第17話 鬼と戦う為に

 もし海空が親父に手紙を出さなかったら、こんな人生にはならなかったのだろうか――。

 

 毅山は厳興寺の宿坊の一室に横たわりながら、ずっと考えていた。

 海空からの手紙を受け取り、竹下巌との筆勝負に挑んだ花山範村。が、そのたった一回の筆勝負が範村の書道観を変え、生き方を変え、毅山の人生すらも変えてしまった。

 

 もしあの筆勝負がなければ、範村は元のままな穏やかな性格で、毅山もまた厳しい修行なんてしなくてよかったかもしれない。ましてや親子で命を賭けた勝負なんてことにはならなかっただろう。

 

 とはいえ、海空を責める気にもなれなかった。

 海空がやったことは、竹下のことを思えば人として当然だ。毅山だって海空のように書道家のしきたりを知らなければ、きっと同じことをしただろう。

 神でもない普通の人間に、その後の展開を予想するのは不可能だ。

 

 言うならば、これは運命。受け止めるしかない。

 もちろん、そう簡単に割り切れないからこうして悶々としているわけだが、それは同時に立ち塞がる試練への解決策が未だ見えないという意味合いもあった。

 

 父と戦う――。

 

 しかも命を賭けた真剣勝負だ。

 父・範村が勝てば、実の子とは言え容赦なく毅山に自決を迫るだろう。

 死ぬのは怖くない。が、狂ってしまった父を残して先に逝くのはあまりに不本意だ。


 逆に毅山が勝てば、父は躊躇なく死を選ぶに違いない。

 しかし、それはそれで毅山が求めるものではなかった。範村は、たとえ狂人であったとしても、やはりいまだなお自分にとっては尊敬に値する父親なのだ。

 病に侵された身ではあり、老い先長くはないかもしれない。それでも一日でも多く生きてほしい。ましてや自ら命を絶つことなど求めるはずもなかった。

 

 いったいどうすればいいのか?

 いつまでも答えが出ない問いに頭を悩ませながら、毅山は床の間に飾られた一幅の掛け軸を見る。

 それは竹下巌の遺作となった巖興寺の扁額原本であった。海空にお願いして、この部屋に掛けてもらったのだ。

 

 見れば見るほど素晴らしい書であった。

 竹下巌らしさは見られないが、にもかかわらず間違いなく本人の書であると実感できてしまう。おそらくはそれまでの自分を着飾っていた不必要なものを全て捨て去り、竹下巌という人間の魂のみが純粋に抽出されているからであろう。

 剛厳が「書には厳しかったが、自分には優しい父であった」と語ったように、竹下巌の真の姿がそこにはあった。

 

 しかし、竹下をこの作品をもってしても父・範村に自ら負けを認めたという。

 とても信じられないことであった。

 竹下巌の遺作は、言うならばひとりの人間がその生涯の果てに辿り着くことが出来た究極の書だ。

 それを越えるにはもはや人間ではありえない。

 鬼になるしかない。

 

 ――だから親父は狂ってしまったのだろうか?

 

 毅山の眠れぬ夜は延々と続くのであった。

 

 

 

 

 

「臨書をしようと思います」


 翌朝。

 朝食の席でこれからどうするおつもりですかと尋ねる海空に、毅山は卵を四つも使ったベーコンエッグを食べながらそう答えた。

 

「あの竹下巌の遺作を臨書させてもらいたい。そのためにしばらく逗留させていただきたいのですが」

「それは構いませんが、しかし、大丈夫ですかな、そのようなご様子で無茶はよくありませんよ?」


 海空が気遣うように、一睡も出来なかった毅山の体調は良くない。心身ともに疲れが溜まっていて、それは他人から見ても明らかだった。

 

「問題ありません。むしろ書道をしていた方があれこれ考えなくて心が休まります。それに」


 若い毅山の為に海空が気を利かして用意してくれたのであろう、ベーコンエッグの他にもワカメの味噌汁、さんまの塩焼き、そしてボウルいっぱいのキャベツの千切りというゴキゲンッな朝飯が活力を与えてくれている。


「……毅山さん、あなたが父君である範村さんと筆勝負をすること、電話のお嬢さんから聞き及んでおりますが、本当にそんなことをなされるおつもりですか?」

「……はい」

「今からでも遅くはありません。自分はそんな勝負など受けないと、父君に伝えるべきではありませんか?」

「それは……出来ません」

何故なにゆえに? そんな馬鹿げた勝負などやる必要は」

「和尚さんの仰ることはわかります。ですが、俺たちにとっては馬鹿げちゃいないんですよ」


 海空の言葉を遮る毅山の口調は力強かった。

 

「俺はずっと書道とは命がけだと教わって育ちました。それは親父の狂った思想によるものでしたが、結果として俺はいっぱしの書道家になれた。その俺を親父がライバルとして認め、対戦を求めてきたんですよ。子としてこれ以上名誉なことはありません。悩みこそすれ逃げるなんてことは考えられません」

「それは分かります。ですが、それも命を賭けるとなってはやりすぎではありませんか?」

「それほどの真剣勝負だからこそ、辿り着ける場所がある。和尚さんもそれは竹下巌の遺作を見て思い知ったでしょう?」


 海空が「うっ」と言葉を詰まらせた。

 それまでどこか無駄な厳しさがあった竹下の書が、命を賭けた最後の勝負で人間味溢れるものに熟成された。それは普通に筆を振るうのでは辿り着けない、極限の状態だからこそ成し得た奇跡なのだ。

 

