3. 個人的にはよく書けていると思います

 新聞の天気予報欄には、今日の雨雲マークと明日以降の晴れを示す太陽マークが並んでいた。ウラノはそれをじっと見つめていた。――明日は晴れる?

 そんなはずはなかった。彼が滞在している限り、雨は決して止まない。それは経験的に裏付けられた雨男のシステムだった。彼が訪れれば、天候のルールを全て無視した呪いの雨雲が現れて雨が降り始める。それは常に彼の頭上で起こることなので、あたかも雨雲が彼についてやってくるかのように見えるのである。もちろん彼がいる間は、町のあらゆる天気予報は、突然かつ長期の雨を指し示すことになる。

 売店に戻って他のいくつかの新聞を確かめてみたところ、やはり明日以降に、早ければ今日の午後過ぎには雨は止み、そしてさっぱりとした快晴が訪れるのだという。

 ウラノは混乱していた。何が起こっているのだろう。この町の天気予報士がまともに仕事をしていないのだろうか。談話室の窓を覗くと、やはり物心ついたときから降り続いている雨がある。空には分厚い雲が敷き詰められていて、これがなくなることは、彼には想像もつかない情景だった。

 ウラノは晴れた空についての記憶を持たない。物心つくころには始まっていた呪いのせいで、彼は雨の下を生きるように宿命づけられていた。晴れを知らないということはつまり、晴れは失われたのでも、損なわれたのでもなく、気付けばそれはなかったということになる。ずっと雨の空気と空と一緒に暮らしてきた彼にとって、晴れはどこか遠くにある幻のようなものだった。

 ――それは多くの人がどうやら知っているらしいけれど、自分にはやってこないものだし、そして晴れがなくたって、僕はいまもこうして生きているじゃないか。生まれつき身体の一部を欠いている人間や、生まれつき醜い顔をもつ人間がいるように、世の中はあらゆる生まれつきにかなり大きく左右されている。だったら、僕に晴れがないことだって、きっとそんなに辛いことじゃない。実際、僕はこうしてある。世界が本来の姿を僕にだけ隠していたとして、それが僕には決して触れ得ないのなら、もういいじゃないか。

 いつしかそういうふうに考えるようになった。こう考えることで、少なくとも彼は自分の人生の他の大切な部分に向き合うことができたし、雨の呪いだって、勝手を知ればそんなに不便なものでもないからだ。

 しかし昨日の事故以来、彼は暇があれば窓の外、雲の向こう側にあの光を探すようになっていた。朦朧とした意識のなかで見た幻に過ぎないのかもしれないが、やはりあの光は、彼の記憶の中に深く根を下ろしてしまっていた。雨雲の少し薄くなっているところをじっと見つめていると、本当にゆっくりと、そこが開き始めているように見えて、あのときの興奮で手が震え始める。――やっぱり来たんだ。雨は終わり始めているんだ。でもそれは、それこそが幻でしかないということに、しばらくしてから彼は気付く。よくよく見れば、雲はちっとも動いていやしない。


