第23話 くだらない恋バナをして癒されたい心境

 司令部の棟の一階、小会議室で、ユディトはエルマと再会した。


 今日のエルマは騎士団の制服ではなかった。少し地味に見えるくすんだピンクのテーラードジャケットを着て、足を覆い隠すほどの丈の黒いスカートをはいていた。女性ものの乗馬服だ。

 ペチコートで膨らんだ足元の見えない乗馬スカートは、ユディトがこの世でもっとも苦手とするもののひとつだ。横乗りの鞍があれば一人で騎乗できるし、ヒルダの護衛官たちは皆横乗りの鞍でも一メートルくらいの柵なら飛び越えられるが、ユディトだけでなくエルマやクリスも機動性を考えて馬に乗る時はトラウザーズでまたがると決めていた。

 エルマが乗馬スカートをはいている――それがすさまじい非常事態のように思えた。ヘリオトロープ騎士団においては、女物の服を着なければならず、かつ、その恰好のまま馬に乗らなければならない、という状況は、ないのだ。


「エルマ!?」


 名前を呼ぶと彼女が振り返った。

 ユディトの方が硬直した。

 彼女の顔の右下、頬から顎にかけてが青黒く腫れ上がっていた。顎に布を当ててテープで留めているが、痣の範囲が広すぎて隠れていない。


「ユディトー!」


 それでも彼女はいつもどおり微笑む。まるで何もなかったかのように能天気な顔と声だ。


「お久ー! 休暇楽しんでる?」

「お前どうしたその顔」

「話せば長くなるから後でね。そんなことよりアルヴィン様とはどう? 何か進展あった?」

「私のことの方がよっぽどどうでもいい。話せ」

「いいじゃん、怖い顔しないでよ。ずっとユディトはそういうのが嫌いなんだろうなって思ってたから言わなかったけどさ、あたし、本当はそういうのが大好きなんだ」

「ふざけたことをぬかしている場合か」

「ぬかしている場合だよ」


 手を伸ばしてきた。絡みつくようにユディトの体にくっつき、背中に腕を回した。

 ユディトは抵抗しなかった。エルマにされるがまま、黙って突っ立っていた。

 エルマがその場で膝を折る。ユディトの腰を抱いて、ユディトの胸の下に顔をうずめる。


「疲れてんだよ。どうでもいい話で癒せよ。あたしは今くだらない恋バナを聞きたい気持ちなんだから話せよ」


 頭を抱える要領でエルマを強く抱き締めた。腕の中でエルマが「ああーユディトのおっぱい」としょうもないことを言った。


「ユディトのじゃ質量が足りないな。クリスのふかふかのおっぱいが恋しい」

「ひとの乳を足りないだのふかふかだのとおかしな評価をするな。ついでに言っておくと騎士団で一番大きな乳をしているのはお前だ」


 ユディトの一歩後ろで、アルヴィンとロタールが「そうなのか……」と呟いた。


「ちょっと休憩させて。十秒でいいから」


 エルマの後ろに立っていた青年が二、三歩前に出てきて、エルマに向かって「もっとしっかりお休みになった方がいい」と投げ掛けた。エルマは応えなかった。


「お前ら二人で来たのか?」


 アルヴィンが青年に話し掛ける。どうやら知り合いらしい。おそらく士官学校のつながりだろう、アルヴィンと同じくらいの年齢で立ち振る舞いも少し似ていた。


「ええ、敵を欺くにはまず味方からと言いますし、途中で連中に勘づかれてはまずいと思いまして、夫婦のふりをして来ました。心ならずも妻の顔面を蹴る暴力夫の役を演じるはめになりましたが」

「敵、か」

「向こうは彼女がヘリオトロープの騎士であることを知っているんですよ。彼女の身の安全のためにも変装した方がいいという話になって」


 エルマが体を起こした。


「ごめん。面が割れてる」


 会議室にいた時、まず伝えに来た青年たちが、事件の現場に居合わせた者、と説明していた。エルマはその重大事件の渦中にいたのだ。そして犯人側の人間に顔を知られた。至近距離で揉めたということか。顎の痣も相手に暴力を振るわれた結果か。

 心臓の動きが速くなっていくのを感じた。けれどエルマにこれ以上の負荷を与えたくなくてわざと声をひそめた。


「何があった?」


 エルマが、ゆっくり、頷いた。


「落ち着いて、聞いてね。まあ、無理だと思うけど」


 何を言っても場の空気を間抜けにしてしまうと思い、ユディトは無言で目をみはった。

 エルマの唇が、一音一音、紡いでいく。


「ヒルダ様が、さらわれた」


 そのたった数単語でできた一文でさえ、今のユディトには理解できない。


「王配殿下の命日で、弔問のために王家の教会に行ったら、敵の襲撃に遭った」


 まったく、理解できなかった。

 それから先エルマに対応したのはアルヴィンとロタールだ。二人はユディトと違ってまったくの冷静のように見えた。


「叔父上の命日ということは、一昨日、二日前か」

「はい。二日前の午前十時ごろです」

「敵というのは? 具体的にどこの人間か分かった?」

「ヴァンデルンの男たちでした。洋装でしたが全員瞳が紫でした。でもヴァンデルンのどの部族の誰かは名乗りませんでした。教会の中に入ってきたのは二十人ほどでしたが、教会の外にも仲間がいたようで、全体でどれくらいの規模だったのかは分かりかねます」

