブロークに向かって駆け出していた。途中に転がるテーブルを蹴り込み、それをまた追うように走る。

 ブロークは触手を総動員してテーブルを躱した。ボクが近づいて来るのは知っているだろう。でも自動防衛の触手にはどうしようもない。

 割れた身体を晒したブロークは触手を引き戻す動作が遅れた。向こうが気付いたときはボクの拳がめり込む距離だった。

 ブロークの身体がくの字に折れて捩じれながら床を擦った。触手を身体で絡め取りながら糸巻のように転がって行く。

 追い掛け、ハンマーを抜き放ち、ボクは両手で柄を持って大きく空に振り被った。

 打ち落とす。

 恐らく迫る槌の先を最期の光景にブロークは弾けて粉々になった。


 例えそれがニュートであれ、ドライスケープでの知覚は制限されている。痛覚も閾値を越えることはない。どれほどの痛みでも感じる閾値は定められている。

 その閾値を越えた刺激は強制的な断線を招くのだ。物理風の攻撃は相手にその閾値を越えた刺激を与えることで強制離脱に追い込むためのものだ。

 相手がニュートなら強制離脱でカーネルが外れる。フレームならば強制退避だ。その際アンカーを打っていればウエットスケープの本体と紐づけることも可能だ。

 人格カーネルを露出させれば直に個人情報を手に入れることも可能だが、それはドライスケープの禁忌も禁忌、普通は絶対そこまでやらない。

 戦闘のほとんどはドライスケープとウエットスケープの接点を暴くことが目的なのだ。

 もっとも、強制離脱はフレームの損傷や機能障害、最悪の場合は接続障害や神経障害の原因にもなる。バトルハッカーはそのリスクを負う覚悟も必要だ。


 破片と粉塵が吹き散って行く。ひらひらと舞うエフェクトに混じって、一枚の紙片が降って来た。ボクが宙で掴み取ったのは大きく『確保』と捺印された受領書だった。

〈この要領を配膳に活かせない理由が知りたいな〉

 お疲れさまの一言より先にロビイくんはそう囁いた。

「ボクはヒーローが本業だから」

 胸を張って当然とばかりに応えると、ロビイくんは生真面目に返した。

〈君の本業は学生だ。バウンティハンターでもホールスタッフでもない。ましてや〉

 近くの誰に対するでもなくボクはロビイくんに向かってそっぽを向いた。

 頭の中のロビイくんに動作を交えて話すのは変えられない癖のひとつだ。これはロビイくんの同居を意識した頃からで傍目に奇異に映るのはもう自覚している。

「ロビイくんはヒーローがわかってないな」

〈君のヒーロー感はチップでスコアが決まるのか〉

 言葉につまって頬を膨らませた。ロビイくんの台詞がちょっとが格好よくて悔しい。

 確かに擬似人格エージェントとの会話は他者に聞こえないから、ロビイくんをそうだと言い張ればただの不器用で通るかも知れない。ボクの独り芝居にも理由が付く。

 だけどロビイくんは違うのだ。

 ロビイくんはボクにしか認知できない出生不明の副人格だからだ。

〈いや、チップの数で決まるなら君がヒーローだな〉

「え?」

 ボクはマイルスパークのマップを辿ってビルボードを視界にポップした。さっきのグラスの中身をぶちまけた客がなぜか相当な額のチップをボクに寄越していた。キャロルを僅差で追い抜いている。現状一位だ。

 嬉しい。けど正直よくわからない。

〈君には才能がある〉

「そ、そうかな?」

〈マニアックな客に好かれる才能が〉

 ロビイくんが皮肉とも困惑とも取れる言葉を添えた。

「何だそれ」

 不貞腐れて応える。だったらロビイくんもそうだろう。でもそれは言えない。

『おめでとう、ハンマーガール。コインの配分は九二パーセントよ』

 ボクの目の前に専用の映像枠がポップした。バウンティスコアのチャンネルだ。公共発信と個別表示がレイヤーで重なっている。

 ヒーローが金で評価されないことは知っている。でもフレームを整備するのにも資金は必要だ。ましてや事件を教えてくれる情報網などボクにはない。

 賞金稼ぎというヒーローとして微妙な位置にいるのはそれが理由だ。

 スコアボードの後ろから同寸に縮小されたエマノンが現れた。今日の彼女は灰色の髪を長く垂らして迷彩パターンのツナギを着ている。

 トレードマークのギャリソンキャップはいつもと同じだ。

「ハンマーガールだって?」

 数メートルほど離れた先で、全身タイツのユーバンドが呻くように名を確かめた。ボクを眺めたまま呆然と立ち尽くしている。正式には二代目ハンマーガールだ。

 元祖ハンマーガールはオムニスケープの黎明期に活躍した伝説のヒーローだ。自分から名乗った訳じゃなく、名乗りあぐねているうちに定着してしまったのだ。トレードマークが同じだったし、そんなふうになりたいとは思ってはいたけれど。

