第23話 Boy's Side(9)

「オト。数学の教科書、貸してくれよ」

 3時間目の体育を終えて教室に向かっていると、トシが隣の教室から飛び出してきた。どうもぼくを待っていたようだ。

「あれ? 教科書全部、ロッカーに入れてなかった?」

 いちいち持ち帰るのが面倒なので学校に置きっぱなしにしていると聞いた覚えがある。予習復習というのは頭にはないらしい。

「そうなんだけどさ。でも、無いんだよ」

 へへへ、と笑う。それならどうしようもない。

「わかった。じゃあ貸すから」

「お、ありがとな」

 そう言うとキョロキョロして、

「ナゴは一緒じゃないのか?」

「授業中に気分が悪くなったやつがいてさ。一緒に保健室に行ってる」

「へえ。相変わらず世話焼きだな、あいつ」

 トシもナゴもいつもはいがみあっているけど、実はそんなに仲は悪くないような気がしている。もちろん、そう言っても当の本人たちは否定するに決まっていた。

「はい」

「サンキュー」

 教室のロッカーに入れていた数学の教科書をトシに渡してから、机の上に畳んで置いてあった制服に着替えようとして、妙なことに気づいた。

「あれ?」

 制服が白く汚れていた。さっき着替えたときはそんなことなかったのに。深緑のブレザーを手に取ってみると、白い煙がもわっと立ちのぼった。

「おまえ、こりゃなんだよ」

 用が済んだはずなのにまだ残っていたトシが驚く。でもぼくの方がもっと驚いていた。自分の制服がこんなことになってしまっている。一体何がどうなっているのか。白い汚れの正体はすぐにわかった。チョークだ。黒板で板書をするとよく袖にこんな汚れがつく。もちろん、普通なら制服全体まで汚れはしない。誰かがそうしようと思わなければ。

 誰がやったのか、を思い悩む必要はなかった。鳥羽くんがにやにやしてぼくを見ているのが目に入ってきていた。隣にいるやつなんか手を叩いて喜んでいる。この前のことを根に持っていたのだろう。やっぱり、あの対処はうまくなかったのだ。それに制服をロッカーにしまっていなかったのもよくなかった。貴重品だけでいいと思ってしまっていた。やられた。

「あーあ」

 腹は立ちはしなかった。放課後まで体育着で過ごさなければいけないのはしょうがないし、それで周りから変な目で見られるのもしょうがない。ただ、汚れた制服を見たら母さんが悲しむだろうな、と思ったら、胸の内が湿ってくるのが自分でもわかった。たぶん、黒板消しを制服にこすりつけたのだろう。ひどいことをするなあ。

「あいつか」

 トシが抑揚のない声で静かにそう言っても反応できなかったのは、懸命に平静を保とうとしていたせいだった。え、と思って顔を上げたときには、トシは既に鳥羽くんのすぐ目の前に立っていた。顔から表情が消えている。そんなトシを見るのは初めてだ。

「なんだよおま」

 鳥羽くんは笑顔のまま最後まで言い切ることができなかった。トシの右手が彼の左頬を叩き、ぱん、と鋭い音が鳴った。それまでぼくの方を気の毒そうに遠巻きに見守っていたクラスメートたちの視線がそれでトシたちのほうに向けられた。

「おまえふざ」

 またしても鳥羽くんは最後までしゃべれない。ぱんぱん。今度はトシの右手が左頬と右頬を叩いていた。往復ビンタだ。たった3発叩いただけなのに、鳥羽くんの両頬は赤くなり、目からは涙がこぼれている。

 それからトシは右手を休みなく動かし始めた。大して力を入れているようには見えないのに、うちわであおいでいるくらいにしか見えないのに、手が振られるたびに、鳥羽くんの顔面は腫れあがっていく。考えてみると、トシはバレーボール部のエースアタッカー的存在だった。「的存在」というのは、顧問の先生にメンタルを不安視されてレギュラーを剥奪されていたからで、実力だけなら十分にエースアタッカーといって良かった。ナゴと一緒にバレー部の練習を見学したときに、トシが見事にバックアタックを決めるのを見て、ナゴも「おお」と感心していたのを思い出す。そんな人間のビンタを食らえば誰だって無事では済まないだろう。

「やめ。もうやめ。ごめ」

 だらだら、と鳥羽くんの鼻から血が滴り落ち、ワイシャツとネクタイを汚した。ひ、と悲鳴を上げて鳥羽くんの仲間が席から飛び上がる。それでもトシは鳥羽くんの顔の前で右手を振り続けている。危ない、と思った。このままだと鳥羽くんが死んでしまう。でも、今のトシに声をかけても止められる自信はなかった。ずっと一緒にいた友達なのに怖くて仕方なかった。そして、これが暴力なんだ、と思っていた。ぼくも今まで取っ組み合いや小突き合いのケンカならしたことはあったけど、そんなものは本当に子どものお遊びでしかなかったのだ。

