第37話 お嬢様、不慮の事故?

 スクリーンに幕が引かれ、辺りが明るくなって初めて、清華は全身に入っていた力を抜き、渉の肩から顔を上げた。


「お…面白かったですわ。」

 全く見ていなかっただろうし、内容なんてわからないだろうに、清華は強がって言った。

「そうだね。次は、ディズニーでも見にこようね。」

「はい!」


 次も誘っていただけた!

 無理して怖いのを我慢した甲斐がありましたわ!


 清華は立ち上がろうとして、足に力が入らないのに気がついた。

「渉君。」

 帰り支度をして立ち上がった渉が、どうしたの?と清華を見る。

「立てません。身体が、ガクガクしてしまって。手を引っ張っていただけないでしょうか?」

 渉は、清華の荷物を持つと、清華の手を握り引っ張り上げた。

 清華は立ち上がれたがよろけてしまい、渉にしっかりと抱きつく。

「すみません、少し支えて歩いていただけると…。」

「わかった。」

 清華の腰に手を回し、身体を支えるようにして映画館を出た。


 あまりの密着ぶりに、回りからは仲の良いカップルに見えたことだろう。しかし、渉にしてみれば、清華が転ばないように支えるのに必死だった。

「段差、気をつけて。」

 渉が言ったと同時に清華がつまずく。

「危ない!」

 渉は手に力を入れて、つまずいた清華を支えようとする。


 あ………れ?


 ウエストに回していた手がずれて、清華の胸を鷲掴みする形になってしまう。それも、かなりガッシリと…。

 一瞬時間が止まり、渉の知覚が全て触覚に集中する。


 手にスッポリと収まる大きさで、ムニムニと柔らかく…。中指に当たるこの感触は!


 中指から何かが擦れてずれると、清華の口から切ない声が漏れる。

「ア…ッ。」

 清華が自力で体勢を立て直し、真っ赤な顔をして走りだした。

 胸をつかまれたのも恥ずかしかったが、今まで感じたことのないような感覚が身体を走り、思わず出てしまった声が自分の物とは思えなかった。

「お手洗いに行ってまいります!」

 渉は呆然として自分の右手を見つめた。


 今の感触って…!

 サーヤのおっぱい!!

 しかも触れるどころか、つかんでしまった…。

 しかも、しかも、しかも、サーヤのあの可愛い声!

 ヤバイ!ヤバイって!!


 渉は硬直して立ちすくみ、その前でアングリ口を開けて二人を見ていた男と目があった。

 一瞬にして、渉の思考が動き出す。


 今の見られた?!


「君?」

 見覚えのある顔だが、誰かわからない。高校生くらいに見えるから、同じ学校の生徒だろうか?


「さ…清華様のお胸に…。」

「いや、今のは不可抗力だ!」

 真っ赤になりながら否定する渉に、高橋はつかみかかってくる。

「どういうことなんだ!清華様とデートするなんて、それも執事の仕事なのか?ならば、僕も執事になる!葵先生に弟子入りして、清華様とデートするんだ!清華様の胸を触るんだ!」

 拳を振り上げ、高橋は執事になるぞーと宣言する。


 執事とデートするお嬢様はいないだろうし、胸だって触れないだろう…。


 渉は引き気味に高橋を見ていたが、口止めをしなければならないのでは?と、思い当たる。

「あの、君…、誰だっけ?」

「一年一組クラス委員、高橋聡。聡明のソウと書いて聡です。」

「聡明な高橋君なら、さっきのが不慮の事故だということはわかるよね?」

「事故?狙ったんではないんですか?!」

 高橋は胡散臭そうに渉をじろじろ見る。


 狙ってできたら苦労はない。いや違う、そうじゃない。


「そんな訳ないだろう!そうだ、これから西園寺さんと夕飯を食べようかと思ってるんだけど、良かったら君も一緒にどう?」

 とにかく、清華とデートしていたという噂が流れるのを阻止するために、渉は高橋を誘った。

「清華様と食事…。」

 それは魅力的な誘いだったが、何より高橋は葵の元に行き、弟子入りしなくては!という思いでいっぱいになっていた。


「あの、お待たせいたしました。…高橋さん?」

 平常心を取り戻して戻ってきた清華は、高橋が渉と話していることに気がついた。

「高橋さんも同じ映画を見ていらしたの?」

「はい、清華様。私服姿の清華様も大変美しいですね。」

「ありがとうございます。」

「あのね、高橋君も食事に誘ったんだけど、いいよね?」

「エッ?!」

 清華は、明らかに不満そうな顔をしたが、不承不承うなづく。

「渉君が誘いたいのなら…。」

「というわけで、どうだろう?」

「清華様と食事…葵先生に弟子入り…。選べない!」

 高橋は、史上最大の選択を迫られているかのように頭を抱えた。


 これがクラス委員でいいんだろうか?


