第30話 紆曲(後)

「今、僕はとても満たされている、とある時から突然よく言うようになったんです」

と秋篠さんは言った。


「私にはその感覚はよくわかりませんでした、私は人生の中で『とても満たされている』と心から感じる瞬間など、おそらく一度もなかったからです。自分は恵まれているな、と感じることはもちろん何度もありました。仲のいい両親をもって、中流家庭、今考えるとほとんど上流階級に近い中流でした。お金にこまるような想いは私はしなかった。今考えると、両親もそれなりにやりくりをしていたと思うけれど。でもそれは「とても満たされている」、断言できるようなものではなかった」

秋篠さんは右股をさすりながら言った。


「突然そんなことを言うから、私はどうして?と彼に聞きました」


「いつからそういうことを言うようになったんですか?」と僕は遮るように言った。


「そうですね、付き合い始めてから3ヶ月くらいたったときからです。冬でした。その年の冬はとても寒かったんです。初めて彼がそれを口にし始めたときのことはよく覚えています。その日私は駅まで彼を迎えに行きました。一緒に帰りに買い物をして変えると連絡をとっていました。その日、彼はとても満足そうな顔をして改札を出てきました。『何かあったの?』と私が聞くとすぐに『今僕はとても満たされている』と答えました。何か良いことでもあったのかな、と思って聞いてみても、特になにかあったわけじゃない、と彼は言いました。そして、私に出会えてとても幸せだ、というようなことを言いました。その時は不思議でしたが、その時はただ嬉しかっただけだったと思います」


「彼は家に帰ってもずっとそういうようなことを言っていました。その日は私もとても幸せで温かい気持ちだったことをよく覚えています。翌朝も、彼は幸せだと、いいました。そして私にキスをして、家を出ました。それきり彼はもう帰ってきませんでした。」


秋篠さんはそこで少し言葉を詰まらせた。

僕も合わせて黙っていた。


「連絡も取れなかったのですか?」

と僕は言った。


「はい。彼は会社にもそれきり行っていないし、実家にも帰っていませんでした。誰も彼の足取りを知りませんでした。捜索願も出しましたが、今まで見つかっていません。でも、思うのですが、彼は多分きえてしまったのだと思っているのです。」


「きえてしまった?」


「そうです。多分、私と同じです。七里ヶ浜のあの紆曲した海岸線のどこかに、彼はきえてしまったのです。私は身体の一部で済んだけれど、彼はそうはいかなかったのだと思います。そして、彼は私の身代わりになったようにも思うのです。彼が全てを奪われることが決まっていたから、私は身体の一部で済んだ。この様に車椅子でしか生活のできない私を心から愛してくれた彼だった。彼は私の身代わりになる覚悟が最初からあったのだと思います。だから彼は私の代わりに全てを奪われて、きえてしまいました。なんとなく、分かるのです。今彼は向こうで、失われた私の足と共にいます。彼は私の切断された足をなでているように思います。それをありありと感じるのです。彼はそこで一生...一生ですら無い永遠の時間を過ごしているのでしょう。私が死んでも、生まれ変わっても、絶対にたどり着くことはない、どこか、全然違う場所に彼はいます。彼は孤独です。そこには、彼と、私の身体の一部だけがあるのです」


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