港にて-2

 ふう、と彼は食事処の椅子に腰を下ろした。

「どうしたんだい、ため息なんかついて」

 店の女将が笑って問うた。

「旅疲れ? ああ、でも、船でやってきた訳じゃないようだね」

「その通りだけど。どうして判るんだ?」

 片眉を上げて彼が尋ねれば、女将はまた笑った。

「そりゃ、日に灼けてないからさ」

「へえ」

 成程、と思った。確かに港で見かけた人間は、船乗りも船客もみな黒かったり赤かったりしていた。

(……そう言えば)

(あのガキは真っ白だったな)

 顔色が悪い、とさえ感じたくらいだった。日がな一日あんなふうに埠頭に立っているのだったら、さぞかし日に灼けるだろうに。

「なあ、女将さん」

 彼はふっと訊いてみようと考えた。

「埠頭で十二、三歳のガキを見かけたんだけど、知ってる?」

「それくらいの船乗り見習いは珍しくないよ」

「船乗りじゃないんだ。何だかそうな感じでさ。長いこと誰かを待ってるみたいなことを言ってたから、もしかしたら知ってるかと思って」

「……あんた」

 女将は笑みを消して顔をしかめた。

を見たのかい」

「『あれ』?」

 思わせぶりな言い方に、彼は目をぱちくりとさせた。

「たまにね、あるんだよ。埠頭で子供を見たって話が。でもそんな子供なんかいないのさ。見ちまった奴は話をしたと言い張るけど、たまたまそれを見ていたほかの奴は首を振るのさ。そいつはそのときひとりだった、ってね」

「……え」

 彼は口をぽかんと開けた。

「そ、それって……つまり」

神殿クラキルに行って祓ってもらった方がいいよ。あんまり悪い話は聞かないけど、それでも幽霊ベットルなんて」

 嫌だ嫌だ、と女将は身を震わせた。

「幽……」

 ごくり、と彼は生唾を飲み込んだ。

「は、はは、やだなあ女将さん。からかって……」

「からかってなんかないよ。悪いことは言わないから神殿に行っておいで。その方が安心だ。あたしも、あんたもね」


 幽霊。

 女将の話によれば、何でも、その子供の話はずいぶん前から聞かれると言う。

 「見ちまう」のは船乗りか旅人で、大人しそうな金髪の少年だというのが共通して聞かれる特徴だ。話をした者は彼と同じように「待っている人がいる」と耳にしている。親か友人でも海で亡くしたんだろう、その帰りを待ち続けている内に自分も死んでしまったが、それでもまだ待とうとしているんだろう、というのが定説であるとか。

(寂しそう、だったよな)

(船に乗せてあげる、なんて言い出して)

(……まさか)

 彼ははっとした。

(あれって、もし誘いに乗っていたら)

 その船はもしかしたら、冥界に流れるという大河ラ・ムールに向かうものだったのではないか。そんな想像をして彼は身震いした。

(神殿か)

(一応、行っておこうかな……)

 食事処を出た彼は、そわそわと辺りを見回した。

「何を探してるの?」

「神殿、どこかなあと思って」

 答えながら振り向いた彼は、腰を抜かすかと思った。

「ふうん。神殿なんかに何の用?」

 そこにいたのは、先ほどの少年だったからだ。

「うわあああっ!?」

「何。お化けベットルでも見たみたいな顔して」

 少し顔をしかめて、金髪の少年は言った。

「なっ、なな、何で!?」

「何でって、何が」

「どっどうしてここに」

「君のことが気になったから」

 そう言って少年はかすかに笑った。

「お、俺の……?」

「神殿だっけ? 行ってどうするの? まさか罪を懺悔しに?」

「なっ、何でだよ。懺悔するような罪なんか犯してないよ」

「へえ」

 少年はどこか面白がるような顔をした。

「罪を犯していない、と言い切れるんだ」

「な、何だよ」

 彼はまた一歩引いた。

「そりゃ、別に俺は聖人じゃないし、善人ってほどでもないさ。人生、ほんの一リアたりとも後ろめたいことはありません、とは言えないよ。でも悔い改めなきゃならないほどのこともない。ごく普通のつまんない人生さ」

