20. 探し歩いた。そして見つけた

「私が覚醒したのは、越境ののち、ちょうど戦争が正式に終わったころだった。

 私からは、もう、戦争を続ける精神力が失われていた。あの戦争は既に単なるゲームになっていた。共和国は間違いなく勝つことになる。帝国上層部では、すでに第三国への亡命が開始されていたんだ。そういうことは戦争のお約束としてみんなが知っていたことだったよ。ただ形だけの陣取り合戦が行われていた。東部では、戦闘を目にしたこともないエリート士官たちが戦後処理の中でいかにうまみを吸いあげるのかに苦心していて、そのために現場の兵士たちが、人生を終わらせていた。陽が落ちて、涼しくなった夏の夕暮れに、ポーチでビール瓶を咥えながらボードゲームに興じるようなものだ。駒を動かしたり、カードを切ったりする人間には、なんの覚悟も意志もない。誰も本気でやってなかった。ただ駒だけは、ぱかぱかと死んでいく。機関銃と爆弾が使われる戦争というのは、そういうものなんだ。騎兵隊のとっくに時代は終わっていた。

 そういう政治ゲームの中で、私は負けた。私はそもそものところ、そんなゲームの参加に同意した覚えさえなかった。いつの間にかテーブルに座らされていた。たまたま運がよかったところで、それが気に食わなかった誰かが、私にイカサマの疑惑を吹っかけて、私をテーブルから追い出そうとした。私は全然かまわなかった。だって、そのおかげで、もう、私の命令で兵士を死なさずに済むんだから。

 そうして私は、ボートに乗った。帝国側としては、敵国の強力な実戦派将校が脱落し、自分側の国に亡命するのだから、好都合だったのだ。

 帝国側の若い大尉が渡し守に、そして私が貧乏商人に変装して手漕ぎの木船で河を渡ったのだ。夜の河というのは、静かな分だけ様々な音が響く場所だった。櫂が水を掻く音、せせらぎ、岸辺で鳴く虫の声、自分の呼吸の音。それらの背景には夜のしっとりとした無音が控えていて……。やや詩的に過ぎるか。これでも詩を書くのを趣味としていた時期があったんだよ。学生のころだ。

 帝国軍が私を受け入れたのは、当然私を新たに指揮官として迎え入れるためだった。いや、指揮官にというのは語弊がある。つまり、作戦のアイデアや、指揮だけを任せて、外面としては他の将校を立てるつもりだった。裏切り者を簡単に登用することは(表向きには)できない。

 もちろん私は嫌だった。共和国にいようと、帝国にいようと私は大量殺人の道具に使われるだけだ。それが嫌で共和国から出てきた。だから私は帝国でも逃げた。そうして訪れたのが、この町だったのだ。

 この町はいわゆる、被差別集落というやつだった。いろんな土地でやらかした連中が、行き場を失ってここに来ていた。

 町はいいところだった。私は祖国や故郷に見放されたが、町の人々も大体同じような境遇だった。だから似たような人間同士で付き合う事ができたのだ。確かに小さな小競り合いや、下らない喧嘩みたいなことはしょっちゅう起きたが、それでも、組織的な対立や、大きな闘争に発展したことは一度もなかった。少なくともある時期までにおいては。

 私が潜り込んだ時、町のまとめ役みたいなことをしていた男がいた。彼はオカクラと呼ばれていた。――いや違う。早合点をするな。そうじゃない。まとめ役のオカクラは、君の知るオカクラの兄だった。兄弟だったんだ。弟のオカクラこそが、我々が語るべき敵としての存在なのだ。弟の方のオカクラは陰鬱な男だった。兄がみんなに慕われたリーダーである一方で、弟はいつもどこか隅で、恨めしそうにその集まりを見ているだけだった。あれは生まれついての畸形だったから、あるいは、絶対に拭い去ることのできない、世界全体に対する劣等感や恨み、憎しみのようなものあったのかもしれない。いや、確かにそういうものがあれにはあった。だから兄貴がどれだけ人気者になろうと、オカクラ自身が自分を顧みることができなかったんだ。町のみんなは兄弟の両方を愛そうと努めていたらしいが、私が来たころには、オカクラをまともに相手にするのは、彼の兄だけだった。