 世間的にはひよっこだが能力的には初代と遜色はない。とボクは思う。身長二〇メートルのアルティメッターと素手で殴り合えるヒーローなんてボク以外にそういない。

 だけどボクの評価はとかく活動にムラが多く行動にはムダが多いというものだ。

 早とちりと空まわりでインターセプタに喧嘩を売ったことも数知れず、乱高下するスコアは平均して中庸だ。まあヒーローは数字では測れないものだから。

『オッズはあいにく、』

 パネルの中のエマノンが言い掛けて固まった。

『あいにく、あいにく、あ、あ、あ、あいにく』

 にこやかな表情を貼り付けたまま、エマノンは動かなくなった。

 出し抜けにバウンティスコアのポップ自体が消え失せた。驚いて周囲を見渡すと、チェイスと目が合った。彼女が首を振って見せる。あちらも同じ状態のようだ。

 彼女に掛けようとした声が、不意の轟音に掻き消された。唐突に空に現れたインターセプタが髪を引き剥がすほどの勢いで頭上を横切って行く。

「ファントムだって?」

 ユーバンドが素っ頓狂な声を上げた。頭の中の会話が出たのだろう。ついで猛然とインターセプタと同じ方向に走って行く。

「何なの?」

 呟いたボクの声は後続の機体に掻き消された。行く先は青い空を映した硝子張りのショップの向こう側だ。シックなビルボードが機体の突風に揺れている。

「重治安部隊がありったけのインターセプタを掻き集めてる」

 困惑した顔のボクに向かってチェイスが教えてくれた。

「伝説の賞金首が現れたそうだ」

 彼女の頭の中で情報が行き交っているのだろう。交友範囲の狭いボクにはできない芸当だ。ハンマーガールのボクを知るほぼ唯一の現実の友人も活動休止中だ。

「あたしも行くわ。気が向いたらおいで。ただし危ないよ」

 機影を仰いで片目を閉じるとチェイスはボクに手を振った。微かに震えたその声は弾んでいるのか怯えているのかよくわからなかった。

 深紅に揺れるチェイスの引き締まったお尻を見送って、あれがスキンなら価格はいかほどかしらとボクはつまらないことを考えた。本物ならすごく羨ましい。

 遠雷のような爆発音が立て続けに響く。なおも上空に出現したインターセプタの編隊が、頭を揃えて飛んで行った。いったい、どれだけ投入する気だろう。


 インターセプタは重治安部隊の主力兵装だ。白い二本足の重機型のフレームで、主に対クラッキング要員として駆り出される。トラブルに際して無償で、あるいは勝手にやって来る。ボクもそれで何度か揉めた。

