13. いつもみんなと一緒にいるからね

 サンタウンから東に車を走らせて二日のところが、ウラノの目的の街だった。彼が雨男協会に指示されるがままに共和国のあちこちを周っていたときも、この街に導かれることだけはなかった。

 本当に彼女――母さんは、まだあの街で僕のことを待っているんだろうか。ウラノは車を走らせながらそう考えていた。しかしそれ以上に彼が気を向けていたのは、いざ対面したときにどうなるかだった。

 雨はずっと続いている。ウラノが町に着いたのは朝だった。五年の年月は、街を半分彼の知らないものに変えた。そして残りの半分は記憶のままだった。ただウラノの背が伸びたのか、知った風景も少しだけ雰囲気が変わっていた。母と過ごした最後の町のことを、彼はよく覚えていた。

 以前いた頃、一度だけ母と行ったドーナツ・ショップが今もあった。ココアの飲みながら、本を読んでいたことを憶えている。――あの頃は、まだコーヒーは苦くて飲まなかったんだったな。ウラノはそんなことを思い出した。ドーナツとココアの値段は、昔より少しだけ上がっていた。彼は昔は飲めなかったコーヒーと、ドーナツを頼んで、それらを食べて昔を思い出した。

 昔住んでいたアパートだけは、意図的に避けて、とりあえず町を回っていた。母親と同じくらいの背格好の女を見つける度に、彼はどきりとした。そして、それが母でないことに気付いて、安心した。

 しばらく、こそこそと町を徘徊していたが、ついにじれったくなって、彼はかつてのアパートに向かった。それは彼が住んでいたころと、全く同じ外観だった。郵便受けには、母と彼の姓が書かれた名札が差し込まれていた。母さんはまだ、この町に居るんだ。それが確信できたせいか、ウラノの息は少し荒くなった。

 彼は部屋の前まで行って、ドアベルを押した。ビーッ、と音が鳴った。来る。もう会ってしまうんだ。そう思った。でも母は出てこなかった。もう一度押した。ビーッ、と音が鳴る。誰も出ない。さらにもう一回、ベルを鳴らした。すると隣の部屋から、若い女が出てきた。髪の毛はぼさぼさで、目元には化粧のあとがある。夜働いて、昼まで寝る人間の顔だった。彼の母親も、よくこういう顔をしていたのを思い出した。

「なぁ、お兄さん、このアパート、壁が薄いから隣のベルでもよく聞こえるんだ。アンタみたいのが、ビービー鳴らすせいで、眠れない時間が増える人間もいることを気に掛けて欲しいね」

 そんなふうに女は言った。

「すみません」ウラノは謝った。

「……お兄さん、そこの部屋の人に用あるの?」女が訝しげに訊いた。

「ええ、まあ」

「今は働きに出てるよ。そこのオバサン。多分七時頃には帰ってくんじゃないの」彼女はぶっきらぼうにそう言った。

「そう……ありがとう。おやすみの邪魔をしてすみませんでした」そう言って、ウラノは立ち去ろうとした。

 女がその背に声をかけた。「あのさ!」ウラノは振り返った。

「そこの部屋の、ウラノさん。ずっと前に家出した息子さんを待ってるらしいんだけど、あんた、何か知ってる?」

 ウラノは少し戸惑って、そして答えた。

「僕がそうです」

 女はちょっとだけ目を大きくして、それから、頭をぼりぼりと大きく掻いた。そして言った。

「ねぇ、ちゃんとさ、会ってあげなよね」言ってから、余計なことをしたとでもいう風に、はぁ、とため息をついた。

 ウラノは女に礼を言って、そこを去った。


 彼は雨の町をうろついて、時間が来るのを待った。泥に汚れた作業着を着た中年の男とすれ違いざまに目があって、ウラノはどこかで彼の顔を見たような気がしたのだが、結局思い出すことはできなかった。相手も同じような表情を浮かべていたので、ウラノはやはり彼のことを知っているはずだという気分になった。しかしそれでも、その男と自分の関係を見つけ出すことはできなかった。

 そのあとは何もすることがないままで、夜まで待つことになった。町を歩きながら、これから酷く退屈で苦痛な時間になるだろうと彼は考えていたが、母親が帰ってくる時間になるのは、あっという間だった。気づけば日は落ちていて、夜の雨が町を覆っていた。

