17. 終わらせることをすること

 母親との別れはずいぶんとあっさりしたものだった。

 ――また帰ってきなさいよ。事がどう運ぼうと、あなたはちゃんと、生身の身体で、この家に帰ってなさいね。リチャード。母親はそう言った。

 ウラノは再び、雨の中車を走らせて、サンタウンへ向かった。自分がどこへ行くべきなのか、それはもう決まっている。

 井戸だ。僕は井戸に行かなくてはならない。彼らは夢を通じて僕らに話しかけてくる。彼らと対決するには、彼らの世界に向かわなくてはならない。夢の中でこちらからチャンネルをあわせることはできないから、僕は特別な場所にいかなくちゃならない。それが井戸だ。

 来た時と同じ時間をかけてまた街に戻ってきた。そして数日ぶりに、街は再び雨に閉ざされることになった。街に戻って来た彼を以外にも出迎える者はいない。だがこの雨によって、彼の再来を察知したものが、いくらかいるだろう。ウラノはそんな風に想像した。


 街につくと、これまでにない程に雨が強まりだしていた。叩きつけるような豪雨である。街の石畳に穴が開きそうなくらいだった。

 彼はまず図書館に向かって、この辺り一帯の地図を調べることにした。図書館にはそれなりに人が入っていた。彼が幾日か通っていた間に比べても、ずっと多い人がこの施設を利用していた。だが人が多いだけで、騒がしさのようなものはほとんどなかった。子供の姿もあちこちで見られたが、それらが、子供らしく駄々をこねたり、走り回って遊んでいる様子はない。彼は、いつものようにカウンターに向かい、司書を呼び出した。隣国側も含めたこの辺りの地図、特に航空写真の類はないだろうか、と司書に尋ねた。だが、彼は苦しそうな顔をして答えた。

「申し訳ございません。地図はございません」

「オフィシャルなものでなくてもいいんです。最悪、観光地図みたいなものでも」

「ですから、地図はございません」

「はい?」

「地図はございません」その色白の、眼鏡を掛けた線の細い男は繰り返した。分厚いレンズの奥の瞳は焦点がどこかあっていない。ウラノを見つめているようではあるが、その頭を過ぎ去ったさらに奥を見つめているか、あるいはどこも見ていないかのような視線をふらつかせていた。  

 ちょっと変だな。そうウラノは思った。

「たぶん、この地域に、砂漠地帯の中にある街で、フェンスに囲われたのがあると思うんです。今はそうでなくても、過去にそういうちょっと変わった処置を受けた小さな町があるはずなんですが、どう調べたものかと思って」

「その町はございませんね」はっきりとした断定だった。

「なにかご存じなんですか?」ウラノは訊き返す。

「ええ、だから、その町はございませんね」司書は無感情な態度を貫いている。どこかぼやけた表情をしていた。半開きの薄い唇の端から、唾液が垂れる。

「ここにはない」ウラノが言った。

「どこにもございません」

「でもあるはずなんです」

「そういったものは、まったく、どういうかたちにおいても、存在いたしておりません」司書は、明らかに彼の領分を超えた範囲についてでさえ、それが図書館の掟あるとでも言わんばかりに、断言した。それから、彼は目だけをぐるりと床から天井まで一回転させて眺めると、独り言とも、ウラノへの質問ともつかない具合にこう言った。

「空調の調子が良くないのでしょうか」

「はい? なんですって?」

「空調の調子がよくないのでしょうか」全く同じ調子だった。

「空調? さぁ……」そう言ったところで、ウラノは判断を下した。ここを去ったほうがいい。もうここには自分の求めるものはないし、あるいはろくでもないものに出遭うことさえ――。「それでは、僕はこれで」そう言って立ち去ろうとしたが、カウンター越しに上半身を乗り出した司書が、彼の手を乱暴に掴みとって、引き込んだ。

「もうじきに電話がかかってきますので」

 異常な司書の行動には、どうやらそれらしい理由があることにウラノは思い至った。――なるほど、電話。僕個人に電話をかけてくるものなんて、そんなものは決まり切っている。

 やがて、深々とした館内につんざくようなベルが鳴り響いた。ウラノは思わず身を竦めたが、他の利用客は特別な反応を示す様子はない。そして司書は、カウンターの下から、埃まみれで、ひどく古風な黒電話を引きずり出して、それをウラノに突き出した。電話線は途中で千切れていて、どこにも接続していない。それでも、激しい呼び出しベルはその古い電話機から放たれる音だった。

