第5話 吉野柾樹は耐えられない


 九月。いくら空が暗闇に包まれているように見えようと、感じる気候に差異はなく。

 きっと晴れているのであろう空と、照りつけているであろう太陽の下、吉野柾樹よしのまさきらは残暑に喘いでいた。


「ごめんね……」


 少女――櫻井檜奈乃さくらいひなのは遠慮がちに苦笑いを浮かべる。

 自嘲するように。詫びるように。申し訳なさそうに。感謝の意の代わりに彼女は謝罪を口にした。


「気にしなくていいよ。暇だったしさ」


 片足を庇うように歩く檜奈乃に肩を貸しながら、柾樹は柔らかく返す。

 背後、中学校のグラウンドの方からは普段よりずっと多く大きな歓声、時折上がる号砲、スピーカーから流れる放送音声が聞こえてくる。


 体育祭。年に一度行われる行事に盛り上がる生徒や父兄たちを横目に、彼らは校舎、保健室へと向かっていた。


「そうなの……? 次、大縄跳びじゃなかった?」

「怪我したことにするよ。あれは人数少ない方が楽だろ」


 最後のリレーだけは、仕方ないからまあ戻るかなあ。と続ける柾樹に、檜奈乃は何か言いたそうにして、結局口をつぐんだ。


 おそらく、自責の念に駆られてでもいるのだろう、と察する。足をくじいたこと自体にも、こうして今付き添いを務めていることにも、彼女が後ろめたく感じるべきことなど、ただの一つもないというのに。

 親しい友人が転んで怪我をしたならば、助けるのが当然の道理。少なくとも柾樹はそう考えるし、公言もしている。


 それでも、檜奈乃は俯かずにはいられない。柾樹はそれがわかっていた。


「すいません、怪我人です」


 保健室の外部用扉は既に開け放たれていたので、柾樹は室内に呼びかけ、檜奈乃を入り口の段差に座らせる。


 さて。今からでも全然、大縄跳びの入場時間には間に合いそうだが。

 振り返ってはみるものの。


「はいはーいどうしました? 擦りむいた? 捻った?」

「あ、はい。多分、捻挫……です。ごめんなさい」

「あらら、捻ったのね。とりあえず靴下まで脱いでくれる?」


 楽しげな声、熱の籠もった空気。

 良い雰囲気だと思う。こういうのが、普通の幸せ、なのだと思う。今の自分とは決して相容れない光景なのだと、強く思ってしまう。

 あの人たちの頭上には、青く澄んだ空が広がっているのだ。眩いばかりの太陽が昇っているのだ。


 ああ、吐きそうだ。


「あー、これは腫れてるわね。手もちょっと擦りむいてる。転んだでしょ」

「はい……でも、そんなに大したことは、ないので」

「小さな怪我でもちゃんと処置しなきゃダメなのよ。そこの水道で傷口をしっかり洗って。消毒するわ」


 一体、何をしているのだろう。

 わかっている、こういった学校行事に参加すること自体に意味があるということは、わかってはいる。特に自分たちにとっては、本格的に精神がおかしくなってしまったと思われないために、普通を装わなければならないことは。とてもよくわかっている。


 それでも。


 それでも、これ以上なく。時間をと感じてしまうのだ。


 早く帰って勉強しなければ。こんなことをしている場合では。花菜は今もどこかで苦しんでいるのに。騒がしい、頭が痛くなってきた。帰りたい。うるさい。なんで今こんなところで時間を浪費しているんだろうか。することは決まっているのに。また花火の音が大きくなってしまう。手でも足でも、身体でも、心でも掴めない、捉えどころのない、表しようがない、落としどころがない、収めておくべき場所が見つからない、訳の分からない感情が自分だ。自分が自分でなくなって勝手に暴れ出す。逃げ出したくなる。

 こうして、どうしようもないことに苛立ちを感じてしまう自分自身に。どうしようもない状況に。抑えておけない自分に、抑えておけないこと自体に。


 吐き気が込みあがってくる。


「あの、洗えました」

「じゃあ中に……来れる? 吉野くん、肩貸してあげて」


「…………」

「ま、柾……樹?」

「っあ、はい」


 おずおずと檜奈乃に顔を覗き込まれ、無価値な思考の渦から引き上げられる。そうだ、こんなことを考えていても何にもならない。

 それは、檜奈乃だって。要だって柊子だって蓮だって、同じだというのに。


「ほら、掴まれ」


 捻挫した方――患側ではなく、何ともない方――健側から支える。柾樹はいつも寝不足でふらついているため、幾度となく助けてくれる柊子から教わったこともあり、それなりに慣れていた。決して褒められたことではないが。


 中学生ともなると、多少は男女の接触は意図的に避けさせられる傾向にある、のが一般的かも知れない。しかし彼らに対しては、同じ夜と花火の幻覚を共に持つ五人だけには、皆の見る目も対応も異なっていた。この狭い町の学区の中でのみの、限定的な偏見である。


「ご、ごめんね……」


 保健室内のソファに腰を下ろすなり、檜奈乃はまた、そう呟いた。最早癖とも化している言葉は弱く小さく、誰の耳に入ることもなく溶けて消えた。


 彼女が手当てをしてもらっている間、そそくさとグラウンドに戻るのも違う気がして。そもそももうすぐ大縄跳びが始まるところに飛び込みたくもなくて。所在なげに窓際で、暗くて明るい空を見上げてみる。