 ウラノは落としたジュースを屑入れに放り込んでから、新聞を小脇に抱えて公衆電話の前にたった。小銭をいくつか食わせて、番号を叩いた。電話がつながる。

「はいこちら、雨男協会」しゃっきりとした雰囲気の、若い男の声が答えた。ウラノの知った声だった。

「もしもし、ライダーかい? 僕だよ。ウラノだ」

 おお! と電話の向こうで、相手――ライダーの驚いた声がした。

「やぁウラノ。サンタウンには着いたのか? どうだ、なかなか小洒落た町だろ」

「それがまだ町はあんまり見てないんだ。サンタウンに着くまえに車で事故を起こした。今は病院から掛けてる」

 少し間があってから、ライダーは言った。

「そうか。大事ないのか?」

「頭と胸を少し打ったけど、それだけだよ。明後日かそこらには退院できる。でも車はダメかもしれない。休暇が終わったら、バスでこの街を出ることにする」

「大丈夫みたいだな。金は問題ないか」

「それも問題ないよ」

「オーケー、その休暇の後は、南部のカットバレーだ。三週間後には到着しておいてくれ。もし難しそうなら、なるべく早いうちに連絡をくれるとありがたい」

「了解」

「カットバレーで一週間過ごせば、当分共和国に雨を求めている町はない。長い休暇になるだろう」

「ライダー、聞きたいことがあるんだ」

「なんだ?」

「僕は昨日の午後、晴れ間を見たんだ。雨は降っていたけど、空の向こうに、太陽の光を見たような気がする」

 今度の沈黙は長かった。ふうん、と息をつく声も聞こえた。それから、ライダーの慎重な音声が続いた。

「そっちは今、空は晴れてるのか?」

「今は雨が降っている。いつも通りの雨だ。でも、新聞の天気予報欄は、明日から晴れになるといってる」

「なるほど。……お前の『体質』についてはわからないことのほうが多い。科学的にはほとんどブラックボックスなんだ。だからなにか異常が起きたとしても――晴れ間を見て異常とは皮肉だが――なんの説明もつかない。何が起こるのかも分からないし、何をすればいいのかも分からない。事故のショックが、お前に影響を与えたと考えるのが自然だが、それも正しいさえも、わからない」

「それはないよ。逆なんだ。晴れ間に見惚れてたから、事故を起こした」

「……とにかく、今のところは様子を見ておくほかないだろうな。なにか変化があればまた連絡をくれ。あるいはお前の身体か精神かに、何かが起こる予兆かもしれない。慎重にな」電話は切られた。

 ウラノは「雨男協会」に、自分の雨男の理由を、つまり父親の呪いのことを話してはいない。協会職員としてウラノを担当しているライダーも、呪いについては知らない。ウラノは呪いについて、できれば誰にも知らせないよう努めていた。協会はかなり現実的な考え方をしていた。その彼らは雨が降らせるならなんでもいいのだ。協会のメンバーの、雨男たる所以には、ほとんど興味がない。


 ウラノは自分の存在にくっついてまわる呪いのせいで、ひとところに留まることができなかった。一つの町にずっと住み続けるということは、その町に自分の雨の呪いを一緒に背負わすことに同義だったからだ。

 彼の母親は、呪いの対象が息子であることに気付いてから、息子と二人で一生放浪し続けることを決めた。その覚悟に至るまでの時間はごく短かった。彼女に息子を棄てるという選択肢はなかった。母親は幼い息子を連れて国中を移り住む生活を始めた。学校に行かせられないので、勉強は彼女が自分で教えた。息子が一人で生きていられるようになるまで、私がこの子を守るのだと、母親は心に誓っていた。彼女は、母子が放浪を続けながらも暮らせるほどの収入を得る必要があったので、それなりに過酷な仕事に就かざるを得なかった。

 息子は十歳のときに、諸々の事実を知った。自分の呪いのこと、今までの生活のこと。そして父親の失踪のこと。それから自立するまでは、彼にとって苦悶の日々だった。

 十五歳になってからのある日、彼は近所の工事現場の手伝いをした。十五という年齢だったが、彼の身体はもうかなり大きかった。雨の中、現場の前を歩く彼を見つけた棟梁が彼に声をかけた。「にいちゃん、暇かい」彼は町の図書館に行くところだった。またその町を去るのはあと三日後というところでもあった。でもなんとなく、彼は「暇です」と答えた。棟梁の方には、幼い顔つきのぼーっとした大男がいたから、ちょっとかついで、仕事を手伝わせてやろうという思いつきだった。長く雨が続いて作業の効率が悪いし、天気が悪いせいで日雇いの連中がさぼって現場に来ないというのも、彼を苛立たせていた。

 ぼろぼろの作業着を着せられた少年は、ぱっと見た感じ、土方の下っ端という雰囲気だった。棟梁は彼に仕事をやらせた。たいていは重いものを運ぶような、厳しいが単純な作業だった。半日働かせて、棟梁は少年を解放した。「お前のおかげで助かったよ!」と調子のいいことを言って、普段日雇い人に払う金額の半分の割合の賃金を渡した。少年がそれを受け取ったとき、彼の顔は固まった。

「なんだい。それじゃ足りないってか?」こいつがごねたら、ぶっ飛ばしてやろう。棟梁はそう考えていた。

「僕は働けますか」 少年が言った。

「なんだって?」棟梁には問いかけの意味が分からなかった。でも少年にとっては、重大な問題だった。

「僕は、働いていけますか? 他のところでも、こんなふうに働いてお金をもらって、生きていけますか?」

「うん? そりゃあ、そうだろうよ。そんだけ立派な身体があんだから、ぶっ壊れるまで、食っていけるさ」男は思ったままを言った。

 少年は目を輝かせて、礼を言うと、半分だけの日当を握りしめて雨の中を駆けていった。そのあと、頭領は、ウラノのやけに幼い話し方や顔つきを思い返して、もしやあれはまだ子供ではなかっただろうか、と自問した。しかし二人がもう一度出会うようなことはなかった。

