19. 血は血だよ

 自分の大きなバッグを引き寄せたケンは、ファスナーを開け、中から工具や缶を取り出す。


「契約は解除できるかわからないんだろ? そのラルサとかいう羊がゴネやがったら、まずコイツの出番だ」

「カナヅチ? まさか、ころ……」

「割るんだよ、鏡を」

「ダメダメ、それはやめて!」


 鏡を割ったら、羊は出て来れなくなるんじゃないかと、オレも一度は考えた。だけど、難点が二つある。

 まず、鏡を隠しても平気だと、ラルサは言った。面倒臭くなるだけだと。

 出入り口が変わるだけなら、割る意味が薄い。


 もう一つ、この手鏡は、母さんが大事にしているものだということ。

 若い頃に父さんからプレゼントされたものらしく、外国製のアンティーク品だと聞いている。

 勝手に持ち出したオレが、軽々しく割っていい物じゃない。

 そういうことなら、と、ケンは次の道具に手を伸ばす。


「割るのがダメなら、ガムテープだ」

「どうするの?」

「鏡の表面に貼付けてやれば、出入りできなくなるだろ」

「あのさ。オレの説明、聞いてた?」


 手鏡を封印したって、家の中にも鏡は多い。

 洗面所、風呂、母さんの鏡台に、小さなエチケットミラーのたぐいが、いくつも転がっているはずだ。

 他の場所を利用して、ラルサはいずれ目の前に現れるだろう。


「違う。来させないためじゃなくて、帰れなくするんだよ」

「一緒じゃん。扉をすり抜けて、下の洗面所まで行けば――」

「すり抜けられるのか? 本当に?」


 改めて問われると、返答につまってしまう。

 超自然の存在だから、壁や扉も関係ないと思っていた。はたして、そうだろうか?


「そういや、引き出しの中に鏡を入れていたら、開けろってうるさかったな」

「な? 仮に見えないってのが本当でも、そこ・・にいるのは確かなんだ。鏡さえ使わせなければ、犬猫と同じだよ」

「いやいや、アイツは動物とは違う。怖いんだって。怒らせたら、何をされるかわからないよ」

「そこで、これだ」


 ケンは大きな缶を手に持ち、印刷されたラベルをオレに向ける。


『必殺! 瞬間氷結ジェット』


 スプレー式の殺虫剤の最新版。黒光りする母さんの敵を、一撃で倒すとか。


「羊に、殺虫剤……?」

「そうさ、黒いヤツにはよく効くらしいぜ」

「そりゃたしかに黒いけども」

「弱ったとこを網で押さえ、みんなで集中砲火する。予備缶も持ってきた」


 マジか。

 この少年、ラルサをデカいゴキブリ扱いしてるよ。

 ゴキブリの目は、赤く光ったりしないぞ?