 私が町で過ごし始めて数年が経ったころだった。まとめ役の兄貴が死んだ。病気だった。そして、それを境にして、オカクラはすっかり性格が変わった。明るくて、ひょうきんな奴になった。頼りになる、家父長的な兄とはタイプが違ったが、それでも奴はみんなと仲良くやれるようになっていった。だが一部の人間はそれをよく思っていなかった。私もその一部に含まれるのだが、厳密にはよく思っていなかったというよりは、妙な恐怖を覚えていたという方が正しい。なぜならオカクラの瞳には、兄の死の以前から奴が持っていた、あの暗い光が、ずっと輝いていたからだ。冗談も言うし、間抜けな芸もするようになったオカクラだったが、奴はまだどこか、こころの闇をまったく克服したり薄めたりすることができないままだった。それを巧妙に隠しながら、かつての兄のように皆の心を掴んでいくさまを、私や一部の人間は見抜いていたのだ。

 はっきり言って、恐ろしい光景だった。なにか大きな、脚の長い昆虫が、鈍重な哺乳動物の頭にとても細い管を刺しこんで、本体に気付かれないうちに、その体液を啜りあげているようなものだった。オカクラはすぐに兄の後釜に収まるようになった。その頃から少しずつオカクラは、町の人々に対して、自分を崇拝させようとする言動を始めた。単純なやり方ではない。巧妙なレトリックを用いて、奴は少しずつ、自分の存在の価値を高めていった。独特な世界観を、ほとんど教養のない町連中に吹き込んでいって、一個の宗教のようなものを作り上げたのだ。そしてそれの名前が雨男協会だった。奴は多くの人々の心を掌握していった。そういう意味では、オカクラは兄貴よりも、ずっと政治的に長けていたと言える。

 かつて私が高級将校であったことを知っていたオカクラは、私を町から排除しようとした。私に備わった政治的な技術のようなものを恐れたのだろう。そんなものはないというのに――ないからこそ、私はその町にいたというのに――ね。排除されそうになったのは私だけではない。オカクラは町にいた、奴に馴染まない者たちをまとめて追い出そうとしたのだ。もう町は以前のような包括性を失っていた。社会から排除されたものたちが集まる中でも、オカクラの意思に従わないものは少数派として敵視されるようになった。そういった人間たちで集まって、我々はなんとか町に居場所を作った。実際的な暴力衝突が起きないように必死に気を使った。迫害された人々の代表のようなものを務めたのは私だった。おっと勘違いするなよ。もちろん今回は戦争なんかにはならなかった。組織的な闘争を行うために私がリーダーになったのではない。私は彼らが生きていくためにリーダーになったのだ。

 かなり早い段階で、仲間のみんなにはいずれ町を出なければならないことを伝えた。オカクラの求心力は異常なほどに高く、そして奴の行う政治は過激なものだったからだ。ただ出て行くときには、できるだけ暴力が起きないようにすること、それが私の使命だった。また私は仲間に教育を施した。他の町でもなんとか生きていけるようにしたのだ。私は何とかオカクラたちと交渉をして、町に居られる時間を延ばした。その間に、数少ない仲間たち(中には子供が多かったよ)に力を蓄えさせた。他の土地でも生きていくための力だ。

 ある日のことだった。それがちょうど、戦争が終わった日だったというのは、後になってから知った。オカクラが一人で瞑想のようなことをしているというのを、仲間から聞いた。それが不思議で、どうやら奴は枯れ井戸に潜ってそれをしていたらしい。器用に素手のまま枯れ井戸の中を降りていって、数時間後にまた一人で這い出してくるのだという。私は気になってその井戸に潜ってみた。というのも、奴の宗教性の正体を見極めようと思ったのだ。なんというか、奴の世界理論はやはり卑屈な視点から描かれたもので、まったく賛成しかねるものだったのだが、ただ奴自身には奇妙なカリスマのようなものがあって、それをこの私自身も感じ取っていたのだ。あるいは奴には、なにか超自然の力があるのかもしれない。半分本気でそう思っていた。私は、奴の兄が生きていた頃の、その頃の陰鬱なオカクラの姿から今のリーダシップをうまく繋げられなかったのだ。つまり私は、奴の変化の理由を知りたいと思った。

