第5話 カルガモの大洪水

 検査の結果を聞きに行く予定の8月、お盆休み前の金曜日。

 病理の検査には時間がかかり、もし金曜日までに結果が出なかったら、お盆明けに持ち越しである。ここに来るまで黙っていたが、実はかつて病理標本を作るパートをしていたこともあるワタクシめ、病理標本作りの大変さはわかっておりますので、事情に配慮し優先して仕事をして下さっているどこかの検査センターの皆々様がたに感謝感謝……と多少思いながらも、やっぱり告知の恐怖が勝り朝から頭の中は中居くんの歌声でいっぱいである。

 お昼休みに電話をして結果が出ていることを確認すると、いよいよ落ち着かなくなり、「あのー、部長、ちょっと、家族の病院に付き添わなきゃいけなくなったんで、今日早退させてください」と、微妙にちょっと嘘をついてまさかの早引き。この世に存在しない旦那さんは金曜日に付き添いできないので、パートが休みだった母と病院で現地集合する。

 結果を聞くだけだったので、プレ・診察はなし。いきなり、診察室から名前を呼ばれた。

「お願いしま~す」

 と引き戸を開けるも、何故か診察室は無人だった。

 椅子に座ると、PCのモニターに、病理の検査外注したと思われるセンターか何かの報告書が映っていた。

 ヘマトキシリン・エオジン染色されたと思われる細胞の写真があり、学生の頃はこんなんも見させられていたが、もう10年近く関わっていないとさっぱりわからん。でもがんではないような気がした。写真の下に、病理医からのコメントがある。

「慢性炎症」「リンパ球浸潤」「軽度の線維化」「腫瘍細胞なし:必要に応じて再検してください」

 その言葉を目にしたと同時に先生が現れた。

「碧さんね、結果、出てますよ」

「はい」

「腫瘍細胞は、見つかりませんでした。がんじゃありません」

「はい」

「ここに、」

 先生は、今私が勝手に見ていた画面の一部を指さした。

「『特異的所見:なし』とありますから。特に、病気ではありません」

「えっ?」

 てっきり、腫瘍では無いけど、何か別の病気で、投薬かなにかの処置をされるものと思い込んでいたので、素っ頓狂な声を上げてしまった。

 だって、素人考えだが、「リンパ球浸潤」「線維化」って正常なおっぱいにある所見じゃないし、実際に赤くなっているし、痛いし、巨大化しているし、しこりもあるのだ。しかし、

「腫瘍細胞、なしって、報告されているんで」

 と、ダメ押しされ、何も言えなくなってしまう。

 そこで、口から先に生まれて来たとはこのこと、な、おしゃべり大魔神の母がしゃしゃり出た。

「先生、やっぱり、お薬のせいなんですかね~、長い間飲んでて、私、前から、身体に悪いんじゃないのって、言ってたんですよ~」

「ドグマチール(一般名:スルピリド)でしょう……あんまりここまで腫れるっていうのは聞かないんですけど……そうですねえ……」

「生理ももうずーっと来てないんですよ。絶対におかしいですよねー」

「え、そうなの?」

「あれ、碧ちゃん、ちゃんと先生に言ってなかったの?」

「あー……」

 いや、初診の日にちゃんと言っていたし、先生も相づち打っていたが、電子カルテに入力してないな、とは思っていたのである。この時点で、この医師、あんまり信用できないのでは、という気分になってきた。

「とりあえず、ドグマチールの影響だとしたら、辞めてから症状が治るまでに時間がかかるし、少し様子を見ましょう。経過観察ということで……3ヶ月後ぐらいに、また来て下さい」

 会計を済ませ、病院から出たところで、母は大笑いした。

「いやー、碧ちゃんががんになるわけないと思ってたけど、やっぱりだったねー。付き添いて大げさな! ああ、いや、碧ちゃんはさすがに、ちょっとはドキドキしてたかもしれないけど」

「いや、がんじゃないだろうなとは思っていたけど……」

 なんとなく、すっきりしない気分である。

 とはいえ、「腫瘍細胞なし」=今すぐ命に関わるような病ではない、というのは事実なのだろう。

 帰宅後、私は、この1週間、湿っぽいツイートをして心配をかけていたフォロワーさん達に、「腫瘍細胞なしって言われました!」と報告した。

 「良かったですね!」「安心しました!」という心優しいコメントとともに、私のツイッターの通知欄は、野鳥クラスタフォロワーによるカルガモの写真で一気に埋め尽くされた。

 私はカルガモが大好きなのである。ことあるごとに、カモは最高カモは最高とツイートしているので、野鳥クラスタなフォロワーさんは私を励ますときにはだいたいカルガモの写真を送ってくれるのだ。

 カルガモで溢れる通知欄を見ていると(もちろん、それ以外のクラスタのフォロワーさんからも沢山お言葉をいただいたし、黙ってふぁぼをくれる人も、心配してくださっているんだなあと感じた)、ほとんどは顔も知らない人だが、私は、確実に誰かと繋がっているんだなあ、と実感する。インターネッツ・ワールド黎明期からどっぷりWWWに浸かっている世代である。かつては(今も?)、最近の若者はネットで赤の他人と希薄な繋がりばかりしている、なんてメディアに叩かれたりしたものだが、私はやっぱり、こういう繋がりだって、十分に尊いものだと思う。

 ありがとうございますカモは最高です!とか返信しながら、私は病院で見た気になるキーワードをグーグルで検索した。

「乳房」「慢性炎症」「リンパ球浸潤」「線維化」

 検索の結果、ひとつの病名がヒットした。


「肉芽腫性乳腺炎」


 J-Stageという、どうも、医師が医師に向けて発信している、症例報告雑誌みたいなものの、電子版の記事のようだった。もう少し素人向けにまとめているサイトはないだろうかと、今度は「肉芽腫性乳腺炎」で検索し直した。だが、やはり検索トップのほとんどがこのJ-stageというサイトの掲載論文で埋まってしまう。「葉状腫瘍」もかなり珍しい病気だとのことだが、この病気はそれ以上に珍しい病気ということだろうか。

 一番上に出て来た症例を斜め読みする。

「痛み」「巨大な硬結(多分しこりのこと)」あたりは合致する。ただ、「肉芽腫」だったら、病理検査の結果ではっきりするのではないかとも思った。ちらりとしか見えなかったが、確か、「肉芽腫」とはどこにも書いていなかったのだ。

 それに、論文にしかならないような、葉状腫瘍以上に珍しい病になんか、かかるものだろうか? という思いもあった。


 ひとまず、命に関わるような、腫瘍はなかったのだ。

 薬の副作用の可能性もあるわけだし、医師を信用して様子を見てみよう。


 翌日からのお盆休みは、晴れの日はバードウォッチングにでかけ、雨の日はだらだらし、最終日は父の実家へ墓参りに行った。

 1日3回飲んでいたナロンエースも、徐々に服用回数が減っていき、しこりは消えないが、少しずつ良くなっているような気がしていた。

 やっぱり、スルピリドの副作用だったのか、と納得していた、お盆休み明けの出勤日。

 1日労働し、帰宅した頃、なんだかまた胸が痛み始めた。

 検査の痛みなんて、そろそろなくなっても良い頃なのに、なんでまた痛くなってきたんだろう……

 そう思いながら、脱衣所で服を脱ぎ、鏡を見て、私は思わず叫んだ。


「ええー! なんで?!」


 またおっぱいが真っ赤に腫れ上がっていたのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る