第十二回 東晋は江東に天位を継ぐ

 瑯琊王ろうやおう司馬睿しばえいは、王導おうどうの仮病に欺かれて衆人の議論に従わざるを得なくなり、大位を踏むこととなった。

 翌日、西陽王せいようおう司馬承しばしょうは未明から雉の尾をかたどった扇と皇帝が被る冕旒べんりゅうで瑯琊王を飾った。鳳を飾ったてぐるまに坐すると、皇帝の在所を示す龍旗を掲げる。

 官人たちによって輦が牽かれ、建康の城門を出て天地川山の神を祀るべく郊外に向かった。祭祀が終わると、瑯琊王はしつらえられた壇に上がり、南面して立つ。

 礼官を務める刁協ちょうきょうにより冊書さくしょが読み上げられる。

 

 ここに晋の太興たいこう元年(三一八)四月の丙午ひのえうまの日、皇帝の臣たる司馬睿は玄牝げんぴんってあきらかに皇天こうてん上帝じょうてい后土こうど神祇しんぎに申し上げます。

 晋は宣帝せんてい司馬懿しばい)、武帝ぶてい司馬炎しばえん)が天命を受けるより、萬方ばんぽうの地を有して永らく天佑てんゆうにより歴数れきすうきわまりなからんことを欲し、以って宗廟の祭祀の永きを望んでおりました。

 それにも関わらず、漢賊は天下を乱して二帝をはずかしめ、社稷しゃしょくはまさに崩れんとしております。

 幸い民心は晋室を思うも、今や劉聡りゅうそうが兵威を振るって民命を害し、石勒せきろくは凶暴をほしいままにして官人を殺戮し、その罪は高く積みあがって天に届こうとしております。

 華夷かいの別によりこれまで混じることがなかったにも関わらず、中原が夷狄いてきに陥って士民が蛮族の風習を強いられる有様を見て、衣冠の士は切歯せっしし、木石さえ悲傷しております。

 臣は才に乏しく徳に欠ける身でありますが、かたじけなくも晋の宗室に列し、群臣と将官より大位を継いで大業を戴くよう求められております。

 臣の思うに、愚才は大位にあたってはならず、神器にじる行いを懼れるばかりでありますが、内外の臣僚や遠近の酋長はみな、「天命に応えないわけにはいかず、祖宗の徳を捨ててはならず、国家の綱紀は久しく変えてはならず、士民には主がなくてはならぬ」と申します。

 全土の望みは臣一人の身にあり、それゆえに天命を違えられず、人心に応じざるを得ず、今年今月今日まさに今、壇に登って再拝し、皇帝の璽綬じじゅを受けてすべての天神にご報告いたします。

 神々は晋の供物を受けられ、永く天佑を降して四海を安んじられますように。

▼「玄牝」は『尚書しょうしょ湯誓とうせいの「ここわれ小子しょうしは敢えて玄牝を用って上天じょうてんこうに告げてう」の一文を援用している。『老子ろうし』には「谷神こくしんは死せず、これを玄牝と謂う」とある。玄牝は通常、女性の神性であるとされるが定かではない。


 読み終わると冊書を焼いて再拝する。

 衆人は瑯琊王を輦に扶け上げると建康の城内に引き返し、帝座に上げて璽綬を献上する。瑯琊王は譲ること三度の末、帝座に就いて百官が拝礼し、即位の礼を終えた。


 ※


 晋帝となった司馬睿は、王導の勲功を思って帝座の隣に座を設け、そこに座らせようとした。

「太陽に並ぶものがあってはなりません。士民はどちらを主と仰げばよいか、分からなくなりましょう。世にこのような理はございません」

 王導はそう言って諌め、晋帝は座を徹するよう命じた。

 

 ※

 

 即位に伴って詔が下され、天下に大赦を行って司馬紹しばしょう世子せいしと定め、次子の司馬裒しばほうを瑯琊王に封じて王家を継がせ、廣陵こうりょうに鎮守するよう命じる。

 西陽王の司馬承を太保たいほに任じ、王導を司徒しとに任じ、王敦おうとん鎮北ちんほく大将軍に任じ、刁協を僕射ぼくやに任じ、周顗しゅうぎ吏部りぶ尚書しょうしょに任じ、賀循がじゅん太常たいじょうに任じ、司馬丞しばじょう譙郡王しょうぐんおうに封じた。

 その他にも、劉隗りゅうかい紀瞻きたん王含おうがん卞壼べんこ謝鯤しゃこん郗鑒ちかん桓彝かんい桓宣かんせん趙誘ちょうゆう祖逖そてき周玘しゅうき衛玠えいかい王彬おうひん虞譚ぐたん甘卓かんたく陳頵ちんきん王遽おうきょ戴淵たいえん荀菘じゅんしょう宋哲そうてつ第伍錡だいごき陶梅とうばい范逵はんき周筵しゅうえん劉遐りゅうか徐龕じょがん周遐しゅうか蔡豹さいひょうたちがそれぞれ官爵を進められた。

 江東は呉王ごおう司馬晏しばあん)の頃に陳敏ちんびんの乱に遭い、瑯琊王が赴任した後も制度は整えられなかった。刁協は長らく朝廷に仕えて故事に通じており、賀循は儒学に優れて礼楽に詳しい。そのため、疑義があればこの二人に諮って決し、ようやく朝廷らしい制度が整えられた。


 ※


 この時、晋帝の詔は幽州ゆうしゅうにも到り、劉琨りゅうこん右司馬ゆうしば温嶠おんきょうを建康に遣わすこととした。出発にあたって言う。

「晋の天運は衰えたものの、いまだ天命はあらたまっておらぬ。吾は河北にあって国難にあたり、卿は江東に行って晋室を助けよ。ただこのことに勉めよ」

 温嶠はうべなうと私邸に帰って出発の準備を進める。その母は子が江東に行くのを喜ばず、その衣を握って止めようとしたが、裾を裂いて江東に向かった。

 建康に到着すると、王導、周顗、庾亮ゆりょうたちはその才を愛し、争って交際する。そのために留められ、ついに河北に還ることがなかった。

 

 ※

 

 詔は遼東りょうとうにももたらされ、慕容廆ぼようかい龍驤りゅうじょう将軍に任じられ、昌黎公しょうれいこうに封じられた。しかし、慕容廆は喜ばず、部衆に言った。

「吾は大単于だいぜんうと号しており、遼東に従わぬ者はない。晋の官を受ければどのように見られることか。この官職は受けぬのがよかろう」

 それを聞くと、処士しょし高詡こうくという者が言う。

「覇王の業は義によって成るものです。晋室は衰えたとはいえ、人心はいまだ離れておりません。江東に人を遣って慶賀しておけばよいでしょう。その後に大義によって諸部を討てば、ちょうど管仲かんちゅうのように一戦して四方を鎮められます。辞するには及びますまい」

 慕容廆はその言に従い、人を建康に遣わして慶賀し、晋帝はその賢をよみして節鉞せつえつを下賜した。

 その行いは近隣の諸部に知れ渡り、多くが慕容廆に服した。これが慕容部が燕国を開くもといとなったことであった。

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