 そうして井戸に潜った私は覚醒に至った。だが私の人間的な性質からするに、それはオカクラのものとは対照的な覚醒だったと言える。奴が破壊的な方向に目覚めたのだとしたら、私は保健的な方向に目覚めたのだ。しかしこの、私が獲得した善性の覚醒は余りに脆かった。オカクラが手下を集めていくのに対し、私はほとんどまったく、自分の仲間をこちらに引き込むことはできなかった。もちろんそれは、オカクラの対決を意味していたから、その危険もあって不用意に誰も彼もを勧誘することができないというところもあったのだが、それ以上に、人間がその本性として、死と破壊に寄った存在であるということが真の問題だった。私は一人で戦う他なかった。覚醒が私にもたらしたのは、私が戦わなければならないということだけだった。結局私の仲間たちは、町を去った。彼らのなかの数人は、共和国の方にも逃げたらしいが、どうなっているのかは知らない。

 私は一人この町に隠れ住むようになった。そして、日々善性についての研究を行いその文献をどうにか後世に残せるように努めた。そういった私の覚醒後の振る舞いは、オカクラ達には、老人の発狂のように思えたらしく、彼らももう私に構うことはなくなった。

 やがて私は衰弱していった。町の人間は私に構いはしないが、もう親切にもしてくれない。老いた身体にはちょっとした風邪だって辛く響いた。最後は呼吸が苦しくなるなにかの病気で死んだよ。多分肺炎かそこらだろう。私は死の直前にもう一度井戸に潜った。その時はもうふらふらだったから、潜るというよりも落下に近かった。井戸に向かったのは、もう一度善性における覚醒、すなわち神秘体験に遭遇するためだった。だがそれはなかった。井戸の底で、私は静かに死んだ。だが驚くべきことに、自我は消えなかった。だから今もこうして、井戸の底に居るわけだ。魂だけがこの場所に固着した。甚だ面白い現象だと、私自身も思う……」


 グレゴリー・マンはまずそのように語った。ウラノが落下してきた井戸の底には、なぜか軍隊の作戦室のような空間が広がっていた。

 落ちたと思えばその部屋の、コンクリート打ち放しの床に直立していて、そして目の前の老人が長々と昔話を始めたのである。なぜかグレゴリーには、ウラノのここまでの道のりがなんとなくわかっているらしかった。

 部屋の真ん中には大きなテーブルがあって、その上にはテーブルを一杯に埋め尽くす一枚の地図(地図に描かれている図形は共和国のものでも、旧帝国のものでもない。というよりこれは地形ではなく、なにか観念的な勢力対立を図式化したものと思しい幾何学模様がプリントされていた)、そしていくつかのマーカー、コーヒーの入ったマグカップ、定規、鉛筆、そして無数の資料がある。テーブルについた椅子は一つしかなくて、それにはグレゴリーが座っていた。つるつるの禿げ頭で、真っ白で伸ばし放題の髭、ぱりっとした軍服にはたくさんの勲章が付いている。時折、空咳を撃つが、別に苦しそうというわけではない。彼はもう肉体からは解放されているのだろう。ここが、肉体を認める空間ではないことは、ウラノにも分かっていた。

「たぶん、十八年かそこら前に、僕の父がここに来ていると思うんですが、なにか知りませんか」ウラノは尋ねた。グレゴリーは痩せ細った両手で髭をぺたぺたと撫で付けてから言った。

「知らない。ここにはもう、長期的な時間の概念がないから、何年前とかいうのもない。あるか、ないかだ。私の所に誰かが来たのは、これが初めてだ」

 嬉しそうだった。少なくともウラノには、目の前の老人が肯定的に自分の来訪を捉えていることが分かった。

「あなたがその……覚醒に至ったときの、神秘体験とかいうのは、どういうものだったんですか?」

「その経験については、言葉で説明することはできない。本当の純粋な意味での経験は、言葉ではとても言い表せないものだ。言葉に直した時点で、本来の純意味は失われて、新たな感覚と意味が再構築されることになってしまう。私の経験はそういう類のものだった。だから説明はできない。むしろ君だってここに来たのだから、なにかしらの覚醒があったのではないかね?」

