そして僕は始末をつける

 始末をつける、という言い回しを小倉姪さんは何度もした。その文字を見ると改めて意味が深く理解できる。


 始まりと、結末。


 論文の書き方、なんて本は、小説の書き方、なんていう本と同じくあまり意味のないものだと思うけれども、小倉姪さんの序文に対してそれにふさわしい締めくくりを書かなければならないと僕は強く感じている。

 ならば、と藁にもすがる思いでその手助けをする資料を追い求めた。


 僕はそのためだけに四国へ飛んだ。


 四国は言わずと知れたお遍路さんの土地だ。大勢の人たちが様々な想いを込めて弘法大師空海が切り拓いたという八十八ヶ所のその修行の地を歩いて回ってきた。

 現代の人たちは歩いたり、バイクでツーリングしたり、ロードバイクのペダルを踏み込んだり、タクシーを使ったり、あるいは仕事の休みを利用して週末ごとに何回にも分けてお参りしたりしている。


 そして、重要なのは、その弘法大師ご自身は、密教という、いわば当時最先端の学問の学者であった、ということだ。


 虚空蔵求聞持法というとても不思議な『学習法』を用いた。

 真言と呼ばれる、僕からしたら呪文のように見える音感の言葉の並びを百万遍唱えることで、無類の記憶力を与えられるという、学習法。

 もしこれが本当だとしたら、僕は小倉姪さんと僕の論文のために本当にやってみたいとさえ夢想していた。

 いや、この間の月影寺でのライトアップ・コンサートのように、夢想する間も無く実現したいとすら思っていた。


 ただ、『百万遍』というその回数はこれをやってみなさい、という意味ではなく、そうでもしないと人智を超えた突き抜けた学術論文は創造できないのだという警告だったんではないかと思う。そういう神業のようなことができるのは文字通り神仏のみなのであって、その大きさを人々に示すための、比喩的なものだったのではないかと思う。


 けれども、弘法大師は、自らの意志と肉体をもって、本当にやってしまった。


 今もなお人々に慕われ、尊敬を受け続ける存在をしてものすごく畏れ多く、バチすら当たるのではないかと僕自身恐怖もするけれども、それでも敢えて言い切ってみる。


 弘法大師は、間違いなく中二病だった。


 僕と小倉姪さんの論文は既に序文から本文までは書き上がっていた。

 あとは、『あとがき』を残すのみだ。


 読んでくださった人たちに、柔らかく温かな余韻を残すあとがき。


 それのみならず、『まずはあとがきから読まれたい』と、レビューしてくださる方たちをして言わしめるようなあとがき。


 そういうものを、僕は目指す。


 だから、ずっと小倉姪さんと2人でしてきた作業のその締めくくりを、僕は男として自らの意志で、弘法大師が今も生きている四国という場所で、彼の凄まじいまでの中二病に憧れて、成し遂げるんだ。


 実は生まれて初めて飛行機に乗る。

 座席でシートベルトを着けたあと、ほどなく離陸のための滑走が始まり、エンジンがブーストした瞬間、僕の嫌いなジェットコースターなどはるかに超える重力と加速とで、大地を置き去りにした。


 怖い。本音だよ。


 ただ、ずっと以前に新幹線の中から見た側面からのステレオタイプの富士山じゃなくって、まっすぐ真上からの富士山は、もはやこの娑婆そのものが夢うつつの世界であるということを認識せざるを得ないほどに何者かの造形物であると思い知らされた瞬間だった。


 降り立ったのは高松空港。


 空港のイメージよりも、フェリーが発着する本来の港の風景がよりダイレクトに伝わってきた。


 目指すのは金刀比羅宮。

 こんぴらさんだ。


 最終目的地ではないんだけれども、どうしてもここへ参拝する必然が僕にはあった。


 小倉姪さんが号泣していたスズメバチの亡骸は僕たちの街の護国神社でだったけれども、末期ガンの痛みに耐えかねた母さんを連れて訪れ、母さんが、『日昇光ニショーコーハチが死んでるね』と呟いた神社は、僕たちの街の金刀比羅宮だったんだ。


 その本山である香川県高松市の金刀比羅宮。


 空港近くのうどん屋さんでお昼を食べて、それからこんぴらさんに向かった。


 千段を超える石段。

 僕の年齢であれば駕籠を使ったりせずに自らの足で歩いて上ることが当然だろうし、それが楽しみでもある。


 一段上るごとに血管の圧力が足の筋肉の収縮によって高まる感覚がよく分かる。それは登り切るイメージがつくようなこれまでの神社の、例えばやはり僕の街にある八幡宮の階段のような速筋による血圧ではなくって、先の見えない事業に取り組むような、遅筋のそれ。


 あ、そういえば、遅筋って、チキンだな。


 僕は臆病なのか?


 こんな妄想をしながら足の疲労を精神の片隅に分散させつつ、登る。


 もう一つ楽しみがあった。


 海を観るんだ。


 登っているという意識が木っ端微塵に消え去ったぐらいの心境の時に、ぶわっ、と視界が開けた。


 海だ!


