第6話 三色の光で喉を潤す

そのマンションのエントランスの中は暖かく、カウンターには若い女が立っていた。

女の背後にある大理石の壁には、”三田キングダム”と書かれた金の文字盤がつけられていた。

三田キングダムは高層タワーマンションで、彼女は比較的低層である10階に住んでいた。


鎌田がインターホンを押すと、顔の左半分ほどを包帯で巻いた女が出てきた。


「鎌田です。すみません、ご自宅までお伺いすることになってしまい」と鎌田は言った。

「いいえ、いいんです。私はもうあまり外に出ることが出来なくなってしまったので、こうするしかありません」

女の目は窪んでいて、頰は痩け、顔色は全体的に浅黒い。顔立ちは良いので、かなり美人だったのだろうなと鎌田は思う。


玄関から続く廊下の奥の方を見る限り、カーテンを閉めていて電気もつけていないのか、部屋の中は殆ど暗闇だった。


「暗くてごめんなさい、気をつけてこちらまで来て下さい。」と女は言った。


リビングに入ると、やはりカーテンは閉められていた。それも、遮光カーテンなのか、外の光は殆ど入っていなかった。暖色系の間接照明が一つ点けられている。リビングだけでも広く、15畳ほどはありそうである。ただ、その部屋には、ソファとテーブルとダッシュボードとその上に置かれたテレビ以外には何もなかった。部屋の隅には4つほどダンボール箱が置かれていた。


「ソファで良いですか?どうぞ座ってください」と女は言い、鎌田は座った。


「今お茶を持って参ります」


「いえ、お構いなく」と鎌田は言ったが、女はキッチンへ行き、急須からお茶をついで鎌田の前に置いた。


鎌田がどのように切り出すべきか、お茶を飲みながら考えていると、女は言った。


「鎌田さん、これは想像なのですが、私がこれから話すことはおそらく週刊誌には載せられないと思います。ただ、私は誰か一人でもいいので、私の経験したことを話したいと思いました。だから、今回取材を受けることにしました。でも、私の話すことはおそらくどこにも載せられないし、鎌田さんだけが知るところとなるかと思います。それでも大丈夫でしょうか」


「はい、それでも大丈夫ですよ。録音してもよろしいでしょうか?」


「構いません」と女は言った。


鎌田は、この時点で違和感を覚えていた。女は非常に落ち着いていて、痛々しい姿ではあるが、そこに悲壮感やトラウマティックな雰囲気はまったくなかった。


「まず、当日のことなのですが...」と鎌田は言った。


「お待ち下さい」と女は言った。


「まず、私が経験したことについて、私から説明させてください。よろしいですか?」


「もちろん大丈夫ですよ」と鎌田は言った。


「ありがとうございます。まず最初に、私は暴行されたことは実は殆ど覚えていません。私が意識を取り戻したのは、病院で目覚めてからです。それでもよろしいですか?」


鎌田は黙って頷いた。


「私は友人に誘われて、大河内のいる飲み会に参加しました。大河内は六本木のクラブ界隈では派手に金を使う有名人で、複数の店舗のオーナーとつながりがありました。彼は自分のテリトリーにあるクラブでは、好きなように飲み散らかしていたようです。その日に飲み会があったクラブも、やはり彼の馴染みの店でした。私を含めて女子は3人で、男は4人いました。始めのほうは、普通にみんなで飲んでいました。大河内は嫌なやつだし、周りの取り巻きも大河内の機嫌をとっているようで不快だったけど、ただでVIPルームで飲めるならまあいいかなと最初は思っていました。2時くらいでしょうか。私が帰ろうとすると、大河内は私の腕を掴んできました。『今から面白いことが起こるから、帰らないほうがいいよ』と彼は私に耳打ちしました。耳打ちと言っても、クラブなので叫ぶような耳打ちでした。私はすぐに、これはあまり良くないドラッグのことだろうと思いました。普段だったらすぐに帰ってもおかしくないと思うのですが、その日はなぜか、そのドラッグに強く興味を持ちました」


「そのあとすぐに、黒服のセキュリティが私達のテーブルに3つのマカロンを持ってきました。大河内は『赤色は悪い、青色は冷たい、緑はわからない』と私に言いました。他の人達はフロアへ出ていて、VIP席には私と大河内しかいませんでした。大河内は、『俺は悪い、でも冷たいわけじゃない』と行って、赤いマカロンを口にしました。『お前はどうするんだ』と大河内は私に迫ってきました。私は緑のマカロンに手を伸ばしていました。それは不思議な感覚でした。私の腕が、私の意思に反して動き、緑のマカロンをつまんで、私の口に放り込みました。私はよく咀嚼して飲み込みました。それは味も香りも全く普通のマカロンのように思えました。時間の感覚は覚えていませんが、その後しばらくすると大河内は突然大声で笑いだし、フロアの方へ出ていきました。私はVIP席に一人になりました。」


「私は少しずつ意識がぼんやりしてきました。留学していたときに大麻を吸ったことがありその感覚によく似ていました。なので、最初私は大麻マカロンを食べたのかなと思いました。私は流れに身を任せて、ぼーっとフロアの方を眺めていました。そうすると、私は自分が妙な光景を見ていることに気が付きました。フロアの正面には、VJが流す映像が流れていました。激しい光が、曲線や直線や多角形や自己相似形のような模様に変化していました。そこから突然、シャボン玉のような青い光がスクリーンから空中に出てきました。青い光は球体なのですが、フロアが揺れたり、低い音が流れるたびに振動するように形を歪めていました。その青い光は、フロアを漂いながらも、少しずつ私のいる場所に近づいて来ているようでした。そして青い光は私の目の前まで来ました。私は人差し指でその光をつついてみました。するとその光は、光ではなくどちらかというと液体のようなものなんだと、私は触れた感覚で直感的にわかりました。私はその光に唇を近づけて飲んでみました。そうすると、そこにあった青い光が消えました。そしてその後私は、ある感覚に強烈に支配されていました」


