僕の愛する神戸を見てくれ

姫神 雛稀

1枚目:その求人、マニアックにつき

1枚目:その求人、マニアックにつき-1

 上納金が足りません。

 姉が朝からそんなことを言うもんだから、僕は丁寧に首をかしげて異議を申し立てた。

 七分袖のシャツを浅履きのパンツに入れるスタイルは姉のいつも通りで、どうやら普段と変わらない平日の朝、彼女にとってはただ単に出勤前に思い出して言ってみた程度のことであるらしい。

 そうは言っても腑には落ちない。

「七月分、もう払ったやんな?」

「三万だけね。あと三万残ってるから」

「……どういうこと?」

「夏季特別徴収」

「なにそれ」

「エアコン代とローンのボーナス払い」

 そんな話があっただろうかと必死で記憶をたぐって、確信を得て。

「いやいやいや、聞いてないけど」

「そんなん言われても、先月の家族会議で承認されたことやから。五日以内に払ってな」

 先月……たしか、バイトで出れなかった回だ。

 家族LINEに上がっていた議事録を引っ張り出せば、確かにそういう項目が承認されていた。まともに読んでいなかったことが悔やまれる。

 くそ、そんな重要なことが決まってたのか。

 我が家の家計は予算の八割を姉の収入で、残りの一割ずつを僕と母のバイト収入で賄っている。

 そんな中、この前の三月に年度末駆け込みで新古のマンションを買った。

 神戸市中央区の、ちょっといい土地の、快適な物件。

 姉名義のローンは月々の支払いだけ見ればそれまで住んでいた賃貸物件の家賃とさほど変わらないものの、そうか、ローンにはボーナス払いというのがあるのか……。

 もちろん、姉だって無策でローンを組んだわけじゃない。

 ローンは職場の福利厚生で使える格段に割のいいものだし、本人が係長に昇進してぐんと給料が上がったのも計算に入れてはいるはず。

 しかしまさかボーナス払い分の負担が僕にも来るなんて。

 いやだって僕まだ大学一回生ですよ、きゃぴきゃぴの十八歳ですよ。

「払わんかったらどうなるん?」

「食費分から引き上げて充当されてくから、メシが用意されなくなる」

 試しに聞いてみたところ、えらい答えが返ってきた。

 これはピンチだ。

 僕の混乱などお構いなしに予定通り出勤するらしい姉を見送って、とりあえず現状の確認を始める。

 僕が今やっているバイトは時給八八〇円の飲食と九五〇円の塾講師。

 三万円を稼ごうと思えば、塾講でも三十時間以上入らねばならない。

 それを五日以内にというのは無理だ。そもそも日払いではないし。

 仮に少し待ってもらったとして、夏休みだからなんとかなるか?

 いやいや、僕の本業は大学生だ。この夏も集中講義の予定が既に入っている。

 仮にだ、仮に高額の派遣バイトでも見つけたとしよう。

 もし運良く時給二千円近いものを見つけたところで、一五時間。……なんだかいけそうな気がする。

 と、そこまで考えて気づいた。

 このままでは、後期の学費納入に間に合わないのではないか。

 十月末までに二七万用意しなければ詰むのでは?

 慌てて電卓を掴み、時給と学費、上納金を打ち込んで計算する。

 減免申請は出したけど、姉の所得がそれなりにあるので多分通らない。これまで申請した奨学金は大小給付貸与を問わず全て落とされてきた。我が家はそこまで困窮していない上に、僕もそこまで優秀でもないせいだ。