 瀬戸内海がこの高度から眺められるという事実に、とても朗らかなものを感じる。


 ずっと昔に読んだ小説の、タンカー乗りである主人公の父親のセリフを思わず口ずさんだ。


「おわあ、海っていいなあ!」


 参拝に向かう人、帰る人が、僕のそのセリフに、微笑んでくれた。


 僕は境内という神様のこのエリアこそが、現実の世界なんだと改めて感じる。


 小倉姪さんに脅された虻さんは、救われているだろうか。


 展望できる海からの風をひと浴びもふた浴びもして心の垢を清めた後、僕はお社の前に進み出て、お参りした。


 大きな、『金』の一文字を丸で囲ったロゴの大きな提灯が下げられているその神前で、最後の一礼をした僕の足元にハチはいない。


 けれども、やっぱり、僕と母さんは一緒にハチを見た。


 僕と小倉姪さんは、最初の出会いの時に護国神社で、確かにハチを見たんだ。


 晩は素泊まりの質素な宿を取った。おじいさん1人しかいないような宿場で名前を書いてから少し歩いて見つけた本当に赤提灯の居酒屋に入った。


 瓶ビールを一本、それから煮しめが美味しそうだったので、女将さんにそれをいく種類か皿に盛ってもらった。


 学生さん? と訊かれ、はい、と答えた。他の客たちも寡黙にグラスや猪口を傾けている。


 僕はお酒は余り飲めない。

 だから20歳はたちになりたての下戸で泣上戸の小倉姪さんとはいい夫婦になれるだろう。


 宿の部屋はテレビも何もない。

 大浴場とはいいながら実際には2人か3人しかいちどきに入れないお風呂をひとりでいただいてから、少しだけ生き物のような香りのする布団で、熟睡した。


 朝、宿のおじいさんに別れを告げて僕は駅に向かった。


 青春18きっぷを使って松山まで行くんだ。


 僕の目的地はその途中下車の駅にある。


 駅名は、不明。


 小倉姪さんが御本尊と会話したのさ。


「月出くん。その図書館はね、神社の中にあるんだって。でね、高松から松山の路線の途中のね、海を見下ろせる神社なんだ、って御本尊は言うの」

「どこなの?」

「見れば分かる、としか言ってくれないの」


 だから、僕は見た。


 電車の窓からぼうっ、とその小高い丘であろう地形を探し続けた。


 過ぎたら戻ればいい、ぐらいのココロでい続けた。


 なんとなく時計を見る気がしなかったので、スマホをデイパックにしまい込んだままでその駅が把握できた。


 降りた。


 電車の進行方向にあるのが丘のような山だと感じたので踏切のない線路を歩いて越え、また歩いた。


 思ったより近かった。けれどもここに神社があるんだという風には丘の麓からは識別できない。


 ただ、降りた以上は、歩く。そして登った。


 数分を過ぎると、ナチュラルな階段が僕の足元に現れた。

 木の丸太が段差に埋められた階段だ。


 いや、階段というよりは一段一段が踊り場のような幅がある土を丸太に足をかけ、歩き、かけ、歩きを幾度も繰り返した。


 そうしたら、見えたよ、小倉姪さん。

 御本尊は今回は嘘はつかなかったんだね。


 松の木々の隙間から、瀬戸内海が、見えたよ、小倉姪さん。


 昨日のこんぴらさんのような開けた展望ではないけれども、やっぱり朗らかな瀬戸内海がキラキラと銀粒を青のほとんどない波間に煌めかせてさ。


 鳥居をいくつかくぐって、そしたら本当にあった。


 図書館が。


 いや、館、じゃなくって、部屋、というぐらいの小さな木造の建物だけれども、本が、書棚に並べられていたよ。


 この神社は場所とすれば源平の、あるいは平家の由来のお社なんだろうか。


 雅楽が流れている。

 僕はその音楽を神様の仕業や幻聴と捉えたりしないぐらいにはリアリストだよ。

 この丘全体が境内であろう神社に宮司さんのいる気配はないけれども、どこかに置かれたスピーカーからリピート再生される雅楽の音源が流されているんだろう。


 リアリスト?


 そもそも小倉姪さんと出会ってる時点で僕はリアリストと言えないのかもしれない。


 いや。

 この世が夢まぼろしの世界だとしたら、現実ぽくない小倉姪さんの方が、本当のリアルなのかもしれない。


 図書館は元々の神社の建物の一部ではなく、現代、せいぜい100年近く前に建てられたであろう新しい建築物で、僕は引き戸をギギ、と開けてその中に入った。


 書棚も木製で、もさっている。

 本は、あと置きされたもので、僕はその中から月影寺の御本尊が指し示した本を探す。


 読み取れないほどの背表紙の中に、カラー写真がプリントされた本なども突然にあり、時空が入り乱れてる。


「あ」


 僕はこの山の中でたった1人、無人の図書館にて声を上げた。


 これだ。


「これしかあり得ない」


 口に出して反芻した。


『事象の終わらせ方』


 なんとも哲学的なタイトルだ。

 そうでなければまるで剛腕で世界を終わらせようとする恐るべき本とも読み取れるような内容だ。


 著者の記載も何もない。

 ましてや出版年など、忘却の彼方のようだ。


 本自体を崩さないように丁寧に引き出し、ゆっくりとページを繰った。

 装幀がしっかりしていることを確認したあとは、ぺぺぺぺ、と蛇腹のようにページを翻した。映像として文字列の残像を脳に残しながら、僕は最後のページを目指す。


 一番最後の、裏表紙の手前のページ。

 そこに一文だけ刻まれていた。


みずかけっすすべし」


 全ての迷いが、消え去った。

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