「私は自分が猛烈に喉が渇いていることに気が付いたのです。テーブルの上にはお冷がいくつか置いてありました。自分のではないけど、いいやと思ってゴクゴクと飲みました。しかし、飲んでも飲んでも、喉の渇きが癒せませんでした。私は黒服に、水の入ったデキャンタを持ってこさせました。私はそのデキャンタに直接口を付けて勢いよく飲みました。しかし、一向に喉の渇きは癒せませんでした。まるで、喉の奥が乾燥で張り付いてしまうんじゃないかと思うくらいでした。一度乾燥してしまったら、もう一度その喉を開くために、メリメリと喉を引き裂かなければならなくなるのだと思いました。そのとき、私の目の前に、赤い光と緑色の光がありました。私は、これを飲まなければ自分の渇きが癒せないのだと、すぐに分かりました。私は赤い光を飲んで、その後緑色の光を飲みました。それは、とても甘美な味わいでした。喉は潤い、気持ちが癒やされ、私は安堵の感情に包まれました。私はすっかり気分が良くなって、フロアの方へ出ていきました」


そこまで話すと、女は一度ため息をついた。


「そして、その後は」と鎌田は言った。


「私が覚えているのはここまでです、目が覚めたときには、病院にいました。私が目を覚ましたとき、病室は、とてつもない轟音に包まれていました」


「轟音?」


「そうです、まるですぐ外で道路工事をしているのかと思いました。硬い物質を金属のハンマーで叩きつけてるような音が断続的に聞こえてきました。あまりにもうるさくて、耳に手を当てても、その音は鳴り止みませんでした。私は自分がドラッグのせいで異常者になってしまったのかもしれないと思いました。しかし、目を瞑ると、その音が鳴り止むことに私は気づきました」


鎌田は黙って聞いていた。


「そしてもう一つ異変がありました。私は顔を何箇所か骨折し、切れており縫ったところもありました。麻酔はしばらくすると切れるので、痛かったら痛み止めを飲みなさいと言われました。しかし、一向に痛みは出てきませんでした。私は騒音のことと、痛みのことについて先生に話しました。でも先生はそれはは精神的なものだろうと言いました。ドラッグのことについても正直に話しましたが、血液検査の結果を見る限り、そういった類の異常はないだろうと思うと言われました。暗くなって夜になると、轟音は止みました。朝、目が覚めると、また轟音がなり始めるのです」


「私は4日ほど入院したあとに退院しました。病院を出て、両親が運転する車に乗りました。もう辺りは暗く、太陽がほぼ沈みかけていました。私は現実感のないような気持ちで、ぼんやりと流れる景色を眺めていました。そうすると、遠くの方から弦楽器と鐘の音が響いてきました。それは今までのような轟音ではなく、とても美しい音色に思えました。そしてそれは、ハイウェイから見える景色とリンクしていることに気が付きました。車が街頭を通り過ぎるたびに、チェロのような低音がボンッと鳴り響きました。遠くの方に見える夜景は、小さな鐘の音そのものでした。それはいままでに聞いたことのないような、素晴らしい演奏でした。あまりにも素晴らしくて、私はその場で嗚咽して泣きました。隣りにいた母親は私の背中をさすりましたが、私はその時、感動で泣いていたのです」


「私はそれからもしばらくして、いくつかのことに気が付きました。まず、轟音の正体は、白色の蛍光灯でした。病院にあるのはすべて、白色蛍光灯だったのです。そして、太陽の光は、真昼は煩すぎますが、日の出と夕方には、とても美しいトランペットのような音を出していました。色々吟味した結果、部屋の照明は暖色系の間接照明であれば、音量も音色もそれほど気にならないことに気が付きました。そこに置いてある間接照明も、いくつか選んだ結果残したものです、位置を変えて光量や反射具合が変わると、音色も変わります」


「それは共感覚というやつですか?」


「おそらくは」と女は言った。


「私はおそらく、後天的にそのような知覚を手に入れたようです。そして同時に、2つの感覚を喪いました。それは痛覚と味覚です。私はもう痛みを感じません、そして、味がわかりません。痛覚の方はともかく、味覚を喪ってしまったことについて、私は愕然としました。目の前に美味しそうな香りのするものがあって、それを実際に口に運んで味わおうとしてみても、何の味もしません。実家に帰った時、母親は私の大好きなハンバーグを作ってくれました。しかしそれを食べてみても、まるで粘土を噛んでいるような気分になりました。この虚しさは、実際に体験しないとなかなか伝わないと思います」


「一方で私は、目に見える光を音色に変えられるようになりました。あらゆる要素や配置、光の加減などがマッチしたときに聞こえる音は、喪った感覚を補うのに十分なほどの多幸感を私にもたらしました。そして私は、東京で暮らすのは、いまの感覚では耐えられないということに気付きました。大学はもう辞めました、明後日から私は長野県の安曇野市へ行きます。そこには私の父方の実家があります。昔、遊びに行ったことがあるのを思い出して、あそこなら今の私でも生きていける、もしかしたら、素晴らしい音色に包まれながら暮らせるかもしれない、と思ったのです」


その後、彼女の大学生活や、大河内の私生活について仔細に取材をして、鎌田は三田キングダムを後にした。この取材は、確かに週刊誌には載らないな、と思った。


帰り道のバスの中で、鎌田はもう一度光を飲み込んだ話について聞き返そうと思った。しかし、ボイスレコーダーの録音ボタンを押し忘れていたらしく、そこには何も記録されていなかった。

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