 隣人の言った通り、七時を過ぎたころにアパートに向かうと、部屋には明かりが点っていた。ウラノは傘をたたんで、執拗に水を切ってから、ドアベルを鳴らした。一度のベルで、部屋の奥から誰かが玄関にやってくる足音が聞こえた。

 ドアチェーンは掛かったままだったが、少し開いた。隙間から、女がこちらを見上げていた。ウラノは声が出なかった。何を言うかは、ここにやってくる数日間の間にたっぷり考えていた。

だがいざ彼女を目の前にすると、前もって用意していた、挨拶や言葉は、はっきりと音を立てて瓦解していった。音と意味がばらばらに崩れ落ちて、根源的な少年の感情だけがそこに残った。

「会いたかった」

 母親はすぐさまチェーンを外して、息子を抱きしめた。嗚咽と一緒に、身体が震えた。

 五年の歳月は少年の身体を、母の想像よりもはるかに大きく、丈夫にしていた。声も随分低くなっていた。大人のものになっていた顔付きには、確かに、幼い頃の面影があった。息子の方は、随分小さくなってしまった母の身体に少し驚いた。しかし、それは自分が大きくなっただけであることにすぐ気が付いた。あの頃よりも、かなり痩せているな。彼はそうとも思った。

「今朝からの雨で、なんとなくそんな気がしてたのよ」ミシェルが言った。

「いつだって雨が降る日は、あなたが帰って来るんじゃないのかと、考えていたわ。特に、季節外れの長い雨なんかのときはね。でも今日の雨は、とても懐かしい感じがずっとしていたのよ。もしかしたら、あの子が帰ってきたんじゃないのかって……。リチャード。顔をもっとよく見せて。あなた、パパよりはハンサムになったわね」母親は笑って言った。

「帰ってきてくれて、私とても嬉しいわ。本当は、もう二度とあなたとは会えないのかもしれないって、そうまで思ってたんだから。ここで待っていて正解だった」

 息子は、声を震わせて言った。「ごめん」

「いいのよ。もう、帰ってきてくれたんだから。あなた、ご飯は食べたの? 上がりなさいよ。ほら、まだなら作ってあげるから」

 二人は、本当に久しぶりに食事を共にした。玉葱のスープ。サーモンのムニエル。たくさんのロールパンに、ゆで卵をベースに混ぜ込んだドレッシングのサラダ。どれも息子の好物だった。母親は言った。「あなたが帰って来るような気がしてたから、今日買ってきてたのよ」息子にとって、その食事は間違いなく今までの人生でもっとも幸福な食事になった。


 親子はその日、ほとんど会話をしなかった。ただ互いが目の前にいることを享受することに、家族として過ごす意味があった。息子が大きく育っていたので、部屋はかなり窮屈だったが、それでも二人は昔のように同じ床で眠った。

 眠りにつくかどうかというところで、母親が言った。

「リチャード、今度は、ずっと一緒にいてくれるのよね?」

 息子は少し息が詰まったが、それでも言った。「僕はまたここを出ないといけないんだ」

 母親は黙った。息子は、母を悲しませまいと思って、言葉を継ぎ足した。

「でも、また戻って来るよ。それからなら一緒に暮らせる。僕はね、雨を終わらせることに決めたんだ。時間がかかっても、終わらせるんだ。次に、会うときは、きっと僕らは太陽の下にいるんだよ」

「……そう、それは素敵ね。でも、あなたがここを出て行く必要はないんじゃないの? 前みたいに、二人で一緒にあちこちを回る生活になっても、その中で雨を終わらせる方法を探せばいいじゃない。いつ終わるか分からないなら、私たちが、また離れ離れに過ごすのは間違ってるのよ。私たちは家族なのに」

 電気を落とした部屋に沈黙が訪れた。外の雨と風の音は、冷やかしの声ように聞こえた。

「父さんの話を聞かせて欲しんだ。僕の雨は、彼の呪いから来ているものだって、昔教えてくれたよね。母さん。呪いって、なんのことなんだろう? なんで父さんが僕を呪うんだ? 父さんが僕に遺したものって、いったいなんだったんだろう」

 母親は答えなかった。そして言った。「あなた、でも明日すぐにどこかに行くわけじゃないんでしょう? だったらその話は、また今度でもいいわよね。お母さん、もう眠くなっちゃったわ」

