花屋の娘

 私が二月ぶりに部屋を訪ねるとちょうど友人の村田が包丁で死ぬところだった。

私は靴を脱ぎ部屋に上がると村田の包丁を取り上げ、また三和土に引き返した。靴を揃えてから部屋に戻ると村田は開けた窓枠に乗っていた。窓の外は町通りだった。

「寒いよ閉めてよ風入るよもう十月だよ寒いよここ二階だよ下は土だよ病院は近いよあんた若いよ多分死ねないよ」

 窓枠から降りると村田はベルトをドアノブにかけ首を吊った。私は持っていた包丁でベルトを切ろうとしたがうまく切れないので村田を支えつつ手でほどいた。首が緩むとぜえぜえあえぎながら村田はトイレに向かって這った。気分悪いのかなと思いついていくとトイレで溺れようとしていたので髪を引っ張った。むせながら部屋に戻った村田が今度は家と自転車の鍵を掴んだのでどこへ行くかと思ったが、濡れた手でコンセントに鍵を差し込もうとしていたので無理に奪った。村田はペットボトルの水を飲み、その場に横になった。私も座った。「元気」

「もう駄目死にたい死なせてカーテン閉めて眩しい」

「昼まで寝てるから眩しいんだよ」私はカーテンを閉めた。「暗いよこの部屋電気つかないの」

「切れた」

「何が」

「電気」

「ああ」私は理解した。「買って来なよあと学校来いよ」

「学校には行かないよ選挙にも行かないよ、リスカしたから献血も駄目だしスーパーのカードもどれだか判らないよ、財布も暗くて見つからないしここでこのまま餓死でもするよ」

 村田の顔は暗い部屋で判るほど憔悴していた。食事をしてないのは本当らしかった。もう二月になるのにずっとこうだったのかと私は思った。

「カードまた作ればいいじゃない」

 返事はなかった。

「とにかくいい加減立ち直らないといつまでもそうじゃ駄目になるよ。飯食って掃除でもしなよ。部屋も暗いから気が滅入るんだよ」

「変わらぬ部屋をことさら暗く思うのはあいつのいないせいなのかもしれない」

「切れてるじゃない電気実際」私は諦めて立ち上がった。「買って来たげるよ電球。明るくなれば元気も出るだろ」

 村田は本棚から忍者武芸帳の三巻を取り出すと私に渡した。ページには万札が数枚挟まっていた。「財布はないけど金はある」

「あんならまあ買うよこれで。気向いたらおいでよ学校」

 村田の家を出ると私は駅まで一人で歩いた。

 外は久しぶりに曇っていた。涼しくなってからこっち雨続きだった。

 村田は落ち込んでいたなと歩きながら私は考えた。この頃こそなよなよしていたが普段はもっと横柄で周りの人間は土人形だと思っている口元だった。普段と違う友人を見て心の奥が見えた気もしたが、自分なら平静でない時ほど気持ちの嘘は吐く気もした。

 村田と私は大学一年からの知り合いだったが、村田と花子は今年の五月、雨の日に新宿の本屋で出会ったと聞いた。二人がしたことは村田の家での雨宿りだったが、雨がやんでしまえば雨宿りはできないし、立ち止まった人が必ず歩き出すとは限らなかった。していないことをしたかのように人生の動くのはままあることで、一緒に暮らしだした二人は見ていて家族のようだった。世話になっているのは花子の方だったが、依存していたのは村田の方だった。それはそれで楽しいのかとも思ったが村田は花子に惚れて以来水を吸われたような顔つきになっていった。あえていうことも思いつかなかったので心身を消耗していく村田を近場で私はただ見ていた。様子から村田が死んで二人の関係は終るのだろうと漠然と思っていたが、先に死んだのは花子の方だった。

 花子のことこそ代えはきかぬがすげ替えて済む問題だけでも片付けるべきと思う。とにかく電球だと結論したところで私の耳の裏に冷たく雨が落ちた。息もつかせず本降りになった。

 くそと思い、濡れながら、どうしたものか私は考えた。駅はまだ遠く傘もなかった。とりあえず走り出し雨宿りコンビニの類を探した。

 近くにコンビニはなかったが、花屋が一軒、俯きかけていた私の目に留まった。

 外壁全体が蔦で覆われている小さな花屋だった。建物自体古ぼけていたが営業はしているようで、店の前まで鉢が並んでいた。民家に混ざるように建っていて周囲には他に店はなかった。知らない店に入るくらいなら濡れた方がいいのはそうだが、何も別に濡れなくてもいいんだとその日私は考えられた。小さな花屋の軒は小さく、そこまで私は小さく走った。

 店の前へ着いた時、大きな鉢の影から体を起こし、エプロン姿の店員が現れた。死角から現れた形だったので、誰もいないと思っていた私は隙を突かれた。

 店員は年の近そうな女子だった。私を見るといらっしゃいといった。

「花どうですか」

「はい」

 まだ驚いている最中だったが返事だけはなんとか返した。大きくもないがよく響くその子の声が耳に残って、気づけば私は立ち止まっていた。

「見ますか?」籠を持った店員は受話器程度の前傾姿勢でこちらを見た。

「はい」何ですかの意味で私は答えた。

 それにどうぞと店員がいい、そのまま黙ってこちらを見たので、私も黙って見返していた。「えっ」

「あっ、どうぞ」店員は手で店のドアを引き私を案内した。太い手首だった。店員の手を見ながら私はガラス戸を受け取っていた。反芻しつつ入り口で振り返って顔を見ると、店員は再度どうぞと笑った。顔を伏せて私は店に入った。舌を噛みたい気がした。

