第4話 契約2



 十三歳のルーチェは毎日を忙しく過ごしていた。立場としては、シルヴィオ付きの使用人のまねごと、そして弟子という関係だ。

 ただしシルヴィオは王立魔法研究所での職務があるため、日中は比較的自由だった。


「シルヴィオ様、シルヴィオ様! 起きてください」


 夜遅くまで研究をしていたのだろう。枕に抱きついて眠るシルヴィオは、一度目を開きすぐに閉じた。


「早く起きないと、お仕事の時間になってしまいます」


「嫌だ」


「だめですよ! もっと早く寝ればいいのに」


 ルーチェがあるじの身体をゆする。シルヴィオは朝が苦手だった。彼を起こすのは、ルーチェの仕事で、主の唯一の弱点を見られる貴重な時間だ。


「一時間早く寝るだけで、すっきり起きられるのならば、だれも苦労しない。何時に寝ても、同じだと過去の経験が証明している」


 そんなにはっきり話せるのなら、頭はとっくに目覚めている。それなのにシルヴィオは毎回自らの力では起き上がろうとしない。


「そういうの、へりくつって言うみたいですよ?」


 春になり、日中はかなり暖かくなってきたが、朝晩は冷え込む。春の朝の光は柔らかく、ベッドの中は心地よい。早起きが得意なルーチェにも、シルヴィオの気持ちはわからないでもない。けれど、誰にでも朝はやって来て、仕事の時間もやってくるものだ。

 ルーチェは枕を取り上げて、容赦なく布団をぐ。無理やり肩を押して、洗面用の桶が用意されている鏡の前まで連れていくと、シルヴィオは習慣で顔をバシャバシャと洗いはじめる。


 顔を上げたシルヴィオは、先ほどまでと打って変わってすっきりとした表情を見せる。


「ルーチェ、おはよう」


「おはようございます、シルヴィオ様」


 これがいつもの朝のはじまりだ。


「それ、そろそろ補充しておく」


 それ、というのはルーチェの居場所を把握するためのピアスのことだ。大粒の真珠くらいの大きさの黒い石を、花の形を模した銀細工の台座が取り囲んでいる。

 ルーチェが石をシルヴィオによく見せるように横を向く。シルヴィオは指先で軽く石に触れながら、黒い石をじっと見つめた。すると黒い石はさらに黒く、光さえ飲み込むような闇の色になる。魔力が補充されたのだ。


「おまえに黒は似合わないな」


 肌が白く、淡い金髪のルーチェには黒が似合わない。シルヴィオはそう言うが、黒は彼を表す色だ。だからルーチェはこの色が好きだった。

 魔力の色はその人物の瞳の色に左右される。もともと透明な石がシルヴィオの魔力で闇色に染まっている。

 ルーチェを監視していること自体が、彼にとって不本意なのだろう。だから、黒は似合わないと言うのだ。


 その後、シルヴィオは身支度を整えてから紅茶だけを飲んで、仕事へ出かけていった。

 ルーチェはシルヴィオの私室と研究室の掃除をしてから、魔法の鍛錬や勉強をするのが日課になっていた。


 立派な魔法使いになるためには、かなり高度な学問が必要だ。

 魔法とは、自然の摂理や原則を“視る”ことで歪める行為だとされている。だからそもそも自然の摂理とはなにか、ということをよく知らなければならないし、難しい本――――場合によっては古い言葉も読める必要があるのだ。

 屋敷には三日に一度、家庭教師がやってきてそれらを教えてくれる。来ない日も課題をやらねばならないし、魔法使いとしての鍛錬もやらなければならない。

 養子でもないルーチェに家庭教師をつけてくれるのだから、スカリオーネ家は随分と親切な家なのだ。


 掃除を終えたあと、ルーチェが研究室で課題に取り組んでいると、黒髪の女性がやって来た。シルヴィオの母親、イメルダだ。

 つやめく黒髪をゆるく束ね、優雅な立ち振る舞いのイメルダは、空いている椅子に腰を下ろす。

 女性でも見惚れてしまう笑み。シルヴィオの容姿は完全に母親譲りなのだとわかる。


「ルーチェさん、午後は忙しいのかしら?」


「いいえ、イメルダ様。……今日は先生のいらっしゃる日ではありませんので」


「だったら、お使いを頼まれてくれるかしら? いつもの菓子店で、新商品が発売されたらしいの。あとで一緒にいただきましょう」


「はい!」


 ルーチェが元気よく返事をすると、イメルダも満足そうにほほえむ。


「うふふ、女の子は素直でいいわね。……どこかの誰かさんと誰かさんは、無愛想でいけないわ」


 誰かさんと誰かさん、というのはシルヴィオと彼の父カルロのことだ。カルロは神経質で無愛想、すこし陰気でけっこう他人に厳しい、というのがルーチェの持っている印象だった。