 息子はどう答えるか迷ったが、「そうだね」と返した。

「それじゃあ、おやすみなさい。リチャード」

「おやすみ」

 すぐさま、彼は眠りについた。


 気付けば青年は熱く乾いた街の中にいた。空から照りつける太陽が、猛烈に彼の肌を焼いていた。その時点で、彼はこれが夢だと気づいた。日光が肌を焼く感覚など彼は知らない。でもその場所では確かに、肌は燃えていて、じりじりと乾いていく感覚があった。彼にはそれが新鮮で、また不思議でもあった。

 そこは埃っぽい街だった。正午の太陽が、影を一番小さくする時間にあった。真っ白に燃え上がった街には、彼の他に人の姿はない。不安を覚えながらも、なんとなく歩き出して、なにかを探すことにした。

 光の強さに、眼が眩んだ。いつまでたっても馴れる気配がない。頭がくらくらした。初め夢だと断じきれた感覚も、次第に怪しく思えてくる。――これは、もしかしたら本当に僕はここにいるのかもしれない。だったらこの太陽はなんだ? なぜここには雨がないのだろう。足元に小さな土煙の塊が生まれて、そして散り散りになって消えていった。固い地面は砂でできている。

 彼はあてもなくあちこちを歩き回った。相変わらず、人を街の中に見ない。そのことに寂しさや悲しさを感じることはなかったが、今、自分がいる場所の意味や、意味の繋がり、それらの不安定さに漠然とした不安を覚えていた。間違いなく嘘の世界であるこの場所が、なぜだか本当のものを示すであろうという、事実に先だった理解があった。

 いくつかの四つ角を過ぎたところで、人影が見えた。ふらり、ふらりと身体を揺らしながら歩いている。二人いる。一人はすごく太っていて、もう一人は、今にも死にそうなくらいに痩せている。奇妙な連中だった。

 彼らに話を聞こうと思って、青年は駆け出したが、二人が曲がった角を追うと、なぜか姿が消える。またしばらく歩き回って、二人を見つける。すると追いつく前に二人はどこかの角に隠れていって、結局見失ってしまう。

 次に見つけたとき、声をかけた。――ねぇ、そこのひとたち! 太った方が振り向いた。よく見ると、痩せた方はくたりと項垂れていて、自分では立っていない。でぶの方が彼の肩を背負って引きずっていた。

「なんだい、あんた」でぶが言った。不愛想に、そしてちょっと困ったふうだった。

「ねぇ、ここは夢なんでしょう。これはどういう夢なんですか」

「はぁ? あんた、いかれてるのかい? 私はいそがしいんだけどね」

 でぶは、なにか汚いものを見るような目で青年を見ていた。それから、ふと、なにか思い当たったかのように、改めて尋ねた。

「ちょいと、お聞きしたいんだけどもね、あんた、ここでなにしてんの?」

 随分生意気な夢だな、と彼は思った。しかし返事には困った。実際彼は、ここで何をしているでもないのだから。

「それは、つまり、ちょっと、道に、迷ったような」彼はしどろもどろに答えた。なぜ僕は夢の中の役者に合わせて、返事をしなくちゃならないんだろう。少し自分に呆れた。

 でぶは、眉をひそめて、訝しむように青年を睨んでいた。

「ふぅん? 迷ったのね? 道に……」それから、でぶは続けた。

「ねぇさ。ちょっと私を手伝ってくんないかい? このひと、酒の飲みすぎで駄目になっちゃってさ。家まで連れてってやりたいんだけど、私一人じゃあ、ちと重いのよ」

 担いでいるそのやせ細った男を、まったく遠慮ない様子でぐいと揺らして、でぶはそんなことを言った。

 しばらく考えた。そして、青年はその提案を受け入れた。

「やっぱり。いいひとだと見込んだ私の正解だった」でぶは豪快に笑った。

 二人でその枯れ木の男を抱えて、暑い街の中を歩き続けた。やはり人はいない。締め付ける暑さが、上からと、下から、三人を焼きつけた。二人で担いでいる男はびっくりするほど軽かった。これは急がねば危ないかもしれない。そう青年は思った。

「こんなに暑いところに、この人をうろちょろさせていいのかな」

「もうじき、着くから」でぶはそんなことを言った。しかし、でぶの案内通りに進んでいくと、ついに街を出てしまった。舗装の悪い道路のみが、ほとんど砂漠のような荒地に伸びている。ふたりは砂を蹴飛ばして歩いた。