「まあ、おおかた独立を目指す過激派組織だろうから、南方師団に確認すれば調べはつくと思うよ」

「ただひとつ気になることが――」

「何だ」

「クリスが言うには、連中は上半身がドラゴンで下半身が魚の怪物の彫り物が施された銃を持っているそうです」


 アルヴィンもロタールも一瞬黙った。一拍間を置いてから、言った。


「オストキュステ……!」


 しかしユディトはそちらはさほど気にならなかった。エルマの口からクリスの名前が出てきたことの方が気にかかった。


「クリスも一緒にいたのか」

「うん」

「どうしてお前らが揃っていながらヒルダ様をお守りできなかった!?」


 エルマが目を伏せた。


「ごめん」

「ごめんで済むことでは――」


 大きな手に腕をつかまれた。見るとアルヴィンだった。彼は眉間にしわを寄せて沈痛な面持ちをしていた。


「今ここでエルマに当たっても仕方がないだろ。落ち着け」

「だが――」

「そんなことを言ったら、お前がどうしてこのタイミングで一ヶ月も休暇を取ったのかという話になるぞ」


 言われてはっとした。自分がいればこんなことにはならなかったかもしれない、という思いが全身を駆け巡った。

 しかしその場にいる者は誰もそこまでは言わなかった。それが逆にユディトの罪悪感を煽った。皆自分より大人なのだ。自分が単純で愚かな人間のように思えてくる。ぐっとこらえて黙った。


「クリスは――」


 エルマが、どこか淡々として聞こえる声で言う。


「ヒルダ様と一緒に拉致されたままだ。肩と腹を銃でぶち抜かれていて一時は意識がなかった。今頃、その傷がもとで死んでいるかもしれないし、連中に殺されているかもしれない」


 ユディトは打ちのめされた。あのクリスが死ぬ、とは考えられなかった。彼女は永遠に冷静な顔でヒルダの傍に控えている気がしたのだ。


「ま、生きてりゃ体張ってヒルダ様をお守りしてるでしょ」


 エルマは平気そうだった。

 ユディトは一度自分の両手で自分の顔を押さえた。まぶたを閉じ、両目を押さえて、心の中で三秒数えた。切り替えなければならない。

 手を退け、目を開けて、エルマを見た。

 エルマは微笑んでいた。


「ヒルダ様は、ご無事なんだな」

「少なくともあたしが別れた段階では。奴らはヒルダ様をどこかに連れていきたいみたいだったし、きっと何らかの目的があって、その目的を遂げるまではお体を害する真似はしないんじゃないか、とふんでる」


 アルヴィンが「どこかに、とは?」と問い掛ける。


「目的地は言ったか?」


 エルマは頷いた。


「リヒテンゼー、とはっきり言っていました」


 背筋が、ぞわりと、震えた。

 こちらに、向かってきている。


 王都、リヒテンゼー、ヴァンデルン自治区、オストキュステ王国との国境の町は王都から見て南東方向に一直線に並んでいる。一本の大きな街道でつながれていて、周りは熊や狼のいる森なので猟師でも深入りしない。さらにヴァンデルン自治区からオストキュステ王国に向かおうとすると峻険な山岳地帯になるので、自治区の手前のリヒテンゼーで山越えの装備をするのが普通だ。


「分かった。ここで迎え撃つぞ」


 アルヴィンが言った。その低い声は落ち着いていて、ユディトは聞いていて安心した。


「ここで食い止める。山に入られたら南方師団でも苦戦する」


 そしてその先、オストキュステ王国に行かれてしまったら、お終いだ。


「まあ、何とかなるだろ」


 アルヴィンは冷静だった。


「ヒルダは兄弟で一番少女時代の母上に似ているそうだから、きっと図太く生きている」


 ユディトは少しだけ笑った。


「さっそくだが同じ話を師団長に説明できるか? あともう少し犯行グループについて詳しい情報があると特定しやすい」


 そこで、エルマは「ちょっと待ってもらっていいですか」と言った。


「本当に、ちょっとでいいので。もう少しこのまま」

「どうした?」

「なんか、ユディトの顔を見たら安心したのか、腰が抜けちゃって」


 エルマについてきた青年が慌てた顔を見せた。


「僕ら昨日ひと晩寝ないで駆けてきたんです。彼女はおそらくその前の晩もあまり休めていないのではないかと」


 ロタールが「医務室か仮眠室で眠れないか訊いてきてみるよ」と言って部屋を出ていった。エルマが「すみません」と力なく呟いた。


 エルマは疲れているのだ。

 教会で襲撃されたと言っていた。クリスが銃で撃たれた、ということは、エルマも同じように銃を突きつけられたのだろうし、顔をこんなに腫れ上がらせているのを見ると、何らかの拷問を受けた可能性もある。それに、ユディトは自分がエルマと同じ状況に置かれたら状況報告などできない気がしていた。気が動転してわけの分からないことになっていたはずだ。


「お前は偉いな」


 言いつつ、エルマを抱き締めた。


「お疲れ様。先ほどはひどいことを言ってしまったが、冷静に考えると、やはり、お前は尊敬に値する人間だと思う。すまなかった」


 エルマの体が一瞬震えた。


「泣いてもいいぞ」

「泣くもんか。あたしゃね、精神的にはヘリオトロープ騎士団最強だって自負してんだよ。ここに来るまでの道中だって、何度、あたしでよかったって、こういう目に遭ったのがユディトや他の子たちじゃなくてよかったって思ったことか」


 ユディトは苦笑してエルマの赤毛を撫でた。



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