最終回 劉曜は自立して即位す

 平陽へいようの城内、石勒せきろく張賓ちょうひんたちとともに荒廃した宮殿を巡る。

 誰もいない堂に出ると、にわかに記憶が蘇った。

「世事は常ならず、先ほどまで日が南中していたと思えば、すでに日暮れの感がある。ここで劉曜りゅうようと先鋒の任を争ったことが昨日のように思い返される。吾はまだ老いを迎えてはおらぬ。それにも関わらず、宮殿は廃墟となって当時を知る者は誰もおらぬ。哀しく思わずにはいられぬ」

 そう言うと、石勒の目から涙が溢れ出る。当時を知る張賓、黄命こうめい徐光じょこう程遐ていかたちも等しく涙を流した。

 張賓が涙をふるって言う。

靳準きんじゅんが先帝の陵墓をこぼち、遺骨が晒されているといいます。葬って故旧の情を尽くさねばなりません」

「劉氏に何の罪があってこのような事態に至ったのか。葬ろうにも遺骨の所在が分かるまい」

 石勒が嘆くと、黄命が進み出た。

「先に吾が兄が自ら遺骨を葬っております。問えば遺骨のありかは分かるはずです」

 しばらくすると、黄臣こうしんが杖を突きつつ姿を現す。

 張賓と徐光が出迎え、殿に上がるのを助けた。石勒は年長者への礼をもって迎え、久闊きゅうかつじょする。

 先帝の遺骨のありかを問えば、黄臣が言う。

「すべての遺骨を拾うに忍びず、浅く土で覆っておきました。将軍が逆賊を平らげた後、一同して遺骨を葬り、君臣の大義をまっとうせんと願っておりました」

 それより棺が整えられ、集められた遺骨が綿帛めんはくに包まれて納められる。棺は旧の通り陵墓に葬られ、官人が祭りを執り行った。


 ※


 埋葬を終えると、石勒と張賓は進退を議論する。

「平陽は荒れ果てて大漢の業は失われ、劉氏の宗族はなかば滅ぼされました。この地には怨念がわだかまっており、久しく留まってはなりません。おそらく、劉永明りゅうえいめい(劉曜、永明は字)もこの地を都とはしますまい。しばらく襄國じょうこくに還って情勢を観望されるべきです」

 張賓が言うと、石勒はその言をれて平陽の統治を黄臣に委ねることとし、五万の軍勢を与えて鎮守を命じる。さらに、陵墓を管理する官人を置いた。

 それより、書状をしたためると王修おうしゅう王楽おうがくを劉曜の許に遣わし、捷報しょうほうを告げさせた。


 ※


 趙王の劉曜は赤壁せきへきの軍営にあって平陽の情勢を探らせていた。そこに劉雅りゅうがとりことした靳明きんめいたちを引き連れて戻ってくる。

「靳氏の者たちは皆殺しにして仇に報いねばならぬ」

 劉曜の言葉に遊子遠ゆうしえんが言う。

「今や逆賊は籠の中の鳥に同じ。慌てるには及びません。まずは大事を定め、詔を下して論功を行うべきです。しかる後、襄國公じょうこくこう(石勒)がどのように動くか注視せねばなりません。言葉の通りに平陽から退くならば、吾らも関中に軍勢を返すのがよいでしょう」

 劉曜は石勒を太宰たいさいに任じ、平陽の東にある四郡の税収を賞として与えた。さらに、九錫きゅうしゃくを加えて黄鉞こうえつし、先の命の通り趙王に封じる。

 その後の処分を行わせるべく、劉曜は王修を別駕べつがに任じて言った。

「朕は卿の才をよみして職を与えた。石公せきこう(石勒)は必ずや卿を重く用いるであろう。還って申し伝えよ。朕は趙王に封じられて間もなく帝位にいた。その爵に封じるのであるから、この意を軽んじぬようにせよ、とな」

 王楽は王修の傍らで劉曜の言を聞き、これより石勒が趙を継いで国を興すと覚った。そうなると、王修は必ずや重用されてその後塵を拝さざるを得なくなる。王楽は王修を害する決意を固めた。

 もともと、王修と王楽の間にはげきがある。漢が洛陽を陥れた時、二人は晋に仕えていた。王楽は許昌きょしょうにあり、王修は洛陽に身を置いていた。洛陽の失陥に伴って王修は許昌に逃れ、王楽は背信を責めようとしてその党与に阻まれた。

 その後、石勒が許昌を陥れた際に二人は降って仕え、ともに劉曜への使者となったのである。王修が重用されるなら、王楽は心穏やかではない。

「石公は陛下に捷報を告げるためではなく、軍勢の強弱を測るよう王修に命じられました。隙があれば陛下を図ろうと企てているのです。王修に心を許しては不測の事態を招きましょう。臣が聞くところ、石公は陛下がほしいままに国号を改めたため、兵を挙げて争おうとしましたが、張孟孫ちょうもうそん(張賓、孟孫は字)より先に逆賊を平らげるよう諌められたそうです。その後、石公が陛下より趙王に封じられた折には、国を譲ったのに等しく、情勢を観望するよう勧めました。王修が陛下の軍勢を窺うのも、その一環に過ぎません。臣は先に王修の失言を咎め、王修は臣を不忠であると公言しております。願わくば、陛下の許に留まって難を避けたく存じます。お許し頂けないのであれば、臣は山林に身を隠して二度と出仕いたしますまい」

 王修が退いた隙を見計らい、王楽はそう讒言した。聞いた劉曜が怒って言う。

「石勒の奴隷めが、平陽に出兵しただけで何を思い違いをしているのか。吾が大漢の兵を借りて王にまでなっておりながら、恩に感じることもなく欲望をほしいままにするつもりか」