「でも、でも」

 それでもなんとか止めようとして前に進もうとした。止めなければ鳥羽くんだけではなくトシもどうなるかわからない。ぼくがなんとかしなきゃ、と思って、トシの背中に近づいたそのとき、割り込んできた誰かに胸を軽く押されて止められた。

「どいてろ」

 ナゴだった。ようやく教室に戻ってきたらしい。それと同時に4時間目開始のチャイムが鳴り始めた。でも、当然このまま授業を始められるわけがない。

「馬鹿。やめろ。お前殺す気か」

 ナゴがトシを羽交い絞めにして、鳥羽くんから引き離そうとしている。

「んだあ。止めんじゃねえよ。そうだよ。殺してやるよ。殺してやるんだよ」

 トシのビンタから解放された鳥羽くんが机の上に倒れ伏した。意識があるのかも怪しい。

「あいつには殺す価値もないんだよ。おまえ、何もかも台無しにするつもりか?」

 ナゴの言葉にはトシを思いやる気持ちが確かにこめられていて、それを聞いたぼくもトシの胸にしがみついてなんとか動きを止めようとした。泣きそうになっていた。

「そうだよ、トシ。もうやめてよ。もういいから。もういいんだよ」

 それでもトシはまだ暴れ続け、授業をしようとやってきた古文の先生は教室の入り口で立ち尽くしたまま固まっていた。


 結局、4時間目の授業はなくなり、ぼくとトシは職員室に呼ばれていた。本当なら昼休みの時間になっていたけど、この状況で食事をする気にはなれなかった。

「事情はわかった」

 ぼくのクラスの担任の高畠たかばたけ先生が目の前で腕を組んで座っていた。その隣にはトシのクラスの担任の花里はなざと先生が困った顔で立っている。

「鳥羽はさっき病院に連れて行かれた」

「大丈夫なんですか?」

 つい訊いてしまった。

「あまり大丈夫とは言えないな。顔面が2倍に腫れあがっている」

 ぼくのやったことではないが、ぼくが原因になって起こったことでもあるので、責任を感じないわけにはいかなかった。

「きっかけを作ったのは鳥羽だ。あいつの責任は重い。だが、だからといってあそこまで痛めつけると、どっちが被害者でどっちが加害者かわからなくなる。どうしてそうなる前に、すぐに先生に言わなかったんだ」

「悪いのは俺だから、責任は取りますよ。治療費だろうと何だろうと」

「西村、おまえは少し黙ってろ」

 ふてくされたように言ったトシを高畠先生が怒鳴りつける。叱られていないぼくまで震えあがってしまう。

「あの。高畠先生。今はあまり大声を出されない方がよろしいかと」

「は。いや、そうですね。これは大変失礼いたしました」

 花里先生にたしなめられて高畠先生が恐縮する。「バタケはハナちゃんに気がある」というのは校内の周知の事実で、ぼくから見ても一目瞭然なのに、先生が隠せているつもりなのはコントみたいでおかしかった。でも、他人から見れば、ぼくがヒカルちゃんを好きなのも同じようなものなので、そう思うと心の中は複雑だった。

「責任を取ると言ったって、おまえに何ができるんだ。治療費だっておまえじゃなくて親御さんが出すんだろう。それに、今回のことがなくても、西村、おまえに対する心証はよくないんだぞ。過去に停学になったことがあって、そこまで行かなくても問題行動が多い。はっきり言って今のおまえを弁護するのはかなり難しい」

 高畠先生が淡々と話すのを聞いて、やっぱりそうなのか、と思わざるを得なかった。大変なことになってしまった。

「西村くん。とにかく、鳥羽くんと、鳥羽くんのご両親にちゃんと謝ろう。わたしも一緒に謝るから」

「いや、ハナちゃんは別に関係ないんじゃ」

「関係あるんだよ。おまえのせいで花里先生にまで迷惑がかかってるんだよ。それにハナちゃんって言うんじゃない」

「先生。大声はやめてください」

 花里先生にとがめるように見られて高畠先生が黙ってしまう。ハナちゃんはいつもは小動物みたいに自信なさげだけど、いざとなったら根性がある先生のようだった。

「あのなあ、西村。おまえ、今の自分の立場がわかっているんだろうな? おまえ、今回ばかりは本当にやばいんだぞ。鳥羽の怪我の具合とか今後の状況次第で、おまえ、本当に学校をやめなきゃいけなくなるかもしれないんだぞ」

「そうなったら、そうなったで、しかたないんじゃないですか?」

 まずいなあ。完全にふてくされてるよ。これじゃあ本当にやばい。

「おまえがそんな態度だと、先生たちもどうすることもできないんだぞ」

 バタケ先生にたしなめられてもトシは何も答えない。そこで、5時間目開始のチャイムが鳴った。結局ごはんを食べそびれてしまった。

「乙訓、おまえはもう教室に戻れ。西村は親御さんが来るまで5階で待機だ」

 この校舎の5階には個室があって、問題を起こした生徒はそこで反省文を書かされたりする、というのがもっぱらの噂で、「座敷牢」と呼ばれて恐れられていた。

「ああ、あの」

 職員室の先生たちは、問題を起こしたトシを気にしてはいても、その横に立っている生徒には注意を払っていなかったようで、ぼくがいきなり大声をあげてびっくりしたようだった。視線が一気に集まるのを感じても、ここで言っておこう、という気持ちに変わりはなかった。