 渉は西園学園の生徒会長として、一抹の不安を覚えた。

「彼、いつもこんな感じなの?」

 渉は清華に小声で聞いた。

「まあ…そうですわね。」


「清華様。」

 映画館のロビーで高橋が大袈裟に悩んでいた時、清華は後ろから声をかけられた。

「葵!」

「親父?!」

 清華と渉が同時に叫ぶ。


 葵はかつらを脱ぎ、化粧を落としており、男同士で映画を見にきたようにしか見えない。

 高橋が清華達に接触してしまったので、慌てて変装を解いたのだった。何かもめているようだし、仲裁に入ることにしたのだ。

「なんで親父と葵先生が?」

「いや、おまえにチケット渡した後に、面白そうな映画だなと思って、たまたま葵さんと話してだな…。」

「なんだよ、なら一緒にくればよかったじゃん。親父、何食ったんだよ?口が赤いぞ。口拭けよ。みっともない。」

「え?ああ、うん。」

 健は慌てて手の甲で唇を拭う。

 葵は表情は変わらないが、わずかに顔が赤い気がした。

「にしても、なんでそんなに若作りしてんだ?」

「あら、お似合いですわ。渉君のお兄様みたいです。」

「葵先生!」

 高橋がいきなり葵の前で土下座をした。

 みなギョッとして高橋を見たが、葵だけは意に介していないように涼しい顔で高橋を見下ろした。

「なんでしょう?」

「弟子にしてください!」

「弟子ですか?」

「はい、僕も生徒会長のように執事見習いになりたいんです。清華様の執事になりたいんです!(そして、清華様の胸に触りたいんです!)」

「清華様の執事には、すでに私がおりますが。」

「じゃあ、第二執事で!」

「簡単になれるものではないのですが。」

「努力します、何でもします、無休で働きます!」

「無給?」

 葵の目が光る。

「はい!」

 無給と無休、漢字が違うのだが、元よりお給料をもらおうと思っていないので、高橋にはあまり相違ないかもしれない。とにかく何でも、葵の弟子になれさえすればいいのだから。

「よろしい、弟子にしてあげます。その代わり、私の命令は絶対です。よろしいですか?」

「葵!」

「葵先生!」

 清華と渉は、驚いて葵を見る。

「了解いたしました!」

 高橋は飛び上がって喜び、葵の手を握って礼を言う。手にキスでもしそうな勢いだ。

 何故か健が眉をひそめて、その様子を見ている。

「では、僕も住み込みで!」

「いえ、あなたは学生のうちは通いです。あと、大学まで行くこと。知識は執事には必要ですから。それから、ご主人様の私生活は、絶対に他言しない。執事の基本です。それと、私は他に弟子をとる気はありませんから、このことは絶対に内緒です。よろしいですね?」

「清華様がご主人様…。」

 高橋はブルッと震える。

 清華の足元に膝をつき、その手をいただく姿を想像し、幸せの絶頂をむかえそうになる。

「とにかく、これからのことも話さないといけませんし、高橋君は私達と行きましょう。清華様達は予定通り、お食事をしてからお帰り下さい。では。」

 葵が高橋の襟首を持って引きずり、健は二人に手を振って映画館から出ていった。


「なんだったんだ、いったい?」

「さあ?」


 執事を目指した理由はともかく、これから高橋は本格的に執事業にのめりこんでいくことになる。

 そして将来執事を派遣する会社を立ち上げることになるのだが、それはまあ…どうでもいいか。


「食事…行こうか?」

「そう…ですわね。」


 二人は、予定通り映画館と同じビルにある鍋料理屋に足を向けた。

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