第三十話 越え難き壁
「──馬上から失礼しますが、あらためてご挨拶させて下さい!エル=エレシア王都軍、副将のグリバと申します。これからジェンマまで皆様の安全のため、尽力いたします。どうぞよろしくお願いいたします!」
「エレン=イリアスです。よろしく頼みます」
馬車の中から顔を出し、イリアスが答えた。
「その王都軍の副将さんが、こんなところで用心棒みたいなことしてていいの?」
ノアが小袋の中からガシュロの小片を取り出しながらグリバに聞いた。ガトラはその様子を呆れ顔で見ている。
「はははっ、確かに副将ともあろう立場の人間が、こうも簡単に都を離れるのは不思議に思われますよね」
蹄を軽やかに鳴らしながらグリバが続けた。
「王都軍の副将は五人いて、それぞれが定期的に任務を持ち回っています。長く同職に就くことによる癒着や汚職を防ぐためですね。加えて非番の期間も長く取られていまして、ちょうど今日から私がその時期に入りますので」
「あら、せっかくお休みになったのに悪かったわね」
もぐもぐと口を動かしながらノアが言った。
「大丈夫です!こうしてレトの王子様の護衛を任されるなんて、光栄の極みですよ」
「どうでもいいが…お前、誰にでも遠慮なく当たるな…」
ガトラが狭い馬車の中で顎に手を当てながら、しげしげとノアを見つめて言った。
「あら、そう?だってグリバ、あたしと同じくらいの年に見えるし。…ねえ、貴方ってまだ若そうなのに副将だなんてすごいわね!」
ノアが馬車から少し身を乗り出してグリバに言った。
「二十三になります。軍に入ったのは十五になってすぐ、王都軍に配属されたのは二十一になってからですので、軍歴は八年になりますね」
「へえ…もっと若いかと思ってた…ふわぁ」
言いながらノアは小さく欠伸をした。
「幼顔だとはよく言われますよ。よくそれで、からかわれもしましたが…」
照れくさそうにグリバが言う。
「しかし…シュローネ様は誰にでも別け隔てなく接し、公正な目で軍を率いていらっしゃいます。私も人並み以上の努力を積んできたと少なからず自負はしておりますが…やはりシュローネ様の口添えがなければ今の立場はなかったと思います」
グリバは誇らしげに語った。それはまるで、自分の親兄弟のことを自慢するかのようであった。
「シュローネは防都軍長だよな。王都軍とはどういう関係なんだ?」
ガトラの問いに、グリバが答える。
「その名称から分かりづらいんですが、王都軍は防都軍の直轄下にあります。言ってみれば、私の一番上の上司がシュローネ様ということになりますね」
グリバが続けた。
「兵からも、それに民からも慕われているんですよ。普通、軍長とか将軍だなんて民衆とはかけ離れた、場合によっては私腹を肥やす存在として見られることもあるんですが」
「加えてあの美貌だ。そりゃあアイガー公も容易には離さんだろう。…そういえば、ウルヴン。あの晩、軍長殿と会っていたと言っていたな。まさか…」
ウルヴンはガトラに向けて手のひらを静かに突き出した。
「貴方が想像しているようなことは何も起こっていませんよ。そうですね…もう何年か前に、お互い違う立場でお会いしていたら、あるいは…」
いたずらな笑みを浮かべ、ウルヴンが答える。
「シュローネ様はまだお独りですよ。なんでしたら私の方から執り成しましょうか。ご機嫌を損ねた場合の後始末はお願い致しますが」
グリバが笑いながら言った。いえいえ、と少し困ったようにウルヴンは小さく手を振る。
「まさに戦神を愛してやまぬのか、それとも愛されておるのか…。国に嫁いだようなものなのかな、軍長殿は」
ガトラの軽口にグリバは少しだけ考え込み、真面目な顔で話しだした。
「そうですね…それもあるかも知れませんが…」
ウルヴンも先程までとは違い、真面目な顔をして聞いている。