 ウラノは首を振った。「そんなものはありませんでした」

「ふむ……。まァ、これらは全て科学的な認識とは別の次元にあるものだからな、似てるからこうとか、同じ状況だからどう、とか、そういうものは全く通じんのだ」

 いよいよグレゴリーの言葉の意味が分からなくなり始めたウラノは、彼が一番聞きたいことに話を変えた。

「ぼくはここで、何をどうすればいいんでしょうか」

「私が知っているわけもなかろう。私はここで、世界の善性について研究しているだけだ。もはや生者の世界に干渉することはできない」

「やっぱり、オカクラを殺さなきゃいけないんですか」

 グレゴリーがウラノを見た。目は真ん丸になっていた。そしてすぐに、彼はたくさんの爆竹が一斉に弾けたみたいな笑い声をあげた。

「オカクラを殺すだって? 君は何もわかっていないな。まず、彼はもう生きていない。なんせ私と同時代を生きていた人間だ。私がもう生きていないのと同じだ。死んでいる。肉体の活動は終わったけれど、魂が世界に残っている状態にある。だから殺すのは無理だ」

 ウラノが食いついた。「だったら、その魂を破壊すればいい。あるいは消滅させるか」

「ほう、面白い。君はその方法を知っているのかね? その、魂を、壊したり、消滅させる方法とやらを。私は知らんぞ」グレゴリーはからかうようにしてにやにや笑っていた。

「君はもう一つ勘違いをしている。オカクラを殺したところで、なにも変わらないのだということに君は気が付いていない。君はオカクラと会っているはずだが、あれが一度でも、自分を諸悪の根源だとか語ったことはあるか? ないだろう。自分が『雨男協会』の長だともいったことはないはずだ。なぜなら事実、彼は『使者』に過ぎないからだ。確かに生前、奴はあの町に『雨男協会』という名前の組織を作り、これによって町を政治的、心理的に支配した。そのときの、表面的な団体の長は奴だった。だがそれは、見かけのものに過ぎない。人間が一方的に構築した価値や概念の長に立つことは便利であっても、オカクラにとって本質的な意味を持つことはなかった」

 老人は続けた。

「この場所、この作戦室はつまり、井戸の底から繋がっている観念的な世界だ。君らの人間の世界とは時間の流れも因果の関係も異なる。そしてこの場所と同じようにして、井戸の底から接続できる場所がある。そこはオカクラの世界だ。いや、正確にはそこは『雨男協会』の世界だ。奴はあれをかつて発見して、『雨男協会』という名前をつけた。そしてその『雨男協会』の在り方を人間社会に発揮させるために、この町に作り上げた組織に同じ名前を使った『雨男協会』を生み出したのだ」

「あれとはなんです」ウラノが尋ねた。

「そのものだよ。人間の、死と破壊の精神の総体だ。真っ赤に燃えていて、どろどろと波打っている巨大な負だ。生きている限り全ての人間がそれに接続している。そして時折世界に噴出しては、歴史的に破壊を繰り返してきた。オカクラは井戸の底に潜って、それを見つけたんだ。井戸の底は不思議な宇宙に繋がっているのではない。それは自分の底に潜ることを意味しているのだ。彼は自分の中に潜って、すべてに繋がる総体を見つけた。竹みたいなもんだ。自分は一人で立っていると思ってたら、地面の奥では皆が繋がっていることに、気付いたんだ。だから奴はそれをよりどころにして、活動を始めた。『雨男協会』を大きくすることは、彼が世界との繋がりを深めていくことと同義だったからだ」