 花屋には花が置いてあった。

 花だなと私は思った。何故自分が花を見ているのかよく判らなかった。判らぬので花を見ることにした。コンビニのような並びの棚からせり出た葉や花が、いっぱいに垂れこめ視界を塞いでいた。逆さにしたスーパーかごの上に置かれた丸い鉢は天井に届く大きさだった。改札のように葉が左右から伸びていた。天井の隅には凸面鏡が設置されていたが、映るのは葉と枝ばかりだった。私はかばんを前に抱え、体を倒して前へ進んだ。酸い花の臭いが充満していた。湿気も高かった。花屋になど入るのはいつかのお見舞い以来で、一軒家の花屋に入るのは初めてだった。密林のようだった。

 レジはどこだろうと思いつつ垂れる葉をよけると足元のパンジーに靴が当たってしまった。慌てて確認すると蹴ったのはケースで花は無事だった。土もこぼれず安心して顔を上げると、目の前に女性が立っていた。

「いらっしゃいどうぞ」女性は座った。カウンターの奥だった。先ほどの店員ではなく白髪の小柄なお婆さんだった。気づかずレジ前に辿り着いていたらしかった。

 私が焦って会釈すると頭が硬い葉に当たった。

 レジで行き止まりだったので、私は隣の通路に体を滑り込ませた。思ったほどに店に奥行きがなく、全く普通の民家のサイズだった。山にでも居る気でいたら店の人に出会い今更ながら気まずくなったので花だけを見るようにしたが、見てもよく判らないので半分ほどは値札を見ていた。値札を込みで花を見てもそうか程度の感想だった。とりあえず買えない花には近寄らぬように気をつけていると、何だか古本屋にいる気分になってきた。

 ところどころに花と関係ない道路標識のようなものが壁からさげてあった。目立つ赤や青で記号の描かれた丸いものや三角のもの、支柱のパイプがあるものにプレートだけのもの、踏み切りの虎縞な信号機が飾ってあったりもした。凸面鏡もよく見ると道に立っているオレンジい枠のものだった。

 そういう趣味が世にあるとは知っていたので、特別私は何も思わなかった。

「そこのは一本二百円とかです」ガラス戸の中の切り花を見ているとレジのお婆さんがそう喋った。「どなたかに買われんですか」

 いわれてようやく自分だと気づいた。「えっ」

「プレゼントですか」

「いや」

「ボーイフレンドですか」

「いえ」くそっと私は思った。実際訊くからすごいとも思った。

「ははじゃあ自分に」

「誰というのもないんですけど」

「どんなのがいいの」

「何も考えないできました」

 私がそういうと店のお婆さんは笑った。その目に呆れを私は見ていた。

「そこらへんの鉢が五百円くらいですよ枯れないやつですよ。六百円だったかな」

 指差しを私は追った。天井近くに板が渡してあり、上に人頭ほどの鉢が並んでいた。

「これですか」私はおぼろげに鉢の一つを指した。

「そっちのはクリスマスなやつ、赤いでしょう」

「こっちですか」

「そっちも花じゃなくて葉だけどそれも枯れない」

「はあはあ」

「それの大きいタイプがこれね、そっちは五本で六百円」

「これですか」

「五百円だったかな」店の人は本数を数えた。「六本だ」

「なるほど」何がなるほどか判らなかった。妙につやつやした花を指して私は訊いてみた。「これも花なんですか」

「うんそれはもう」花屋のお婆さんは頷いた。「花屋だもの」

「このプラスチックみたいのは造花ですか」

「普通の花だね」

 いろんな肌の花があるんだなあと私は感心した。「この造花みたいのは造花ですか」

「花ですね」

「へえ。こっちは石ですか?」

「花ですね」

「この植木鉢に刺さっている鉄パイプはどうしたんですか」

「木だねそれは」

「花って木って色々あるんですねえ」

「そうね」お婆さんはははと笑った。「他にはどう」

「木とかいいですねでも」私はさっきの木に触ったが、やはりどう見ても鉄パイプに見えた。

 木がいいの、とお婆さんが訊いたので私は考えた。

「飾ると気持ちよさそうですね。すごい大きいのがいいですよね。ちっちゃいのから自分で育ててがっ見下ろされたらいいでしょうね」

「そうなの」

「ひととこにいて動かないもの好きです。一日見ていて楽しいようなそういうのいいですね」上を見上げ天井に当たって垂れる葉を私は見た。

「背の高い木は高いよ」

「じゃあ難しいですね」

 店のお婆さんは私をじっと見つめ、それから少し思案するそぶりだった。考えられても気まずいので私は足元を見た。雨止んだかなと思ったが中からは判らなかった。

「一個いいのあるよ。どうですか」

「あるんですか」

「今から育てる感じで、高いけどありものより安いよ」

 値段を聞いて大きいならそんなものかと私は思った。

「松井さん終わりました」

 入り口の方から声が聞こえた。葉を掻き分ける乱暴な音が続いて、突然私の前にさっきの店員の子が出現した。葉を避けてか万歳をしてエプロンは手に持っていた。私はびびって一歩下がった。

