水分子の思い出

星向 純

1.滋賀県大津市

 わたしは雨となって上空からり注いだ。

 厚くわだかまる灰色の雨雲あまぐもは、私たちを手放した。私たちは旅立ち、もう振り返らなかった。雨雲は熱気を失い、私たちを浮遊ふゆうさせ、雨粒あまつぶへと育て上げることに、み疲れていたから。

 めた空気塊くうきかい下降気流かこうきりゅうが、私たちを地上へと攻め下らせた。私たちはまんして切って落とされた、空の軍勢だった。空の堤防ていぼうの決壊。

 しかし、私たち雨粒の結束けっそくは、人間の軍隊ほどには強くなかった。空気抵抗が、落下する私たちの粒体りゅうたいを水あめのように引き伸ばし、分裂させていく。私たちは離れ離れになりながら、互いにさよならを言い合った。

 「さよなら、しばしの別れだ」

 「さよなら、地上でまた会おう」

 十分に成長した雨粒だった私たちは、半分の大きさになってしまった。それでもなお私たちは、大粒の雨と呼ばれるだけの重さと威力いりょくを残していた。

 下降するにつれ、風向きが変わり始めた。強い南西風なんせいふうが、私たちを横殴よこなぐりの雨に変えた。


 地上は、色を失った世界だった。

 灰色の建物も、黒い舗装路ほそうろも、っ、っ、と白い水しぶきに包まれていた。緑の街路樹がいろじゅは突風に吹きまくられ、恐れおののいて蒼白そうはくになっていた。色とりどりの衣装いしょうをまとった人間たちは、建物の中に逃げ込んでいた。雨の壁がそそり立って、息苦しくなるような圧迫感あっぱくかんをもたらしていたからだ。

 全てのガラス窓が、叩き割られる予感にガタガタ震えていた。自動車はスリップを警戒し、路肩ろけんで縮こまっていた。私たち雨粒が、都市を分厚ぶあつく塗りこめていた。私たちは、集中豪雨しゅうちゅうごううであることを達成していたのだ。一時間の降水量こうすいりょうは、80ミリを越えていただろう。


 私はアスファルトの路面ろめんに衝突した。高度2000メートルの雲底うんていからの、秒速9メートルの落下だったが、水分子である私は平気だった。後から後から降りてくる仲間たちが私を押しやり、感慨かんがいにふけるひまもない。

 私たち雨粒あまつぶ結集けっしゅうし、水流となり、道路を川に変えた。私たちは、路面に浮かぶ油脂ゆし小球しょうきゅう煙草たばこ吸殻すいがらをさらえ込み、側溝そっこうに流れ込んだ。側溝は下水道の支線しせんにつながっており、私たちは轟々ごうごうと水音をとどろかせながら、地下の暗闇くらやみへと吸い込まれていった。



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