「大丈夫、大丈夫。あの丘を越えて、ちょっと行ったところにこいつの家があるんだよ」人懐っこい感じの笑みで、でぶは言った。その言葉をまるっきり信じて、意識を失ったその男を運んでいくと、丘の向こうに小さな町が見えた。 

 しかしどうもおかしい。遠めから見たところ、その町にはぐるり一周、金網の柵が張られている。簡単に入ることができるようはない、というか、人が住むところではない様子だった。

「あれ、なにかおかしくないですか」青年は尋ねた。

「あれって?」でぶは聞き返す。

「フェンスです。あそこ、本当にこの人が住んでるの?」

「ああ、あそこは私有地だからね。実は全部、この男の持ち物なんだよ。建物も、土地も、それ以外のものも」

 今もなお、ぐったりと力なく、そして意識もなく引きずられているだけの男は、あのような特別の財産を持つ人間には見えない。むしろ、その正反対にいる人間の風貌をしていた。汚れにまみれたシャツとズボン、そして、身体を洗うことをやめた人間の臭い。青年は、初め辺りから感じ始めていた、この二人のきな臭さを、よりはっきりと覚え始めていた。

「ちょっと、悪いんですけど――」

 ――さぁ、もう少し。頼むから最後まで手伝っておくれよな。

 でぶの言葉に気圧されて、青年は離脱できなかった。ちょっと歯向かうのはやめたほうがいいような気がした。そして最初の、なんとなくの決定を後悔した。――こいつは、こいつらは、思ってたより、やばいものかもしれない。僕は、関わるべきじゃなかったのかもしれない。でももう遅い。ここはさっさと、用を済ませてさよならした方がいい。

 三人がフェンスのそばまで来たところで、青年は鍵のかかった戸を見つけた。網目から町の様子がなんとなく見えるが、こちらも、人が暮らしているような気配はない。

 でぶが戸のところでなにかごそごそやっていた。すると、戸が開いた。

「さ、もうすぐだよ」でぶは笑った。

 建物の雰囲気が少し今風ではないな、と青年は思った。戦前に流行ったつくりに近い。この街があのフェンスに囲まれたのは、戦争が終わったころなのだろうか。やはり人間が全くいない。彼はでぶに訊いてみた。

「なんで人がいないんです?」

「さっき言ったよね。ここは私有地だから、ひとが普通に住んでる町とは勝手が違うんだってば」

「それって、本当なんですか?」

「おいおい、疑うのはよしておくれよ」でぶは相変わらずへらへらしている。

 小さな家が立ち並ぶ区画の隅に、古ぼけた井戸があった。そこまで来ると、到着だよ。おつかれさん。そう、でぶは言った。

「どれが彼の家なんです?」青年が言ったが、でぶは答えない。

 でぶは古井戸の重そうな蓋をずらして、うん、ううんと唸りながらそれを押したり、引っ張ったりして、ついに地面の上に、ごとんと落とした。すっかり口を開いた井戸の中を覗いて、なにか満足そうに頷いている。

「よし、じゃああんた、脚持ってくれ」でぶが言った。

 青年は応じることができなかった。何をさせられるのか、なんとなくわかって、本当に恐ろしくなった。彼は思った。枯れ木の男は、もうきっと死んでいるか、その寸前というところなのだろう。それは今もまさに、骨が抜けたようになって地面に潰れていた。

 これはきっと、たとえ今はかろうじて生きているとしても、もう起き上がって、歩いたり喋ったりはしない。そんなことになぜ今頃気付いたのか。僕は死人をここまで運んできたようなものだった。まるで正気の行動じゃない。

「聞こえたかい? そいつの脚を持ってくれって言ったんだよ」

 でぶは全然平気という感じだった。なんにもおかしなことは、ここには起きていなくて、ただ彼にだけはちゃんと目的があって、それが意味のあることであろうと、そうでなくとも、関係ない。やるべきがあってそれをするというごく単純な義務の世界に生きている人間の目と声を、でぶは持っていた。