 相も変わらず、紅色と黄色が合わさった花火が、真っ黒なキャンバスに描かれているままを。

 見上げてみる。


 これは、花菜の命のきらめきだ。


 みんなの、決意の輝きだ。


 この花が咲いている限り、柾樹は倒れることはない。諦めることはない。


 この花を。散らすために。


 これ以上見ていると、また頭が痛くなりそうで。花火に、空に、窓に背を向ける。


「よーし、これでオッケー。んじゃあとは、転んだ時に身体からだのどこかを打ちつけちゃってたりはしない? ちょっと体育着に砂埃付いてたけど」

「ぁ、や、やめてくださいっ」


 手際よく檜奈乃の手の擦りむき傷や捻挫の応急処置をこなした養護教諭は、腹や脇腹、背中に跡等が無いか触って確認しようとする、が。その手を、檜奈乃は素早く振り払う。近くに柾樹とはいえ男子生徒がいるからなのか、単純に触れられることに不快感を示しただけなのか。柾樹には判別ができなかった。

 養護教諭の目が、少しだけ見開かれたかと思うと、檜奈乃からは見えない角度から、悲しそうな感情を湛えて。


「あ、っと、ごめんね」

「いえ、あの、ごめんなさい……。でも、本当に大丈夫、なので、その」

「ううん、大丈夫ならいいのよ。それじゃあこれ。これで腫れたところを冷やしておいてね。氷が解けたら湿布貼ろう」


 しかしそれ以上は互いに何もせず。ビニール袋に氷水を入れ、タオルで薄く覆った簡易的な氷嚢が手渡される。


 当然のことながら、柾樹や檜奈乃のことは養護教諭のみならず、全教師が一応把握している。それ故に、通常以上に踏み込んで来ようとする人は、まずいない。


「先生ちょっと校庭の方行かなきゃならないんだけど。すぐ戻ってくるから」


 ちゃんと冷やしておくのよ、と言いつつ養護教諭は外側出入り口、柾樹たちが入ってきたところに無造作に置いてあった健康サンダルに足を突っ込む。昼休みのすぐあとの時間帯で、先程まで利用者が居なかったためか。まあ今も軽傷が一人だけ、しかも処置済みなので大きな問題はないだろう。


 それと、出て行く前に、柾樹をちらりと一瞥。

 出す言葉を決めかねているのか、一瞬空気が固まる。本来ならここで、ただの随伴者だった柾樹はグラウンド、体育祭に戻るべきである。しかし、まあ。


「気分が良くないんで、休んでてもいいですか」

「……そうね、それなら仕方ないわ。もし人が来たら、すぐ戻ってくるって言っておいてもらえる?」

「それは、はい」

「じゃあ、お願いね」


 そう言いながら、養護教諭はぱたぱたと小走りで行ってしまう。途端に、周囲に余計な音が存在しないことと、その分校庭方向が盛り上がっていることが、明白に強調される。


 騒がしさと、静けさの温度差。

 世界の境目を踏み越えて。ここに人はやって来ないだろう。

 少しの間だけれども。ここはもう、彼らだけの世界と成った。


 柾樹は、檜奈乃が体育座りで足を冷やしているソファ、とローテーブルを挟んで向かいのソファ、にどっかと座る。檜奈乃は、自分の足元に目線を固定したまま動かない。彼女は、何を想って。


「……ねぇ」

「ん?」


 少女が口を開く。

 少年は、そちらには目を遣らずに返す。


「まだ、柾樹の空は……暗いまま?」

「真っ暗闇のままだよ。ずっと」

「……そっか」


 何を想って。檜奈乃は。下を向いたままで、いるのだろう。


 そういえば。彼女と一対一で話すことは、初めてかもしれない。大抵いつもは側に柊子が居るし、柾樹や檜奈乃を見付ければ要や蓮はすぐに駆け寄って声を掛けてくる。家だって、そう近くはない。

 それでも、一緒にいたのは。仲良くしていたのは、今でも友人でいるのは。


 花菜が、いたから。それ以外にも細かい理由は有れど、根本はそこのはずだ。

 櫻井檜奈乃は、五人の中で最も、神藤花菜と親しかった人間。少なくとも柾樹は、そう認識していた。


「柾樹はさ、どうして……どうして、耐えられるの?」


 この狂った現実に。と。消え入りそうなか細い声で、彼女は訊く。

 閉ざされた空に。止まない爆発音に。休まらない花火に。何より、他と「違う」という差に。異常である、と解っていることに。


 そんなことに対しては。柾樹の中では。その答えは決まっている、が。とても言えたものではない。償いの為に、ただ止まれないだけ、など。友人を、親友をひた想って耐えている人間を前にして、言えたものではない。


「友達、だからな。大事な友達なら、当たり前だ」

「だ、よね。すごく、立派だと、思う」

「そんなことは……ない。よ。ないんだ、けど」


 違う、違うんだ。心の声は、本音は、相手には決して届くことはない。


 櫻井檜奈乃という少女は、表面上は臆病でおどおどしているが。その実、とても強い人間である、と。柾樹は考える。

 何故なら、柾樹のように、何かに逃げていないから。彼女は、勉強に逃げることをせず、花火に逃げることをせず。自分の意思で、自ら望んで狂気を受け止め続けているから。


 きっと、柾樹ならば。勉強に、未来の自分が難病の治療法を見付けるという逃げ道を立てていなければ、無力と罪悪感で押し潰されてしまうことだろう。途方もない、道であろうと、俯いたまま歩いて行くのに支障はない。

 柾樹は、何かにぶつかるまで。その道が終わりを迎えるまで。歩き続けるしかないのだ。そう決めたから。そうしなければ、折れてしまうから。


 そう信じていなければ、耐えられないから。


 しかし、檜奈乃は崩れない。それが何を意味するか。


 一際大きな歓声が、グラウンドから風に乗って響いてくる。大縄跳びの優勝クラスでも決まったのだろう。そこに、柾樹の居場所はない。柾樹は、それがよくわかっている。



 黒い黒い空の下。



 弱い人間は、己の弱さを睨みつけることしか許されていないのだ。






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