「シュローネ様は私達が預かり知らぬ苦悶を抱えていらっしゃるように思えます。見えざる敵と戦っておられるのか、あるいは…」
一行の右手、西方に立ちはだかる南北にどこまでも続く壁に、陽の光がかかり始める。薄暗い影が周辺を覆い、今までののどかな景色を一変させたかのようにも見えた。
「もっと深刻な何か──越え難き壁のようなものが立ち塞がっているのかも知れません」
グリバがそう言って右手を見上げる。まさに目の前に聳え立つ遙かなる西壁。陽はすでにその姿に身を隠し、闇が世界を支配しようとしていた。
「越え難き壁、か…。若、どう思われ…」
ガトラがイリアスの方を向くと、ノアと隣り合い二人揃って静かに寝息を立てていた。
「…無理もありません。フェイを出て以来、慣れぬ土地で十分に休む間もなくここまで来ました。長い旅です。ゆっくりと休ませてさしあげましょう」
穏やかな笑みを浮かべて言うウルヴンに、ガトラは大きく頷いた。
「それにしても…正直驚いた。この短期間で若がここまで成長なさるとは。アイガー公と相対した時も、エル=エレシアの出立の際にも、まさに賢王にふさわしい風格すら現れていたではないか。これは思いの外早くに…」
「いえ、あまり楽観視はしない方がよいですよ、ガトラ」
声を落とし呟くウルヴンの方を、ガトラは驚いて見た。
「おいおい、ウルヴン、俺は何もそんな…」
「貴方の言いたいことは分かります。確かに、此の度のアイガー公との謁見、そしてシュローネとの出会い。エル=エレシアでの滞在は、若君に大いなる変革の機会を与えたと思います。そして、若君自身の血脈や事態への理解、飲み込み。もちろんノアの言葉に影響を受けたというのも嘘ではないでしょう。しかし…早い。あまりにも早すぎる…」
口に手を当てしばらく逡巡すると、ウルヴンは続けた。
「…ガトラ、覚えていますか?エル=エレシアへと入る直前…若君が言ったことを」
「む…王家の血を引いていなければ、と言ったことか?しかし、あれは別に…」
ウルヴンは静かに首を横に振り、ガトラの言葉を遮る。
「そうではありません。若君は確かに言われました。王庭での僅かな記憶以外はフェイでの暮らししか知らない、と」
「それが一体──」
ガトラは言いかけて止めた。目を丸くし、ウルヴンの方を再び見つめる。
「そう…。我らがフェイの村に落ち着く前…王都からの、あの逃避行の一年間の記憶が完全に抜け落ちているのです。まるでそこから目を耳を、塞いでしまっているかのように…」
ガトラはイリアスへと視線を送る。静かに寝息を立てる少年の顔は、まるで闇などを感じさせぬ穏やかなものである。タイクンが起こさぬよう、二人にそっと毛布をかけた。
「そもそも記憶というものがそんなに都合よく抜け落ちるものなのか。そこに本人の意志が図らず介在していることはないのか…。疑問は尽きませんが、若君は記憶が戻られた後、とても暖かなものを心に感じたと言われました。それはあえて言うならば陽。それとは別の──陰とも呼ぶべき何かが存在するのかも知れません」
「…それはなんだ?」
ガトラの問いにウルヴンは頭を振る。
「分かりません。ただ私が知る限り、代々のレトの賢王の中にも陰と呼ぶものを漂わせていた形跡を歴史書や古い詩から僅かに窺うことが出来ます。近年で言えば…クローディア女王がその一人です」
「…血の洗礼、か…」
「ええ。それが若君にすぐに結びつくというわけではありませんが…」
尚も穏やかな寝顔を見せているイリアスを見つめながら、ウルヴンは続けた。
「いずれ若君はその忌まわしき何かと対峙せねばならぬ時が来るかも知れません。もちろん我らも…。その陰が…あまりにも深い闇が、我らにとっての越え難き壁となるのではないかと、恐れずにはいられないのです」
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