第9話 カイツブリ、家を建てる

 病院を出ると、ひどい土砂降りだった。

 ロキソニンの処方箋を持ってかかりつけの調剤薬局まで車を走らせる。立体駐車場に停めた後、出口から出ようとすると、周辺がほぼ洪水になっていた。一緒になったおじさん二人組と「そっちはどう?!」「だめです、こっちも水浸しで通れません!」とか会話しながらしばらく右往左往する。終末映画のワンシーンみたいだった。結局濡れずに脱出することを諦め、ふくらはぎ辺りまでびしょびしょにしながら薬局にたどり着く。

 予告なしに「大病院」の「外科」からの痛み止めの処方箋を持って行ったため、いつもの薬剤師さんにとてもびっくりされた。

「碧さん……大丈夫ですか?」

「へ?」

 事故で怪我でもしたと思われたらしい。

「あ、いや、乳腺の件で、総合病院紹介してもらって、今日また針生検してもらったんで、痛み止め念のために処方してもらったんです」

「ああ、乳腺だから、外科になるんですね、びっくりした。ロキソニンですけど、服用間隔は5~6時間程度空けて、1日三回まで、服用できますから。痛みは数日で治まると思いますけど。そっか、大きな病院で診てもらうことになったんですね」

「はい。なんともないと良いんですが……」

 がんかも知れないと言われたことは言わなかった。


 帰りも足をずぶずぶにし、車に乗り込む。夜になっても一向に雨は止まなかった。針生検の後の痛みは、前回ほどじゃないが、なんとなく痛みがずっとあるような、そんな感覚。よく眠れるようにと、念のため、寝る前にロキソニンを飲んでから、眠りについた。


 朝になると9月になっていた。9月1日は第一土曜日だった。探鳥会の日である。

 雨は小降りになったが、止んでいなかった。6時になってもあたりは薄暗い。

 観察は屋根付きの野鳥観察舎から行うので、人間が濡れる心配はない。安全な場所から雨に打たれる水鳥たちを悠々と眺める。

 一羽のカイツブリの成鳥が、落ち葉をくわえて泳いできた。

 カイツブリというのは、本州以南では通年見られる水鳥だ。大きさはカルガモよりひと周りぐらい小さく、魚や水生昆虫がいるような水辺でよく見られる。ケレレレレレ、とけたたましい声で鳴くことがあり、めちゃくちゃうるさい分目立つので、読者諸氏も機会があったら見つけてみて欲しい。

 水中の生物を食べる彼らは、水上での生活に特化しており、巣作り・子育ても水の上で行う。落ち葉を集めて重ねて浮巣にし、その上に卵を産んで抱卵するのだ。だが、彼らの繁殖期は8月にはもう終わっているものだと思っていた。

 私はそばにいた野鳥保護団体の偉い人に尋ねた。県内の自然保護活動にも関わっているなんか権威の人らしいのだが、実はよくわかっていない。

「あのカイツブリ、巣材を運んでるんですか? もう9月なのに、これから産卵して子育てするんですかね?」

「そうだね、鳥の繁殖期っていうのは、食べるものに依存するから。今年は猛暑で水生昆虫なんかもあんまり豊富じゃなかったから、少し涼しくなってきた今から繁殖するみたいだね」

 なるほど、そういえば、この夏は鳥を見に出かけても蚊に刺されることが少なかった。虫も暑さが苦手なのだ。そして、それが鳥のライフサイクルにも大きな影響を及ぼすのだ。

 野鳥観察を始めてまだ2年目の私は、そんな初歩的で、よく考えたら当たり前のことに、ちょっとした衝撃を受けた。

 鳥そのものの一瞬一瞬ばかりに注目しているが、彼らは彼ら以外の様々な自然と複雑に繋がっている。食べ物となる虫や植物、さらにそれを抱く植物や土壌、それを育てる土壌生物、水生生物。雨、風、太陽……