「お疲れ様」お婆さんが声を掛けた。「ちょうどいい川相さんこの人畑に案内したげて」

「あはい」川相と呼ばれた女性は返事すると持っていたエプロンをつけた。顎で押さえて紐を結ぶ様をぼけっと私は眺めていた。女性は再び万歳をすると茂みの中へ引き返していった。「どうぞこっちへ」

「あ、はい」

 店を出ると雨は上がっていた。


 店を一度出ると、川相さんは隣家との間にある片門を開けて私を手招いた。

「がらくた気をつけて下さいね」落ちているバケツを蹴飛ばしながら川相さんはいった。砂利が靴の裏で鳴った。まるきり民家の裏口だった。

 家の間を抜けると、その先は予想外に広かった。

「広いですね」私はいった。

 何より明るかった。視界の先遠くの空で晴れ間がのぞいているのが見えた。何も建っていない土地が広場の規模で目の前に広がっていて、まるきり野球が出来そうだった。野球は出来ないが、とにかく広い庭だった。

 土地が段々になっているのか広場の先に建物は見えなかった。日当たりは異常によさそうだった。

「ここが畑です」

「これ全部そうなんですか」

「はい」ここで育てて出したりするんですよと川相さんはいった。花屋が花を自分で作るのかと私は思った。

「でも何もないですね」辺りを見回し私はいった。ただっぴろい土地は花畑という感じではなかった。ものといえば隅の方に電柱が二本立っているだけで、本当にただの空き地だった。

「今もの少ないんですよ。こないだ一気に出しちゃって」

「へえ」

「そいでお客さんもコン柱でいいんですよね」

 川相さんに尋ねられ私は困った。流れ的に木の名前か何かを訊かれたようだったがよく判らないので大きいのをくれるらしいんですけどと答えた。

「今あるのはもう予約決まってて今から育つまで少しお時間欲しいんですけど、構いませんか?」

「そんな風に聞いていたから」私はとにかく頷いた。

「じゃあ早速植えますね。取ってきます」

 そういい裏口から店に入ると、川相さんはスコップと大きなごみ袋を抱えて戻ってきた。袋は土が入っているらしかった。相当重そうに見えたが平気な顔で川相さんは運んだ。地面に落とすと揺れる音がした。

「苗です」

 手のひらで紹介すると店員川相さんは嬉しそうに袋を開いた。私はこの川相さんの下の名前は何だろうなと少し思った。一どきに姓名両方など私は覚えられないので、今ここで聞くわけにもいかなかった。またここに来る理由もなかった。

 ごみ袋の中の苗は円筒形の塊だった。下半分ほどが土に埋まっていたが、冷たい表面は何だか無機質に見えた。木と知らなければコンクリートでも通りそうだった。

「なんだか美術館に置いてありそうですね」

「そうですねえでもけっこう大きくなりますよ」川相さんのしゃがみ方が自分と違いばねを感じさせて、この子働いてるんだなと私は思った。シャツは大きめだった。

「あっ一緒に植えましょうか」川相さんが思いついたようにいった。

「えっ」

 少し虚を突かれたが私は頷いた。同意とは慣れで計算前に返事が出来るくらいには一生のうち数をこなすものと私は思う。「ええ、はい、よければ。やらせてください」

「じゃ取って来ますねどうぞエプロン」

 川相さんは自分のエプロンを私に渡した。思わず受け取り駆け出す川相さんが見えなくなると、恐る恐る私はそれをつけてみた。ポッケに髪ゴムと軍手が入っていた。

 川相さんがスコップを取って戻ってくると、私たちは向かい合いって穴を掘った。スコップをはねあげる度に虫やミミズがうようよ現れた。私はいちいち気にしたが川相さんはざくざくスコップを振るいミミズが千切れようが虫を踏もうがよく最適化されたまま穴を掘り続けた。特に笑ってもいなかったが、普通の仕事が楽しいならばきっと川相さんのこの顔だった。