 後期が始まればバイトできる時間はぐんと減る。

 しかも後期の教科書を買わねばならない。

 あれやこれやの試算の結果、俺が夏休みに稼ぐべき額は約五〇万円。

「嘘やろ……」

 時給千円でも五〇〇時間、一日一〇時間労働でも五〇日かかる。

 無理だ。時給が安すぎる。無茶が過ぎるぞ。

 バイトを増やすとかそういう対応では駄目だ、根本的にもっと稼げるバイトでないと。

 とりあえずバイト情報サイトにアクセスし、高時給バイトのバナーをタップした。

 警備員かイベント設営の二択にすると、それなりにはある。

 深夜なら高いのだがしかし一日二万が限度。二十五日働いてようやく目標額。

 それも大抵市内では見つからなくて、大阪まで出ないと継続して働けそうにない。

「あー、無理、もう絶対無理」

 僕の頭は完全に諦めムードだった。

 既に思考は「三万貸してくれそうな友達は誰か」に移ろうとしている。

 幸いにもこれまで地元で粛々と暮らしてきたおかげで心当たりはいくつかある。最悪あいつらを頼らせてもらおう。

 金は足りないが、とりあえず今入っているシフトは完遂しなくてはならない。

 リュックを掴んで家を出ると、わずかに潮の香りの混じった風が前髪を浮かせた。

 すごいな、今日はここまで港の風が上がってきたのか。

 僕が住んでいるのは神戸市中央区の三宮・元町エリア。中でも北野と呼ばれる地域の南の端。

 最寄りの新神戸駅までの間には北野異人館街を抜ける必要があるのでどうしたって坂道が避けられないけど、それは六甲山より南の神戸に住もうと思えばどこでも同じこと。

 まあ、生まれ育った花隈町の下の方なら、坂とほぼ無縁ではあったけれども。

 今日のバイトは飲食の方。旧居留地のレストランでランチ準備からカフェタイム終わりまでの予定だ。その後は大学の図書館に試験勉強で使った本を返しに行って、そのまま塾講を二コマ。

 店まではぐんぐん下り。日差しもさほどきつくはなく、自然と駆け足になっても少し汗ばむ程度の快適な気温だった。

 神戸で暮らして十八年。

 途中、三宮の繁華街を抜けて市役所を横目に過ぎ、市立博物館の手前で西へ曲がる。

 既に店長がキッチンに入っていて、美味しそうなスープの匂いが僕の心を幸せにする。

 まかないを期待しながら手早く着替え、カウンターに立てかけてあるブラックボードを運んできて、ひとまず綺麗に拭いていく。

 本日のランチメニューを書くためだ。

 これが難しい上に、うちのランチは書くことが多いから時間がかかる。しかも店の外と中、合わせて五枚も仕上げなきゃならない。

 僕よりも上手い先輩がシフトに入っているときはお願いするけど、今日のメンバーでは僕以外書けないから、さっさとやらないと開店時間になってしまう。

 店長の走り書きメモから崩れた筆記体を発掘して、それらしくお洒落っぽいボードを作っていく。うちのボードは結構評判がよくて、最近はSNSとかでもちやほやされているのだ。

 他のバイトがやってきてテーブルをセッティングしていく中、一人黙々とボード書きを続け、とりあえず一枚を店の入り口に置く。行列ができないうちに置かないと意味がないから。そして残りをなんとか開店前ギリギリに仕上げる。

 正直、ここのバイトで八八〇円は割に合わない。

 観光地にあるのに加え、色んな雑誌に掲載されたり取材が来たり、半端じゃない数のお客さんが途切れることなくやってくる。

 九〇〇円は欲しいところだが、今となってはそれすら誤差。

 他にいいバイトがあったら即乗り換えないといけない。

 この仕事は楽しいけれど、僕の本業は学生なのであって、それを忘れちゃいけないと……思うんだ、うん。

 オープン直後は私的な悩みなんて頭に置いておけないほど忙しい。

 キッチンとホール、レジをくるくる回って、二周目に入る頃には食器洗いが足りないと店の隅へ連行される。

 そんなこんなでランチタイムを終え、次はスイーツ目当てのお客さんを迎えるカフェタイム。その隙間にまかないのスープパスタをいただいて、また少し仕事をして上がり。

 少し伸びてしまったので延長込みでタイムカードを押す。その分急いで本を返して塾へ向かわないといけない。

 定期券は三宮と学園都市で買ってあるけど、バイト先には県庁前の方が近い。

 元町駅の高架をくぐり我が母校の横をすり抜けて、兵庫県公館のそばにある地下鉄入口へ。PiTaPaを改札に叩きつけて階段を駆け下りれば、ちょうど西神中央行きが入構したところだった。

 すいているロングシートのど真ん中に座って、バイト探しの続きをしようとスマホを出したところで、ちょうどLINEの通知ポップアップが表示される。

『相変わらずいっつも走っとうね(笑)』

 顔を上げると、正面に幼なじみが笑っていた。


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