『通例』を疑え

 社長である充が樹へ育児休暇を検討する旨伝えた、その週の金曜、朝一番。

 神岡工務店の社長、副社長とその他役員による会議が急遽行われた。

 着席した10名の役員たちは、どこか緊張した面持ちで静まり返っている。



「——本日皆様にお集まり頂いたのは、当社副社長である神岡樹の育児休業の取得について、皆様より承認をいただくためです」


 社長席から、充が穏やかに口を開く。


「目下、副社長の家庭状況は、生後2ヶ月の双子の育児を彼のパートナー——皆様もご承知と思いますが、当社設計部門の三崎柊くん——が、一手に抱えている状況です。

 年度末のこの時期の副社長の業務量を知っている彼は、育児を含めた家事を、これまで誰にも頼ることなく全て一人で担っていました。

 しかし、それらの過重さのため、現在彼は心身のバランスを崩しかけています。


 人間として、最も大切な物事とは何か——そう考えた時、今の副社長には父親として家族を支える任務を最優先にさせるべきだとの結論に至りました。

 この決定をできる限り早く実行に移すため、本日皆様からの承認をいただきたいと考えています。

 突然のことで、役員の皆さん及び全社員に多大なるご迷惑をおかけすることとなりますが、どうぞご理解をいただきたくお願い申し上げます」


 充は、会議室全体に向かって静かに頭を下げた。


 それに合わせ、隣席の副社長も深く頭を下げる。


「——育児及び家事という個人的な理由で、皆様に大きなご負担をおかけし、大変申し訳ありません。

 何卒ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます」



 会議室は、しばし張り詰めた静けさに包まれた。



「ご質問等あれば、挙手をお願いします」


 一人の役員が挙手した。


「副社長。

 三崎くんは、現在心身のバランスを崩されているとのことですが——どのようなご様子なのですか?」


「——3時間も経たずに授乳時間がやってくる上に、双子揃っての行動がほぼないため、常にどちらかの世話の必要があり……まとまった睡眠時間が取れていない状況です。

 数日前の朝、過度の心身の消耗により放心状態に陥り、激しく泣いている子供達を数時間放置してしまったようで……

『自分が子供達を本当に愛しているかが、よくわからない』と——そんなことを呟きました」



「…………」



 暫くの後、役員の一人が手を挙げた。


「——社長。

 先ほど、社長は『この決定をできる限り早く実行に移すため』と仰いましたね。

 ということはつまり、この件は実質的には既に『決定事項』、ということでしょうか?」


「——そうです。

 この決定が覆ることは、ありません」


 社長は、穏やかながらも揺るがぬ口調で答える。

 この回答に、質問した役員は微かに眉を寄せて腕を組んだ。


 これに続き、他の役員も挙手をする。


「副社長の育児休業は、どのくらいの期間を予定されていますか?」


「その時々の状況を判断しつつになりますが——現段階では、約2週間後の3月23日月曜から、育児休業の上限である1年間を予定しています」


 会議場内が、一瞬静かにざわついた。


「わが社の規模の企業の副社長が、1年もの育児休業を? 

 責任のある立場の方が、それほど長期間仕事を投げ出すような選択は、管理者の姿勢としていかがなものでしょう?」


「私も同意見です。

 これまでも、男は仕事、家事や育児は家にいるものの仕事として、社会は問題なく回ってきた。そういう明確な分担があったからこそ、日本社会はここまで発展したのではないですか?」


「そもそも、こういう選択が会社内外からどう取られるか。社員達の士気に影響が出たりということはないのでしょうか?」


 彼らの中に蓄積した反論が堰を切ったように、次々に厳しい意見が上がる。



 充は、その一つ一つを穏やかな表情で受け止めた。

 そして、一連の質問が途切れたところで、改めて深く息を吸い込んだ。


「皆さんのご意見、深く受け止めさせていただきます。


 しかし——

 私は、ここで日本社会の通例を再確認したいわけではないのです。

 本当に、我が社は——日本の社会は『このままでいい』のかどうか。

 私が皆さんに問いたいのは、そこなのですよ」


 静かだが、鋭い剣を真っ直ぐに構えるような確固たる語調で、充は全員へ問いかける。



「……」


「私たちは、そういう古くからの『通例』に固く目隠しをされ、本当に大切なものを見つめずに来てしまったのではないか?

 ——私自身、そんなことは今までこれっぽっちも考えたことがなかった。今回、副社長が育児休業を取得すべき必要性が生じたことで、初めて深く考え、やっと気づいたことです。


 皆さんは、一人きりで育児をこなしてきた奥様と、子育てのことについて話し合ったことがありますか?

 ご夫婦で仕事をしながら子育てをしてきた方もいるでしょう。——それでも、育児・家事は当然のように『女性の仕事』だったはずです。

 彼女たちが一体どのような思いで、家のことを担ってきたか。

 日々の育児の中で彼女たちが味わった苦労や辛さに真剣に寄り添い、少しでも理解しようとしたことがありますか。 

 そして、父親の顔などほぼ見ない毎日を、子供たちはどう思って大きくなったか。

 ——そんなことを、ご家族と一度でも話し合ったことがありますか?


