16. あきらめなよ
オレがクエスチョンマークと格闘しているうちに、剣沢は話をまとめ、明日はよろしくと電話を切ってしまう。
受話器を返しにいったオレは、しぶしぶ母さんに泊まる人数の変更を告げた。
「一人増えそうなんだ。かまわない?」
「まあ、大丈夫よ。朝ご飯を一人前増やすだけだし。結局、誰が来るの?」
「蓮、山田、波崎、それに追加が剣沢で四人」
母さんは眉をこれでもかと寄せ、深いシワが額に何本も刻まれる。
「波崎って、この前、電話してきた女の子?」
「うん」
「バカッ、早く言いなさいよ! 女の子がいるなら、
「そんな気をつかわなくても――」
「女の子は別の生き物なの! 修一と一緒に扱えるわけないでしょっ。あとでお
男女差別だー、なんて冗談めかして反論したくても、母さんの目は真剣そのもの。
こういう時に逆らったら、倍にして説教を返される。
波崎は
原稿制作が気になって仕方なくても、こればかりは断れない。昨日約束した上に、自分のための仕事なのだから。
一階の和室はハナから客間で、昔は叔母さん一家が泊まったこともあった。おかげで掃除機をかけたら、布団を敷くだけで準備は済む。
それに比べ、物置は重い荷物を運び出さないといけないので、けっこうキツい仕事だった。
こちらも寝るスペースを確保したら掃除して、布団を並べる。
これで終わらず、最後に洗面所と風呂まで綺麗にさせられた。
「女の子に汚いバスルームなんて、見せられるもんですか」なんて母さんは言うけども、その感覚はよくわからない。男子ならいいのは、なぜ?
オレが解放された後も、母さんはシャンプーとリンスを補充し、タイルの目地を歯ブラシでこすり続けていた。
部屋に戻った時には、もう四時になっており、夕食まで二時間しかない。
これじゃ六時間授業の日と似たようなものだ。
気を取り直して、原稿の続きを考える。まず、無感覚シリーズを増やそう。
味がわからない呪い、熱を感じない呪い、眠くならない呪い。
五つほど書いて晩ご飯。
食事をしながら、母さんがお泊まり会の話をしてくる。
母さんが波崎の家に電話したところ、監督役をよろしくと頼まれたらしい。
「来るのは山田くん、よね? 男の子の」なんて尋ねるから、そうだと返す。
波崎は天体観測だと嘘をついたみたいだけど、親を言いくるめるために、他にも色々と吹き込んでそうだ。
夕食後の執筆は、嫌われるシリーズに切り替えた。
犬に嫌われる呪い、猫に嫌われる呪い、オウムに嫌われる呪い。
ここで風呂、さっさと上がって、蜂に嫌われる呪い、馬に嫌われる呪い。
蜂が近寄らないのは、長所な気もする。馬は厳しいだろうな。移動が徒歩だけってのは、かなり面倒臭そうだ。
初対面の人に嫌われる呪い、同じ血液型の人に嫌われる呪い、嫌いな人には好かれる呪い。
このシリーズは、書きやすいかも。
呪いの説明が、それぞれ似た文章にならないよう注意して、バリエーションを増やしていく。
十五項目を書き上げたところで、デジカメで原稿を撮影した。
思ったより量が書けたので、まだこの内容で書き進めたい。
明日以降も続けるなら、最初の原稿は記録しておいた方がいいだろう。
原稿用紙、十四枚と少し。指の痛みに見合う内容だと信じ、鏡と原稿を床に置く。
目覚まし時計が八時を指したのと同時に、ラルサが鏡面から浮かび上がってきた。
言いたいことは、ひとまず後にして、原稿の成果を確かめないと。
ラルサの頭の揺れが止まると、カウントが宣言された。
「三千六百三十字。残りは九十九万三千十八字だよ。味はまあまあかな」
「よかった、ストーリーが無いとかケチをつけられるかと……ちょっと!」
一度静止したラルサの頭が、また左右に細かく動いている。
頭を押さえる圧迫感に、思わず叫んだ。
「なんでだよ! その動き、オレを食べてるんだろ!」
「うん。気づいたの?」
「そりゃ、五日も食べられまくったら、嫌でもわかるよ。やめてって。やめてくれ! 今日はちゃんと書いたじゃん」
「足りないな、これじゃ。もっともっと頑張ってくれないとね」
「これで限界だって!」
羊の二つの目が、ゆっくり、大きく見開けられた。
赤い光がオレの顔を照らし、頭の中へ染み込んでくる。
隠す必要が無くなったせいだろうか。遠慮が感じられない光は、ミミズのように脳をはい回り、気持ち悪さで床に膝を突いた。
「
「十……四枚も書いた……のに」
「一万字、いやせめて今の倍くらいは書け。足りない分は、お前自身で補わせてもらう」
ギュルギュル笑い出したラルサは、いつもの口調に戻ってこう付け足した。
「キミの記憶は、
「やめろ……」
これ以上、記憶を消されてたまるか。
逃げだそうと扉へ体をひねるが、足に力が入らないため、身を投げ出すように倒れてしまった。
「あきらめなよ。少し
「……文が書けなく……なるぞ」
「そんなヘマはしないさ。不必要な思い出を食べるだけだよ」
いらない思い出なんて無い。
つまらない社会の授業だって、顔しか知らない隣のクラスの誰かだって、忘れていいことじゃない。
半泣きで国語の宿題をやらされた二年前の冬休みも、つまらないことで蓮と取っ組み合いのケンカをしたことも、消えるのはイヤだ。
畳の上で、クロールで泳ぐみたいに腕を振り回す。
赤い目から逃れようと、一センチでも二センチでも前に進むべくもがいた。
ラルサの奇声が神経を逆なで、脳内で虫がうごめく感覚に鳥肌が立つ。
この黒い羊は、サマーキャンプの肝試しなんかより万倍も恐ろしい。
それでも、抵抗しないと。
忘れていいものを決めるのは、オレだ。ラルサは手を出すな!
どれくらいの時間、床でジタバタしていたのだろう。いくらか意識を失っていたらしく、気付けば畳にヨダレの跡を付けて寝てしまっていた。
そろりと起き上がり、時計に目を向ける。
九時十一分。
長距離を全力疾走したあとのようで、体の力はまだ上手く入らない。ラルサは去り、白紙の原稿が残るだけ。
原稿用紙をつかんで、ふらつきながらも机の前に座る。
今度は何を食べやがった?
蓮、山田、波崎――友達の顔は思い出せるし、明日の終業式が朝九時スタートなのも覚えていた。
「……食われてないのか?」
いや、そんなはずはない。
消されてしまったら、何を忘れたのかもわからない。それだけのことだ。
羊を倒すとか、百万字の課題の抜け道を探すとか、そんなことより先に餌を用意しないとダメだ。
試行錯誤しているうちに、取り返しのつかないことになっちまう。
鉛筆を削り、『千呪物語』の続きを書き始めた。
自分でもあまり面白いとは思わない、呪いの
猫に嫌われたら、どうだって言うんだ。
カブトムシに逃げられても、別に平気じゃないか。そんな話を読んで楽しいか?
自分自身に問おうが、答えはわかりきっていた。
誰も喜ばない物語を、ただ羊のためだけに、オレは書く。
目の端がうっすらとにじんだのを指でぬぐい、ひたすらに字で
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