第四回 平陽城に愍帝司馬業は害さる

 石勒せきろく并州へいしゅうの治所である晋陽しんようを陥れると捷報しょうほう平陽へいように伝え、諸将と飲宴して論功を行った後、襄國じょうこくに軍勢を返そうとしていた。

 そこに、斥候が馳せ戻って報せる。

劉琨りゅうこんの部将の馮睹ふうとという者が一万の軍勢を率いておりましたが、并州の失陥を知って復仇を首唱し、数万の兵が集まっております。日ならずこの晋陽に攻め寄せて参りましょう。また、劉琨や姫澹きたんに人を遣って軍勢を合わせんと図っている模様です」

 それを聞いた石勒は、孔萇こうちょうに二万の兵を与えて平定に差し向ける。馮睹は険隘の地に拠って奇策を設け、神出鬼没の働きを見せて付け入る隙を与えない。平定に向かった孔萇は逆に数千の兵を失う有様であった。

 さらに隣郡からも報告が入る。

「并州の士民で外郡に逃れた者たちが馮睹の挙兵を知り、数万の壮丁を集めて飛雲子ひうんしという者を推したて、并州の奪還を企てております」

▼「飛雲子」は『通俗』では「飛雲が子」とするが、「飛雲」なる人物はこれまでに現れず、史書にも記述がない。「飛雲子」という綽名あだなと解した。

 石勒は怒って言う。

「吾を除こうと企てるとは、この賊徒どもは吾が劉琨より劣るとでも言うつもりか。まずは軍勢を発して馮睹を滅ぼし、その後に流民どもを平らげて飛雲子を誅殺すれば、并州も安定して乱を思う者はなくなろう」

「そうではありません。馮睹と吾らは不倶戴天の敵同士でありますが、流民たちとは怨みを結んだわけではありません。彼らは劉琨の恩を思って忠節を尽くそうとしているのみです。恩をもって安撫すれば、その意気に感じる者たちでもあります。優れた人物を挙げて馮睹に与した者たちを投降させ、恩義によって諭すのです。さらに、征伐を控えて刑罰を緩くし、租税を薄くして貧民を救えば、流民たちは従いましょう。流民が吾らにつけば、馮睹とて并州を乱せません。力によって平定しようしても従いますまい。流民の懸念は、吾らが隣郡に兵を出して戦に巻き込まれることです。仁政を行って従えれば、并州を安んじるのみならず、幽燕ゆうえん遼西りょうせいの民も争って吾らに従いましょう」

 張賓ちょうひんが諌めると、石勒は言う。

右侯ゆうこう(張賓)の言が正しいであろう。并州の民が馮睹に従わぬのであれば、吾は流民を救って征伐の軍勢を収めるであろう。しかし、善政を行って流民を従えるに足る者がおらぬ」

李回りかいにゆだねれば、うまく流民を安撫するでしょう」

 石勒は張賓の諫言に従い、孔萇を呼び戻すと馮睹に書状を遣って意図するところを述べ、自らは軍勢とともに襄國に還った。

 李回は高札を掲げて流民を呼び返すとともに、士民を教導する。その一方、馮睹は石勒の書状に感じ、将兵とともに晋陽に到って李回にまみえ、飛雲子は説得に従って流民を生業に返した。

 それより晋陽が安寧に治まったこと、張賓の目論んだとおりであった。馮睹の書状が襄國に到り、晋陽に帰した経緯が縷々るる記されていた。石勒は大いに満足し、平陽へいように上表して馮睹を順義じゅんぎ都尉といに推挙する。


 ※


 漢主の劉聰りゅうそうは晋陽の平定をよみし、石勒の麾下にある将兵に賞を下した。また、盛大な祝宴を催して公卿と慶賀する。

 酒に酔った劉聰は机を打って歌う。

 

 左國城さこくじょうに奮起して諸藩を席捲せっけん

 平陽に業を建てて威は四方に加わる

 洛陽らくようを落として懐帝かいていを縛り

 長安ちょうあんを攻めて秦関しんかんを奪い

 今や西地をまっとうして晋陽をあわ

 いつかは天下を統一して漢の旧土を恢復しよう

 

 歌い終わると自ら杯を挙げ、司馬業しばぎょうにも酒を飲むよう薦めた。上機嫌の劉聰は笑って司馬業に言う。

「卿らは晋陽に来てからこのあたりの山水を観ておるまい。明日は卿らと郊外に出て狩猟しようと思うが、どうか」

 公卿はいずれも応諾おうだくして退いた。


 ※


 翌日、劉聰たちは行列を整えて狩猟に向かう。車騎しゃき将軍に任じられた司馬業は、戎服じゅうふくを身に纏って戟を手に先頭を行く。南門を出る頃には観覧する士民が道の脇に垣を作り、司馬業を知る者が指差して言った。