「あなた様に、お電話でございます」司書が、はち切れんばかりの大声で叫んだ。この男の奇行に対し、他の職員たちは全く無視の態度だった。彼らは、本当になにも見ていない風に振舞っていた。ウラノは、この状況で、電話を取ることに恐怖を覚えた。が、取らないわけにもいかない。

 受話器を取ると、当然のようにベルが鳴り止んだ。線はつながったわけである。

「こんにちは。リチャード様。こちらは、雨男協会よりお電話させていただいております、オカクラでございます」

 電話を持っている司書が、代わりに喋り出した。

「こんにちは。オカクラさん」

「おお、丁寧なごあいさつ、ありがとうございます。さて本日はですが、我々の今抱えている事態が、かなりの程度に切迫しているという事実を鑑みて、単刀直入にご用件をお伝えしたいのですが、よろしいですかな?」

「どうぞ」ウラノは、なるべく声が震えないよう努めた。だが、電話の相手の声を聞くたびに、喉の奥がどんどんと乾いていく感覚があった。

「ありがとうございます。それで、私が申し上げたいのはつまり、ここいらで手打ちにいたしませんかという事でございます。私は最近の、リチャード様のご健闘を陰ながら見守らせていただいておりましたが、あなた様は、私どもの許容できる範囲をはるかに超えて、私どもに近付きつつあります。それはたいへんによろしくないことでございます。お互いに、傷つけあう結果しか残りませんし、それに、あなた様が一人で対抗するには、私どもはあまりにも強大でありすぎます。あなた様のためを思って、私は申し上げております。リチャード様、そろそろお止めになってくださいませんか。今お止めになられるのであれば、これまでの反抗については、私どもも目を瞑ることができます。これまで通り、雨男協会はあなた様への資金提供を再開いたしますし、あなた様は気ままな自由人として旅を続けることができるのです。孤高の風来坊、たいへん羨ましいことでございます。冒険はこのへんでお終いにして、あなた様は今までの通りの日常にお戻りになるべきなのです。確かにあなた様には、宿命的な、欠落がございます。ですがそういったものは、みんなが一緒なのです。誰もが自身の欠落を抱えて日々を生きております。あなた様一人が、そうやって駄々をこねるのはフェアではない。そのようには思えませんか。私は思います。あなた様は、皆が自分の、個人的な領分として収めているものを、自分だけは違う、特別だと思い込んで、そこら中をひっかき回しているにすぎないのです。かえって、みんなに迷惑をかけていると言ってもいい。ね。どうですか。もう一度、考え直してはいたただけませんか。あなた様は、これ以上踏み込んではならないところまで来ております。もうお止めになりなさいな。これは、あなた様のためなのです」

「あなたたちは、僕が怖いから、そう言って止めようとしているだけなんだ。そうでしょう。本当のところ、あなたたちはもうかなり僕に追い詰められている」

「ああ! なんと愚かな! あなた様は何も分かっておられない。私の話を聞いておられましたかな? 確かに私どもは追い詰められております。ただ、追い詰められたからには、もうのんびりはしていないということです。私どもが本当にその気になればなんだってできます。だから、あなた様が取り返しのつかない傷を負う前に、こういった不毛な争いはやめにした方がいい。と申し上げておるのです。私どもを相手取る場合に限り、そこに勝利などというものはありません。なぜなら、私どもは、雨男協会は、全ての人間に繋がっておるからです。私どもは太古の時代より人類の皆さま方とお付き合いをしてまいりました。総体としての我々は不滅です。あなた様のようなちっぽけなものが対抗できるものではありません」

「僕は決めたんです。この機会を逃せば、僕はもうずっとこのままだ。それは嫌なんです」

「あなた様は自分に酔っておられるだけだ。物事の実際の在り方を何も見てないのです。人間にはあるがままを受け入れるほか、選択肢はないのです」

 ウラノは、どこかで聞いた言葉を思い出していた。「死ぬときは死ぬんだと分かってろって話さ……」人間は死から逃れることはできない。だから受け入れるしかない。他にもいくつか、似たようなものごとがある。そうするほか取る道のないものが、多かれ少なかれの差があったとしても、すべての者の前に現れることになる。どこまでいっても、どこにも行けない。