「ですが、巌さんは病に侵され幾ばくも無い命でした。筆勝負ではなく、その状況こそが彼を導いたのかもしれませんよ?」

「……そうかもしれません」


 しばし考えて毅山は海空の言葉を肯定した。ムシャムシャとキャベツをむ。


「ですが、父はそれも考えたうえで俺に勝負を挑んできたのだと思います」


 が、すぐに話を元の状況へと持っていく。

 海空は溜め息をついた。

  

「弱りましたね。どうも話を聞いていると、毅山さんは範村さんとどうしても筆勝負をしてみたいと考えているように思えます」

「……すみません」

「もしかしたら、と思っていたのですが、毅山さん、貴方もすでに筆勝負の魔性に囚われているのではありませんか?」

「……この四年間、流れ筆として筆勝負をしてきました」


 それが何を意味することか、言われなくても海空には分かった。

 まだ若いのにそのような業を背負うとは、書道家とはなんと罪深い存在なのだろう。


「……分かりました。ならばもう私からは何も申しますまい。臨書と逗留はお気の済むまでやっていただいて結構です。その間の食事も手配いたしましょう」

「あ、ありがとうございます!」


 毅山が深々と頭を下げるのを、海空はどこか不思議な心地で見つめていた。

 本来なら直ちに寺から立ち去るよう命じてもいい、業の深い者である。

 にもかかわらず、そうしなかったのは因縁を自分が作ってしまったという罪滅ぼしの意味もあるが、それ以上に毅山の眼差しが気になったからだ。

 毅山もまた筆勝負という魔に憑りつかれている。しかし、範村のそれとはまた違う。

 竹下巌が死んだ時に範村の瞳に灯ったのは妖しい光を放っていたが、毅山の瞳に浮かぶものはどこか眩い輝きを感じさせるのだ。

 

 もしかしたらこれが救いになるかもしれません――。

 

 海空はそんなことを思いながら、うっすらと微笑みを浮かべた。

 

 

 

「くそっ! また駄目だっ!」


 朝食後、すぐに準備を整えて竹下巌の臨書に取り掛かった毅山であったが、どれだけ書いても納得できるものが出来上がらなかった。

 米田草市との対決では一発で完璧な臨書を成し遂げたというのに、こちらはいつまで経っても手がかりすら掴めない。

 それだけ竹下巌が辿り着いた境地が高すぎるのか。それとも命のやり取りをしないと力が出ないぐらい、筆勝負の世界にどっぷり浸ってしまったのか。

 おそらくはその両方だろうなと思いつつ、毅山はただひたすらもがき続けた。

 

 そんな状況が三日続き、翌日に範村との勝負を控えた日の朝。

 巖興寺にまたひとりの若き書道家が訪れた。

 書道をよく知らない海空でもその名前、顔は知っている全米書道協会所属選手メジャーリーガー・大山翔龍である。

 

世尊院流せそんいん・ながれさんから、こちらに花川毅山さんがおられると聞いてやってきました」

「ええ。毅山さんなら四日ほど前からこちらに逗留されておられますよ」

「よかった。大事な用があるんです。会わせてください」


 海空の案内で毅山のいる部屋へと向かう大山。が。

 

「こ、これは……なんて凄まじい気なんだ!」

 

 部屋の前に立ち、大山は思わず唸り声をあげてしまった。襖の向こうから溢れ出てくる毅山の気は、強敵揃いのアメリカでも感じたことがないほどのものだ。

 これほどの気で書き上げる書とは一体どのようなものか想像がつかない。もしかしたら毅山は範村を倒すかもしれない。が。

 

「それでも、この気を纏って書いても、それは花川毅山の書とは言えない! お邪魔しますよ、毅山さん!」


 大山は意を決して襖を開けた。


 まず目に飛び込んできたのは、ひたすら『巖興寺』と書かれた半紙が部屋を埋め尽くす様子だった。その数は千、いや下手したら万にすら届くかもしれない。利き腕は消耗品と言われ、過剰な書き込みを嫌うアメリカでは信じられない光景だ。

 

 そしてその半紙の山に埋もれるようにして、毅山がひたすら床の間に掛けられた竹下巌の遺作を黙々と臨書している。

 

「三日前からずっとあの調子で、寝るどころか食事すらも採っていません」

「なんという集中力! おそらく毅山さんは今、あの掛け軸しか目に入っていないのでしょう」


 掛け軸はあの竹下巌の遺作だと、この部屋に来る途中で海空から聞かされていた。

 なるほど、確かに素晴らしい書だ。もし急ぎの用が無ければ大山も臨書を試みていたことであろう。


 が、今はなにより時間がない。

 大山は毅山に近づいて御免と声をかけると、毅山の後頭部へ思い切り手刀をかました。

 

「いてぇ! 誰だ、いきなり人の後頭部を殴りつける奴は……って、あ、あれ、大山?」

「毅山さん、突然のご無礼どうかご容赦を」

「あ、ああ。てか、なんであんたがここに?」

「流さんから聞いたのです。あなたが父君と戦う為にここにいる、と」

「流が? あいつ、大山を巻き込んで一体何を企んでやがる」

「いえ、流さんは僕に毅山さんの居場所を教えてくれただけですよ。むしろ企んでいるのは……」


 そう言って大山は佇まいを正すと、いきなりその場に土下座した!

 

「毅山さん、お願いです! どうかふたりを助けてあげてください!」


 突然のことに何が何やら理由わけが分からない毅山。

 ただ、大山の言葉に一瞬、この真っ暗闇の状況に一筋の光が差し込んだような気がした。

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