第5話 震えるスマホと柔らかな抱擁

 今日も今日とて、俺の一日は不幸から始まることになってしまった。

 登校中になにも起きなかったことに安堵していたら、学校に着いてまず向かった自販機に、千円札を呑まれてしまったのだ。


「ツイてねぇなぁ……」


 後で教師に報告するとして、改めて硬貨を投入しようとする寸前で、その手を止める。

 待て、もしかしたらこの百円玉と十円玉も、この自販機の皮を被ったモンスターに呑み込まれてしまうかもしれない。そう考えてしまうと恐怖で手が竦み、ただジュースを買うことすら躊躇ってしまう。

 学生にとっては千円だろうが百円だろうが、その損失は大きな痛手となる。俺みたいにアルバイトをしていないやつは尚更に。

 どうする。買うべきか、買わないべきか。なにも喉が渇きすぎて死にそうというわけでもないが、一度飲みたいと思ってしまえば俺の喉はそれを求めてしまっているわけで。

 食欲とは即ち、人間の三大欲求だ。飲み物も食欲に含まれるかは知らないが。それを抑圧するのは、あまりよろしいことではないのでは?

 いやでも、お金を呑まれるのも相当つらいし……どうするべきなんだ……教えてくれる五飛、ゼロはなにも教えてくれない……。


「椿くん」


 たかだかジュースを買うだけで相当悩んでいた俺の背に、聞き慣れた声がかかる。

 振り返った先にいたお下げ髪の友人と目が合って、昨日のことが唐突にフラッシュバックした。

 小梅先輩の小さな願いと、とんでもない提案。そして、駒鳥の、確かな決意を秘めた瞳と言葉。


「おはようございます」

「おう、おはよ」


 しかし駒鳥は、まるで昨日のことなどなかったかのように、いつも通りの挨拶をして来た。顔が熱くなってるのを自覚しつつ、なるべくそれを悟られないためにも挨拶を返す。

 俺もなるべくいつも通りを心がけようとするが、昨日のことが嫌でも思い返されてしまって。

 隣に並んだ駒鳥の顔を、まともに見れない。


「飲み物、買わないんですか?」

「いや、それがさっき千円札呑まれてさ。後で先生に報告しとくにしても、ここで小銭も呑まれたらって考えると、中々な」


 忌々しい自販機を睨むも、それで俺の千円が帰ってくるわけではない。なんだかそうしていると、本当に喉が渇いて来た気がして、余計にジュースが欲しくなって来た。

 もう思い切って小銭を投入してやろうかと思い始めたその時、ちょんちょんと二の腕あたりを突かれた。もちろんそんなことをするのは、隣に立っている駒鳥しかいない。


「じゃあ、ちょっと小銭貸してもらっていいですか?」

「別にいいけど……」


 言われるがままに、手に握っていた小銭を駒鳥に渡した。その時駒鳥の手に触れてしまったような気がしないでもないが、気のせいだ。そう言うことにしておこう。

 まさか駒鳥のやつが、そのまま金を持って逃げるなんて真似はしないと思っていたが、彼女はそれを自販機に入れ、なんのためらいもなく俺が欲していたジュースのボタンを押した。

 当たり前のようにボタンは反応して、ガコンッと音を立てて缶が排出される。


「はい、どうぞ」

「……ありがと」


 手渡された缶ジュースは、悴んだ手には痛いくらいの冷たさだった。

 今日この時に限らず、駒鳥には本当に気を遣わせてしまっている。それも全て、俺の不幸が原因で。それを申し訳なく思いながらも、どこか嬉しい自分がいて。このジュース一つにしてもそうだ。俺がいつも飲んでいる炭酸飲料。図書室内では飲食禁止だから、大体は教室かこの自販機の前で飲んでいるが、駒鳥はそれを知ってくれていた。