「あなたはそれをどうにかしようと?」

「方向はそうだが、厳密には違う。総体としての『雨男協会』を破壊したり、無意味にさせることはできない。それは人間が生まれついて持っている本性のようなものだ。引っぺがしたり、どこかに打ちやることは絶対にできない。幻想冒険小説のように、巨大な悪をなぎ倒して、いっぺんに世界が救われるなどということは、我々の世界にはあり得ないのだ。オカクラが発見したように、それは我々の心にちゃんといつも繋がっているものだからな。断ち切ることはない。気づけばあれの手は、我々の弱った心に忍び寄っている。オカクラはその手助けをしているのだ。それが、『雨男協会』への勧誘であり、そして一つの形として現れたものが、君の呪いでもある」

「僕はその呪いを解きたいだけなんです。なんだか世界とか、総体とか、話が大きくなりすぎている感じがする」

「全部同じだ。相似形なんだ。世界の形が、そのまま、君のサイズに当てはまるんだよ。分からんかもしれんがね、大きな三角形の中で起きていることが、君の三角形でも起きている」

「もっと分からない。何も分からない」

「分からなくていい。これは学問でもないし、政治でもない」ウラノの言葉を待たずに、グレゴリーは続ける。

「大切なのは、抵抗を続けることだ。常に見張り続けるほかない。大きな、破壊的な流れが生まれるまえに、その芽を前もって潰していくのだ。あるいは、屋根に積もった雪が落ちたときに、誰かが怪我をしないように、早いうちに雪を降ろしておくのだ。つららは大きくなる前に砕かねばならない。だが、冬そのものを破壊することはできない。そうだろう」

「なら僕はどうなるんです。僕はもう、落っこちてきた雪に飲まれている。呪いが僕の人生を制限している。その雪に飲まれた人間はどうすればいいんです」

「まだだ。君はまだ雪に飲まれてはいない。それなら簡単だ。君は屋根の上に登って、他の誰も傷つかないように、ちょっとずつスコップで雪を掻き落としていくんだ。君の頭の上の雪はまだそんなにひどいものではない」

「でもそれは観念の話だ。僕は現実に降る雨を終わらせなきゃいけない」

 ちょっと呆れた感じに、老人は自分のこめかみを掻いた。そして、豊かな髭をもぐもぐさせながら言った。

「本当に雨を終わらせたいだけか? 君はちゃんと、答えのようなものを見つけているのではないか? それがあるからこそ、君はここに来たはずだ。思い出してごらん」老人の顔が、優しく崩れた。

「君が本当にしたいこと、求めているものは何だい」

 大きな音を立てて、ウラノの背後にあった扉が開いた。そんなものがあったことさえ、ウラノは音を聞くまで気付かなかった。扉の奥には、薄暗い下りの階段が続いている。振り返ってそれを見つめていた彼に対して、背後からグレゴリーが呼びかけた。「もちろん雨の終りもまた、君の求めるところの一つではあるだろうがね。結局は全部繋がっているのだ……。その階段は『雨男協会』に続く階段だ。君は対決しにきたんだろう。終わらせたいのなら、自分でやるんだ。私や、他の誰かが肩代わりしてくれるものじゃない。君が自分で、その呪いを終わらせにいくんだ。もちろん、本当に求めていることも、忘れないように……」

 ウラノがふたたびグレゴリーに向かおうと顔を動かしたときには、もうグレゴリーは消えていなくなっていた。

 部屋には彼一人しかいなかったが、ひとりぼっちという感じはしなかった。

 ――そう、対決だ。ウラノは呟いてから、階段を降り始めた。


 石造りの階段は先が見えなくなるまで続いていた。ウラノの靴底が触れる度に、くぐもった足音が反響し、そして拡散して消えた。しばらく下り続けたところで振り返ると、作戦室と階段とを隔てていた扉が消えていた。作戦室からの明かりを失ったはずの階段は、なぜがほの暗い程度の明るさを保っていた。天井にも壁にも足元にも、光源はない。ここは観念の世界だと、グレゴリーが言っていた気がする。細かいことを気にしていても仕方ない、とウラノは自分を奮い立たせた。――なんであれ、僕は雨を終わらせなくてはならない。強くウラノは決意した。そのためにここに来たのだから。