 社会は男性の気持ちだけで回っているわけではありません。女性は、男性の補助役や世話係などではない。世界で一人の最愛の存在であり、人生を共に歩むかけがえのない存在だ。——そうでしょう?


 そんな大切な人の苦労に目も向けず、授かった子供のはいはいやよちよち歩きもまともに見ておらず——やがて子供達はあっという間に成長し、巣立っていく。

 そうやってただ脇目も振らず会社に仕え、日々の仕事に忙殺され……ある日突然、退職の日がやってきます。

 その時に——胸の中に、どれだけの愛おしい記憶が残っているでしょう?


 ——それでもなお、私たちはそんな狭い視野を若い世代に押し付けることしかできないのか?」



「——……」



 充の言葉の余韻を残し、会議室はしんと静まり返った。



「——さて。

 これで、私が何が何でも皆さんの過半数の賛成をもぎ取りたいと思っていることが、お分かりいただけましたね?」


 不意に、ふっと軽く場の空気を解すような口調でそう言うと、充は微笑んだ。


「副社長の家庭の状況は、今すぐにでも周囲の手助けを要する状態です。

 私は、是が非でもそれを父親である彼に担わせたい。

 家族の苦労に見ないふりをし、愛するものを守ることすらできない会社など、運営していく意味がない。——私はそう思います」



 そんな充の強い訴えに——役員たちも皆、様々な思いをそれぞれの胸で味わうかのように、長い沈黙が続いた。



「……まさに、社長のおっしゃる通りですな」

 

 やがて、強く反対意見を述べていた役員の一人が静かに顔を上げ、微かな苦笑いとともにそう呟く。


「何か、ハンマーで頭を強打されたような思いですよ。

 何とも情の薄く味気ない目隠しを、なぜ私たちはこれほど頑固につけ続けているのでしょうな。


 ……今日は早めに帰って、家族と話をしようかと思います。

 ——今更気味悪がられるのでしょうけどね」


 硬い面持ちで口を噤んでいたその他の役員たちも、穏やかに表情を和ませた。


「——副社長。

 どうぞ思い切り子育てを味わってください。ここまで一人で必死に耐えてきた三崎くんを、どうかしっかり支えてあげてください。

 あの彼が、子供を愛しているかわからなくなった、とは——どれだけ辛かったか」


「ご安心ください。あなたがご不在の間は、私どもが全力で会社を守ります。……これはむしろ、私達の腕の見せ所ですな」




「——……

 ありがとうございます。皆さん——社長」



 樹は、震えそうになる声を堪えながら、改めて深く頭を下げた。









 樹が副社長室へ戻ると、秘書席の菱木さくらが顔を上げた。

 居ても立っても居られないように、不安げに立ち上がる。


「副社長——役員会議、お疲れさまでした」


 彼女の心の内を推し量るように、樹は柔らかく微笑んだ。


「……希望が通った。

 無事承認を得たよ」



 その言葉に、彼女の表情も光が差し込むように輝き——同時に、その美しい瞳が俄かに大きく潤んだ。



「……おめでとうございます……

 良かったです、本当に……」



「菱木さん、ありがとう。

 いつも僕と柊くんのことを気にかけてくれて——心から、感謝してる」



「…………」



 涙を堪えきれないように俯いて肩を震わせるさくらをじっと見つめ——樹は静かに両腕を広げ、小さく呟く。


「……ここへ来る?」



 顔を上げたさくらは、酷く驚いたように狼狽えた。


「ち、違います……!

 そういう意味で泣いてるんじゃ……」


「わかってる。

 僕も、そういう意味じゃない。


 でも——

 君が嫌じゃなければ……僕から君に、今までの感謝の気持ちを伝えたくて」



「……」


 大きく戸惑いながら、さくらは樹を見つめた。


「——嫌なら、無理しないで」

「嫌じゃないです……!」


 慌てて即答して、さくらは樹の胸元へ近づいた。


 樹の伸びやかな腕が、優しく彼女を包む。

 盟友を抱きしめるように、力がこもった。



「——君が側にいてくれて、良かった。

 本当に。


 ありがとう。


 しばらく不在になるけど——その間、よろしく頼むよ」



 樹の腕の中で俯いていた顔が、消え入りそうに細く呟く。


「…………

 あなたが戻られるのを……待っていても、いいですか」



「——それを言うのは、僕の方だ。

 一年後、戻った時には……また僕の仕事を支えてくれる?」



 その言葉に、しなやかな肩が小さく揺れた。



「…………約束します……

 ——絶対に、約束ですよ……?」



 支離滅裂な返事をしながら、さくらは樹の胸で少女のように泣きじゃくった。




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