 今まで、家族以外の誰かに俺のことを知ってもらえているなんて、そんな経験がなかったから。本当に嬉しくて。

 プルタブに指をかけ、控えめな笑顔を浮かべている駒鳥の前で缶を開くと。


「うおっ!」

「きゃっ」


 見事に暴発した炭酸。俺の手とブレザーの袖を濡らす透明の液体は、その嬉しさを綺麗に流していきやがった。

 やっぱりツイてねぇじゃん……。





 濡れた制服の袖が完全に乾いた頃。昼休みも終わり間際と言ったところだ。俺の携帯が、ラインの着信を告げた。

 弁当も食い終わり手持ち無沙汰だった俺は、すぐにアプリを開いたのだが。


『なんでこっち来てくれなかったの』

『待ってたんですけどー』

『折角大爆笑必至のギャグ思いついたのに』

『もしかして昨日の今日でちょっと恥ずかしいとか?』

『やだなにそれ可愛いー!』

『でも朝から駒鳥ちゃんと自販機でイチャイチャしてたくせに、今更恥ずかしいもクソもないよね!』


 怖くなったのでそっとアプリを閉じた。

 間断なく届けられるメッセージは、どんな速さで打ってるんだと思わずにはいられないスピード。しかも、朝の駒鳥とのやりとりをどこで見ていたのか。周りにいたのは名前も知らないような生徒ばかりで、視線を感じることもなかったのに。

 はぁ、とため息を吐くと同時に、昼休み終了のチャイムが鳴る。ここから暫くは、あの人もラインをしてくることはないだろう。いくら推薦が決まってるとは言っても、まだ合格したわけではないのだし。授業くらいちゃんと受けるはず。


 そう思っていたのも束の間。

 五時間目の授業が始まっても尚、ポケット入れたスマホは着信を知らせるべくずっと震えたままだった。五十分間ずっと震えているものだから、俺のスマホちゃんは果たして誰にそんなに会いたいのだろうかと思ったりもした。嘘、思ってない。

 そしてそれを無視したまま突入した六時間目。一日の最後の授業でも、やはりラインの通知は止まらなくて。お陰様で得意なはずの世界史の授業の内容は、なにも頭に入ってこなかった。

 途中で通知を切るか電源を落とそうかとも思ったが、授業中は原則スマホの使用禁止だ。不幸にもタイミング悪くそれを教師に見咎められたりしたら、もっと面倒なことになるのは明白。

 ようやく全ての授業と終礼が終わり、放課後になりラインを開けば、通知は驚きの百件越え。マジで授業中に何やってんだあの人。

 取り敢えず一言文句を言ってやらねばならない。こんなのが今後も続くようであれば、授業に集中出来なくて単位落としちゃうかもしれんし。

 空き教室に向かうべく荷物をまとめていると、駒鳥が俺の席に近寄ってきた。


「椿くんは、今日も白雪先輩のとこに行くんですか?」

「あー、まあ、そのつもりだけど……」

「そう、ですか……」


 駒鳥の表情には暗い影が差している。その意味が分かってしまうから、なんと声を掛けていいものか分からない。

 聞いた話によれば、うちの学校の文芸部はかなり活動的なようで。それは、三年前から刊行されている部誌の『雪化粧』の刊行ペースを見れば、一目瞭然だ。特に三年前から二年前まで、ちょうど小梅先輩の姉が在籍していた頃は凄まじい早さで作られている。大体二ヶ月に一冊のペースだ。小説を書いたことのない俺でも、その早さが異常なことくらいは理解できる。

 とまあ、そんな事情によって。駒鳥は現在、部誌の原稿に追われているらしい。だから、俺に同行したくてもできないのだ。


「まあ、部活頑張れよ」

「はい。椿くんも、白雪先輩になにかされたら、すぐに連絡してくださいね。飛んで行くので!」


 さすがにそこまで酷いことはされないと思うけど。むしろ俺が持ち前の運の悪さを発揮して、なにか起こしてしまう、と言うのであれば十分に考えられる。

 教室前で駒鳥と別れ、第二校舎へと足を向ける。部室が集まっている第三校舎とは、この教室からだと反対方向だ。

 因みに俺が現在いるここ、ホームルームの教室や職員室、保健室に生徒会室その他諸々が集まっているのは第一校舎。そして一年生はその最上階である五階だ。ここから一度三階まで下り、空中廊下を使わなければならない。

