第二章 -4

 リージャは一度だけ馬車に乗ったことがある。それは三年前のことで、大陸に初めてやってきたときのことだった。目に飛び込んでくるものはすべてリージャにとって初めてのものだった。深い青色の海、自然の浜ではない開発された港の船着き場、白漆喰の家々、白い人々の人混みと彼らの色鮮やかな装い、馬、馬が引いている四角い箱。それにイルヴィルと共に乗せられ、初めて目にする針葉樹林に囲まれた薄暗い道を通った。歩いているわけではないのに景色が動いているのは不思議な気がした。馬車の中は狭く薄暗く、常にがたごとと揺れ、うるさかったが、不安がるリージャをイルヴィルは気遣ってくれた。

「今までとの生活と違うことが多くて戸惑うかもしれないが、少しずつ慣れていけばいい」

 そのときイルヴィルはそう言った。


 三年経った時、リージャは馬車というものの存在をほぼ忘れかかけていたが、目にしてようやくそのときのことを思い出した。屋敷で毎日馬という生き物を目にしてはいたが、こういった使い方をされるためにいる動物なのだということに初めて気付いたのだった。


「急に悪かったな」

 馬車が動き出すと同時に、ヴォルブがそう言った。リージャは黙って首を振った。アンドゥールとタマラに見送られて急に馬車に乗せられて何がなんだかわかっていなかった。日課になっていた竜の散歩もしていない。どこへ向かうのかも知らされていない。前にこの乗り物に乗ったときは帰る場所などなかったことをふと思いだした。イルヴィルならば多少安心できた狭い空間も、だいぶ距離の近づいたと思っていたこの男と二人だとなぜだか妙に緊張した。馬車は館から徐々に遠ざかっていき、いつも遠くに見えていた森が近づいてくる。久々に目にした厳かな門を通過して、しばらくした頃に、再びヴォルブが口を開いた。

「あれから特に変わったことはないか」

 リージャはじっとヴォルブを見つめながら考えた。最後にこの男と会ったのは、あの闖入者が竜たちを連れ去ろうとした日だった。あの日以降、同じことが起こらなかったかと聞いているのだろう。首を横に振る。

 ヴォルブの言いつけ通り、アンドゥールもリージャもあのことに関しては誰にも知らせていなかった。ただしアンドゥールは、いつもなら誰がしかが小屋の世話をしているはずの時間にあの場が無人であった理由はどうしても確認しなければいけなかったらしく、ザルフに尋ねたようだった。飼い葉を集める道具に不備があり、その修理に手間取って小屋にやってくるのが遅れたと、いつもの無表情さで淡々と言うザルフに、アンドゥールはそれ以上何も追求しなかった。偶然その場にいたリージャは、そのときのザルフに特に不審なものは感じなかった。

「……さて」

 何か考えるように視線を馬車の外に向け数秒沈黙した後、リージャに向き直った。

「ここにヴィートトク邸の人間はいなくて、会話をしても聞いてるのは俺だけってわけなんだが、それでもお前は声を出せないのか?」

 静かな声でそう問いかけるヴォルブの眉尻は珍しく気弱そうに下がっていた。しかしその問いかけにリージャの体は強ばり、呼吸すらまともにかなわなくなった。ここは狭い密室だった。そばにいたら取りなしてくれそうなアンドゥールもタマラも今はいない。膝の上でリージャの指に力が入り、汗ばんだ手の平がぎゅっと縮まる。スカートの裾が皺を作って寄っていく。

「ああ、ああ、ちょっと待て、すまん、そんな泣きそうな顔すんなって」

 急におどおどしたヴォルブがうわずった声でそう言った後、大きくため息をついた。

「別に困らせたいわけじゃねえ。ただ、知ってしまった以上放って置くわけにはいかねえんだ。お前を疑ってるわけじゃねえんだけどよ」

 泣くつもりがあるわけではなかった。目頭が熱を持っている自覚はあったが、リージャは今、必死にこらえていた。涙を流してしまうと、加虐的な人間がより残忍になることを、リージャは知っていた。だから島にいた十一年間、自衛のためにそれを我慢する術を身につけて実行してきたのだった。この三年、そんな技を使わなければいけない状況はなかったのだということにこの瞬間、リージャは気付いた。久しぶりの恐怖に、目元を制御することができない。

 動揺したまま、疑う、というヴォルブの言葉にリージャはなんとか首を傾げた。ヴォルブがもう一度頭をかき、息を吐き出す。

「お前は何も詳しいことは知らされてないんだと思うが……イルヴィルは、宮中じゃ今微妙な立場にいんだよ。そもそもなんでこの国がお前の生まれた島を突然開発しようとしたか、知ってたか?」

 リージャは首を振る。言われて初めて、そんなことを考えたことがなかった自分に気付いた。白い人々が余所者であることは知っていたが、すでにリージャの物心ついたときには支配体制は整っていて、それそのものに疑問を持ったことがなかった。以前に食卓で、竜の臭いが話題にあがったときのアンドゥールの言葉で、イルヴィルは何か竜を使って大きな仕事をしているらしい、ということを初めて知ったほどだ。

「あの島に済む竜を家畜化して使役するようにしたいと、十六年ほど前だったか、先代の王が言い出して、イルヴィルの叔父貴がそれに乗った。イルヴィルは四年前に叔父貴の手伝いで島に渡ったわけだが……正直、都の連中は、ほとんどこの計画に興味がなかった。まあ、そんなでかい生き物を遠くから運んで使おうなんて、上手く行くとは思わねえわな。イルヴィルも卵を持ち帰ったのは一か八かだったみたいだがな……まさか三年経って突然孵るとはなあ。その報告が入ってから、誰も相手にしてなかったこの計画が、宮中で一気に注目を浴びる展開になっちまった。この前屋敷に余所者が侵入してきて竜をさらおうとしたのも、ここに来て一気に出世しそうになったイルヴィルから、手柄を横取りしようとしたんだ」

 淡々と語られたが、その半分も理解できず、リージャは困ったように首を傾げた。

「……急にこんなこと言ってもよくわからないだろうが。つまり何が言いたいかっつーと、イルヴィルは今、ものすごく敵が多い。そんな中で屋敷の中に言葉が話せるのに話せないふりをしている人間がいたら……普通なら間者かと疑われるものだぞ」

 間者、という言葉を初めて聞いたリージャは、意味を確には把握できなかったが、何か悪いことを疑われているのだというのは辛うじて理解し、首を振った。

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