「あの、今度のことは西村くんだけが悪いんじゃないんです。ぼくが鳥羽くんと仲が悪かったせいでこんなことになったわけだし、ぼくが制服の管理をきちんとしておけばこんなことにはならなかったし、ぼくがすぐに先生に言わなかったからこうなっちゃったんです。それに、西村くんはぼくの代わりに怒っただけなんです。やりかたはよくなかったけど、西村くんはぼくのためにやったんです」

 言うべきことを言えたかわからないし、それが正しいのか、トシのためになったのかもわからない。真ん前の高畠先生と花里先生は目を丸くしてぼくの顔を見ていて、横のトシはぼくをにらみつけているだけだ。でも、そうせずにはいられなかったのだ。

「乙訓」

 高畠先生が組んでいた手を解いて、両膝に手を置いてからぼくを見た。

「いいから、とりあえず教室に戻って授業を受けろ」


「ああいうのはやめてくれ」

 放課後の教室で、ナゴにそう言われた。

「ああいうのって?」

「おまえ、あのときトシを止めようとしただろ」

 それが何か悪いのだろうか。

「キレてるやつに向かっていって怪我したらどうするんだよ。おまえ、俺らがケンカしたら止めに入るって言ってたけど、マジでやるとは思ってなかった」

「そんなことで嘘なんかつかないよ」

「嘘のほうがよかったんだって」

 いったい何がよくなかったのかわからない。それならナゴがトシを止めようとしたのだってよくないはずなのに、

「俺はいいんだよ」

 と言われてしまった。自分勝手すぎるだろ。

 今日は部活を休むことにした。軟式テニス部の顧問は高畠先生なので当然許可は出た。そもそも入学したときに担任だったバタケ先生に「特に入りたい部活がないやつはみんな軟テに入れるからな」と強制的に入部させられて、それから今までなんとなく続けてきてしまったのだ。

「ほらよ」

 ナゴが濡れたハンドタオルを渡してきた。これで汚れた制服を少しでもきれいにして帰るつもりだった。ぼくが上着を拭いて、ナゴがズボンを拭く。少しずつ汚れが取れているような気はした。でも完璧に落とすには結構手間がかかりそうだった。

「トシ、どうなるのかな」

 拭きながら思わず訊いていた。

「さあな」

「先生たちの話を聞いていたら、ちょっとやばいような気がしてきた」

「最悪のことも覚悟しなけりゃいけないかもな」

 ナゴの声が冷静すぎるように聞こえて、一瞬腹が立った。でも、実はそれほど冷静ではないのだろう。ナゴもたぶんきついのだろう。

「あのさあ」

 そこで言葉に詰まってしまった。

「なんだよ」

 先を促される。

「今度のことが一段落したらさ、これからどうなるのかわからないけどさ。ナゴとトシにうちまで来てほしいんだ」

「おまえの家に?」

「うん。母さんが2人に会いたがってるんだ。ぼくの友達に会いたい、っていつも言ってる。母さんは料理が上手だから、2人にも食べてほしいんだ」

 涙がブレザーの上にぽとぽと落ちた。嫌だなあ、学校で泣くなんて最悪だよ。

「どうかな? 2人の家からだと、ぼくの家まで来るのは大変だと思うんだけど」

「いや」

 ナゴはぼくが泣いているのに気づいているはずなのに、からかったりはしなかった。

「そういうことなら行かせてもらうよ。おまえのおふくろさんに挨拶させてもらう」

「うん。ありがとう」

 チャイムが鳴って、校内放送が始まった。図書室の本の返却を呼び掛けている。ぼくには縁のない話だった。

「できれば、あいつと一緒に行くよ」

 放送の音量が大きすぎて、ナゴの呟きもうまく聞き取れなかった。


 帰り道で人に見られている感じはしなかったから、うまく汚れを落とせたのだと思っていた。でも、家に帰るなり、ぼくを見た母さんが「どうしたの」と騒ぎ出したので、観念して今日の出来事を説明した。もともと隠してはいけない話だった。

「やっぱりあなたいじめられてたのね。どうして言ってくれなかったの」

 母さんはすっかり動転してしまって、話を言って聞かせるのが大変だった。後から帰ってきた父さんがぼくの話を聞いて、

「いじめとかそういう話じゃないんだよ。男の子はそういうことから逃げられないんだよ」

 と言っても母さんはあまり納得できないようだった。でも、ナゴとトシが助けてくれたことはよくわかってくれたようで、

「その子たちにお礼を言わなきゃね」

 と言っていた。ぼくが学校でひとりぼっちではない、というのは安心できる材料のようだった。 

 ベッドに入る前に、今日はヒカルちゃんの動画を見ていなかったことに気づいた。見ようかな、と思ったけど、今日は見ない方がいい気がした。顔面血まみれの男子と白いワンピースの女の子は脳の中で両立できないと思ったのだ。

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