 その空中廊下に一番近い階段を使って、目的地へ。普段はここも、あの空き教室の付近と同じで、人の気配は殆どしないのだが。三階と四階の間にある踊り場に出ると、頭上から騒がしい声が聞こえて来た。それから、ドタバタと走る足音も。廊下は走るなと小学校の時教わらなかったのか。まあ、それで怒られて実際に歩いてるやつなんて、見たことないのだが。

 そして俺は、そう言うやつに不幸な目に遭わされるのが、大体いつものパターンで。


「おい急げって! 早くしねぇとあの先生帰っちまうぞ!」

「それはやばい!」


 提出物でも出し忘れたのだろうか。同じ一年と思わしき二人の男子生徒がダッシュで階段を駆け下り、俺の隣を通り過ぎようとしたところで。

 ドンッと、背中に衝撃。前につんのめる体。


「えっ」


 理解出来たのは、ぶつかったと言う事実と、襲いくる浮遊感。それから。

 落ちる。

 これから俺を待ち受ける、単純極まりないその現実だけだった。

 意味なんてないのに、反射的に目を強く瞑って痛みに備えたのだが。予想していたそれが来るよりも早く。


「椿君っ!」


 耳をつんざく大きな声と、体が後方に引っ張られる感覚。そして俺の顔が着地したのは、柔らかな制服の生地の上。右の手首は白く細い指に絡め取られ、後頭部を押さえつけられて慎ましくもたしかに柔らかい膨らみに顔が圧迫される。

 階段から落ちそうになるのより、よっぽど大きな衝撃が、俺の脳を直接揺さぶっていた。


「階段は駆け下りるなッ! 椿君が落ちてたらどうするつもり⁉︎」

「す、すいませんでした!!」


 あの笑顔からは想像出来ないほどの、腹の底まで鋭く響く怒号。この声は、聞き間違えるはずがない。

 俺にぶつかった一年生達が去っていく気配を感じ、顔を上げようとする。が、俺を抱擁している小梅先輩は、掴んでいた手首を離し、両手で思いっきり俺を抱きしめてきた。

 お陰で俺は、更に小梅先輩の胸に顔を埋めてしまって。しかも、小梅先輩の方が俺よりも身長が高いから、上からガバッと覆い被さる感じで。

 より密着してしまう身体。押し付けられる膨よかな感触。

 なんかちょっと、いやかなりやばい。なにこの状況、マジでなにしてんですか小梅先輩⁉︎


「良かったぁぁぁぁぁっ……」


 安堵の言葉と共に漏れた息が、耳にかかって擽ったい。最近は心臓が煩く鳴りすぎだと思っていたけど、今は過去最高に煩い。密着している小梅先輩に聞こえてしまわないか、心配になってしまうほどだ。

 しかも顔どころか体全体が熱くなってしまって、風呂に入っているわけでもないのに逆上せてしまいそう。

 おかしい。今は冬の筈なのに、いつの間に夏が到来したの? 地球温暖化進みすぎじゃない?

 さっさと離れて欲しいような、ずっとこうしていて欲しいような、複雑な心境でいると。次の瞬間には俺からパッと体を離し、小梅先輩は心配そうに眉を寄せて顔を覗き込んできた。


「椿君、怪我はない? 顔赤いけど、もしかしてどこか打ったりした?」

「いえ、大丈夫です。なにも問題ありません」


 顔が赤い理由くらい察せよ! あんたのせいだよ! 全く、思春期の健全な男子には刺激が強すぎる。だから是非今後もなにかしらの機会があればお願いしたいですねはい。俺の見立てによれば、丁度手の平に収まるくらいの程よい大きさだと思います。


