あなたの爪を形見に

水ぎわ

第1話 不埒な若い男は、不埒な様子を微塵も見せずに

 あのひとの、笑顔が欲しい。

 あのひとの、すずやかな声が欲しい。

 そしてあのひとの、ややくずれ始めた身体のラインにそって唇を這わせたい。


 吉行よしゆきは、親友の母親に恋をしている。もうずっと。



 ★★★

 老舗ホテルのロビーに到着すると、吉行はフロントで親友の母の客室に内線電話をつないでもらった。

 クリスマスシーズンの高級ホテルは華やかさにみち、背の高いクリスマスツリーに輝く明かりがともっている。


 これから夜の外出をしようという人々のきらめく空気に交じって、内線電話からは千田志穂せんだしほのかろやかな声が聞こえた。


吉行よしゆき君、急に呼んでごめんなさいね。すぐ部屋にあがってくれる?」


 志穂の声は、四十八歳という年と思えないほど明るくてくったくがない。吉行は、いつものごとく耳朶じだに早い脈拍を感じながら、静かに答えた。


「ええ、これからすぐにいきます。おばさんの準備は、できていますか?」

「あとは君に爪さえ直してもらえば終わりなのよ」


 待っているわね、という声を最後に内線電話は切れた。


 志穂の声は消えたのに、志穂の気配だけが濃厚に受話器に残っていて、吉行は受話器をすぐに手放てばなすことができない。


 いとしい人の声には、麻薬のような中毒性がある。志穂の声は吉行の身体をつねにざわめかせる。


 吉行はエレベーターで志穂に言われた部屋番号へ上がっていった。

 志穂の部屋は高層階にあり、ラグジュアリーホテルとして有名なこのホテルでもかなり高級なカテゴリーに入る。

 吉行は柔らかいじゅうたんを踏みながら廊下をゆき、部屋のベルを鳴らした。


 ドアはすぐに開き、そこには志穂が立っていた。

 つつましやかなヘアスタイルに上質なジバンシイのドレスを着た志穂は、軽く身体をひねって吉行を招き入れた。


「本当にごめんなさいね。あんまり急なことで、吉行君以外の人は思いつかなくて」

「今はサロンがヒマな時間帯ですから、いいんですよ」


 吉行は軽く答えて、志保のあとから部屋に入った。

 部屋は寝室が別にあるジュニアスイートで、リビングエリアのガラステーブルはすでにきちんと片付けられて、何もない。


 そこで作業をしてほしいのだろうと吉行は考えて、持ってきたバニティケースをテーブルに置いた。

 そのまま志穂にはあえて何も言わずに、ガラス板の上にネイル用のタオルやリムーバー、オイル、ウッドスティックなどを手際てぎわよく並べていく。

 準備を始める吉行の肩越かたごしに志穂が手を伸ばし、ガラステーブルの上にきらめくシャンパングラスを置いた。


 泡の立っているピンクシャンパン。パーティの前に似つかわしい酒だ。


「せめて、シャンパンくらい飲んでいってね」


 はい、と自分が答えた声がやけにうわずっているように吉行には感じられた。


『あなたの前でアルコールなんて飲んだら、俺のがふっとびます』


 吉行は、大きな声でそう言ってやりたいと思った。

 小首をかしげてつつましやかに笑う志穂のような女に、衝動だの、自制のタガだのということを言ってもまるで通じないのは承知しょうちうえだ。


 それでも、自分ばかりが片思いに苦しむのは不公平だと吉行は感じている。


 この人は、他の男のものだ。

 そのうえ、俺の親友の母親だ。


 志穂と知り合ってから十一年。吉行は自分の身体と心のどこかを、常に殺しながら愛しい女のそばにいる。


「おばさんのネイルを片付けたら、シャンパンはいただきますよ」


 おばさん、という語感がこれほど不似合いな女はいないだろうと吉行は思う。

 しかし志穂を“おばさん”というカテゴリーに閉じ込められたら、吉行の人生は楽になるのだろう。


 だがそんな生活は、吉行の望むものではない。


 志穂を抱きとめ、押し開き、泣き叫ばせることだけが吉行の望みである。

 そんな目の前の若い男の邪念も知らず、志穂はくったくのない笑顔を息子の親友に向けた。


「じゃあ、早く片付けましょう。じゅんがここへ来る前に、吉行君とふたりでシャンパンをいただきたいわ」


 “じゅん”という息子の名を呼ぶ時だけは、志穂の声がやや低くなった。その声を聴きながら、吉行はますますろくでもないことを考えている。


 シャンパンなんからない。おれは、あなたをいただきたいんです。


 そう思いながら、不埒ふらちな若い男は不埒ふらちな様子を微塵みじんも見せずに、愛しい女の手を取って爪を調べ始めた。


「使っているのは、カルジェルですね?」


 吉行が尋ねると、志穂は少し困った顔をした。


「そういうのかしら? いつもサロンの女の子にまかせているのでよくわからないの。吉行君、あなた、この爪をはずせる?」

「はずせますよ」


 そう言うと吉行はすばやくクレンズとリムーバーのボトルをガラステーブルの上に並べて、コットンにクレンズを含ませた。


 そっと志穂の手を取る。

 水仕事みずしごとをしない四十八歳の女の指はたおやかで柔らかく、大きなダイヤの指輪が似つかわしかった。


 ほっそりした志穂の手を取りながら、吉行の顔には欲情のひとかけらもない。そのくせ身体の中には沸騰しそうな熱がこもり切っている。

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