「いいですかね」腰を伸ばしながら川相さんはいった。私は若干腕が震えていた。仕事の人に敵うものでもないが元気残量が全然違った。「じゃ一緒に植えましょうか」

 藁で固めた土を穿いた苗を私たちはゆっくり穴底に置いた。わけもなく私は念をこめていた。位置が決まると私が支えて、川相さんが五箇所、ボルトを締めて土をかけた。

 何をしたでもなかったが手伝いの余韻がまだ手のひらに残っていた。エプロンの土を払いながら川相さんはお疲れ様ですと私に笑った。

「殺してましたけどミミズって土にいんじゃないんですか」

「そこは兼ね合いですね」頷くように川相さんはいった。「木に名前とか付けますか」

「えっ」私は焦った。「いやいいです」

「そうですか」川相さんは笑っていた。「それじゃお店の方に」

 何かにべなくしてしまった気がして私は少し後悔した。同意と物を断るのでは断る時の方が後悔は多い気がした。

「あの」

 私は歩き出した川相さんを呼び止めた。

 花屋の娘は振り向いて私を見た。私より肩がいくらも大きかった。

「この木どのくらいで育つんですか」

「ひと月くらいですよ」川相さんはまた笑った。

「私も手伝えないですか。というか育てるの難しいですか。今日みたく何か出来たりしませんか。したら迷惑でしょうか」

 私を見つつ川相さんは持ってきた軍手を外し、持って来たエプロンのポッケにしまった。

「育てるの難儀しますけど、自前で世話する人もいますよ。植えちゃったけど、一緒にしますか? うちで一緒に育てましょうか?」

 ノータイムで私は頷いた。

 川相さんも頷いた。鼻の穴が広がっていた。

「毎日今頃来れますか。したら一緒に世話しましょう。待ってます」

 はいと私はいった。ここに通うことになった。

「私元木といいます」

「川相ですよろしく」

 下の名前は聞かなかった。今聞いても覚えられないからで、またここに来るからだった。

 お代を払う段になってようやく私は持ち合わせの心配をした。財布を見てから考え、自分の金と村田のへそくりを合わすとそれで何とか値段に足りた。電球を買えなくなった私はまっすぐ家に帰った。村田の暗い窓の下を通ったが、立ち止まらずに通り過ぎた。


 翌日から私は学校帰りに花屋に通った。いつ行っても川相さんはお店にいた。

 お婆さんもいつもいて、花屋の店員は二人だけのようだった。

「そうねけっこう店にいますね」川相さんは鉢を運びながらいった。「何だかんだと」

「何か趣味とか習い事とかは」

「小さい頃はしてましたけどね」川相さんは何か楽しそうだった。「あでも一個」

「何ですか」

「ベンチプレス」

「ベンチプレスですか」私は予想しない片仮名に驚いて少し手を止めた。花が趣味かと思ったけれど、いわれると肩の広さは鍛えているように見えた。

「時間見つけてなるべく行ってたり。あ花は好きですよ」

「どれくらいあがるんですか」

「けっこう上がりますよ」鉢を楽々持ち上げて川相さんは背伸びをした。

 店を尋ねるとまず私はエプロン(川相さんの)と軍手を借りて、肥料の袋を持って裏庭に回り、川相さんが忙しければ一人で、そうでなければ一緒に木の世話をした。水は庭から引けた。セメント袋の中に入っている粉の肥料(恐らくセメント)を苗を囲うようにドーナツ状に土へ流し、水をかけ肥料をよく混ぜて地面にしみこませ馴染んだ頃に土をかぶせた。長くも難しくもない作業だがびわの種を庭に埋めたことがあるだけの私にとっては毎回緊張を要した。木というものに水も肥料もそう毎日注いだりは普通しないらしかったが、桃栗三年というものが一月で見れる姿に育つと考えるとそういうことも色々とイレギュラーな種なのだろうと私は思った。

 お婆さんはいつ行ってもあまりレジから動かなかった。

「川相さんとご家族なんですか」

「じゃないよお松井さんは店長だよ私はバイトだよ普通」

「お店は二人だけなんですよね」

「うん元は松井さん一人で」

 やたら肥料を与えるだけあって膝までなかった木は最初の一週間でみるみると大きくなっていった。ちょうど両手で抱えるほどの太さに育つと幹は上ばかりに伸びるようになった。伸び盛りというのは見て楽しいものだなと私は思いのっぺりとした幹を意味もなく撫でたりもした。気になることといえば木肌が灰色のコンクリなことと、表面が凹凸のない綺麗な曲面なことくらいだった。

 背を越されるかという頃になると私の頭の中を達成感の子供のようなものが循環していた。初めてにしてもやれるものだなという得意な気持ちが(実際は手取りだったことも忘れて)、疲労が引き起こすとりあえず働いた感とあいまってよくよく私にみなぎっていた。


 ある日一人で肥料に水をちょろちょろ流していると、ふと裏庭の軒近くに立っているものが目に付いた。

 交通標識の鉄柱だった。いつからあるのかは判らなかった。私も庭全体にそれほど注意を払っていなかったので、もしかすれば何日も前からここにあったのかもしれなかった。

 庭に立っている鉄柱と金属板を見て私は首を傾げた。おかしいのはその背丈で、鉄柱は私のへそ辺りまでの高さしかなかった。こんな身の丈の標識を、私は見たことがなかった。

 標識は赤白で確か進入禁止のものだった。車がここに入るとも思えなかった。

 ここの人例えばお婆さんがどこかからこれを引っこ抜いて持ってきたという流れの話を私は考えた。事実道路に刺さっている標識は通常足元をコンクリで固めてあるがこの鉄は地面の土から直接草木のように生えていた。お婆さんが盗癖がある収集家ならそれで紛れのないように思われたが、背の低さは判らなかった。

「だいぶ大きくなったでしょう」

 振り向くと川相さんが私の横に立っていて、一緒に標識を見ている絵だった。近いと思い私は一歩下がった。「川相さんいつから」

「もう少しで店に出せますねこの子」

「店」

「私進入禁止のこのサイバーとレトロの入り混じったような目ん玉グラグラするデザインは実際白眉だよなあと常々思うんですよでもすべりやすいは別格ね別格私の。元木さんはどんなの好き」