「その作戦は、危険過ぎる。最終手段もいいとこだ」

「男は度胸だよ。ヤブに入らずんば、蛇を得ずって言うだろ」

「それ、ことわざ混ぜたよね。習ったばっかりのヤツを二つ」


 下手なことをして、ラルサの攻撃を食らうのはオレだ。

 いや、このやり方じゃ、みんな赤い光を浴びてもおかしくない。


 ゴーサインを出さない限り、絶対にスプレーを使うなと、なんとかケンに約束させる。

 文句を言いつつケンは隣室で待機することに決め、網と殺虫剤を持って部屋を出ていった。

 目の前に羊がいたら、反射的に殺虫剤を振り掛けそうになる、なんて言い出すから、オレもケンが控えに回るのは賛成だ。

 元々、羊の存在を信じているわけだし、出現する瞬間に居合わせなくても大丈夫だろう。


 七時四十五分。

 刻限は着々と近づいていた。

 ラルサを迎えるにあたって、手鏡だけじゃ準備が足りない。

 あんまり他人に見せたくはなかったけど、昨夜から書いた原稿を鏡の横に置いた。

 山田だけじゃなく、蓮と波崎までもが原稿用紙へ手を伸ばし、中身を読もうとする。


「おいっ、読むな。恥ずかしいじゃん」

「私は読みたい。手伝う参考にもなるし」


 山田と蓮は、読んでおかないと、羊が消してもわからないだろうと言うが、その理屈はおかしい。

 字が消えるのを確かめるだけなら、なんでそんなに熟読するんだよ。


 文の内容は“千呪”の羅列なので、それぞれが好きな順番で読んでも差しさわりはない。

 蓮は演技臭く「ほう」なんて相槌あいづちを打ちながら、山田はニヤニヤ笑いながら読み進める。


 意外だったのは波崎だ。

 一枚目の原稿を読み終わったところで、オレへ満面の笑みを見せた。


「このお話、『百呪物語』ね」

「あー、ノートのアイデアを使わせてもらったんだ。かまわないよな?」

「もちろん! そのためだもん。役に立ってよかった」


 三人とも『千呪物語』を完読したがったけど、時間がそれを許さない。

 八時一分前になったところで、原稿用紙を元の位置に重ねて、いよいよラルサが登場するのに備えた。


 カウントダウンを始めた山田を黙らせ、鏡に写る天井をにらむ。

 蛍光灯がまぶしくても、今夜は目をそらしたりはしなかった。

 モコモコと黒い毛が盛り上がった瞬間、みんなに知らせようと声を上げる。


「来たぞ」

「えっ、どこだよ? 見えねえよ」

「そう言ってるじゃないか。山田も原稿に注目しとけ」


 波崎は最初から原稿に目を向けており、他の二人もそれにならって視線を移動させた。

 全身を現したラルサが、初めて見る山田たちを見回して、小さな頭をキョロキョロ動かす。


「昨日、誰か連れてくるって言ってたね。見学者?」

「はい。見たいらしくて」

「物好きだね。ギュルッ」


 皆がいても機嫌を損ねたりはせず、ラルサはいつも通り原稿用紙の上に歩み進んだ。

 オレ以外には声も聞こえないみたいで、蓮と山田がチラチラこちらの様子をうかがう。

 独りで話してる風にしか見えないのだから、二人が妙な顔をするのも当然だ。

 おかしなヤツと思われないうちに、早く原稿を食べてくれと願った。


 頭を小刻みに揺らせる、恒例の食事風景。

 魔法のように白く戻っていく紙を見て、山田たちは「あっ」と小さな声をらす。

 蓮が俺へ振り向き、親指を立てた。

 もう疑いようが無い、完璧に信じたという合図だ。


「味はともかく、今日の量はよかったよ。七千二百八十七字、残りは九十八万五千七百三十一字」


 ついに九十九万の壁を突破して、トータル一万四千字以上を書いた計算だ。

 喜ばしいことかもしれないけど、今は字数より重要なことがある。理不尽な課題を押し付ける羊を、元の世界へ送り返さねば。

 “羊よ、帰れ”そう強く心に思いつつ、二つの言葉を口に出す。


「パルレ、ラーサ」


 ラルサは顔を上げ、鈍く光り始めた目でオレを見た。

 もう一度だ。


「パルレ! ラーサ!」

「……ああ、彦々の呪文かあ。あの男には、苦労させられたよ」

「発動しない!?」


 ペたりと尻を突いて座ったラルサは、右前脚を左右に振る。それじゃダメだよ、そう言わんばかりの仕草だった。


「あんな呪文、彦々の作ったまがい物さ。ボクを呼ぶのに、呪文なんて必要無い」

「でも、実際に呪文を唱えたら来たじゃないか!」

「意志だよ。気持ちが鍵になるんだ。キミは来てくれと願ったから、ゲートが開いた」

「じゃあ、帰って欲しいと祈ったら……」

「ゲートは閉じる。呪文なんか無しでもね」


 単純なことだったんだ。

 課題が嫌なら、帰ってくれと願うだけでいいとは。

 それなら、もう書きたくない、これで終わりにしようと息せき切るオレに、ラルサはヒヅメを突き付けた。


「キミは終われない。ボクが帰るのは、百万字を書いた時だよ」

「おかしいじゃないか! 言ってることが矛盾むじゅんしてる。願えば帰るって――」

「呼んだだけならね。血肉の契約者には、最後まで契約を履行りこうしてもらうよ」

「血肉ってなんだよ。そんなのした覚えは……」


 ラルサが指しているのは、オレの顔でも、胸でもなかった。

 おおざっぱなヒヅメのせいでわかりづらいけど、脚はオレの右手へ向いている。

 右手の先、昨日やっと絆創膏ばんそうこうが外れた中指。

 この指が鏡に触れ、ラルサと契約を結んでしまったのだ。


「一滴に足りない量でも、たとえ乾燥した粉となっていても、血は血だよ。キミの血は鏡に登録された」

「そんな……。契約を破棄する方法は?」

「無いね。ボクだって苦労してるんだ。契約されると、他から呼ばれなくなるから」


 “血肉の契約”は一対一であり、契約中は他の人間から食事を取れなくなると言う。

 本来、何人もの間を自由に渡り歩き、好きに言霊をつまむのがラルサのやり方らしい。

 それが契約によって縛られた現在、ラルサはオレに執着するようになってしまった。


 会話が片方分しか聞けない蓮たちは、動揺するオレを心配そうに見ているが、みんなに説明するのは後だ。

 こんな契約、どうにかして無効にできないのか?


「オレが書かなかったら――どんなに頑張っても、百万字が無理だったらどうする?」

「その時は、なま食いかなあ。子供だから量が問題だけど、百万字分はあるでしょ」

「ナマ……記憶を食べる気だな」


 ラルサの目が、いつぞやのように大きく開き、尊大な口調に変わる。


「お前はいろいろとぎ回ったみたいだな。そこの友人たちの入れ知恵か?」

「みんなは関係無い。契約がつらくて、必死なんだよ! 百万字なんて書けるか!」

「書けるとも。余計なことを考えないようにしてやろう」


 部屋が赤で満ちた。

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