 階段を降りていくたびに、どんどん場所が暗くなっているのがウラノにはわかった。そしてまた、空気が熱く、湿ってきていて、不気味な粘り気さえ帯び始めている。呼吸するたびに、空気が肺にねっとり絡みついて、喉を塞いでしまうような感覚があった。熱くて、濡れているなにかに近づきつつあることがよくわかる。グレゴリーの言っていたものが、「雨男協会」が、そこにあるのかもしれない。

 来るなら来い。そう自分を奮起させたとき、彼の足元から階段が消えた。ウラノは虚空に踏み出した脚から、暗闇の中を落ちていく。頬に激しい熱風が触れて、思わず顔をそむけた。そしてなにか有機的な悪臭が鼻を突いた。

 それは突然、ウラノの目の前に現れた。

 不定形の流動体だが、ある程度にはまとまりを保っている。表面が常に潮流のように蠢き合っていて、形としては海底に転がる柔らかな軟体動物のようだった。そしてそれは、驚くほどに巨大だった。真っ赤に燃えていて、激しい熱と悪臭を放射している。仄かに光を纏っていて、それがウラノを赤く照らしあげている。時折、液状の肌から泡がぷかりと上がって、そしてぱちんと弾けると、そこからは、たくさんの人間の怨嗟の声が聞こえる。これが「雨男協会」。先ほどのグレゴリーの言葉を思い出した。これがみんなに接続している? たまったもんじゃない。ウラノは慄き、そして毒づいた。

「リチャード・サンダンス様」彼を呼ぶ声があった。それに合わせてウラノの落下がとまった。闇の中、赤黒い不気味な何かを目の前にして、彼はぷかぷか浮かんでいる。

 ウラノから少し離れたところで、オカクラもまた、浮かんでいた。

「リチャード様。あなた様がここに来られるということは、私には分かっておりました。あなた様のお父様もまた、そうでございましたから、きっとあなた様もそうであると、思っておりました」

 ウラノはオカクラの言い方に引っかかるものがあった。まるで彼が、ウラノの父と既知の間柄であるかのようだった。

「あなたはやはり、僕の父を知っている」ウラノは言った。

「もちろん! あなた様がここに導かれた理由の全てが、あなた様のお父様に由来しております。ジョージ・サンダンス様の意志に基づいて、あなた様は雨男としてあるのです。これまでも、これからも」

「……僕がここに来ている、僕自身の理由については、分かりますね?」

「ええ、それもわかっております。ですが認められません。それはお父様と私との間の契約に反しております。ご子息であるあなたをしかと見届けるよう私は、お父様に依頼されておるのです。あなた様がここにいらした、あなた様自身の理由については、これまで私どもは再三警告してまいりましたが、どうも聞き入れられるご様子ではない。仕方なく、招き入れたわけです。どちらにせよ、あなた様にはいつかはここにいらしていただくつもりでしたので」

 オカクラが、いひっと笑った。このまま会話を続けることが、平行線をたどることにしかならないのは、ウラノにも分かっていた。だからといって、ここで(それが仮にできたとしても)オカクラを打ち倒すようなことをしても無意味だというのは、先ほどグレゴリーに聞かされたばかりで、とても試す気にはならない。

 ――だったら僕は何をするべきなんだろう。対決。言葉としてひねり出したはいいが、とてもそれを実現できる気がしない。この摩訶不思議で、不気味かつ邪悪な空間で、怪人を目の前にして、僕には何ができるっていうんだ? 何かを決意したところで、僕は結局のところ無力だ。