 唐突で判らなかったがわけが判らないなりに話についていくのは日頃から人の話をろくに聞いていない私としては得意だった。「あの、私あれ、大人と女の子歩いてるやつ」

「都市伝説!」川相さんは私を指差した。「あれはもうね犬木加奈子のスクールゾーンに出てくるスクールゾーンの標識でトラウマ作った人間としてはちょっとやばいものがあるよねそれでなくてももげる私修学旅行あのさ歩行者専用のでなく及びのつまり自転車歩行者あわせのプレートの方が画面に遠近感があのほら自転車と人二人が同サイズじゃないつまり手前自転車奥に人っぽく見えるその遠近感で生まれる人が奥に連れ去られてく感じどこかに吸い込まれてく感じがくねり以上に不気味に貢献してるよね平面的な画面構成を基本とする道路標識の図案においてそのパースはありさまとしてどうかといえば意図を超えやくざかと思うけれどでも惹かれるのは惹かれるし標識と都市伝説は例多く親和性があるからつまり何かというと私も大好き」

 口を拭いながら熱弁する川相さんを私はぼけっと見ていた。唾が飛んでも川相さんは可愛かった。

「ごめん」我に返った川相さんはびっくりして私に謝った。「変な話したかも」

「いやううん。面白い」私は頷いた。

「まずいなあ店にいるとガードが下がるなあ」もう一度ごめんねといい川相さんは手をついて標識を撫でた。「あの外ではしないよどこでもこんなじゃないよ、誰かれ構わず話してるわけじゃなく、話してるんだけど、元木さんがやたら真剣に見てるなあと思ったらつい口元が緩んで」

「うん」

「私花が好きなんだ」川相さんは標識を見つめた。「花を見て人の立ち止まるようなことが、あるとしてその瞬間はとても素晴らしいことと思わない。一秒二秒見ただけ何か奪いも与えもしないけれども、何も関係のない花に目を止めて何か思うわけで、あーでもうーでも何かを思ってその瞬間の不意の気持ちがただかけがえぬもののようだと、思う私もそんな花屋になりたくて、花はいいなと花屋もいいなと、花を見て人の立ち止まるような花屋に私もなれたらばって」

「立ち止まる」

 私は目の前の標識を見た。川相さんは私を見た。

「この子も育ってそんな花にきっとなるでしょう。どこかの誰かか買ってった人が、毎日そこで立ち止まって、歩き出して、そんな日々ならいいものでしょう」

「花が好きなのね」私はいった。「花に立ち止まる人はどう、好き」

「うん」

 私たちは何となくだいぶ育ってきた私の電柱の方を振り返った。見上げる高さの幹はすっかり頼もしく太陽をしょっていた。コンクリの幹の腹からは枝のように足場のボルトが生え始めていた。低い枝剪定しなきゃねと川相さんがいった。

 その翌日裏庭には電柱の苗が三本と街灯が一本、標識が一ダーストラックで運ばれてきた。普通の鉢花もあった。忙しそうな川相さんに申し出て私も作業を手伝わせてもらった。十日後には賑やかになり出した畑で、私は川相さんに命綱をつけていた。つなぎの川相さんはすっかり育った電信柱に登り、生え始めた変圧器や碍子のつぼみにビニール布を手早く巻いていった。腕金にゴムを引っ掛け終えた川相さんは私に手を振った。私は細長い竹棒を持ち上げ川相さんに渡した。生えてきた電線はこれに巻かせて育てておき、植えかえた先ですぐ架線できるようにしておくらしかった。上から川相さんが話しかけてきて、私も手ガホンで返事した。「はい!」

「これほら!」川相さんは大きな生えかけの塊を指した。

「何ですかそれ!」

「開閉器!」

 嬉しそうだが判らなかった。「それ珍しいんですか!」

「そんなことないよ!」

 降りて来た川相さんはよく育ってるよと私にいった。礼をいって私はおやつを取りに店の方へ回った。お婆さんはお客さんと話をしていた。

「どう育ってる」

「はい松井さん」お客さんにも私は挨拶した。店員と間違われることもあったがエプロンも若干馴染んでしまっていた(仕事ができるわけではない)。

「面倒見てる」

「もらいっぱなしです。おかげでいい感じに育ってるって今日も色々生えてきてて」

「生える?」松井さんが怪訝な顔をした。「何が」

「電柱が」

「それはおかしい」

「はい私も最初はおかしいよと思いましたけど何かすっかり」私はそこで黙って松井さんを見た。「おかしいですか?」

「ちょっとごめんなさい」お客のおばさんに断ると松井さんは店の奥へ消えた。裏へ向かったらしかった。松井さんが畑に行くのを私は初めて見たがとりあえず私も裏へ向かった。つくと松井さんは川相さんとわあわあやっている最中だった。