 しかし青年は思った。――それでも、選ぶことくらいなら、できるはずだ。

「ねぇ、オカクラさん。今、僕の周りに起きていることは、僕が想像しているよりも、ずっと大きな流れの中にあるものなのかもしれない。だから、あなたにこんなことを言っても、仕方ないことなんだとも思います。でも僕はこれだけは、言っておきたい。たとえ僕が、この先あなたたちに、こてんぱんに打ちのめされて、あるいは死んでしまったとしても、ちゃんと僕が、最後には、この呪いに対抗したということに意味があるんです。僕たちの人生には、ちゃんと意味があります。それは誰かがあとから、付け加えたり、評価したりするものじゃない。その時間を生きている本人だけが、自分の人生の本当に意味を見つけるんです。世界中や、過去と未来を見渡したとき、結局僕ら個人は何でもない小さな粒でしかない。だから高いところから自分を見下ろしたときには、自分が何でもない、無意味なものにしか見えなくなる時もある。でもそれは、それこそが嘘なんです。どんなに大きくて強い流れが僕たちをどこかへ押し流そうとしていたとしても、僕たちは自分の生き方を、自分で決められるはずです。それを自分で決めることで、人生の意味を手に入れられるんです。僕は人生の意味を見つけたから、今度はそれを手にしたい。だから僕は、雨を終わらせることに本気なんです。終わらせることをすることが、僕にとっての人生の意味だから」

 返事はなかった。――初めから歩み寄る余地なんかないのだ。ウラノが受話器を戻すと、司書は両手からごとんと電話機を落として、後ろ向きに受け身も取らずばたり倒れた。線が切れた。倒れた司書は目玉をひん剥いて、固く歯を食いしばり、ぶくぶくと泡を吹いている。全身が痙攣をおこしていた。すると、ようやく他の職員たちが彼に駆け寄ってきて、救急車が呼ばれた。

「きっとてんかんですわ。彼、神経が弱いから……」倒れた司書が病院に搬送されてから、業務を代理した別の司書がそう言った。「それで、なにか本をお探しで?」

「この辺り一帯の地図が見たいんですが」

 書庫にはちゃんと地図があった。そして、あの夢で見た町の位置をだいたいにおいて特定することができた。旧帝国側で、砂漠気候の土地というのは一つしかないし、そんなに広いものではなかった。地図の内容を簡単にメモしてから、ウラノは図書館を出た。そのとき、カウンターに目をやったが、あの古ぼけた黒電話は、誰かが片づけてしまっていた。

 図書館を出た後、ウラノはミンの店によってから、これから隣国側に渡って井戸を探すつもりだと伝えにいった。そしてできれば、アンリにも挨拶していきたい、そんな風にも思っていた。

「雨が降り始めて、お前がまたこの街に戻ってきたのだと知った。便利なものだな」ミンはそう言った。彼の性格上、ウラノに対して無条件歓迎の態度をとるということはまずありえないのだが、数日ぶりの彼の様子には、初対面のときにも増した緊張感のある声色が伴っていて、街に何かが起きていることを物語っていた。ミンの、常に哲学的問いに頭を悩ませているといったような顔が、更に曇っていた。

「アンリがいなくなった」ミンは続けた。

「お前もいつか話していた、我々の友人であるウェンというあの癌の老人が、昨夜死んだ。彼は独り身だったが、同じ信仰を持つ我々の中でも、特に親しかった数名が、彼の最後を看取ることができた。生まれたときから面倒を見てもらっていたアンリもそこに入っていた。アンリは、やはり深く傷ついたようだった。誰が悪いというわけじゃない。この世界で生きていくならば、決して避けられない痛みの一つを、彼女が味わったに過ぎない。彼が、当然のように死んだあと、ふらりと病院を出て行ったアンリは、今朝になっても家に帰ってこなかった。ついさっき街の警察にも届けを出したところだが、まだ見つかるような気配はない。そしてお前の、この雨だ。もちろん彼女は、傘も、温かく乾いた着替えも持っていない」

 少し考える時間のあと、ウラノは言った。

「彼女は連れ去られたんだ」

「なんだと?」

「彼女は僕が雨を終わらせるための理由の一つだから、それを彼らは見逃さなかった。僕が彼らとの歩み寄りを拒んだから、彼らも直接的な行為に出ないわけにはいかない」

「お前、何を言っているんだ?」

「彼女はもうこの街にはいません。きっともう旧帝国側にいる」

 ウラノは言った。

「僕が彼女を連れ戻します」

 そういった曖昧な言葉の数々を、当然ミンは許すはずもなく、ウラノに対しての激しい詰問があった。ウラノも、なにか特別なことを知っているわけではないので、どうしてもしどろもどろとした応酬になり、結局、感覚的な、観念的な直感でウラノが話していることに気付くと、ミンは呆れのため息をついた。

「そうですよ。俗に言えば勘です」青年は開き直っていた。

「まったく」ミンは頭を抱えた。

「お前には妙な確信があるようだな。私にはさっぱり理解できないが……。だが、他に手掛かりがあるわけでもない。一人でも、彼女を走り回って探す人間が増えるのはいいことだ。お前はお前のやり方があるということなのだろう。正直まったく期待していないが、万が一ということも考えてお前にも彼女の捜索を頼みたい」

