第7話 Girl's Side(7)
「一緒に帰ろうよ」
自転車にまたがったリョウマくんにそう言われて断れなかったのは、さっきまずいことを聞かれてしまったからだ。あれはさすがに悪いと思っている。ただ、そんな反省の気持ちは、彼が左手で荷台をポンポンと叩いた瞬間に吹き飛んでしまった。まさか後ろに乗れってこと? そうなったら必然的に身体がくっついてしまうけれど、今日の天気のように一点の曇りもない彼の笑顔を見る限り、昨日の花火のときと同じようにいやらしい気持ちはなさそうだ。でも、だからこそ腹が立つ。
「先に行く」
そう言って、早い歩調で前に進み出すと、待ってよ、と幼馴染の男の子が情けない声を出して追いかけてきた。ちりんちりん、と何故か自転車のベルも鳴る。
帰り道は行きとは別のルートだった。大人たちはまだバーベキューの後片付けをしているので、わたしたち2人だけで弧を描くゆるやかな坂道を登っていく。
「いいところを見つけたから、ヒカルちゃんにも見せたいんだ」
リョウマくんはそう言っていたけれど、あまり期待はできない。そんな彼はわたしの歩きに付き合うためか、漕ぐのをやめて自転車を押しながら少し後ろからついてきていた。レモンイエローのTシャツはところどころ濡れて色が変わっている。汗っかきなんだな、と笑いそうになってしまう。
「ほら、ここだよ」
5分ほど登ったところで、お目当ての場所に着いた。道路から少し離れたところにフェンスで囲まれたバスケットのコートが見えた。アスファルトから砂利道に降りて10mほど行くと金網に切れ目があって、そこから入れるようだ。リョウマくんのお父さんくらい大きな人なら無理かもしれないけれど、わたしは楽勝で入れて、何故か誰かに文句を言いたくなった。ひとつだけある空中に浮かんでいるように高いゴールをぼんやり見ていると、てーん、てーん、と何かが地面を叩く音が聞こえたので視線を向けてみると、リョウマくんがバスケットボールをバウンドさせて両手で受け止めていた。緑色に舗装されたコートの隅には水たまりができていて、何日か前に雨が降ったのかもしれない。
「それ、どこからぱくってきたの?」
「違うよ。前からここにあったんだってば。ひどいなあ」
明らかなジョークに顔色を変えていて、悪いと思うよりもばかばかしくなる。エノより打たれ弱いかも。
「それで?」
「ヒカルちゃんと勝負しようと思って」
「なにで勝負するの?」
「バスケットに決まってるじゃん」
少しむっとしている。ちょっとからかったくらいでむっとされたわたしのほうがむっとしそうだったけれど、これ以上やると泣かせそうなので我慢しておく。それにやっぱりさっきの言葉のうしろめたさは消えていない。
「うーん、そう言われてもなあ。男子と勝負するのってなんか嫌」
「でも、ヒカルちゃん、本職じゃん。ぼくは授業でしかやったことないし」
「本職って」
妙な言い方をされて少し緊張の糸がほぐれた。確かにわたしは1年以上部活で練習してきたし、本職なんてものではなくても全くダメというほどでもないはずだ。ちょっとだけやる気が出てきた。
「じゃあ、少しだけやってみる?」
「やった!」
すごく喜ばれた。悪い子ではないんだけどなあ、ほんとに。
「それじゃあ」
「あ、ちょっと待って」
すぐに目の前で左足を下り右足を伸ばすアキレス腱の運動を始めた。そこまで本格的なの? と若干引いてしまったけれど、準備運動をして悪いこともないので、わたしも屈伸をしたり手首と足首の関節を回したりして、適当に身体を動かしておいた。
ジャンケンで先攻後攻を決める。リョウマくんが勝って先攻になった。
「いくよ」
腰を落としてガードの体勢になる。その気はなかったけれど、始まってしまえば本気になるしかなかった。リョウマくんは左手でドリブルをしている。バウンドが大きすぎる、と思ったのと同時に右手が伸びてカットしていた。ボールが後方に弾む。
「あっ」
あっさりカットされたのがショックだったのか、彼の動きは鈍い。ボールを奪い取ってすぐに両手でシュートを決める。
「あれー、おかしいなあ」
首をひねるリョウマくん。何もおかしいことはない。うちの部なら誰でも当たり前に出来ることだ。
「今度はわたしの番だね」
位置を代わって、ゴールを見上げる。最初で決められたから、勘をつかめたと信じたい。彼が体勢を整えたのと同時に全速力で前方に突っ込んだ。
「えっ、ちょっと」
予想外の動きだったのだろう。わたしを止めるどころか腰が引けてよけてしまった。明らかに気合いが足りない。あとで先輩から説教だな、と思ってしまったけれど、別に彼はうちの部員ではなかった。そんなことを考える余裕を持ってレイアップを決めた。
「すごいなあ。ヒカルちゃん、やっぱりうまいよ」
リョウマくんは素直にほめてくれたけれど、実はわたしも、「あれ、うまくなってる?」と心の中でひそかに驚いていた。部活の練習ではいつもいいところがなくて、後から入って来た1年生にもどんどん抜かされていって、正直自信をなくしかけていたのだけれど、今こうして男の子を相手に渡り合えているのだから、そんなに悪くないんじゃないか、がんばったのは無駄じゃなかったのかな、そう思えてきた。
「よし。ぼくも本気を出そうかな」