「あれは長安の天子だった人だ」

 その声を聞いた人々は争って前に進み、父老は涙を流して見送った。

 晋から降った辛賓しんひん閻鼎えんていは司馬業を見世物にされて慙愧ざんきねんに堪えない。狩猟を終えて私邸に還ると、司馬業とともに涙を流して夜を明かした。

 数日の後、洛陽からの使者があって漢主の太子の劉燦りゅうさんに言う。

汝陰じょいん太守の李矩りく河内かだい太守の郭黙かくもく、旧の汝南じょなん太守の趙蝦ちょうかが漢との境を侵して軍勢を揃え、『漢主を生きながらとりことして晋人の怨みを晴らす』と申しております」

 劉燦はそれを聞くと、司馬業を殺して晋人の望みを絶つよう劉聰に勧めた。劉聰が言う。

「先に司馬熾しばし庾珉ゆみん王儁おうしゅんを殺したが、世人は吾を酷薄であると誹っていまだ拭いきれておらぬ。司馬業は年若く、道理を分かっておる。殺すほどの理由もない。ここは捨て置くがよい」

 劉燦が駁して言う。

「昔、周の武王が仁義によりいんに兵を挙げて牧野ぼくや紂王ちゅうおうを殺した理由は、奸人が昔を懐かしむ人心により紂王を擁して世を乱すことを懼れたためです。昨日、狩猟に出るに際して司馬業を見た父老が涙を流しておりました。心に晋を忘れておらぬのです。聞くところ、李矩や郭黙たちが軍勢を合わせて境を侵し、晋室を復興すると称しております。晋の残党のほしいままにさせてはなりません」

 劉聰はその言葉を黙然と聞くだけであった。


 ※


 一日、劉聰はふたたび文武の百官を会して宴会を開き、問うて言う。

「漢の治世の藩鎮を数えるに、今も残っているところがあるであろうか」

 百官が応じて言う。

「漢は桓帝かんてい霊帝れいていより徳を失い、諸藩鎮は併呑を繰り返しましたが、その数は十八を過ぎません。今となっては河西かさい張寔ちょうしょく姑蔵こぞうを守るのみとなり、その余は曹魏そうぎに併呑されました」

 劉聰が重ねて問う。

「曹操は山東にあったにも関わらず、何ゆえに山西、関中をも奪われたのか」

 老臣の一人が進み出て言う。

「昔、昭烈帝しょうれつてい劉備りゅうび)は陶謙とうけんより徐州じょしゅうを譲られたものの、呂布りょふに奪い取られ、曹操が呂布を滅ぼした際に豫州よしゅうに転じましたがそれを捨てられました。その後、劉表りゅうひょう荊州けいしゅうを挙げて譲ろうとしましたが、それも曹操の奪うところとなり、呉と兵を合わせて赤壁せきへきに曹操の軍勢を大破し、ついに深仇を結んでそれより戦が止みませんでした。ついに諸葛武侯しょかつぶこう諸葛亮しょかつりょう)の謀により、蜀に入って業を建てられたのです。その間、并州は丁原ていげんが牧となり、平陽は劉虞りゅうぐが牧となり、渤海ぼっかい公孫瓉こうそんさんが牧となりました。呂布が丁原を殺し、公孫瓉が劉虞を図ってついに一に帰したのです。幽州ゆうしゅう劉度りゅうどが牧であったものの、袁紹えんしょうに併呑されました。その袁紹も曹操に滅ぼされ、漢の諸藩鎮はことごとく没したと言えましょう」

▼誤りがあるが、原文のままとしている。

「劉氏が鎮守していた藩鎮は朕の父子が恢復しておる。先の恥を雪いだと言えよう」

 劉聰は盃を干して旧土の恢復を慶賀せんと思い、司馬業に百官に酌するよう命じる。多くの者たちは、晋帝であった司馬業を酌夫のように使っては外聞がよくないと考え、衣を替えるように装ってその場を離れさせようとした。

 劉聰が哂って言う。

「卿は百官に酒を酌みたくないか。それならば止めておこう。代わりに朕の傍らにあって扇を執るならば、酒を酌むよりよいか」

 司馬業は恥を忍んでその命に従った。堂下にあった晋の旧臣たちは、涙を流したものの隠忍して声を挙げない。その中より辛賓と閻鼎が進み出て言う。

「吾らの主君に役を命じられるならば、代わって吾らが役を務めよう。大国の君主を辱めるな」

 そう言うと、司馬業の手から扇を奪って投げ捨て、その腕を掴んで言う。

「臣の身でありながら国家を保ち得ず、陛下にこのような辱めを受けさせてしまいました。これでは、生きておっても死んでいるようなものです。吾らが生きているのは、陛下をお救いしようと思うがゆえです」

 そう叫んで大哭した。劉聰が怒って言う。

「気狂いどもめが無礼をなすか。扇をなげうって朕を欺くつもりか」

 兵に命じて司馬業と晋臣を牽き出して斬刑に処するよう命じ、幾ばくかの間を置いて首級が宴席に献上された。司馬業は後に愍帝びんていおくりなされる。

 西晋は司馬炎しばえんが魏を奪った乙酉の年(二六五)に始まって司馬業が死んだ丙午の年(三一六)に終わり、四君五十二年で幕を閉じたことであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る