「何でコン柱なの木い買いに来てる人なんだから木柱に決まってるでしょう」

「えでも確認しましたよ」

「どうしたの」

「いいんですよねってだけです。けど」

「知ってて買い来てる人じゃないんだからちゃんと説明して確認しなってあれほど」

「松井さんしたのかと思って今日び若い人来たら木柱って思いませんよ普通、喜んでくれてますよ元木さんいいじゃないですかコン柱かっこいいですよ」

「間違いは間違いでしょ」

「そうですけど」

「あのどうしたんですか」駆け寄って私はどちらでなく訊いた。

「元木さんごめんなさい木の種類間違えました」川相さんが申し訳なさそうに頭を下げた。「もともと木柱をお渡しするはずだったみたいで」

「何ですか煙草?」

「木製電柱です」タールで固めたどうこうと川相さんは手振りした。「本当にごめんなさいこんな育てた後で」

「あのどう違うんですか」

「うちのコン柱はモデルの自律的な成長と外部補正による一本組みですけど木柱の方は通常の木を中途に生体改造して作り上げるんです」

「あのどう違うんですか」

「キカイダーか仮面ライダーかです」

「あの」

「例えば値段とかけっこう違う」松井さんは顔を手で撫でた。「だからコン柱には今お金もらい過ぎなんだけど、交換でよければ今のはうちで責任もって引き取るんだけれど」

「いやそんな、どれがいいとかは私」

 育ちきるまでは見ていたい程度の愛着はあった。

「差額にせよ何にせよとりあえず一度もらったお金返させて」

 思わぬ形で渡したお金が一時的でも丸ごと返ってきた。どうしようかと私は考え、三秒後にようやく村田のことを思い出した。


 電球と食糧を買って一月ぶりに部屋を訪れると村田は部屋にいなかった。学校でこそ見ないが外に出ているならいいことだと思ったが、窓を砕いてみると部屋が整頓されていたのでこれは死んだかなと心配になった。隣のお兄さんに聞いてみると案の定一月ほど前に自殺の騒ぎをしたらしく以来見ていないということだった。メールして二日ほど放っておくと返事が来たので、現在は入院していると判った。

 信玄餅を持って見舞いに行くと、とりあえずご飯を食べている顔な分村田は元気そうだった。「やあ元気そうじゃん」

「そう」

「いつ死んだの?」

「三十分しても帰ってこないから何かしんどくなって」

「三十分じゃ戻れないよお」しょうがないやつだなと私は思った。

「携帯にさ」

「何」

「伊藤ブックのメルマガばかり届くのが辛いんだけど解除したあと後悔しそうで怖い」

「どこか折ったの? 首?」

「切腹して」

 泣くほど笑ってから私は信玄餅を渡したが村田は食べなかったが私は一つ食べた。

「病院なんだから花とか持って来りゃよかったね私今実は花屋に」

「小学校の頃育てていたがまが三匹いたんだけど一匹は病気で一匹は大人に踏まれて最後のは普通に死んだけど死体というのは見てやなものだとその時思ったよ」

「花屋に同じくらいの子がいるんだけど働き者でさ」

「がまに関係していうのでないが背中に膿んだ感じができてどうにか破ろうとしても上手いように切開できなくて、芋の芽を取るように包丁の顎で上手く膿みの真ん中を弾くことのできないか試みたけど鏡越しでは上手く包丁も操ることが出来ず、思えばこの週もその前の週も前の前の前の前の週も自分がずっとこの鏡越しに自分の背中を雑把な刃物で処理するような上手く動けぬ感じでものごとをやってきていた気がして、死ぬ振りをして死なないのは心身充実せず五体の上手く活躍しないせいだと思ってどうせ死なぬならと丹の力を抜いて腹に包丁を刺したらどぼどぼ内臓が出てきて死ぬかと思ったけれど生きてたのでやっぱりそうだ」

「その子は働く割といい子でいい子じゃないかもだけど知らないしね、してみると好きな子のいる嫌な気持ちは全く地獄と私は思うよ。誰もいなけりゃ立ち止まらない標識は危ないからある、動かぬものは私は好きだが足止められるのは全く嫌だ。不意の気持ちも一秒見るのでも何か奪われた気に随分なる。手足の焼けて千切れていくのが日向のように幸せならば犬みたいにいるうちは苦しいのなんか治りはしないし、あいつが死んだらお前も楽になることよと私は軽く思っていたけれどいざ死んでみるとお前はこうだし、旨い話はない、楽しいことは起きない、美味しい飯には練習がいる、そういうことでいい筈なのに」

「あっ今窓の下にあいつがいる」不意に体を起こして村田が窓にかじりついた。「ほら花壇の辺り」

「どれいないよ」見もしないで私は答えた。黒蜜がきなこの上を滑ってビーズのような玉だった。「いないいないいるわけないじゃん」

「いるものはしょうがないじゃない」物欲の子供のようにガラスにへばりついて村田は騒ぎ出した。「ほらいる見ろよ」

「人違いだよ」

「死んだっ!」村田が尻を叩いた。「あー色々判んない今頃どうしてんだろう」

「餅食べなよ蜜混ざったよ」

「貰う」

 村田に餅を渡すと私は窓辺に立った。「何だいるじゃないあいつ」

「いないよ死んだから」

「いないもんはしょうがないな」

 私は暗くなる前に病院を後にした。十一月になり外も風も冷たかった。


「こんにちは」

 店に声をかけたが返事がなかった。戸は開いていたがレジにお婆さんもいなかった。トイレかなと思い川相さんもいなかったが、私は裏へ回った。タオルのような息が出た。

「あらどうも」

 私の電柱の前に知らない男性が立っていた。作業着にヘルメットの男性に私は挨拶を返した。「こんにちは」

「もうちょっと待ってね」男性は電柱の電盤の鍵を開けると何かの操作を黙々と始めた。私は手持ち無沙汰にそれを見ていた。

「元木さんいけないっ」

 突然声がかかって振り返ると川相さんが駆け寄ってくるところだった。川相さんはエプロンから何かのスプレーを取り出すと振ってから作業着の男性に向けて噴射した。無体と叫びその場を飛びのき男は庭の向こうへ飛び降りていった。私たちが走り寄り覗き込んだ時にはもうその姿はなかった。