 ウラノは手紙を残して、母親の下を去った。母親は、夜の仕事を終えて帰るときになって、雨が止み始めていることに気付いて、帰路を急いだ。二人で暮らしていた本当に小さな部屋には息子の置手紙があって、本人はいなかった。

 手紙には、これまで育ててくれたことへの感謝の言葉がたくさん並べてあった。そして、呪いは自分にあるものなのだということ、そして他の誰にも、これを背負わせてたくないこと、特に、母親には。そういう内容が記されていた。母親はウラノを探したが、もう彼は町を出ていた。それは、星が広がる夜空の下で息子を探す母にとって、あまりにも明確な事実だった。

 

 残念ながら天気予報は外れた。翌日も、翌々日も、雨は降り続いていた。――やっぱりね。穏やかな絶望を感じながらもウラノは退院した。

 町の中心部にある小さなホテルに、とりあえず一週間分の部屋を取った。夏季休暇の繫忙期には少し早かったので、比較的安価で部屋を取ることができた。ベッドが一つ、文机が一つ、チェストが一つの旅人用のこじんまりとした部屋だった。

 ホテルに荷物を置いた後、観光案内所に行って、いくつかの簡単なパンフレットを貰い、オススメの観光地について話を聞いた。職員は、とても太った女で、狭い観光案内所で退屈そうにペーパーバックのホラー小説を捲っていた。彼女は、ウラノが来るや否や嬉々として彼にサンタウンについて教えてくれた。

 この町は夏になると雨があまり降らないのだが、ここのところは珍しく、長いのが続いている。個人としては涼しくていいが、あまり長すぎると、特産のオリーブの味が落ちてしまう。少し前まで、小説家の何某というのが逗留していたが、本当にイヤミな奴だった。自分は作品を読む気にもならない。そう言えば、三・四日前に、郊外の幹線道路で大きな交通事故があったらしい……云々。多くは世間話だった。

 彼は礼を告げて案内所を出た。観光パンフレットの一つに書いてあるもので、一番近いところにあった街の歴史博物館に向かってみた。併設の図書館もあるらしい。

 雨は一向に止む気配を見せない。ウラノは時折、傘をのけ空を仰いでみたが、黒い雨雲はやはり、しっかりと幕を張っていた。新聞の天気予報は外れるし、事故のあと気を失うまで見つめていたあの晴れ間はあれきりで、ウラノに姿を見せようとはしない。今朝聞いたラジオの天気予報は、晴れのち雨とか言っていたが、そろそろ彼はこの街の天気予報士を信用できなくなっていた。

 博物館では、古代の歴史からこの街の流れを追っていた。このあたりに住んでいた人々は、古代では小さな都市国家を形成していたらしい。かなり独特な形態の太陽神信仰をしていたが、やがて隣国にあたる王国が都市国家を征服し、ここは一個の地方になった。そのあと、この土地の人々が大きな政治にかかわることはなかった。歴史的な政治単位の統廃合――それはもちろん血を伴うものだった――が何度か行われて、結局、ここは共和国の一都市に落ち着いた。サンタウンというご機嫌な名前もその時に市民による投票で決まった。先の戦争に参加した陸軍の上級士官に、この街出身の者がいたらしいが、彼は敵国との共謀が疑われ、最終的には亡命している。

 博物館の展示にはその指揮官の記述が少ないので学芸員に尋ねてみたところ、図書館に伝記があると教えてくれた。学芸員によれば、街に住まう人々はその亡命将校のことを快くは思っていないらしい。それでももう五十年以上前に死んでいる人なので、感覚としては歴史上の人物であるということだった。博物館のものを飽きるまで見続けると、結局二時間ほどをそこで過ごすことになった。巡路の出口近くにあったスーヴェニア・ショップで「太陽クッキー」の缶を一つ買った。それから、併設のカフェでケーキを昼食替わりに食べた。コーヒーは並みの味わいだった。

 午後からは、件の将校についての本を読むことにした。図書館は閑散としている。司書の、やせ細った男に要望を伝えると、二冊の本を持ってきてくれた。ちょっとした辞典くらい分厚いのが一冊と、ハードカバーの地味な装丁のものが一冊。分厚い方のタイトルは『大戦人物事典』。もう一方には「グレゴリー・マン」と大きく文字が打たれていた。