(そうさ、だから)

「妬まれたり、するようなことも、ないからな」

「妬む?」

 少年は首をかしげた。

「誰かに妬まれているの?」

「い、いや、だから、そうされる覚えはないってことで」

 死者には生きているだけで生者が妬ましいだろうか、というようなことも思い浮かんだ。だが彼自身には取り憑かれる覚えなどない。

「つまんない人生、か」

 それから少年はにやりとした。これまでの大人しい印象を払拭するような笑みだった。

 まるで悪戯小僧のような。

 それとも――。

「僕なら、それを変えてあげられるんだけどなあ」

「ちょ、勘弁してくれ」

 彼はおののいた。

「何で俺なんだよ!? 俺はたまたま、通りかかっただけで」

「嘘だ」

「う、嘘じゃない!」

「偶然だなんて、信じないね。君にはこの港町にやってくる理由があった。ほかのどんな大きな港でもない、この町に」

「え……」

 彼は戸惑った。

 確かに――ある。ほかでもない、この町にやってきた理由は。

 だが、何故?

「どうして神殿に行こうとしてるのか知らないけど、やめておいたら」

 少年は肩をすくめた。

神官アスファどもにはろくな力がない。期待しているような効果は望めないよ」

「……そう、かな?」

 これは、と彼は思わざるを得なかった。

(祓われないように、俺を神殿に行かせまいとしてる?)

 昔物語ではよく聞くことだ。魔物が言葉巧みに聖なるものを避けさせ、主人公を取り殺そうとする――。

(冗談じゃ、ない)

 取り殺される謂われなどない。たまたま目について話しかけただけ。

 それが彼の運の尽きだったのだろうか?

(冗談じゃない!)

(逃げればいいんだ。相手をしてるのが間違い)

「ねえ、もう諦めなよ」

 笑みを浮かべて少年は言った。それは何だか嬉しそうな笑顔だった。

「諦めるって、何を……」

 訊きたくないような気がしながらも、彼はつい問うた。

「そりゃあ、僕から逃げようとすること」

「うぇっ」

 彼は妙な声を発した。

「気づいていないのかもしれないけど、君がこの町にやってきたのは、僕に会うためなんだよ」

「なな、んなこと、ある訳がない」

 幽霊に出会って取り殺されるためにやってきたはずがないではないか。

「俺は船を見にきただけだっ。目にして、満足したら、とっとと帰るっ」

「『満足したら』ねえ」

 意味ありげに少年は笑った。

「見ただけで満足するとは思えないね。目にしたらきっと乗ってみたくなるだろう。乗ってみたら必ず、出航したくなる」

「俺は船旅に興味はないって言って」

「そんなこと」

 にやりとした笑みが浮かぶ。

「言っていられるのは、いまの内だけだよ」

「な、何なんだよ、あんたはいったい」

 彼は逃げようと考え、左右に視線を配った。

「早く船を見においで。君は絶対に、虜になるから」

「虜」

 なかなかぞっとする一語だった。呪いをかけられ、船から永遠に出られなくなった船長の物語を思い出す。

「ねえ、一言、『行きたい』と言ってよ。『うん』とうなずいてくれるだけでもいい。そうしたら僕は、あの船を君のために」

「冗談じゃ、ないッ」

 ついには叫んで、彼はばっと地面を蹴った。

 〈尻を蹴られたケルクのごとく〉彼は走り出した。必死で厄除けの仕草をし、魔除けのまじないを口のなかで繰り返しながら。

「……まだ、逃げようってのか」

 それを見送って少年はくすりと笑った。

「諦めが悪いところは、おんなじだなあ」

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