 私たち人間はどうなのだろう、とふと思った。我々は、自然とどれぐらい繋がっているのだろう。

 もしも私ががんだったとして、死んだら、燃やされて、骨となり、壺に入れられ、石に囲まれて保存されるのだろう。野生の生き物みたいに、屍肉をトビやカラスに食べられたり、土に帰ったりすることはないんだ。とか考えたら、ちょっと切なくなった。どこかの民族の風習みたいに、鳥葬してもらうのってできないのかなあ……。


 とかなんとか考えながら、夜になった。

 今回はあんまり、痛み止めに頼らなくても平気だなあ、もしかして前回は、Y先生の針の刺し方が下手だったから痛かったのか? などと失礼なことを考えていたら、段々と、頭がぼーっとして、めまいに似た感覚がしてきた。

 なんだか変だな、と思い、体温計で熱を測ってみる。37℃を少し超えていた。

 私は子どもの頃から平熱がとても低く、だいたい36℃を下回っているので、これはちょっとした微熱の範囲だった。風邪の諸症状のようなものは何も出ていない。

 え、なんだろう、これ、どうしよう。てか、どうしようもない。

 いや、単に疲れているのかもしれない。早寝をしよう。と思い、いつもの通り睡眠導入剤と抗うつ剤を飲んで寝た。

 一度眠りについたが、深夜にふと目が覚めた。なんだか気分が悪かった。枕元に体温計を置いていたので、測ってみると38℃まで上がっていた。もはや高熱の範囲である。かといってどうしようもない。睡眠導入剤がまだ効いていたので、しばらくすると眠気がやってきて意識が途切れた。

 次に目が覚めたのは早朝だった。低血圧で、いつもは朝なかなか起きられないが、5時台ぐらいに目が覚めた気がする。体温を測ってみると、37℃前後になっている。しばらくベッドの上でだらだらしてから、起きて、いつものように朝食を食べた。

 昔から、どんなに風邪をこじらせても食欲だけは失わないのが取り柄の私である。食欲がなくなったらいよいよ終わりなのだ。このときもナチュラルに空腹は感じた。前夜にあった、発熱に伴うめまいのようなものもなかった。

 それから数時間して熱をはかると、平熱に戻っていた。大病院に行って、インフルエンザや感染症を移された可能性についてちょっと考えていたが、一晩で下がったならその線は違うだろう、と思った。しかし、深夜に38℃まで発熱していたので、今日は1日安静にしているべきだろう、と思い、外出はせずに過ごした。

 日中は何もおかしなことはなかった。いつものようにだらだらと時間を浪費し、夕飯を食べ、「ダーウィンが来た」を見てお風呂に入り、さあ寝よう、というところで、なんだかまた、ふらふらしてくるな、と思った。

 体温を測る。また37℃になっていた。

 さすがに、これは、おかしい。私の身体に何かが起こっている。

 しかし、金曜日も会社を休んでいるし、とりあえず明日は出社しなければ。

 前日と同じく眠りにつき、深夜に目が覚め、やはり38℃になっているのを確認し、早朝にもう一度目を覚ました。熱は下がっている。

 出社する。その日の仕事内容は主にデスクワークだった。溜まっていた書類の山をハイピッチで処理する。座っている間は特に異常を感じず、いつも通りに仕事をしていた。

 10時を回った頃だっただろうか。

 書類を別の部署に回すために、立ち上がって歩き出した瞬間、太ももに違和感を覚えた。

 両太ももの外側に、筋肉痛のような痛みが走ったのだ。体重をかけたり動かしたりすると、痛いようだった。

 なんでだろう。ここ数日で筋肉痛になるようなことをしただろうか? それに、こんなところが筋肉痛になるって、どういう状況?

 とはいえ、ちょっと痛い、というぐらいで、社内を少し移動する程度では特に問題はない。

 正午まで業務を続けた。その頃には、前日の夜に感じた頭のふらつきがぶり返してきていた。これは、きっとまた熱が出ている。

 私は上司に、熱があるので、と断って、半休を申請した。

 今後も検査などで度々仕事を休むことがあると、有給の残数厳しくなるなあ、と、今になって思えば、のんきなことを考えながら……

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