連続で勝ってもわたしは油断していなかった。というか、油断できなかった。部活でやられ続けているうちに自信よりも警戒心のほうが強くなってしまったようだった。今度もしっかり腰を落として守りにつく。リョウマくんは左右に激しく動き出した。速いけれど、どこかぎこちない。前に出てプレッシャーをかけると、すぐに後ろに引いてしまう。体力はありそうなのに、やっぱり気合いの問題なのかな、と思っていると、フェイントっぽい動きをしてから右側から抜こうとしてきた。させない。ブロックしようと追いかけたそのとき、どん、とわたしの右肩と彼の右肩がぶつかって、後ろにかなりよろめいてしまった。背中に何かが当たったので見てみると、ゴールを支えている鉄の柱だった。もう少し勢いがついていれば、頭のほうから行っていれば痛い思いをしていたかもしれない。ちょっとぞっとしながら前に向き直ると、さっきぶつかった位置でリョウマくんがボールを持ったまま立ち止まって心配そうにこっちを見ていた。大丈夫? と訊かれるのはなんとなく嫌だったので、
「シュート。いいから、シュートして」
そう急かした。え、とか、あ、とか、うろたえながら打ったシュートはふらふら上がり、がん、と大きな音を立ててリングにぶつかった。ちょうど足元に落ちてきたボールを拾い上げる。
「へたくそ」
あからさまな憎まれ口を叩いたのを恥ずかしく思いながら、オフェンスの位置につく。
「ねえ。どこか痛いなら」
「大丈夫。余計な心配しなくていいから」
なぜか意地になってしまったわたしは、彼の心配もはねのけて次の勝負をしようとしていた。とはいえ、さっきの衝突のせいで生じた動揺はまるで消えていない。もっと正確に言えば、動揺ではなく恐怖心だ。彼はまだ本気を出していないのにわたしはあっさりと吹き飛ばされてしまった。やっぱり男の子とは身体のつくりも体力もまるで違う、というのがあの一瞬でよくわかった。そして、今目の前にいる彼に脅かされている気分になってしまっている。あんなことぐらいで、とくやしさも加わって泣きそうになる。彼はそれでもやっぱり気合いが足りないようで、わたしの手元に向かって時々ちょいちょいと手を伸ばしてくるだけだ。本気でボールを奪うつもりがあるのか疑わしい。アライグマみたいにまごまごしちゃって、と思って少し和んだけれど、怯えているのがばれてしまえば、この勝負だけでなく今後にもよくないことになりそうな予感がしていた。踏ん張らなければいけなかった。
大きく息をついてから右側からリョウマくんを抜こうとするふりをした後で、逆方向に動き出そうとした。でも、彼もそれを読んでいたようでわたしの動きにしっかりついてきた。ただ、わたしの本当の狙いは別のところにあって、彼が左に動いてからすぐにそのまま真後ろへと下がってラインを越えたところからシュートを放った。
「あ」
リョウマくんがあっけにとられたまま見送ったボールは、ボードに当たることもリングにかすることもなくそのまますぽっとゴールに飛び込んだ。スリーポイントシュートをこんなにきれいに決めたのは初めてだ。嬉しかったけれど、こんなところで決めなくても、というがっかりした気持ちもあった。部活のミニゲームでこれくらいやれれば補欠になれたかもしれないのに。
「すごい。すごいよ。スラムダンクみたいだ」
リョウマくんのほうが興奮していた。現実とマンガをごっちゃにするのはどうかと思うけれど。
「はい。じゃあ、もう終わりね」
そう言って金網の切れ目へと歩き出した。もうこれ以上続けるのは無理だと自分でよくわかっていた。肉体的にも、精神的にも。
「ええっ、まだ始めたばかりだよ」
さすが、空気の読めないことにかけてはわたしの中で定評のあるリョウマくん。でも、もう怒る元気もなくなっていた。
「ごめんね。もう疲れちゃったから」
「これからが勝負だと思ってたんだけどなあ」
一足先にアスファルトにたどりつくと、彼はまだ切れ目から抜けようとするところだった。その様子を見ていると、たまには優しくしてあげようかな、という気に何故かなった。
「じゃあ、今度テニスで勝負しようよ」
「え?」
「たぶん、わたしが勝つけどね」
そう言われたリョウマくんが自転車のサイドスタンドを上げながらぼそっと呟いた。
「あのさあ、ヒカルちゃん。さすがにそれはあんまりだよ。ヒカルちゃんに負けちゃったら、ぼくの生きてる価値って何もなくなっちゃうよ」
いつになく真顔になっている。軟式テニス部員の誇りを傷つけてしまったのかもしれない。でも、いつもみたいにへらへらしているよりはそうしているほうがよっぽどいいのに、と思う。
「いや、そこまで重大な話じゃないんだから、もっと気楽に考えてよ。リョウマくんだって生きてていいんだよ」
自分で言っていてもあまりフォローになっていない気がする。
「そうかなあ」
「そうだって」
なんなんだ、この会話。うんざりしかけていると、リョウマくんがまた荷台をポンポンと叩いた。
「今度は乗らない?」
しつこいな、こいつ。少し優しくしたらすぐにこれだよ。
「いいって。先に帰ってていいよ。わたしはゆっくり歩いて帰るから」
「じゃあ、ぼくもゆっくり帰るよ。今日はヒカルちゃんと一緒に帰りたいんだ」
冷たい風が木と木の間から吹き抜けてきた後で聞いたからか、彼の声は暖かく感じた。でも、返事をするのも面倒なので黙ったままでいた。というより、こんなことを言われて何をどう答えればいいのかわからない。返事だけではなく、生きているのも面倒になってきた。
そんなわけで、わたしはコテージに着くまでずっと口をきかずにいた。リョウマくんは気まずいのか何度かいろんな話を振ってきたけれど、全く応答がないので途中からは黙りこんでしまった。でも、黙っていても彼はどこか楽しそうで、わたしとしては「どうして抛っておいてくれないんだろう」と困るしかなかった。
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