「シルヴィオ様は顔に出さないだけで、お優しい方……ですよね?」


「まあ、そうかもしれないわね。ねぇ、あなたにはわからないかもしれないけれど、カルロも不器用なだけで、意外と優しくてかわいらしい性格なのよ? 本当にそっくりな親子なの」


「そうなんですか?」


 カルロは、不健康そうに痩せていて、目がくぼんでいる。ルーチェとは最低限の会話しかしないし、怖い。彼女に家庭教師を用意してくれるくらいなのだから、悪い人間ではないことは確かだが「かわいらしい」とは真逆の存在に思える。だからそっくりな親子だというイメルダの言葉に、ルーチェは笑ってしまいそうになる。


「妻だけが知っている、というのも素敵でしょう? じゃあ、お願いね」


 気安い性格のイメルダは、微妙な立場のルーチェを本当の娘のように大切にしてくれている。

 今日のように、使いを頼まれるのはよくあることだ。使いを頼むのは、買ってきたご褒美にと、お菓子を一緒に食べるための建て前なのかもしれない。


 イメルダが去ったあと、ルーチェは家庭教師から与えられた課題を終わらせ、使用人用の食堂で手短に昼食をとる。それからエプロンだけを脱いで、ふた付きのバスケットを持ち、外に出た。

 イメルダが気に入っている菓子店は、ルーチェの足でゆくっり歩いて一時間もかからない場所にある。正午を過ぎたばかりの時間に出発すれば、お茶の時間に間に合うはずだ。


 新作菓子のことを考えながら、ルーチェは富裕層の邸宅が立ち並ぶ通りを歩く。日の光がたくさん当たる日中なら、もうコートは必要ない。

 ルーチェが春の町並みを眺めながら、散歩をたのしむように歩道を進むと、突然後ろから声がかけられた。


「お嬢さん、ちょっと」


「なんでしょう?」


 ルーチェに声をかけてきたのは、小太りの中年男性だった。


「お嬢さん、旧カゼッラ家のお嬢様だろ?」


「……私、お使いの途中なんです」


 旧カゼッラ家という言葉に、ルーチェは警戒心をいだく。王家に敵対し、内戦を引き起こしたのだから、恨みを持つ者も多いはずだ。

 ルーチェは十六家のスカリオーネ家の保護下にある。彼女に危害を加えることは、スカリオーネ家を敵にまわすことと同じ。だからそう危険なことはないはずだった。


「いやいやそんなに警戒しなくても。じつはおじさんはね、お嬢さんのお兄さんと知り合いでね。頼まれてずっと探していたんだ」


 男は少し声を抑えて、そう言った。


「え? お兄様……ですか?」


「ああ。お嬢さんがスカリオーネ家にいることは、お兄さんも知ってるよ。でもまさか直接訪ねるわけにはいかないだろ? 君のお兄さんは、ほぼ死亡扱いだからね」


 ルーチェの兄は行方不明だが、内戦の混乱で命を落としたというのが大方の予想だ。

 そしてもし生きていたとしても、本人だと名乗れば捕らえられ、ルーチェと同じような立場になるはず。彼女はたまたま運がよかっただけで、ほかの家に預けられたら、ひどい扱いを受けてしまうだろう。


「……あの、兄はどんな人ですか?」


 そんな嘘をついてまで、話しかける男の意図がわからない。だから、ルーチェは男の話が真実なのではないかと考えた。


「お嬢さんと同じ金髪に青い瞳だろ? 楽器が得意で、流しのバイオリン弾きとして、王都に来ているんだよ」


「バイオリンですか?」


「よく弾いているのが、居眠りなんたらのアダージョとかいう……」


「居眠り子猫のアダージョ!」


 それは彼女の兄が一番好きな曲だった。

 ルーチェは曲名まで出てきたことで、男の言葉を信じた。


 そして、開店前の酒場にいるという言葉を聞いて、外から覗くだけならいいだろうと、男について行った。

 魔法が使えるという過信。彼女はとにかく未熟だったのだ。八歳までは家族に、それ以降はスカリオーネ家に守られて育った彼女は、世間を知らなかった。

 兄の髪の色や目の色、そして得意な楽器やよく弾いていた曲など、本人や家族でなくても、いくらでも調べられる。屋敷で働いていた人間にでも聞けばいい。


 けれど世間知らずなルーチェがそのことに気がついたのは、魔法使いの弱点である視界を塞がれたあとだった。


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