「もちろんです。色々引っかかる言い方だし、文句をつけたいところではあるけど、僕だって彼女が心配だ」

 二人はニヤリと笑った。


 そのまま国境になっている大きな河は、雨のせいで大変な水嵩になっていた。そしてかなり濁っている。出国の手続きを済ませるとき、中年で、腹の大きく出た男の職員がウラノに言った。

「あのね、お兄さん。このまま雨が続くと、一時的に国境を渡る橋は通行止めになる。この雨だからね。テレビでやってたよ。百年に一度の歴史的豪雨だってさ。この橋も危ないんだ。わかる? 今向こう側に渡っちまうと、もうしばらくの内にここは通れなくなる。ここ以外で、旧帝国と共和国を合法的に結ぶ場所はないから、あんたは実質、旧帝国に閉じ込められることになるんだ。雨が止むまでね。北の方をぐるりと、他の色んな国をまたぎながらなら、帰れるけど、現実的じゃないしね。本当はさ、さっさと橋を閉めちまえばいいのに、どうも規定やらなんやらでそれができないんだよ。まぁ、役所ってそういうもんさね。つまり俺がいいたいのは、よっぽどのわけじゃないなら、旅行は雨が止んでからの方がいいよって話さ」

「忠告ありがとう。でも、今がまさにそのよっぽどのわけなんです」

 職員は困ったように、頬を膨らませた。それから頭を振った。

「お兄さんも大変だね」

「あの、ちょっとお尋ねしたいんですが、今日、十五・六歳の女の子が、こちら側から向こうに行きませんでしたかね」

「……さぁ。俺は午後からの係だから。俺の見てる限りそういう子は来てないね」

 ウラノはちょっとしょぼくれた。

「まったく、ますます大変そうだなァ」他人事を気楽に憂うと、職員は書類に判をついた。


 旧帝国は大戦のあと、帝国政府の指導者たちが完全に排除されたのちに、共和国を含む勝利国連合による委任統治によって、十数年を過ごした。その後世界の名だたる平和進歩的国家たちと足並みをそろえるように共和制を採用した国家になった。しかし政治制度をそのまま他国を模しただけのものが、単純に好転するはずもなく、現在、旧帝国はもっとも栄えていたころの半分以下の人口に落ち込んでいた。それを維持することさえも難しいという見通しがなされている。国民の数が減るのは、貧困や、お粗末な行政制度から抜け出そうと考える人々が後を絶たないからで、つまり旧帝国は、経済的にも、政治的にも、物質的にも、著しく衰弱した状態にあった。今では、戦争で残った大きな傷跡を観光資源に変えようする試みが、細々と行われているが、さほどの成果は挙げられていない。

 ウラノが降り立ったのは、サンタウンの街からさほども離れていないところにある旧帝国の宿場町だった。共和国から旧帝国に来る人々は、ほとんど必ず、サンタウンを通って、そしてこの街にやってくる。国境近くで、比較的人やものの出入りが多いはずの町だが、そこはウラノの想像をはるかに超えた形で、くたびれていて、死にかけていた。

 人々は痩せ細っていて、目からは光が消えている。汚れた服を着た彼らは、簡素な作りの建物の中から、よそ者の様子を伺うだけで、攻撃することもなければ歓迎をすることもなかった。余計なトラブルが起きないのはウラノにとっても好都合ではあったが、それでも、奇妙な不安が、町を満たしていた。そこらじゅうから人間の糞尿の臭いや、大きな鍋で何か動物を煮込んでいるような熱気が流れ出している。国境を越えて以来降り続ける雨でさえも、町そのものが抱える臭いを抑え込むことはできないようだった。

 旧帝国側の出入国管理をしていた施設の職員に、アンリのことを尋ねたが、何も知らないようだった。それから、手当たり次第に声をかけて、彼女について尋ね回ってみたが、いい答えが返ってくることはなかった。

 しばらく街をさまよっていると、かなりみすぼらしいのだが、それでもどうやら警官らしい男が二人やってきて、ウラノを取り囲んだ。背の高いのが一人と、背の低いのが一人、どちらも陰毛のように豊かで品のない口ひげを生やしている。

「ちょいとあんた、待ちなよ」背の低い方が言った。ウラノは共和国のなかで、あちこちを巡っていたときの経験からして、どの場所においても警官を信用してはいなかった。彼らは正義の味方ではない。どこにでもいる貪欲な行政官であって、ピストルと手帳と制服の威力性に酔いしれている小人に過ぎない。少なくとも、牧歌的寓話に登場する親切なお巡りさんは、彼の中では既に幻想だった。