 重治安部隊は保安隊に属する公的機関だ。けれど管理運営はアマルガムセンチネルが担っている。彼らは歴としたアマルガム社の一員で実質的に企業の私兵だ。

 インターセプタの装備や性質には、それぞれの会社の性格が出る。白の基調色に赤の差し色を使用しているのはアマルガムオルタ。最も凶悪な番犬だ。


 気づけば視界に退避警告が瞬いていた。この街の全員に表示されているはずだ。もちろん無視する人もいる。爆発音のする建屋の向こうに幾人も向かっている。

 ついぞ見た灰色の板金鎧のフレームも、騒々しい音を立てながら走って行く。鎧の割れ落ちた背中には、まだ小さな紅葉のような手形がついていた。

〈近づくのはお勧めしないな〉

 ロビイくんは早々に釘を刺した。宿主に対しては過保護なのだ。

「じゃあロビイくんのお勧めって何さ」

〈イマジネータドライブの使用時間を確保し、課題の作成に充てることだ〉

 ボクは小鼻に皺を寄せうえっと応えた。

「そんなこと言ってるともてないからね」

〈いまさら君に?〉

 蹴躓きそうになりながらボクも駆け出した。ロビイくんはもう少し人の機微を学んだ方がよいと思うのだが、情報の入力源がボクしかないのだからどうしようもない。

 普段ならたいていの都市サーバは俯瞰地図からの直接移動が可能だった。退避警告が出された今のショートカットはステップディスクへの直通しか残っていない。

 ここはまだオープンカフェの一画で、黒煙の立ち昇る賑やかなお祭りの場所へは徒歩でしか移動できないようだ。まだずいぶん先だ。疲れはしないが飽きが来る。

 神経接続において体力とは即ち集中力だ。ハンマーガールは力も速さもそこそこある。素人が寄せ集めで造った割に高機能だ。そのぶん安定性がなく思うようにならないことも多く、三時間というメタフレームのリミットをまだまだ有効に使えない。

 無意識にとんでもない力が出るときもあれば、テーブルひとつ割れないときもある。テーブルは割っちゃいけないけれど。

〈どちらの足を先に出すか考えるから転ぶのだろう〉

 ロビイくんは時々訳の分からないことを言う。だけど身体のない奴にそう言われたって説得力なんかない。悔しかったらフレームを使ってみればいいのだ。

 白い瞬きが連続したかと思うと空鳴りが轟々と響いた。微かな揺れが遅れてやって来る。戦闘はまだ続いている。というより激しさを増しているような気がする。

 目の前に硝子張りの建屋を見てボクは走る速度を上げた。

 その数歩の内に音は激しくなって行き、視界の中のサーバメッセージが色を変えた。退避アラートだ。メンテナンスで見掛ける類の非常通知だった。

 表示に意識を逸らした刹那、目の前の建屋が粉々に割れ跳んだ。建築モジュールの硝子片で傷つくことはないが反射的に身を竦めてしまう。

 音を立てて降る硝子の雨が収まるのを待ってボクは骨だけになった建屋に駆け寄った。折れた柱が色とりどりのスキンにトッピングされている。紐みたいな水着やボディペイント、裸よりすごく煽情的のもあってちょっとどきどきした。

 その瓦礫の中に転がっていたのは捩じくれたインターセプタの残骸だ。フレームにポップした離脱カウンタ越しに向こうを覗き見ると通りは瓦礫とスクラップの原野だ。

 インターセプタやバトルハッカーらしきフレームが捨てられた玩具のように転がっている。軒並み派手な離脱カウンタが頭上にポップしていた。

 沢山のポップ。それすらないフレーム。避難する間もなく巻き込まれたニュートもいる。耳鳴りがするほどの動悸に震えた。瓦礫と残骸がボクの記憶を苛む。

〈ツバサ、鼓動を数えろ〉

 ロビイくんが囁いた。フレームには肺も心臓もない。呼吸さえ肉体と同期した演出に過ぎない。その皮肉はボクが慌てた時の合図だ。

「心臓は向こうに置いてきたから大丈夫」

 応えて心をおちつける。大丈夫。ボクはまだ大丈夫。

 ふと何かに促されるように視線を上げた。瓦礫に波打つ大通りの先に黒い影が佇んでいる。姿が揺らいで見えるのは炎上する残骸の照り返しだろうか。生き残ったインターセプタやバトルハッカーがその影を遠巻きにしていた。