「あれは害虫ですよ」川相さんは汗を拭った。「木のうろに入って甘い蜜を吸っていくんです」

「鍵持ってましたよ」

「進化のいたちごっこですよね」川相さんは電盤を閉じた。「この子は関西のタイプなんで割りと安心なんですが最近は暖かくなってきましたからこの辺りにも北上したああいう虫が現れるんですよ。熟れた木花に虫つくは浮世の習いですけれど、楽しいことばかりではないですね」

 もうこの子も立派な大人だと電柱を見上げ川相さんはいった。まだカバーしてあるが装柱も一通り生え揃っていた。庭から見える町並みに立てた指を重ねて私は目を凝らした。少し高いところから見る住宅地の電柱より高いもののない景色が私は好きだった。こうしてみると電柱というのはどれもまっすぐ立っているわけじゃないというのが判り、一人一人なのだと思うと自分のそれも誇らしく思えた。

「花子さん?」

 それが死んだ子の名前と川相さんは訊いた。カップを下ろして私は頷いた。日の暮れた裏庭からは町の明かりが散って見えた。

「ころころ機嫌の変わる信号機みたいな子でした、つんけんしてて傍若無人で、そんなのに村田も付き合うから見てて上下が激しかったですよ。あの子の顔色一つで部屋の色も変わるよう、それで許されるだけ可愛い子ではありましたが、移り気なだけで単純だし裏表もないし、喜怒哀楽がはっきりしてるのは私も嫌いとは違いました」

「その村田さんも好きだったんですね」川相さんもカップの中のスープを啜った。並んで腰掛けて私たちはおやつヌードルを啜っていた。風に吹かれて湯気が流れた。「大変だけど一緒にいるような相手が、いなくなって楽なわけないですよね」

「むちゃくちゃ落ち込んでますね」私は頷いた。何となく村田の話をしていた。「花を見て足を止めるのは素敵なことですが立ち止まったまま歩き出せない奴もきっといますよね。枯れた花の前で蹲って歩き出さない人はもう花に会うことはないんでしょうか」

「私夢のように偉くも喋くりましたけど、こないだみたくまだまだだらけで、だから私がいっても説得力ないですが」点滅する飛行機が隣町辺りの空を通過していった。連なる車の二車線ライトが機銃の軌跡のように視界の果てまで流れていった。「そういうのは大丈夫じゃないですか。もしその人が歩き出せなくても今度は誰かがその人に立ち止まりますよ」

「持ちつ持たれたらいいですよね」スープはしょっぱい。「私もあの日川相さん見て立ち止まってよかったなとよく思います」

 川相さんは豚のようなくしゃみをした。寒いなと私も思った。

「花子さんの方も村田さんを好きだったんでしょうね」

「そうですねよく懐いていたと思います」私は花子の頭部を思い浮かべた。「他人の私にも懐いてましたけど。言葉話せるわけじゃないし自分本位な子だから見えにくいけれども、飼う飼われるとかじゃなくて根っこのとこでちゃんと慕い合っていたんじゃないかと」

 川相さんは私の言葉に少し考えるように黙って、スープを一口静かに啜った。それからおもむろにあのといった。「確認なんだけど」

「なあに」

「もしかしてその花子って人じゃなくって猫とかだったり」

 私は川相さんを見た。「カタツムリ」

 世の中には自分の知らぬ世界で生きる人がいるものだなあというような意味の言葉を川相さんは口にした。向日葵ほどに育った標識を見ながらそうだなと私も思った。

「そういう感じなんですが村田は友達で、またすぐ死ぬかもしれませんけど、何かしてやれるかと思わなくもないんです。悪い気もしてますし」

「でも雨宿りはいらないよね」

「それで実はもう一本育てて欲しい木あるんですが」

「大丈夫ですよ」川相さんは頷いた。「この子はどうしますか。実は買ってくれる常連のお客さんがいるのですが大事にしてくれますよ」

「私はよい木でいればそれで嬉しいです。よろしくお願いします。育ててこれじゃ無責任でしょうか」

「だけど花屋は花売りますよ」川相さんは笑った。「それでどんな木がいいの」


 次の一月また私は花屋に通った。すっかり冬で外の作業はどんどん辛くなっていった。雨の日は店番もした。村田の方にも顔を出したが退院の日が決まったらしかった。本人は相変わらずだった。

「袋と無袋とどう違うんですか?」

「日当てないと盲導用の白いのになるよ。日で育てると黄色押しボタン」

「そういえばあの音どうやってるの、通りゃんせ、鳥の声」

「あれ中で飼ってるの」

 先に育てた電柱は買い取られていった。嬉しいような寂しいようなしかし満ち足りた感じだった。立ち止まった人がみな歩き出せないわけではない。その日買いに来たのは優しそうなおばさんだった。この間も見たお客さんだった。