 ――いいかい? あんたは、脚を持ってくれるだけでいいんだ。

 気づけば、彼はでぶの言いなりになって、男の脚を掴んでいた。身体の震えとか、気分の悪さとかそういうものは、一切なかった。でぶの命令に従うだけなら、青年は、ある意味でマシーンになることができた。でぶは男の脇を抱え込んで上半身を持ち上げている。

「ほい。それじゃ、近づくよ」二人は一緒に人間を抱えて、息を合わせてそれを運んだ。おとぎ話に登場する、勤勉で誠実なこびとが、せっせと働くように。

 井戸のすぐそばにまで来ると、青年はちょっとした好奇心で、中を覗いてみた。最悪だった。世の中で最も邪悪で、下劣なものがそこに溜まっているのが分かった。つまりそれが見えるわけではないのだが、それが中に溜まっているのが、彼にもよくわかったのである。井戸そのものは枯れていた。だから青年が見たものは、実際にみたものは、薄暗い、あなぐらでしかない。ちょっとばかし深そうな、枯れた井戸だった。それでも、抽象だったし、象徴だったが、確かに青年は、井戸の底に滞留する邪悪を感じ取ったのである。

 これはまずい。というか、嫌だ。青年はそう思った。

「こんなところに、この人を入れて、大丈夫なんですか」

「え? 大丈夫だけど」

「でも、この中って、ちょっとあれですよね」

「ああ、ゆっくり降ろすから問題ないよ。それに彼ちょっと日射病のようだから、どこか涼しいところで休ませないと」でぶの言葉は、その意味の方向性も、論理的な内容においても、まるでとんちんかんだった。

「じゃあ、脚を井戸にいれて」

 青年はまたもや、動けなくなった。やはり、こんなことはすべきではない。この井戸は、どんな理由があったとしても、人が近づくべきものじゃなかったのだ。あの金網は、きっとこれを世界から隔離するためのものだったのだ。考え始めると、かち、かちと歯が震えてぶつかる音がした。あまりにも恐ろしいので、男の足首のところを、強く握りしめていた。手が離れない。

「わかったよ。でもね。これには、あんたの知らない、深ぁい事情があるんだよ。一見、間違ったよう見える行為が、本当はとても大事なもので、それが世界の仕組みを支えているなんてことは、よくあるじゃないか。ええ? そうじゃないかい? 大丈夫だよ。私には、全部わかってるんだ。この人は死んだりしないし、これは本当に大切なことなんだよ。君が、私らを手伝ったことで、君に何かの責任が及んだりすることは、絶対にない。だって君は、そもそもなにも悪いことをしていないし、それに君は、私に頼まれたことをしているだけなんだから。そう。君には、全く意志はないんだ。たまたま、通りすがりの人に頼まれたことを、親切にやってあげただけなんだよ。今日は、このあと、すっかり全部忘れて、家で野球を見ながら、ビールでも飲めばいい。もちろん酒である必要さえない。大切なのは、君が自分の生活に戻るということさ。ここで起きたことは、なにかの夢だと思えばいい。そういえばさっきそんなことを言ってたじゃないのさ。それでいいんだよ」

 優しく子供を諭す教師のような口ぶりだった。それを聞いていると、青年も確かになんだか平気なようになってきた。――ぜんぜんだ。こんなのはただの作業であって、何も僕が気に病むことはない。僕は頼まれたことをやっているだけなんだから……。

 青年はあっさりと、井戸の中に男の下半身を落とした。でぶが支えているので、まだ底には身体が到達していないが、井戸の中に宙ぶらりんという形になっている。

「はいはい、どーもね」でぶはそう礼を言ってから、ゆっくりと男を井戸の中に落とした。人間が落ちたにしては、かなり軽い音が、穴から響き上がった。

 井戸の底を覗くと、男は身体を丸めてうずくまっていた。青年は、どこか吹っ切れた感覚に包まれていた。やってしまった、というのと、こんなものか、というのが一緒に彼の心の中にあった。

 ちょっとめまいがした。井戸の底に落ちたら、それはたまらないと思って、何とかのけぞって、井戸から離れようとした。そしてその時に、青年は自分の後頭部が強く殴られたのだと分かった。痛みの鋭いものが後頭部に、そして鈍いものが頭の中身に広がっていった。