「今からでも、まったく遅くはないのです。いかがです、リチャード様。我々のもとに、雨男協会に戻ってきませんか。もう一度、あの自由気ままな人生を送り直してよろしい。誰も怒ってはいません。誰もあなた様に、なにか損をふっかけようとは考えておりません。みんな気づいていないだけなのです。本当はみんなも雨男なのです。誰だって、憎いものがあって、陰鬱な気分を持っていて、そして終わらせてしまいたいと心の底では思っている。みんな騙しながら生きているだけなのです。我々はそれをなんとか、解放したいと思っております。人間はあるべき自然に戻るべきなのです。自分の心の奥底を見つめ直してごらんなさい。いつだって我々は戻りたいのです。静かで、落ち着いた、動きのない、あの死の世界に。それは恐ろしいものでも、邪悪なものでもありません。我々は生まれる前は死んでいたのです。世界が始まってから、幾何の年月のあと、赤ん坊として生まれ落ちる。人々は、そのたった百年足らずの時間を、〈生きている〉と勝手にみなしてなぜかそこにだけ価値を見出し、死を恐れる。結局は無限の時間を、静謐なる死とともに過ごすことになるというのに。分かりますでしょう。我々は、いきものというものは、死んでいることこそが元々の形であり、自然であるのです」

「僕は、ぼくは――」

 ウラノは自分の、短い人生を振り返る。二十年にも満たないその時間の中にも、それでも確かに、そこには彼の生きる意味があるはずだった。物心ついたころから雨が降っていた。どこかに出かけるには必ず傘とレインコートが必要だった。あと長靴。そして同じ町にとどまり続けることがなかった。一つの町に長く雨が続くことを避けた母親の判断だった。母親はそういう不安定な生活を続けるためにも、いろんな意味で危険な働きかたをしていた。彼は日々を、テレビを観て過ごしていた。やがてそれに飽きるようになると、本を読むようになった。だが本も退屈だった。友達なんてできやしなかった。孤独だった。母親だけが彼と継続した人間関係を持った。

 やがて大きくなると、呪いの話を聞かされた。まったく意味不明だったが、とにかく自分には、宿命的に雨に見舞われるという状況があるということだった。別にどうとも思わなかった。雨はもう彼の生活の一部になっていたから、気になりもしなかった。太陽を見てみたいは思ったが、別にないのなら気にならない。そう思うようになった。でも我慢ならないことがあった。母親がそれに苦しんでいることを知ったのだ。母親は自分の宿命を共に過ごすことでそれを背負ってしまっていた。そしてそのせいで、かなり厳しい生活をしていることにも、知るに至った。彼はそれが嫌だった。

 もう少し大きくなると、彼は家を出て行った。それでよかった。母親は悲しむかもしれないが、自分のために苦しまれることの方が、かえって彼には苦痛だったからだ。雨の宿命をおっかぶるなら、僕だけでいい。彼はそう思った。そして彼は、大人として生きるようになった。彼は独りの人間として、社会と対峙しなくてはいけなかった。彼は自分で誰かと話をして、働いて、金を稼いで生活をしなければならなくなった。そういう暮らしの中では、たくさんの悪い人間が彼を食い物にしようとした。彼は何度も騙されて、何度も叩きのめされた。身体がぼろぼろになる日よりも、心がぼろぼろになる日の方が多かった。辛い日々が続いた。とてもいい生活ではなかった。動物園の飼育小屋よりも小さな部屋(ドアには鍵も掛からない)で、なけなしの全財産が入ったバッグを抱えて眠る夜を何度も過ごした。そして彼は徐々に、タフになっていった。そうならざるを得なかった。悪事を、犯罪の真似事のようなことをするときもあった。でも彼は、タフでなかったころの自分のこともちゃんとよく覚えていて、やはり誰かを食い物にした生き方を認めることはできなかった。彼は彼なりに誠実に生きるよう努めた。

 やがて雨男協会と名乗る組織からの接触を受けた。雨を絶対的にもたらす彼の性質を見つけた、国家的組織であるという説明だった。「この国には雨が降らなくて困っているひとたちがいるから、そういうところに行ってあなたの能力を活かしませんか」そう言われた。よくわからないまま、言われた通りの町に行って、指定の期間を過ごすと、金が与えられた。ひと月を生きていくのに困らない額だった。切り詰めれば、蓄えだってできそうだった。そして何より、彼は自分のことを、特別に認めてくれる何かがいることに、大変な喜びを感じた。

