トキジク ユリ

 トキジク ユリ。

 彼女こと225号の後継個体は自分のことをそう呼んだ。

 漢字でトキジク ユリは時軸 百合と書くのだという。なんとも面白い名前だ。  時は時間そのものを表し、軸は時間軸そのものを表しているともいえる。そして百合。遥か昔西洋を支配していたキリスト教において、百合は救世主イエスを生んだ聖母マリアに捧げられた花だった。

 彼女は時間軸を超越してこの氷の世界にやってきた、過去からの聖女かもしれないのだ。

「ねぇ、なんで私はクロになってるの? あなたたちは猫人で。猫じゃなくて、人でもなくて、でも、喋ってるし後ろ足で歩いてるし……。これは、夢……?」

「夢じゃない。現実だよユリくん。我輩たちは偉大なるイエネコの存在を遠い未来に伝えるために生み出された存在。さらに詳しく言うならば、この炬燵コロニートミオカを始め、ジパングにある2222のコロニーにて我らはイエネコの下僕であった人間たちの資料を調べ、イエネコとはどのような存在であったのかを研究している。我らは君たち人間が造ったイエネコ信仰を伝えるための使者なのだよ」

「その割には、みんなニャンモナイトになって寝てるけど……」

 我輩の部屋に通されたユリは会話を切り、呆れた様子で下のロビーを見つめる。螺旋階段の踊り場にあるの我輩の部屋からは、リノリウムの床が眩しいトミオカコロニーのロビーが見渡せた。欄干に両前足を絡ませ、ユリはうっとりと金の眼を細めてみせる。

「夢であっても、この光景は眼福……。壁にぎっちり積まれたネコ本の数々に、床に散乱するニャンモナイトたち。いやここ、天国以外の何ものでもないわ……。私、やっぱり天国に来ちゃったんだ。これはもう生き返りたくない……」

「そ、それは! 我輩たちはイエネコと同じ長い睡眠時間を必要とするから仕方のないことなのだ! 別に気分が乗ったときに仕事をすればいいだけの話であって、お前たち人間のようにすけじゅーるなとどいう意味不明で作業効率の悪いものはつくらない。我らの目的はイエネコの存在を未来に伝えること! そのため、イエネコが持っていた性質を受け継いでいる! それは我らの誇りであり、けっしてめんどくさいからさぼっている訳ではない!!」

「やっぱりサボってるんだ」

 くるりとユリは振り向いて、金の眼を嫌らしく細めてみせる。ゆれる彼女の尻尾がなんともセクシーで、我輩はその尻尾を食い入るように見つめていた。

 なんだろう。この感覚は。遠い昔に、我輩にこんな表情を投げかけてきた者がいたような気がする。そう、とても遠い昔に。

「あれ、もしかしてクロの尻尾に見惚れてる?」

 後ろ足をしなやかに動かしながら、ユリは我輩に近づいてくる。彼女から漂ってくる心地よい香りに我輩は呆けていた。

 そう、この香りを我輩は知っている。絶滅した百合の花の香り。氷の下に閉ざされた花が芽吹いたかの如く、ユリは花の香りを纏っていた。

「やっぱり、にーってハイに似てる。私たちの飼い猫に。ハイもクロの尻尾をじっと見つめる癖があったんだよね。あの人みたいに……」

 ふっと彼女の金の眼が陰りを帯びる。その眼に誘われるままに、我輩は彼女の両肩に両前足を乗せていた。ぴくぴくと髭を動かしながら、彼女は口を開く。

「あなたは、本当ににーなの?」

 こくりと首を傾げる彼女が眼を光らせる。金と茶のプリズムを放つその眼を我輩は食い入るように見つめていた。

「あの人は言った。きっとまた会えるって。猫たちが私たちを繋いでくれるって。それが、この世界なのかな?」

「君の言っていることがわからない」

「うん、生前の話よ。もうずっと昔の、氷に閉ざされる前の人間たちの話……」

 両肩に乗った我輩の前足をそっと降ろして、彼女はゆったりと眼を瞑った。我輩から離れて、彼女はくねくねと長い尻尾をくねらせる。ぴんと後ろ足を伸ばして、彼女は大きく足を開いたままジャンプをした。

 見事な半円形を描きながら、彼女は床へと着地する。そのまま彼女は両前足を頭の上で交差させ、何度か跳ねてみせる。

 ぴょん。ぴょん。ぴょん。

 体を回しながら跳ねる彼女は、さながらばね仕掛けの人形のようだ。人工太陽の優しい輝きが彼女の黒毛を白く浮かびあがらせ、金の眼に切なげな光彩をなげかけている。

 その眼で、彼女はリノリウムの床に寝そべる猫人たちを見つめる。

 悲しげなその眼から、我輩は眼が離せなかった。

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