「グレゴリー・マン大佐について記された書籍はこちらになります」司書は言った。

「辞典の方で彼について短くまとめてあるので初めにこちらを読まれる方が多くいらっしゃいます。もう一方の伝記の方は、少し文章が硬いので、読書に慣れていないと読みにくいかもしれません。ただ個人的にはよく書けていると思います」

「この人物について調べる人がそんなにいるんですか」ウラノは少し意外に思って尋ねた。司書は笑って答えた。

「彼はこの街出身の有名人ですから。地元の高校生の三分の一は歴史のレポートの題材に彼を選びます」

 ウラノは伝記の方だけを受けとって窓際の席に座った。窓の外側は長い雨のせいで大粒の水滴に覆われていた。その向こうに灰色の町の風景が見える。彼は本を読み始めた。

 グレゴリー・マンは共和国の成立の十年後にサンタウンに生まれた。父親は鉄道駅員をしていて、母親は彼が幼い頃に死んでいる。ハイスクールをかなりいい成績で卒業した彼は、そのまま士官候補生として首都キューランドの陸軍士官学校に入学した。全国から優秀な人間が集まる士官学校では、少年たちは「軍事的に」優秀な人間に調整されることになる。それはグレゴリーにおいてもそうだった。

 士官学校では中庸の評価を受けたグレゴリーは、陸軍少尉として南方国境線に配備された。当時二十二歳で、後年に発見された友人との書簡によれば、恋人もいなかった。

 その後、士官としてのキャリアを積み重ねていった。二十七歳のときに、銀行頭取の三女と結婚して、二人の娘をもうけた(一人は幼いうちに病気で命を失った。その妹は存命で、一度も結婚せずに隠居生活をしている)。

 大戦は彼が四十五歳の時に起こった。階級は中佐にまで上り詰めていたが、そのキャリアとしては、もう陸軍のトップになるルートにはいなかった。彼より優秀であると評される人物があと十数人は同世代にいた。彼自身も、その時にはもう大した出世意識はなかったとされる。大戦が起きなければ、そのまま彼は退役したはずだったと、伝記の著者は記している。

 伝記の半分は大戦以前、もう半分は大戦の開始から彼の亡命までについてが記されている。司書の言った通り、それは硬い文章でウラノは読むのに結構苦労した。最初の三分の一を読み終えたところで、かなりくたびれていた。続きは明日以降にすることにした。もう少しゆっくり読んでいったとしても、この休暇中に読み切れるはずだった。

 ウラノはこの、前時代を生きた軍人に強烈な興味を抱いていた。確かにグレゴリー・マンは歴史的な人物で、ある程度著名である。比較的、人に興味を抱かせる人生を送っている。大戦の歴史を紐解けば必ず彼の名前が現れる。知識欲的に、歴史学的に価値を持つ人物だった。でも、ウラノは決して、そういう点についてこの軍人に興味を持ったわけではなかった。グレゴリーの亡命という選択に、彼は強い興味を持っていた。歴史の流れから考えれば、グレゴリーは亡命以後、常に逃げ続ける人生を送っている。彼は呪いから逃げ続けたのかもしれない、ウラノはそう考えた。人生の後半に差し掛かって、彼は精神的にも追われる人生を歩み始めた。その意味ではウラノもまた同じように生きている。 

 彼は、追われる人生として、損なわれていく人生という意味で、この亡命将校にある種のシンパシーを抱いていた。そしてあるいは、グレゴリーの人生について知ることが、自分の人生のヒントになるのではないか。そんな風にも考えた。

 それはウラノにとって新鮮な感覚だった。この街に来て以来、彼はどこか常に、新しい変革を予感していた。その始まりはもちろん、あの晴れ間だった。何をするべきなのか、それは皆目見当がつかなかったが、間違いなく何かするとしたら、今で、そしてこの街なのだと、そう直感していた。人間が時折見せる人生への貪欲さのようなものを、ウラノはここで自分に見ていた。

 図書館を出るときには、すっかり暗くなっていた。空の暗闇からだくだくと雨が降り続いている。治安の悪い街ではないが、陽が落ちてから無用に出歩くのもナンセンスに思えたので、ホテル近くの食堂で食事をしてから、さっさと部屋に戻った。ラジオを聴きながら街の地図と観光パンフレットを眺めて、だいたい明日どこに向かうかを決めてからベッドに潜り込んだ。

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