 雨男協会に依存した生活が続いた。彼は金に困ることが無くなった彼は、それなりに心の余裕のようなものを得るようになった。母親の下を離れて以来やらなくなっていた読書をまた始めるようになった。幼い頃には退屈に思えていたものが、その頃には新鮮な輝きを持っていることに彼は驚いた。そして彼は、これまで考えてこなかったことについても考えるようになった。自分が生きていることの意味、なぜ自分にはこの雨があるのか、これから自分はどういう人生を送るのか(べきなのか)、ただ今を通り過ぎていくだけの人生を過ごすには、彼はいろいろなものについて興味を持つ若さがあったし、エネルギーもあった。ひどい暮らしをしていた頃によく見た、浮浪者たち(当時は彼もまたその一員だった)のようにはなりたくなかった。それは生活の水準の意味ではなく、精神態度の問題だった。何かについてはわからないが、とにかく彼は、諦めたくはなかった。彼は、ぼんやりと、彼が抱え続けてきたこの雨に疑問を抱くようになった。

 そして彼はあの町にやってきた。その入り口で彼は、――あるいは幻想だったのかもしれないが――あの晴れ間を見た。それは何かの啓示のようにしか思えなかった。彼は思った。言葉には直さなくとも、確かに感じていた。これは何かの始まりなのだと、そして更に、それは雨の終りを意味するもののはずなのだと。何かが変わり始めている。自分にとって重大な人生の変化がここにあるはずだ。この機を逸したとしても、死にはしないだろう。しかし、これを逃せばもう一生このままだ。それが彼には分かっていた。何かを見つけなくてはいけない。何かが見つかるはずなのだ。彼は探した。探し歩いた。そして見つけた。

「彼女は、――アンリはどこだ」

 ウラノの言葉は、その暗黒空間において、確固たる響きを以て広がった。

「馬鹿みたいだ。大切なものをすっかり忘れていた。僕はずっと、本当にずっと、彼女を探していたんだ。雨なんて、どうでもいいことじゃないか。そうさ、僕が本当に探していたのは雨を終わらせる方法なんかじゃない。今の今まで、雨こそが全部だと思っていた。なんにも分かってなかった。グレゴリーが言っていたのはこれだったんだよ。僕が本当に求めていたのは彼女だったんだ」

 悪魔は黙って彼を見ていた。

「僕には、あなたがたの目論見も、父の過去も、契約も、『雨男協会』とやらも知ったことじゃない。そんなことは勝手に、この地下でやっていればいい。僕は彼女を連れ戻しにここに来た。雨が降り続けるなら勝手に降っていればいい。そんなことでは、僕はもうどうにもなりはしない」

 オカクラの顔が、どす黒い赤に染まっていく。彼は怒っていた。いびつに生え散らかしていた彼の歯が、大きく太く伸びあがって牙のような広がりを見せる。口からはみ出したそれらは刺々しい。目は充血の末に膨れ上がって、狂気を以てウラノを睨み付けている。鼻の穴からは高温の蒸気が噴き出して、空気を裂く音を立てた。悪魔は叫んだ。

「いいか。決してお前は逃れられやしない。それは宿命だ。我々を作ったのは人間なのだ。我々こそが人間なのだ。お前たちは皆呪われている。全員が雨男なのだ。忘れていようと、知らんぷりをしようと、井戸の底で私たちは、お前たちをずっと見ているぞ。見ているぞ」

「僕は地上に戻る。アンリを探さなくてはならない。彼女はきっと地上の雨で濡れてる。彼女には温かく乾いた着替えが必要だ」

 そしてしばらくの沈黙のあと、肩をすくめて続けた。

「出口はどこだろう? あなたがそうやって息巻くことしかできないところを見ると、そろそろこの不毛な対決も終わらせるべきだ」

 オカクラが震える手で、ウラノの背後を指さした。そこには木造りの、古めかしいドアが一枚、ぽつんと浮かんでいた。オカクラは今も怒りで破裂しそうなくらいに、全身で震えていた。

 ウラノがドアに手をかけたとき、悪魔は言った。「これで終りじゃない。お前は絶対に私たちから逃れられやしない。きっとまた会うことになる」

「僕は二度と会いたくないね」

 ドアの中は、ひんやりとした闇で満たされていた。ウラノは振り向きもせずにそこに消えていった。

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