 でぶはその手に、大きな石を持っていた。石の一部が、赤黒く汚れている。血のようだ。でぶは特に感情を示さないで、何でもないことのようにして、青年に近づいた。青年は逃げようと身体を動かすが、それは、赤ん坊が柔らかな毛布の上で、手足をばたつかせて遊んでいるのと大差ない動きだった。彼は気づいていないが、最初の一撃で、既に彼の脳髄はじき死に至るであろう程度に損壊していた。

 毒づこうと声をだしたが、こちらもまた、言葉を憶える前の赤ん坊のような、ばぶばぶにしかならない。頭はわりとはっきりしているが、ちょっと頭の後ろのほうがスースーするのと、なんとなく身体の末端がしびれてうまく動けないのが、青年には気持ち悪かった。

「大丈夫だよ。雨男協会は、みんなといつも一緒にいるからね」でぶは、青年にそう言った。――雨男協会? どこかで聞いたことがあるような……。

 ちょっと頭が、重いな。頭の中が重いな。そう思ったところで、重さが脳内に広がった。青年は、動かなくなった。

 残されたでぶが、持っていた石をその辺り家屋に投げ込んで隠した。そして青年の温度を失いつつある足を掴むと、それを無遠慮に引っ張って、どこかに歩き出した。青年の身体が土でむき出しの地面を上を撫ぜて、でぶの足跡を消している。太陽が、攻撃的なまでに激しく燃えていた。その暑くて砂っぽい空気が、青年の死んだ身体を焼いていた。


 ウラノは真暗な部屋の中で、目を開いた。あの暑さと眩しさが、全部夢の中のことであったと気づいてもなお、身体には妙な火照りが残っていた。身体の中心はしっかり熱を残していて、汗は身体中をぐっしょり濡らしていた。水に濡らしたタオルで、軽く汗を拭きとってから、また布団にもぐり直した。起きて活動を始めるには、まだ早い時間だった。

 今の夢がただの夢ではないことは、ウラノにも分かっていた。

 自分ではない誰かの視点から、僕はどこかで起きたことを経験した……。あれは現実に起こったことなんだ。ウラノは直感していた。――あれは、どこかで、いつか本当に起こったことで、少なくとも一人の人間は完全に死に至っている。殺害されている。あのでぶの男が殺した。理由は分からない。でも、簡単に殺されてしまった。残酷な物語だった。とても恐ろしい。僕は、人間が死ぬところを、そのまま経験してしまった。彼は死んでしまった。きっと彼の身体は、どこか暗くて孤独な場所に、なんの思いやりもない邪悪な意志によって捨て去られてしまったのだろう。

 ウラノは素直に怯えた。夢の内容は暗示的かつ、鮮明なイメージを彼に与えていた。しかしその一方で、彼はその夢に、一つの意味を見出していた。あの夢のなかで、もっとも力強いメッセージを持っていたのは、殺された青年でもない、でぶの男でもない。瀕死の枯れ木男でもない。それは井戸だった。あの井戸が、この世界に邪悪そのものを汲み取らせる窓口なんだと、彼は思った。自分はあの井戸を探すべきなのだと。果たしてあの井戸を埋めるべきなのか、落とされた彼を助けるべきなのか、それとも自分もあの場所に潜るべきなのか……。何をするべきなのかはわからないものの、この井戸が、超自然的な観念と結びついていることは確かだった。

 だとしたら、あの井戸はどこにあるのだろう。あれは観念として重大な意味を持つものであると同時に、現実の世界にも存在しているはずだ。夢にはかなりのリアリティがあった。あれが完全に自分の無意識の中から生成された景色や物語だと考えることは、ウラノにはできなかった。夢の中にヒントがあったはずだ。あの日差しの鋭い町、砂漠の中の金網に囲われたゴーストタウン……。

 夢の中身を思い出そうと努めるうちに、彼は少しずつ、再び夢の世界に入っていった。でも今度のそれは、先程のような、暗示を孕むものではなく、ただの連想と願望の織り成すムービーでしかなかった。

 彼は街の中に着くが、なぜか井戸は見つからない。でぶも、青年の死体もない。しばらく歩き続けると、ミンが現れて、魔法瓶にいれたコーヒーを分けてくれる。いつのまにか傍にいた母親と、それをはんぶんこして飲んだ。

「アンリは?」ウラノが訊くと、ミンは「家でハルさんとボードゲームをしている」と答えた。三人で彼女たちに会いにいって、そしてみんなで双六をやった。穏やかな夢だった。

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