「はい?」ウラノは応じた。彼が好こうと嫌おうと、警官はそこにいる。

「おい聞いたか? はい、だってよ」のっぽの方が笑った。つられて、ちびの方も笑った。ウラノには自分が笑われる意味が分からなかったが、今回の経験が、これまでで最悪の警官との衝突になるということは、短いやり取りの中で、すぐさま感じ取られた。

「お前、外国人だな」ちびが言った。

「そうです」

「共和国からだな」

「はい」

 ひゃぁあ、ひゃあ。とのっぽが飛び跳ねながら手を叩いた。それがいったん落ち着くまで、ちびは待った。

「どうやらさっきから、あちこちで人を探し回って歩いているそうじゃないか、え? 怪しい外国人が町をウロチョロしていると、いくつかの通報があったのだ」

「友だちを探していたんですよ。家出したみたいだから。近いし、もしかしたらこっちにも来ているかもしれないって」

 ぎゃぎゃ、とのっぽが笑った。

「本当か? お前怪しいな。入国許可書は持っているのか」ちびが尋ねた。

 ウラノは鞄から、該当の書類を出して彼らに見せた。のっぽがそれをウラノからむしり取って見ていると、背が届かなくて書類を見ることができないちびが、さらに書類を奪い取って、それを確認した。確かに、それは合法的に、公式に取得されたものだった。

「お前、ちょっとこい」ちびが言った。

「まずそれを返してくださいよ」ウラノは抵抗した。

「だめだ。これはお前が悪人ではないと分かってから、返してやる」

 うひひ、とのっぽが笑った。

 ウラノは汚らしい、警官たちの詰め所に連行された。顔色の悪い男たちが何人かいて、たばこを吸ったり、ポルノ雑誌を眺めてりしていた。空気がこもっていて、外よりも暑くて蒸している。とても不快な場所だった。窓のない小さな部屋に、彼は叩き込まれた。そしてそこで、ちびと一対一での尋問が始まった。

「名前は?」

「リチャード・ウラノ。僕の入国許可書に書いてある」

「ここに何しに来たんだ」

「さっきも言った。友だちを探しに来たんだ」

「そいつの名前は? どういうやつだ。女か?」

「なんでそんなことにまで答えなくちゃならないんだ?」

「素直に答えた方がいいんじゃないか。俺はお前を、一晩ここにぶち込んでいたって平気なんだぜ」

「……女の子。名前はアンリ。苗字は確か、キッシング」

「は、女かい。たいしたもんだな。お前らサンタウンに住んでるのか?」

「僕は旅行者だ。彼女はそう」

「お前どこに住んでるんだ」

「僕は家なしだ。あちこち移り住んでいる」

「なに? じゃあここに書かれてある住所は何だ」

「子供のころの家だよ」

「ますます怪しいな。やはり連れてきて正解だった」

「こんなの馬鹿げてる」

「仕事は?」

「旅先で日雇い労働をしてる」

「まさか。日雇い人が旅なんぞできるもんか。それに、その職にして身につけているものが、やや良すぎるだろう。本当のことを言え」

「……金が月々振り込まれるようになっていた。今はもうない」

「誰がお前に金を渡すんだ」

「それは僕の個人的な事情だ。あんたらに聞きだす権利はないはずだ」

「権利? 俺はただ聞いているだけだ。答えたくなければ黙っていればいい。ここにいる時間が延びるだけだ」

「あんたいかれてるぞ」

「誰から金を受け取っている」

「個人じゃない、組織だ。僕もよくわからないけど、そういうのがあるんだ」

「その組織の名前は?」

「雨男協会」

 ちびの顔色が変わった。彼は椅子から立ち上がると、一歩、二歩と後ずさって、そして部屋から飛び出していった。部屋の外から、くぐもった悲鳴が聞こえた。警官たちがなにか騒いでいる様子が伝わって来る。

 ウラノは、取り調べ室の扉をゆっくりと開けた。廊下にいたはずの、見張りの警官が消えていた。部屋を出て、詰所の中央、事務室を覗いたがやはり誰もいなかった。机を漁って、入国許可書を取り戻してから、彼はそこを出た。

 この町の人々は、あの組織についてなにかを知っているのだろうか。

 外はやはり雨が続いていた。ぬかるんだ地面には、警官たちが駆け回ったであろう足跡が残っていた。それを踏んで、ウラノは歩き出した。そしてしばらく歩いてから、気が付いた。

 町中から、人の気配が消えていた。

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