「それより、なんで先輩がこんなとこに? てっきり、先にあっちにいるもんだと思ってたんですけど」

「椿君の教室に向かったんだけど、入れ違いになっちゃったみたいだね。あたしもこの階段使って部屋に向かってたら、丁度君の後ろ姿を発見して、ちょっと尾けてたの」


 いや、部屋って。尾けてたって。


「距離置いて歩いてたら、さっきの一年生が駆け下りて行って、それで椿君とぶつかってあたしが助けたってわけ」

「助けたって言っても、先輩、俺と離れてたんでしょ?」

「うん。さっきまでそこにいた」


 小梅先輩が指差したのは、四階。対して俺たちが今いるのは、四階と三階の間にある踊り場。

 つまり、小梅先輩は。俺が階段から落ちそうになったあの一瞬で、この十段以上はある階段を下りて、俺の腕を掴んだ、と。


「間に合うか分からなかったけど、飛び降りたら案外余裕だったよ」


 いやおかしいだろ。どんな運動神経してんだこの人。

 まず、俺とさっきの一年がぶつかりそうなのを直前で察知して、そして俺が落ちそうになったのと小梅先輩が飛び降りたのでは、恐らく小梅先輩の方が速かったのだろう。でなければ、普通に不可能だ。

 もちろん飛び降りると言っても、相当な高さと距離がある。助走もなしに飛び降りたのでは勢いは足りないかもしれないのに、小梅先輩はそんなことも御構い無しに容易く着地、邪魔な一年二人の間を縫って、俺の腕を取った。

 マジで、どんな運動神経と反射神経してんだよ。ついでに脳内の情報処理能力とかもヤバいかもしれない。加えて判断力もヤバい。ヤバい尽くしのヤバい人じゃん。

 だが俺は、そんなヤバい人に助けられたわけで。


「……ありがとうございます。本当、助かりました」

「いいのいいの! 伊達に完璧超人やってないからさ。後輩助けてあげるくらい出来ないと、先輩としての顔が立たないしね」


 ヤバい人こと完璧超人白雪小梅は、ニコニコと笑顔を浮かべながら、自身よりも低い位置にある俺の頭を撫で始めた。

 子供扱いされてるみたいで癪だが、不思議とその手を払いのけようとは思えない。


「それに、さ」

「……っ」


 頭の上にあった小梅先輩の手が、俺の頬に添えられた。咄嗟に離れようとして、しかしその動きを止めてしまう。

 目の前の美しい顔は、とても穏やかで、慈しむような、綺麗としか表現のしようのない笑みを浮かべていて。

 それに見惚れてしまうと同時、俺が無事で本当に安心したのが、分かってしまったから。


「椿君はあたしにとって、もう特別な男の子なの。そんな君が怪我をするのは、嫌だよ」


 その手が頬を離れても、そこにはまだ、小梅先輩の手の平の温もりが残っているようで。

 ちょっとこの先輩、イケメン力が高すぎないだろうか。俺を助けた手際と言い、今の決め台詞と言い。

 だがこの様子を見る限り、本人的には本心からの言葉なのだろう。特別な子、と言う表現にも、必要以上の他意を感じられない。

 所謂、天然タラシと言うやつか。まさか現実に実在していたとは。


「……そんなこと言ってると、変な勘違いされますよ」

「ふふっ、してくれてもいいのよ?」

「しませんよ……」


 顔を逸らして小梅先輩の手から逃れ、なんとか照れ臭さを誤魔化そうとする。この人にそんなのは無意味だと分かっていても。


「さっ、行きましょうか。今日は決める事があるから」

「うっす……」


 クスリと微笑み、自然と手を差し出して来る。その様はまるで、姫をエスコートする王子様。立場が逆だろとか思いつつも、俺が王子なんて似合わないにもほどがあるし、先輩が姫なんかで収まるタマでもない。

 中々手を取らない俺に業を煮やしたのか、今日もまた、昨日と同じく。俺は彼女に、無理矢理この手を握られる。


「ほら、行くよ」

「わざわざ手握ってなくても、逃げたりしませんよ……」


 階段から突き落とされそうになる、なんて不幸があったが、色々含めて考えると、今日はまだ、ツイてる方なのかもしれない。

 特に抱き締められちゃったこととかな!

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