「どうもありがとうございます」私はおばさんにお礼をいった。おばさんは笑った。

「長嶋さん堀内さんお願いします」トラックに声をかけると川相さんは振り返った。「さてじゃあお別れですね」

 私は頷いた。それから訊いた。「あの気になってたんですが、全部作っちゃった電柱ってどうやって運ぶんですか」

「いったん抜くよ地面から」松井さんが答えた。

「クレーンとかですかでも壊れたりは」

「さがっててね元木さん」

 川相さんは肩を回しつつ袖のボタンを外すと、その場で突然体操を始めた。

 私はよく判らず川相さんの伸ばす手足をただ見ていた。戸惑う私の肩を叩いて松井さんが私の手を引いた。「そこ通り道邪魔になるよ」

「通るって何が」

「行きます」真剣な声がした。私は振り向いた。川相さんは手に松脂を塗っていた。

 手を一度払い息を整え、思い切り腰を下ろすと、抱きつくように手を振り川相さんは電柱にしがみついた。それからぎゃっと一声叫ぶと、全身で木に向けて踏み込んだ。

 地面が一瞬揺れた気がした。川相さんの背が膨れた。私の視界の先では一本の電信柱が小刻みに揺れながらゆっくり確実に抜けていた。塊の土がぼろぼろと落ちると、電柱の根が現れた。

 肩で引き上げた川相さんは、そのままの姿勢で再び呼吸を整えると、また声を吐き電柱を一段持ち上げた。重心が腰に乗った途端に揺れていた電柱は安定した。

 下にも長く育った電柱を、三十分ほどかけて川相さんはゆっくり全て引き抜いた。

「先導お願いしますっ」

「前前ちょい右そこ前まっすぐ」川相さんが叫びお婆さんが大きめの声で先導した。電柱を抱えたまま川相さんは指示通り歩いた。西瓜割りのようだった。

「いつ見てもすごいわ」これ見たさもあるよ実際とおばさんがほれぼれいった。「花は好きだけど」

「私も昔は両脇に抱えて」松井さんがいった。

「じゃあ行って来ます」

 川相さんは電柱を担いだまま表通りに出て前後をトラックに誘導されながらマラソン選手のようにおばさんの家まで歩いていった。私はただその背中を見ていた。


 クリスマスが近づいて家も電車も曇る頃、村田が退院したというので私はやつの家を訪ねた。

「あれ窓割れてる」ついてきた川相さんが張ってあるダンボールを見つけていった。

「何だろうね」私はいった。「電気まだ入れてないんだよね」

「たしか今日の五時と」川相さんはコートの下の時計を見た。「あと十分」

 私たちはアパートの階段を上り、村田の部屋である二階の角部屋のチャイムを押した。反応がないのでこの間使ったブロックを探したが、片付けられたか見当たらなかった。仕方ないのでダンボールをパンチで剥がした。「よかった開けやすい」

「いつもこんなことしてんの」

「いっても開けないから」

 中では村田が布団にくるまっていた。私たちは靴を揃えた。

「元気」

「ないよ」頭まで隠れたまま村田は返事した。「お前ガラス弁償」

「だって呼んでも開けないお前が」

「だから開けといてるじゃん窓鍵いる時はさあ」

「学校もう終わっちゃうよ」

「本当はどうでいいくせに、構うことないだろ好きで寝てるやつに」うつ伏せるように布団が動いた。「寒くなったなあ」

「うん」私は時計を見た。「寒くて出かけられないお前に今日は花を買ってきたよ」

「花なんか別にお前電球はどうなったの人のお金」

「あのこんにちは村田さん初めまして」色々タイミングを窺っていた川相さんがそこで声をかけた。「お邪魔してます」

 知らぬ人のいるのに驚いた村田は体を起こした。

「私川相昌子といいます花屋です」

「村田です」村田も名乗った。

 私は川相さんの下を初めて聞いた。川相さんは村田をまっすぐ見ていた。初めて会った日に私を呼び止めた時の顔だった。

「クリスマスには少し早いし家族の代わりにはならないけれどいい花なのでよければもらってください。肉は腐るし季節は過ぎるし楽しいことは遅かれいつか終わる気がします。おおよそ事物は台所の湯水のように留まりつつ流れ行きますが歩き出せぬ人は誰かを待てるし通り過ぎる人もいずれはどこかに立ち止まると思います。この世の渋滞を人生の妨害を、地獄への誘引を私が手伝えたらと思います。花は電球ではないけれど、変わらぬ暗さは照らせます」

 その時ようやく村田は部屋中が特撮するような真っ青一色なことに気づいたようだった。戸惑ううちに今度は全てが黄色になり、すぐ空襲のような赤に染まった。

 村田は布団をのけて立ち上がると窓辺へ歩み寄り、締め切っていたカーテンを引いた。

 カーテン越しに差していた赤が強く直射して村田の逆光は手を翳した。奇しくも外は雪が降り出し、窓の外、町通りが白くしみ出していた。

「暗い夜でも吹雪の日でもどんな遠くてもきっと見えるよ。花を見て人の立ち止まるようにみなが見知らぬお前の部屋の前で立ち止まるように、枯れない花で道行く人が一人でもお前に立ち止まるように」

 パジャマの村田がガラスを開けると十二月の雪空気が埃臭い部屋に流れ込んだ。私たちは立ち上がるとパジャマの後ろから窓の外の町を見た。

 窓の外では私と川相さんの育てた信号機付きの電柱が、真っ赤な綺麗な光を部屋の中へ向けて放っていた。頭や腕やライトの笠に白い雪が重なりだしていた。冬の夕べの暗い空の下、通りに沿って街灯が並び、家も街路樹も飾られていた。

おかしな方向を向き照らす新品の信号機を見て、道を行く人たちが立ち止まり、こちらを見上げていた。

                                   終わり


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