第2話 相手が読めない達筆は落書きと同じだ

 大日本書道展。

 それは大日本書道倶楽部が秋に開く、日本の書道界において最も権威のある展覧会である。

 ここで受賞を果たせば書道家としての未来は安泰。しかし、逆に無様を晒せば名は地に落ち、書道家としての人生は地獄へ真っ逆さまである。

 

「毅山、お前には失望したぞ」

「すまない、親父。かくなるうえは死んでお詫びを」

「ならぬ。自決などでは許されぬ大罪をお前は犯したのだ」

「……ならば俺にどうしろと?」

「『書道とは死ぬことと見つけたり』という言葉がある。毅山、お前を大日本書道倶楽部から追放する。そして流れ筆となるのだ」

「流れ筆に?」

「そうだ。倶楽部が禁じている、命を賭けた筆勝負の世界に生きよ、毅山。そしてこの父が言った言葉の意味をよく考えるがよい」

「……分かったぜ、親父。今まで世話になったな。花川毅山、立派に死んでくるぜ!」

「え? 毅山、お前、いったい何を?」

「失態による不名誉な自決ではなく、正々堂々戦って敗れて死ぬという名誉な最期を与えてくれたこと、感謝する! さらばだ、親父!」

「ええっ!? いや、ちょっと待て! 待つのだ、毅山ーーーっ!」


 夢の中で尊敬する父が慌てた声を出すのを聞いて、毅山は目を覚ました。

 見上げるのは、昨夜辿り着いた街で泊ったビジネスホテルの見知らぬ天井。

 室内は快適な温度に保たれているにも関わらず、びっしょりと汗をかいていた。

 

「くそっ。またあの時の夢か……」


 毅山はベッドから起き上がり、部屋に備え付けられたユニットバスへと向かう。

 威勢よくああ言って家を出たものの、いまだに死ぬことが出来ない自分を恥じた。

 

 ああ、今日こそ死ねればいいな――。

 

 とりあえずシャワーで汗を洗い落としながら、毅山はそんなことを真面目に考えていた。

 

 

 


 

 ビジネスホテルを引き払った毅山は、ホテルの従業員から聞いた、とある場所へと向かっていた。

 本来なら仕事を探したいところである。死ぬのが目的の旅だが、かと言って食べるものも食べられず飢えによる野垂れ死には不本意だ。

 死ぬのなら筆勝負で全力を出し切った上でなければならない。


 その為には第一に心身ともに健康であることが大切である。なので今朝見た夢をいまだ引きずっている毅山は、まず自分の心を整えようと思った。

 書道とは心の在り方である。その心が乱れていては、まともな字など書けるはずがなかろう。

 

 故に毅山は今、心のユートピアへと急いでいた。

 

 

「いらっしゃいませー」


 店内に入るやいなや店員の挨拶とともに、ある香りが毅山の鼻孔をくすぐった。

 ああ、たまらない。

 この香りだけで乱れていた心が静まりかえっていくのを毅山は感じた。

 

 嗅覚で安らぎを覚えたら、次は触覚でさらなる安寧を求める。毅山は店内のある場所へと向かい、おもむろに商品へと手を伸ばした。

 何とも言えない弾力ある手触りからは、人肌のような温かみすら感じられる。常に独り身の流れ筆である毅山にとっては、心に染みる温かさだ。

 

 ああ、やはり書道店はいい。

 

 店内に満ちる墨の匂い、手漉きで作られた紙の手触りに、ついうっとりとしてしまう毅山。

 その姿は店員から見ても明らかにイッちゃってる書道ジャンキーであった。

 

 

 

「ええっ!? そんなことを言われても困ります」


 朝からそんなヤバい客毅山を迎え入れてしまった書道店・心書堂しんしょどう、しかし更なる問題が店を襲う。

 

「ですから何度も言うように読めないからこうして電話してるんですよ。いじわるせず教えてくださいよ」


 店主と思われる中年の男性が、電話先に向かって懇願している。が、

 

「いや、それを言われたらこちらの勉強不足ですって謝るしかありませんが、でもこのままでは……あ、ちょっともしもし? もしもし!」


 店内に木霊する「もしもし」の声。

 その声に不安を覚えた店員たちが、店主の元へと集まってくる。

 

「電話、切られたんですか?」

「ああ」

「で、肝心の注文は?」

「駄目だ。教えてもらえなかった。書道店の店員だったら、あれぐらい解読してみせろって」

「そんな!」


 悲壮感に包まれる店員の心持ちはやがて店中へと広がり、やがてそれは心のオアシスを訪れて先ほどから頭の中がお花畑になっている毅山にも伝わってきた。

 このような地上のパラダイスにはあまりに不似合いな雰囲気。普段は筆勝負以外には首を突っ込まない主義の毅山も「どうした?」とたまらず尋ねると、店員は黙って一枚の葉書を見せてきた。

 

 それはなんてことはない、普通の注文書であった。

 注文の依頼、依頼主、受け取りたい日付などが見事な楷書で書かれている。


 ただし、肝心の注文部分が……。

 

「これは崩し字だな」

「ええ。自分らも多少の心得はあるのですが……」


 崩し字とはいわゆる草書や仮名のことであり、漢字がもっとも簡素化された書体である。しかも一文字に対して複数の崩し方があり、知識がないとまず読めない。いわゆる一般人が書道に持ってる「なんて書いているんだかさっぱり分からん」ってイメージは、だいたいこの崩し字が原因だ。

 