 そう言うと、王修を追って連れ戻すよう命じる。しかし、王修はすでに遠く去っており、追いつけなかった。それより劉曜は心楽しまず、鬱々うつうつとして日を送った。

 

 ※


 王修は平陽に還って復命し、劉曜の言葉を石勒に伝えた。石勒は平陽の民を安んじ、襄國に還る準備を進める。さらに、再び王修を赤壁に遣わして襄國に引き上げる旨を告げさせた。

 この時、石勒は平陽にある十万の軍勢を新たに得て、兵威は劉曜を凌ぐまでになっていた。

 王修が赤壁に到ると、劉曜に見えて恩を謝した。劉曜は王修を睨んで言う。

「引き出して頸をねよ」

 王修が無実を主張すると劉曜が言う。

「石勒はお前に吾が軍の強弱を探らせていた。先に探りきれなんだがため、再び探りに来たに過ぎぬ。言い逃れはできぬぞ」

 王修が処刑されると、従っていた者たちは逃げ去った。

 王楽は劉曜に言う。

「石勒は軍勢を返したものの、まだ遠くに去ってはおりますまい。陛下が使者を誅殺されたと知れば、攻め寄せてくるおそれもございます。ここは長安に軍勢を返すのが上策です」

 劉曜は傍らにある遊子遠に進退を問うた。

「平陽は空虚、得たところで益はございません。長安に還って根本である関中に拠るのがよいでしょう。平陽の鎮守を黄臣兄弟に委ねれば、石勒も手出ししますまい」

 劉曜はついに赤壁の軍営を引き払い、長安に軍勢を返した。


 ※


 王修に従っていた者たちは、襄國に逃げ戻って始末を石勒に報せた。怒った石勒は張賓を召して事を諮ろうとしたものの、弟の張敬ちょうけいが病床にあり、看病のために赴けないという

 石勒は衣を改めると自ら張賓の邸に向かった。

「吾は劉氏に仕えて忠を尽くし、勲功を建てて心に恥じるところはない。それにも関わらず、劉曜は吾が使者を害した。劉曜の業の半ばは吾が東奔西走して攻略した地に拠っている。帝位に即いたとはいえ、これまでの勲功を捨てるとは不仁も甚だしい。まずは人を遣って罪を責め、黒白こくびゃくを明かにすべきであろう」

 石勒が言うと、張賓は諌める。

「劉曜の人となりは勇を恃む匹夫に過ぎません。殺を好んで自らを律せず、仁は少なく義を欠きます。吾らが従っているのは大漢という国家であるにも関わらず、無知にも国号を捨て去りました。また、勲旧の人を憎むようでは帝王の度量とは言えません。今は折り合って長安と襄國にそれぞれ拠ってはいても、いずれは雌雄を決する日が参りましょう。使者の一人や二人は小事です。兵威を比べれば、将軍が劉曜に劣ることはございません。これから先、救援を求めることもありますまい。古より、『天下は万人の天下であり、一人の天下ではない』と申します。劉曜も将軍もこのことから逃れられません。これよりは互いに厳しく境界を守らねばならず、劉曜が将軍を訪ねることはないでしょう。また、将軍が劉曜に見えることもありますまい。これが最大の譲歩です。万が一、劉曜が攻め寄せてきたならば、その時こそが雌雄を決する日となりましょう。過去の事は忘れ、先に備えねばなりません」

右侯ゆうこう(張賓)の言うとおりである。先帝の一族はすでに滅びた。吾はその仇に報いて心にじるところはない」

 そう言うと、石勒は張賓の邸を辞した。これより石勒は劉曜と距離を置き、自立することとなる。


 ※


 長安に還った劉曜は、石勒から王修と王楽の身柄を返すよう求められず、憂いを解いた。それよりは長安に宮殿を造営して大赦を行い、百官を置いて天子として振舞った。

 詔を下して石勒に河北、山西の軍事を委ね、自らの判断で征討を行うよう命じる。曹嶷そうぎょく臨濟公りんさいこうの爵に封じて山東の軍事を委ね、麾下の夏國卿かこくけい夏國相かこくしょう效忠こうちゅう振威しんい将軍に任じた。

 さらに、平陽に出征した兵には銀一両、旗総きそうには銀五両、副将には銀十両を与える。

▼「旗総」は部隊長、「副将」は複数の部隊からなる一軍の補佐と解するのがよい。

 また、平陽から降った喬泰きょうたい王騰おうとう卜泰ぼくたい馬沖ばちゅう秦璉しんれん喬永きょうえいの六人にも官職を授け、姻戚でもある卜泰が禁衛兵を統べることとなった。

 靳準きんじゅんが漢の社稷しゃしょくを覆した事情を明かにし、その一党十数家、八百人ほどが刑戮された。あわせて、靳明きんめい靳康きんこうをはじめとする靳氏の一族百余人は長安の市場で斬刑に処せられる。

 それらの首級は新たに建立された安楽公あんらくこう劉禅りゅうぜん)、劉淵りゅうえん劉聰りゅうそうを祀る廟に奉げられ、霊を慰める祭祀が盛大に執り行われた。

 それはまさしく、漢という国家の葬送であった。


 ※


 かくして劉淵により再興された漢は滅びて旧都の平陽は打ち捨てられ、蜀漢遺臣たちの功業はここに尽きる。

 時は趙の光初元年(三一八)、長安陥落と西晋の滅亡からわずか二年、劉淵の死から九年、蜀漢の滅亡から五十三年をけみした年のことであった。



-続三国志演義、了-

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