「あれが、そうなの?」

 フレームかニュートかそれとも本物の幽霊だろうか。ファントムの正体は不明だ。都市伝説の類と今までボクはよく調べもしなかった。

 ファントムはオムニスケープの黎明から目撃例がある。ただし一切の記録機器に痕跡を残さない。それが見えるのは神経接続された人間だけだ。

 故にその名で呼ばれていた。

 積み重なった莫大な懸賞金のせいで時々こうしたお祭り騒ぎになる。だけど誰も結果を知らない。こうして屍の山を築くなどボクは噂にも知らなかったのだ。

 影はただ佇んでいる。まるでボクをじっと見つめているかのようだ。

 ロビイくんは沈黙していた。皮肉でもいいから何か喋って欲しかった。

「そんな大袈裟な奴に見えないけど?」

 ボクはむりやり呟いた。

 顎先まである高い襟、鋼と革を鋲で繋いで貼り合わせた黒装束。上衣の裾は踵に届くほど長く、指先は半ば鋭利な金属の爪になっている。

 ファントムが身じろいだ。そんな気がした。

 顔は白い。白い仮面だ。銀色の混じった黒髪の掛かったその仮面には、右眼がひとつ。左頬には額から顎にかけて三筋の紅い爪痕があった。

 不意に何かを振り切るような叫び声と一緒に飾り兜を被ったフレームが飛び出した。ヤケになって崖の先まで走って行った、そんな勢いだ。

 高速で間合いを詰め、放電のエフェクトを纏った拳で殴り掛かる。

 拳がファントムの胸を貫いた。そのまま身体ごとファントムにめり込んだ。紫色の電光が壊れた透過処理のように見え隠れしていた。

 ファントムは自らの身体に腕を差し込み、無造作に相手を引き摺り出した。暴れる相手にファントムは微動だにしない。そのまま喉を鷲掴んで宙に吊り下げた。

 束の間、問うようにそのフレームを眺めて、何の躊躇いもなく指先を閉じた。

 目を背ける隙もなかった。鋏で花を掴んだように飾り兜が呆気なく落ちた。瓦礫に跳ねて転がっていく。座り込むように膝をついた胴体に離脱カウントがポップした。

 怒りか恐怖か焦りみたいな何かでボクの頭は真っ白になっていた。ロビイくんが何か言っている気がする。でもボクには届かなかった。

 立ち竦むインターセプタの間を駆け抜けボクはハンマーを抜いてファントムの懐に走り込んだ。踵の杭を瓦礫に打ってその足を軸に一回りしてハンマーを薙いだ。

 横殴りの槌の先がファントムを擦り抜け宙に大きな弧を描いた。そのまま並んで身体を捻ると、ダンスのスピンを踊るようにファントムと擦れ違う。

 ファントムの爪が届くよりも早くハンマーを手放す反動でボクは飛び退いた。瓦礫の折り重なった斜面を滑り降り靴跡を彫り込んで止まる。

 崩れた建屋か道路の一部だろうか、ボクは手近にあった構造材の塊を抱えて投げつけた。瓦礫はファントムの翳した腕に当たって呆気なく砕けた。

 ボクは瓦礫を追って走り出していた。割れ跳んだ破片に駆け込んでファントムに殴り掛かる。やはり拳はファントムの身体を突き抜けた。

 崩した態勢を前方転回と側転で整えて投げ捨てたハンマーに辿り着く。

 ハンマーを手に身構えた。

 ファントムはその場に佇んだままボクを見つめていた。周囲のインターセプタやバトルハッカーたちはただ呆気に取られて立ち尽くしているだけだ。

 ボクは両手に持ったハンマーを地面に向けて振り抜いた。瓦礫を抉ってファントムに飛ばした。ファントムは避けもしない。瓦礫は身体に当たって砕けて落ちた。

 ボクは笑っていたかも知れない。自分の表情はよくわからない。そのまま手近の瓦礫に組みついた。崩れて落ちた壁の一部だ。ボクの身体より大きな塊だった。

 ファントムがゆるりと近づいて来る。まるで思い出せない知人の顔をを確かめるようにボクに虚空の隻眼を向けている。

 ボクは瓦礫を浮かせて脚を入れ身体を捻った。ファントムに向かって瓦礫を宙に滑らせる。大きさに引かれてボクの身体も浮いた。

 ファントムは無造作に両手で受け止めた。

 流石に今度はファントムも背中が反った。

 ボクは全身で瓦礫を抑え込む。両足で地面を蹴り込み、踵の杭を打つ。ファントムに向かって思い切り瓦礫を押し込んで行った。

 ボクの拳を擦り抜けたファントムが瓦礫を透過しない理由はわからない。ワールドフレームの構造材はファントムにとって特別なのかも知れない。ただボクもそれを考えて武器に選んだ訳ではなかった。当たったからぶつけた。それだけだ。

 瓦礫を挟んで押し合った。このままファントムを建屋に押し潰す算段だった。だけど鋭い刃物になったファントムの指先から瓦礫はどんどん割れていく。

 それでもファントムは少し後退った。

 押して、崩れて、押し返されて、瓦礫は小さくなって行く。

 <ツバサ、時間だ>

 不意にロビイくんが囁いた。

 視界の隅に瞬くリミットメータに気が付いた。針先が端にくっついている。

 イマジネータドライブの臨界時間だ。

 残りの瓦礫が砕け落ちた。ファントムの身体を擦り抜ける刹那、仮面の隻眼と目が合った。覗き込んだその眼の奥は、黒く空いた伽藍洞だった。

 瞬間、ボクの視界はゲートオフの表示と共に真っ白になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る