「なるほど。ただでさえ普通の人には解読できぬ崩し字を、こいつはさらに書き手の個性まで加えてやがる。ここまでされてはまず読めねぇだろうな」

「そうなんです。なので電話で聞こうとしてみたんですが」

「書道店ならこれぐらい読み解いてみろと言われて断られた、と。だろうな、肝心の注文内容をこんな字で書いて嫌がらせをする奴だ。電話したところで教えてくれるはずがない」


 まぁ無視することだなと毅山は葉書を返して、店を出ようとした。

 せっかくの桃源郷ではあるが、店員たちがこんな様子ではとてももう心安らぐことなどできそうにない。

 

「それは……出来ません。実はこの注文主、大日本書道倶楽部の者なんです」

「なんだって!?」


 大日本書道倶楽部、それはかつて毅山も所属していた日本最大の書道協会だ。

 

「お客さん、見たところ流れ筆のようですが、だったら耳にしてますよね? 最近の大日本書道倶楽部の変わりようを」

「……ああ」

 

 かつての大日本書道倶楽部は権威こそあれ、書道界を支配するようなことはなかった。

 しかし倶楽部の重鎮のひとり、毅山の父である花川範村が病で床に臥すと、代わりに実権を一手に握った世尊院成之せそんいん・なりゆきが書道界のありとあらゆるところへ強引に手を伸ばし、猛威を振るうようになったのだ。

 

「実はこの店も大日本書道倶楽部に所属し、倶楽部にだけ商品を卸すよう要求されているんです。条件もかなりいいのですが、書道を愛する人たちに分け隔たりなく必要なものをご提供することが私たちの仕事だと思い、この半年間ずっとお断りしていたんですよ。すると最近は今回のような嫌がらせをするようになってきまして……」


 それでもこれまでは何とかしてきた。しかし、もしこの注文を無視したり、あるいは内容通りのものを用意できなかったら、そこを突かれて何をされるか……と店主は苦渋の表情を浮かべた。

 

「……分かった、店主。俺が力になろう」

「お客さん、この字が読めるんですか!?」

「ああ。どんなに崩そうと文字は文字。俺に読めぬ文字などない!」


 毅山は大日本書道倶楽部から追放された身、もはや関係ない……とは思うものの、やはりその悪辣なやり方を見て見ぬ振りはできない。

 

 それによくよく考えれば、これはチャンスである。

 今まで自分が生き残れてきたのは、口幅ったいが対戦者の力不足だったのだ。が、ここで大日本書道倶楽部に楯突けば、怒った連中が自分を倒そうと凄腕の刺客を送ってくるに違いない。


 どうしてこんな簡単なことに気付くことが出来なかったのか?

 毅山は恥じるとともに、自分に敗北を教えてくれるであろうまだ見ぬ刺客たちを想像して、自然と顔が綻ぶのであった。


 

 

 そして、それから三日後。

 二十代半ばの若い男が心書堂を訪れた。


「よう、店主。注文したものを取りに来たぜ」


 顔に厭らしい笑顔を張り付かせた様子は、まるで地上げのチンピラのようだ。

 

「お待ち申しておりました。注文品の一部をあちらに」


 しかし、店主は動じることなくにこやかな笑顔で応じると、予め商品の傍に控えさせていた店員へと合図を送る。

 店員は頷くと、商品を隠しておいた布をひっぱった。

 

「な!? これは確かに俺が注文した品!」

「あと倉庫にちゃんと墨汁千本と半紙十万枚も用意させてもらってます」

「な、なんだと!? このオヤジ、まさか俺のクセの強い崩し字を読み解いたというのか!?」

「いえ、私ではありません。あれを読み解いてくれたのは、あるお方でございます」

「誰だそいつは!?」

「手紙を預かっております。どうぞこちらを」

「手紙だと?」


 男は店主から手紙を受け取ると、慌てて開いた。

 

「な、なんだっ、この達筆はっ!?」


 が、開くや否や男は大声を出して驚くと、その震える手から手紙を落としてしまう。

 ひらひらと一枚の和紙が床に舞い落ちた。

 

「おおっ、これは何と素晴らしい。まるで藤原佐理が蘇ったかのようですな」


 和紙を拾い上げた店主が感嘆した。

 藤原佐理とは平安時代に小野道風、藤原行成と並んで『三蹟』と呼ばれた書道の大家である。特に草書の名手とされており、現代でも『離洛帖』などの真筆にその筆跡を見ることが出来る。

 なお、残っている真筆の多くが何か失敗をやらかしての詫び状であることからも、毅山同様に問題児だったようだ。

 

「しかもこの崩し字、癖を出しながらもちゃんと読める! ええとなになに、『手紙とは相手に読めてこそ手紙と言える。相手が読めぬ文字を書いたものなど手紙ではなく、単なる落書きにすぎん。それも分からぬとは大日本書道倶楽部も地に堕ちたもんだな。やーい、ばーかばーか、悔しかったら今すぐ俺に強敵を差し向けてみろ! 分かったな? 花川毅山』だそうです……」


 華麗な書体には似つかわしくない内容に、思わず店主も、店員も、そして書面で馬鹿にされた男も、なんだかとても気まずい雰囲気になった。


 が、それはともかく。

 かくして毅山は大日本書道倶楽部に喧嘩を売った。

 果たして日本書道倶楽部はどう出るのか? 馬鹿にされた報復として、毅山の思う通りに凄腕の刺客を差し向けるのか? それとも毅山、あいつってやっぱり馬鹿だよなぁって呆れるだけなのか?

 

 なんとなく後者のような気もするが、ようやく死ねるかもしれないと喜ぶ毅山を前にそんなことは到底言えなかった。

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